パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師が使徒の働き20章の御言葉を通して語る核心的な教えは、パウロがトロアスからアッソを経てミレトに至るまで歩んでいくその宣教の旅の中で現れる「謙遜と涙」の牧会精神である。この精神は、神の言葉を伝える中で数多くの困難に遭遇しても決して退かずに最後まで忠実でありながら、同時に兄弟姉妹に対する深い愛を失わなかった点に最もはっきりと表れている。張ダビデ牧師はこの本文を解説する際、パウロが小アジア地域を行き先に歩んだ道のりが、単なる地理的な移動にとどまらず、深い霊的意味を帯びていると強調する。その道程でパウロは、新たにイエス・キリストの福音を受け入れた人々、あるいはすでに教会の中に存在していてもいまだ弱さを抱える共同体に出会い、自身の謙遜と献身を行いによって示した。しかし何よりも重要なのは、パウロが「聖霊に縛られた」状態で、自分が歩むべき道を明確に悟り、それに従順していた事実である。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の背景を説明する際、パウロが第2回宣教旅行で立ち寄れなかった地域を改めて訪ね、かつて福音を蒔いておいた諸教会を顧みて勧め、立て直す牧会的な心を見せるのだと指摘する。パウロは自分のそばで共に仕えていた一行を先に船に乗せ、自分はわざわざ長い距離を歩いてアッソまで移動した。この点について張ダビデ牧師は、パウロにとって被造物と向き合う時間、すなわち大地を踏みしめながら創造主なる神の御前で自分を見つめ、黙想する大切な瞬間だったのではないか、と解釈する。人間的に見れば、あえて歩かずとも船に乗るほうが便利で早い移動が可能であったはずだが、パウロはその長い距離(少なくとも40~50km、当時の道の状況を考慮すればはるかに過酷な道のり)を歩く中で、一層神に対して謙遜になり、既に建てられた教会やまだ福音に触れていない人々を想う切実な思いを新たにしたのだろう。  トロアスでの行程からアッソへ歩いて下った場面は、パウロが持っていた霊的集中力と決断力を象徴的に示している。張ダビデ牧師はこの本文を根拠として、宣教や教会の働きが道半ばで直面する様々な困難をいかに解釈し、乗り越えるべきかを強調する。働き人は時に孤独を感じ、世の目から見れば労苦に見合う正当な報いを得ていないと感じることもある。しかしパウロが神の召しに従う心で長い道のりを黙々と歩んだように、働き人もまた道中で味わう孤独を神の御前で黙想し、自らの内面を点検する時間が必要だというのである。張ダビデ牧師は、このような「道の上での黙想」を大切に考え、すべての働き人や信仰者が、目に見える実よりもまず自分を聖霊の導きに委ねて歩み続けることが真の信仰の巡礼だと教える。  その後パウロはアッソで同労者たちと合流し、ミトレネ、キオ、サモを経由してミレトに到着する。この行程を記録するルカの文体は非常に細やかで具体的だ。張ダビデ牧師は、ルカが医者出身であるため記録が綿密であること、そしてルカがパウロと共に「私たち(we)」という表現で同行していることに触れつつ、使徒の働きが単なる抽象的な信仰の歴史や教理集ではなく、実際の時間と空間の中で行われた生き生きとした歴史であり宣教の旅であると強調する。これは教会がどれほど貴重な一瞬一瞬を見逃さずに記念し、記録すべきかを示唆する。教会共同体が派遣する宣教師や牧師、そして信徒たちの働きが、日々いかに神の摂理のうちに動いているのか、そのような記録が積み重なり教会史となり、やがて後世に生きた証しとして残るのだという。  張ダビデ牧師は、パウロが「少しも遅れることなく」エルサレムへ向かおうと急いだ理由は、五旬節の祭りを守るためだと説明する。パウロは祭りを遵守しようとするユダヤ人の敬虔な伝統を尊重した。この祭りが持つ意味は、単に年に一度めぐってくる行事的意義を超え、エルサレム教会との霊的連帯感、そして神が定められた聖なる祭りに全身全霊をもって参与しようとする信仰的意志だった。張ダビデ牧師は、このパウロの態度から、信仰共同体がともに守る祭りや礼拝がいかに大切であるかを見出せると語る。今日の教会の中で“行事”や“イベント”としてしか捉えられない祭りも、実は信徒たちに霊的力と共同体的結束をもたらす大切な機会だということだ。パウロはエペソに立ち寄ることなくミレトへ直行することを決めたが、いざミレトに到着してみるとエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、最後の勧めを残す。これはパウロが直接教会を訪ねる代わりに、その指導者を招いてより集中した対話を交わしたかったことを示す場面である。  ミレトで長老たちと会い交わされるパウロの勧めは、使徒の働きの中でも非常に重要な場面である。張ダビデ牧師はこの場面を「パウロのエペソ説教」あるいは「エペソの長老たちへの最後の遺言」と呼ぶ。なぜなら、この短い言葉の中に、パウロがエペソ教会で働きをする中で見せた生き方の姿勢、彼が伝えた福音の核心、そしてこれから教会の指導者たちが守るべき原理が凝縮されているからだ。張ダビデ牧師は、このパウロの談話こそ、多くの教会指導者や信徒が生涯黙想すべきモデルだと説明する。  まずパウロは、自分がアジアに入った最初の日からどのように生きてきたのかを思い起こさせる。そしてその核心を「すべての謙遜と涙」と要約する。張ダビデ牧師は、パウロが告白したこの二つの言葉こそ、教会奉仕の原型だと述べる。謙遜は神の御前での姿勢である。人間的な自慢や名誉欲、あるいは自己顕示ではなく、ひたすら自分を低くして主の御心に従うこと。涙は教会員(兄弟姉妹)に対する愛の表現である。パウロは、表面上は石打ちに遭っても再び立ち向かう剛毅さを持っていたが、同時に弱さを抱える兄弟姉妹とともに痛み、共に泣く愛を持っていた。張ダビデ牧師は、教会史を振り返ってみても、真の指導者たちは常にこのような謙遜と涙をもって群れを世話してきたと指摘する。ゆえに本当の霊的リーダーシップとは、カリスマ的な雄弁や優れた行政力に先立ち、神の御前では徹底的に低くなり、人々の前では泣くことができる愛を実践することを学ぶのだ。  さらにパウロは「ユダヤ人の陰謀によって受けた試練」を強調する。これは宣教と福音伝道の道が決して平坦ではなかったことを示す。激しい迫害や不当な中傷、さらには命の危険にまで直面していたが、パウロはそれらすべてを忍耐によって耐えた。張ダビデ牧師はこの箇所で、働き人に避けられない「縛られと患難」の意味を説く。教会の歴史はいつも内部と外部双方からの試練が同時に押し寄せ、宣教師や指導者たちはその攻撃の前で揺らがざるを得なかった。しかし聖霊に満たされた者は、ここで挫折や放棄に至るのではなく、むしろ「イエス・キリストの十字架を黙想し」忍耐と信仰によって勝利する。パウロは使徒の働き20章24節で告白するように、主から受けた使命、すなわち「恵みの福音を証しすること」を果たすためには自分の命さえ惜しまない。張ダビデ牧師は、これが宣教の本質だと言う。福音とは「神の恵み」を伝えることであり、それゆえ自分の人生をすべて捧げても惜しくない絶対的価値なのだ。  張ダビデ牧師は続けて、パウロが「あなたがたの間を巡回し神の国を宣べ伝えてきたが、今やもはやあなたがたは私の顔を再び見ることはないだろう」と語る場面において、パウロの悲壮な決断と霊的洞察を読み取る。パウロはミレトで長老たちに会った際、事実上これが最後の対面であることを直感していた。そして誰かが罪の道へ逸れても、自分に責任を問うことはできないとはっきり宣言する。これはエゼキエル書33章にある見張り人の使命とつながる。神が見張り人に委ねられた務めは、角笛を吹いて民に危険を知らせることだ。見張り人がきちんと警告を行ったなら、民が悔い改めず滅びたとしても、その責任は民自身にある。しかし見張り人が角笛を吹かずに民が滅びたならば、その責任は見張り人に帰する。パウロがエペソ教会で3年という時間をかけて休む間もなく福音を伝え、教え尽くしたことによって「すべての人の血に対して私は潔白である」と宣言する場面は、見張り人としての使命を果たした自負の告白にほかならない。  張ダビデ牧師は特にこの部分を、牧師や教会指導者たちに深く適用する。教会の指導者はパウロのように真理を明確に伝えねばならない。福音は時にユダヤ人にとって妨げとなり、ギリシア人には愚かなものと映るかもしれないが、決して妥協したり飾り立てたりしてはならない。人々からの称賛や認められることだけを求めていたら、罪を指摘することもできず、真実な悔い改めを促すこともできなくなる。しかしパウロがユダヤ人にもギリシア人にも区別なく「神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰」を同じように証ししたように、教会はどのような状況でも福音の本質をあいまいにせず語るべきである。むしろ福音が命だと悟った者たちは、罪と不義から離れて神の御前にひれ伏すようになる。これこそが教会が世の中で担う唯一無二の使命なのだ。  その後パウロはエペソの長老たちに「聖霊があなたがたを監督者として立てられた」と告げ、神がご自分の血で買い取られた教会を牧するよう勧める。ここで張ダビデ牧師は、教会の本質に関するきわめて重要な定義が示されていると解説する。教会は、人間が自らの嗜好や必要に応じて選んで参加する親睦団体ではなく、キリストの十字架の血潮によって贖われた神の所有だという点だ。だからこそ監督者(長老や牧師)は、文字通り「よく見渡す」使命を託された者たちである。羊の群れが危険にさらされないよう目を覚ましていなければならず、歪んだ言葉を語る異端や偽教師が入り込まないように阻止すべきである。張ダビデ牧師は、パウロが去った後、実際にエペソ教会に異端的な思想が侵入したことを指摘し、今日の教会も多様な形態の偽りの教えや分裂に対して警戒を怠ってはならないと繰り返し強調する。  教会の中で最も大きな危険の一つは、パウロが言及した「凶暴な狼」が外部から侵入して羊を害する場合であるかもしれないが、時には内部で歪められた教えや葛藤が起こり、会衆を混乱に陥れるほうがより致命的であることもある。これは使徒の働きの後に続く初代教会が絶えず直面してきた挑戦でもあった。張ダビデ牧師は、このような混乱を防ぐためにこそ、常に聖霊の導きに従順し、恵みの御言葉の上に堅く立たなければならないと説く。教会指導者だけでなくすべての信徒が絶えず福音の本質を想起し、「与えるほうが受けるよりも幸いである」というイエスの言葉を心に刻む必要があるという。パウロが自らテントメーキングを行い、自分の手で労して宣教の経費や同行者たちの生活費を自給自足していた姿に目を向ければ、教会指導者は決して物質や名誉を求めてはならないことがわかる。むしろ自分自身の欲望に打ち勝ち、弱い者たちを助けることに全力を尽くすことこそが、本当の奉仕の本質である。  張ダビデ牧師は結論として、これらすべての教えが「ひざまずいて共に祈る」場面で締めくくられることを指摘する。パウロが長老たちと共に捧げた祈りには、最後の瞬間まで交わされる涙の交わりが込められている。互いに熱く泣き、口づけを交わしながらパウロを船まで見送る場面は、牧師と教会員の固い愛と信仰共同体の絆を象徴している。張ダビデ牧師は、このような愛を教会が回復しなければならないと教える。現代社会では個人主義や分裂が横行しているが、初代教会の原型とキリストの心を思い起こすならば、教会は再び互いのために心から泣いて祈る熱い共同体となれるのだという。  以上のように、張ダビデ牧師は使徒の働き20章13節から38節に記録されたパウロの旅路と彼が残した勧め、そして長老たちと交わされた熱い交わりが、今日の教会と信徒たちに与える示唆は非常に大きいと語る。パウロの生涯が常に謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして主イエス・キリストの恵みに対する証しで満ちていたように、私たちもそのような信仰の道を歩むべきである。主の教会は神が血代をもって買い取られた共同体であるゆえ、教会の指導者も信徒も互いに身を低くし、愛し合いながら、同時に福音に逆らう偽りには断固として立ち向かわねばならない。これこそパウロの足跡であり、また彼を範として張ダビデ牧師が強調する真の教会の姿なのである。  張ダビデ牧師が使徒の働き20章を中心に展開する牧会神学の核心は、パウロが示した「謙遜と涙」そして「福音伝達への全的な献身」の融合が、教会を支える最も強力な力だという点にある。謙遜は神の御前での態度、涙は隣人への愛から発したものであり、この二つが結びつくとき真の福音の働きが誕生する。張ダビデ牧師は、エペソ教会がこの二要素を完全に握っていた時はいかなる危機にも揺るがなかった一方、それを失ったとき徐々に分裂や葛藤、さらには異端の侵入まで経験したことを指摘する。それでは今日の教会は、この使徒の働きの本文をどのように適用し、どの道へ進むべきなのだろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、パウロが示した「聖霊に縛られた」従順の態度を深く黙想しようと提案する。使徒の働き20章22節でパウロは「今や私は心に迫られてエルサレムへ行くが、そこでどんなことが起こるかは知らない」と告白する。「心に迫られる」とは聖霊の強力な導きに従うことを意味する。これは働き人や信徒が日常において立てるあらゆる計画が、聖霊の導きに基づかなければならないことを含意する。多くの人は福音を伝えることに伴う危険や試練を恐れたり、自分の安定や快適さを優先的に考えがちである。しかしパウロのように聖霊に捉えられるならば、危険を前にしても退くのではなく、むしろより大胆な勇気と献身を発揮するようになる。張ダビデ牧師は、現代の教会がこのような強力な聖霊の充満と導きを渇望すべきだと力説する。制度的な安定や物質的な豊かさに安住してしまうと、教会はすぐに安逸に陥る。何をするにもまず神に問い、その召しに敏感に応答する霊性こそ、初代教会共同体が持っていた命の源だということを思い起こすべきなのである。  第二に、張ダビデ牧師は、パウロが説いた「悔い改めと信仰」というメッセージを再照明する。パウロは20章21節で「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰とを証ししてきた」と宣言する。ここで悔い改めと信仰は、福音宣教の核心構造となる。悔い改めは神の御前で罪を告白し、自分の生き方の方向を変えることであり、信仰はイエス・キリストを救い主として受け入れ、その十字架と復活によって新しいいのちを得ることである。ところが張ダビデ牧師は、教会がしばしば悔い改めを強調せずに信仰ばかりを偏って教えたり、あるいは信仰を行いや実をともなわない「個人的な信念」のように弱めてしまう問題を指摘する。パウロが伝えた福音はいつでも鋭く罪を指摘し、そこから離れなければ真の信仰は打ち立てられないと強調していた。これは教会の指導者たちが、説教や教えにおいて「不快だから」と悔い改めの要求を省いてはならないことを意味する。教会が教会らしくあるためには、信徒一人ひとりが依然として根深く残る罪性から離れるための霊的戦いを続け、その中でイエス・キリストの恵みを体験するとき、はじめて完全な信仰が完成するのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロがエペソの長老たちに与えた「聖霊があなたがたを監督者とされたことを思い起こせ」という勧めを通して、現代教会の指導者に求められる役割を強調する。監督者(長老、牧師)は、教会共同体とその群れを牧しなければならない。その牧しは単なる行政的管理や礼拝の主催ではなく、凶暴な狼や歪んだ言葉を語る者たちが教会を害することのないように見張る霊的な番人の役割を担うことを含む。張ダビデ牧師は、監督者になろうとする者は、まず神の御言葉によって自分自身を徹底的に照らし「自分の羊ではなく、主の羊を牧する」という畏れを持つべきだと述べる。教会が時に組織的・規模的・財政的に成長することを目標としやすいが、パウロが教える真の成長は、羊たちの魂が目覚め、神の御言葉を正しく握るところに現れるのだ。もし指導者が世俗的成功や名誉を求めて教会の魂を顧みることを怠るなら、すぐに内部でさまざまな不協和音や分裂が生じる。さらにはパウロが「あなたがたの中からも弟子たちを引き込み、自分のもとに従わせようとする者が出るだろう」とまで言及している。指導者が油断している間に、教会の中で新たな“教祖”的存在になろうと企む者や、信徒たちを歪んだ道へ導こうとする勢力が現れるという警告である。それゆえ教会指導者は常に目を覚まし、教会がしっかりと握るべき聖書的真理を守り抜かなければならない。  第四に、張ダビデ牧師は、パウロが自らの働きを「見張り人」の役割として規定し、罪の血の責任を自分には問えないと宣言する場面を取り上げ、教会が世に対してどのような責任を負うべきかを問う。教会は世に対する見張り人の存在である。ぬくぬくとした安息の場に集まって自分たちの安寧だけを追求する共同体ではなく、主の角笛を吹いて世界に警告し、福音を宣べ伝える見張り人となるべきである。もし教会が傍観や沈黙によって世の罪悪化を放置するなら、神はその責任を教会に問われるだろう。パウロは「私はあなたがたの血に対して責任がない」と宣言したが、それは彼が言うべきことをすべて言い、罪を指摘すべきときには指摘し、悔い改めを叫ぶべきときには叫び尽くしたからである。張ダビデ牧師は現代教会もこのパウロの姿勢を見習い、福音が強調するいのちの価値を守り抜くべきだと語る。その過程で拒絶や嘲笑を受けるかもしれないが、それでも語るべきメッセージははっきりと伝え、キリストの恵みのうちへと立ち返るように手を差し伸べなければならない。  第五に、張ダビデ牧師は、パウロが「私はだれの銀や金や衣服をも欲しがったことはない」と述べる部分から、教会指導者の物質観と清貧の美徳を再考する。今日の教会は様々な財政的圧力や世俗的欲望にさらされやすい。パウロは教会を建てる際に自費で働き、彼自身と同行する者たちまで養った。その姿勢は当時としても非常に特異な例だった。ユダヤ人のラビは弟子たちから日常的な必要の供給を受けることが当然視され、ギリシアの哲学者たちも後援を受けることが普通だった。しかしパウロは自ら生計を維持しながら、「与えるほうが受けるより幸いである」というイエスの教えを自らの生き方によって証明したのだ。張ダビデ牧師は、教会が財政を運営する際に世の「利益」論理にとらわれる危険性を警告する。さらに指導者が物質的な豊かさから教会に重荷を負わせたり、ひいては自分の私利私欲を満たすことが生じるならば、教会は急速に霊的力を失い、批判の的になる。したがってパウロが示したように自足し質素に生きる姿勢、物質を扱うときに常に宣教と救済、そして弱い人々を助ける働きに優先順位を置くことこそが聖書的な原理である。  結局、これらすべての勧めの最後は愛の交わりによって完成される。パウロとエペソの長老たちがひざまずいて祈り合い、互いに抱き合って涙を流したミレトの海辺の場面は、教会がどんな組織的プログラムや華やかな外的スペックよりも先に回復すべき霊的な愛を示している。張ダビデ牧師は、共同体の中にこのような熱い涙と切実な祈りが生きているときこそ、教会が世の中に福音の光を照らす真の証人として立ち上がれるのだ、と力説する。エペソの長老たちは、パウロの顔を二度と見ることができないと考え、大いに悲しんだが、その嘆きはある意味、強力な愛の現れでもあった。教会とは、まさにそのような霊的親密さ、互いを想う切実さによって結ばれた共同体である。張ダビデ牧師は、使徒の働き20章を通して、宣教の道は孤独に見えても決して一人ではないという事実を改めて強調する。その道には共に涙を流してくれる同労者がおり、そのすべてを見守ってくださる神がおられるからだ。  パウロのこの旅路と勧めは、現代にも同じように適用し得る。教会がその光を失わないためには、謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして聖霊に縛られた従順が絶えず呼び覚まされなければならない。張ダビデ牧師はこれを教会の基本、つまり霊的DNAと呼んでいる。教会が成長し信徒数が増えても、この基本がなければ空虚な外形にとどまる。逆にどんなに小さく見える教会でも、この霊的DNAが生きていれば神の国の力が強力に現れる。したがって今の時代を生きる信徒たちは、パウロのミレトでの出来事を頭で理解するだけでなく、心で受け止め、実践へと移さなければならない。教会の中で愛の涙を流した経験がない者にとっては、パウロが長老たちと共に泣きながら祈ったという事実は馴染みが薄いかもしれない。しかしこの場面こそが初代教会に宿る本質的な愛の徴であり、私たちがその心を取り戻すとき、教会は世の中で再び生き生きと動き始める神の共同体となるのだ。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の御言葉を説き起こしながら、最終的に教会の未来と方向性に対して深いメッセージを届ける。パウロが歩んだ道と彼が伝え残した御言葉には、教会が守り続けるべき信仰の遺産がそのまま詰まっているからである。牧師は使徒の働きを、単に初代教会の歴史を示す古代文書として見るのではなく、現代教会が引き続き書き進めていく「開かれた書」として解釈する。使徒の働き28章の終わりで物語が締めくくられるのではなく、今日の教会こそが使徒の働きの延長線上で福音を証しし、神の国を拡大していく主役にならなければならないというのである。では、パウロとエペソの長老たちとのあいだで交わされたこの場面から、私たちが学ぶべき具体的な実践は何だろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、教会共同体が必ず「御言葉中心」に立たなければならないと強調する。パウロは「私ははばからず、神のご計画のすべてを余すところなく伝えた」と語った。御言葉とは、人をただ慰めるために甘く飾ったり、あるいは権威的に脅して服従させる手段ではない。御言葉は魂を回復し、教会を堅固に建て上げ、同時に罪や不義を砕く力を持っている。ゆえに教会の指導者も信徒も日々御言葉の前に自身を顧み、そのみこころを悟って生活に適用しようと努力すべきである。もし教会が御言葉よりも世の知恵や流行する哲学に敏感になってしまうなら、たちまち使徒の働き20章でパウロが警告した「凶暴な狼」と「歪んだ言葉」に翻弄されるしかない。張ダビデ牧師は、したがって御言葉を握る信仰の訓練こそが、教会の中に生きた伝統として息づくべきだと力説する。  第二に、教会内部のリーダーシップがある程度整ったからといって、安心してはならない点を指摘する。エペソはパウロが3年も滞在して苦労して建てた教会であった。パウロが直接教えた長老たちがいただろうから、彼らの霊的レベルや管理能力は相当に高かったはずである。それにもかかわらずパウロは最後の勧めにおいて極めて厳しい警告を与える。「私が去った後、凶暴な狼が入り込んで群れを荒らす。もっと言えば、あなたがたの中からさえ弟子たちを引き込み、自分に従わせようとする者が起こるだろう」と。教会が一瞬でも油断すれば、よく建て上げられた共同体であっても崩れ得ることを示している。張ダビデ牧師は、だからこそ教会は絶えず目を覚まして祈り、自らを点検し、霊的な慢心に陥らぬよういつも気をつけなければならないと説く。どんなプログラムや奉仕、あるいは業務に慣れて上手になったとしても、それ自体が教会の安全装置にはならない。ひざまずき神に祈る霊性こそが教会を守る盾なのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロが語る「福音の本質」を改めて確かめるよう促す。福音とは、パウロの言葉を借りれば「神の恵みの福音」である。律法という重い軛で人を縛る知らせではなく、世の多元的価値観をありのまま取り込んで洗練された形で装飾したメッセージでもない。ただ罪から離れてイエス・キリストを信じることで救いを得て、新しいいのちに生かされる、それが本質だ。張ダビデ牧師は、この福音こそが教会を教会たらしめ、人を変え、世を新しくする力なのだと力説する。問題はしばしば、私たちが福音に自分なりの解釈や伝統的慣習、あるいは文化的要素を「これも福音だ」と付け加えてしまうときに起きる。そうなると教会は複数の道へと分かれ、混乱に陥ってしまう。初代教会もユダヤ人と異邦人のあいだで律法問題をめぐり大きな衝突を経験したが、最終的には「恵みによって救われる」という福音の原則を再確認することで一致を保った。今日の教会も福音の本質が揺らがないよう、いつも御言葉と聖霊に頼って自らを省みなければならない。  第四に、教会が「受けるよりも与えるほうが幸いである」という主の言葉を実行することによって、世の中に仕える模範を示さねばならないと張ダビデ牧師は語る。社会が競争や利己主義に満ちていればいるほど、教会は逆に「分かち合い」と「献身」を通して神の愛を表現しなければならない。パウロが自らテントを作る仕事をして宣教費を賄った姿は、今日の教会リーダーに対しても物質的な欲に捉われずに働きに専念するよう強いチャレンジを投げかけている。張ダビデ牧師は、もちろんすべての教会指導者が自費で働かねばならないとは主張しない。しかし指導者の心の奥底には、「自分が受けることよりも与えることを心から喜んでいるか」という自己点検があるべきだという。教会の予算を使うときも、それが本当に福音を広め、信徒をケアするために最優先で用いられているのか、常に注意深く見極める必要がある。教会が物質を健全に扱えないならば、パウロが警告した「歪んだ言葉」と「凶暴な狼」は物質的利益を狙って教会を飲み込もうとするだろう。だからこそ教会は財政的透明性と清廉さを守り、必要とあればパウロのように労を惜しまぬ献身によって模範を示せるようでなければならない。  第五に、教会の中に熱い祈りと愛が回復されなければならない。パウロとエペソの長老たちが共に泣きながら祈り合い、互いを抱きしめながら最後の別れを交わすこの場面は、使徒の働き20章全体を荘厳な情景として締めくくる。張ダビデ牧師は「教会が本当に生き生きと動くためには、説教者と聞き手、あるいは牧師と信徒がこのように互いに心を開き合い、共に泣ける愛の交わりがなくてはならない」と言う。現代の教会は大型化が進み、プログラムやイベントは増えているが、その一方で信徒同士の率直な交わりが不足しがちである。教会の規模が大きくなるほど、このような霊的親密さと熱い愛の集いが失われる危険性は高まる。しかし初代教会はしばしば家庭集会の形を取り、食事を共にし、お互いの状態を見守りながら祈り合い、涙を流した。パウロがこれほどまでに愛を持って教えたエペソ共同体も、結局はそのような愛によるつながりを持っていたからこそ、パウロとの別れの際に大声で泣きながら彼を見送ったのである。この涙は単なる個人の感情放出ではなく、福音によって築かれた霊的な絆であった。張ダビデ牧師は、教会が本当に世に向かって出て行くためには、まず共同体の中でこのような愛の涙が生きていなければならないと強調する。互いに無関心な共同体は、決して世に対して福音を行動的に伝えることはできない。むしろ世の人々から「口先ばかりだ」と皮肉られるだけだろう。  総括すると、張ダビデ牧師は、使徒の働き20章13節から38節に描かれているパウロのミレトでの勧めこそ、教会が本質についていかに再武装すべきかを教えてくれる決定的な本文だと語る。パウロは長い宣教の旅の中で示した一切の遠慮ない福音宣教、謙遜と涙に象徴される牧会精神、聖霊に縛られた従順、そして見張り人としての責任をすべて圧縮的に示している。また教会指導者たちには偽りの教師を警戒し、羊の群れを守り、何より「神の恵みの御言葉」にしっかり立つよう勧める。これは1世紀のエペソ教会だけの課題ではない。21世紀を生きる今日の教会も同じようにこの勧めを握り、新たに学ばねばならない。  張ダビデ牧師は、使徒の働きが「続けて書き綴られるべき書」であることを繰り返し想起させながら、教会が使徒の働き29章、30章を綴っていくのだという象徴的な表現を用いる。その言葉はつまり、初代教会の純粋な信仰と共同体性が、現代においてもそのまま引き継がれるべきであり、福音によって据えられた働きの土台の上で教会が新たな歴史を創り出していくべきだという意味である。そのためには、パウロが示した中心価値――すなわち愛と献身、悔い改めと信仰、従順と警戒、分かち合いと祈り――が一つの身体のように連動しなければならない。もし教会がこの原理を見失えば、いくら外形的に成長しても、やがて霊的な心臓を失った殻のような共同体に成り下がる可能性がある。  張ダビデ牧師は最後に、この本文を愛するすべての信徒と牧会者が、パウロとエペソの長老たちがともにひざまずいて祈ったあの場面を、今日の現実の中でも再現しようと勧める。互いの首を抱き合い涙を流しながら、主の恵みを求めるあの祈りの場こそ、神の教会が回復する場であるからだ。そこで教会は神の贖いの御業を骨の髄まで刻み、「神がご自分の血で買い取られた」尊い共同体であることを再認識する。その再認識こそが教会を教会らしくし、この世で「光と塩」の使命を果たせる存在へと作り上げる。これが張ダビデ牧師が使徒の働き20章を解き明かしながら、現代の信仰共同体に伝えたい本質的なメッセージである。教会は一瞬たりとも謙遜と涙を失わず、福音に対する熱情を冷ませず、何より聖霊の導きのうちで祈りつつ互いを立て上げるべきなのだ。パウロがミレトで残した「最後の説教」と「共に流した涙の祈り」は、遠い1世紀に留まらず、今なお私たちの信仰を新たにし、教会を導く命の響きとして鳴り続けている。張ダビデ牧師は、その響きに耳を傾ける人々が増えるとき、教会はさらに新しくされ、主の再臨の道を備えていくと信じているのである。

Paul’s Farewell Sermon – Pastor David Jang

The central teaching that Pastor David Jang delivers from Acts 20 is the pastoral spirit of “humility and tears” which is revealed in Paul’s missionary journey—from Troas, through Assos, and finally to Miletus. This spirit most clearly appears in the fact that, despite countless hardships he endures while preaching God’s Word, Paul never retreats but … Read more

El Sermón de Despedida de Pablo – Pastor David Jang

El mensaje central que el pastor David Jang transmite a través del pasaje de Hechos 20 se basa en la “humildad y las lágrimas” que caracterizan el espíritu pastoral de Pablo mientras recorre su viaje misionero desde Troas, pasando por Asón, hasta Mileto. Este espíritu se pone de manifiesto en cómo, a pesar de incontables … Read more

La guerre spirituelle – Pasteur David Jang

Introduction Le verset d’Éphésiens 6.12 déclare : « Car nous n’avons pas à lutter contre la chair et le sang, mais contre les principautés, contre les autorités, contre les princes de ce monde de ténèbres, contre les esprits méchants dans les lieux célestes. » Ce passage constitue à la fois le fondement et le cœur … Read more

属灵争战 – 张大卫牧师

引言 以弗所书6章12节这样说:“因为我们并不是与属血气的争战,乃是与那些执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔争战。”这节经文不仅为基督徒对属灵争战的核心观念与根基,也是一条在张大卫牧师多次讲道与教导中反复强调的主轴。圣经明确指出,在看不见的领域确有魔鬼率领的邪恶势力,而且所有信徒必须与之搏斗。保罗直言,若只将问题根源归于血肉之躯或表面冲突,就会忽视“看不见的敌人”及其对我们生活的影响力;对这些属灵事实若无正确认知,我们难以直击真相,只能局限在人与人之间的争执。正因如此,我们需要对执政的、掌权的、管辖幽暗世界的,及天空属灵气的恶魔有正确且深入的了解。另一方面,我们也要明白:耶稣基督已宣告得胜,我们当如何在祂的权柄下穿戴全副军装,并在属灵争战中实际得胜。以弗所书既在教义层面,也在实践层面,清晰描述了教会的身份和使命,以及信徒为什么能在这争战中勇敢站立。正如张大卫牧师于多场现场讲道反复提到的,若忽略对属灵争战的正确认识,教会就会失去存在于世的意义,并易于被世界与魔鬼的诡计摇动。基于此,本文将以张大卫牧师的教导为核心关键,围绕以弗所书6章12节展开两大主题:一是对属灵争战与执政掌权者的正确理解,二是借着平安的福音与全副军装而获得的属灵胜利。透过这两项探讨,我们将更深体认:教会和信徒为何无法逃避这场争战,以及如何在现实生活中具体应用基督早已成就的得胜。 第一部分:对属灵争战与执政掌权者的正确理解 在以弗所书6章12节,保罗明显指出,人所经历的冲突与问题,已超越单纯的人际层面;我们真正要对抗的不是人本身,而是背后操纵他们的属灵权势。张大卫牧师形容,这经文仿佛赐给教会一双“灵眼”,教导我们关注“执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔”之间的区分与运作。保罗在此使用四个不同称谓,足见他那个时代对邪灵有组织且具体的活动已有相当认知。 谈及“执政的、掌权的”,从原文看,“执政”(Archē)可指“开始”或“根源”,也可译作统治者或首领,代表更高阶的邪灵,如路西弗。启示录12章7节以下所写的“古蛇”与“大龙”,象征被驱赶出天界、堕落后又在世上迷惑人类的那位;据推断,他昔日或具天使长地位,启示录亦说他堕落后引诱全地。而“掌权”(Exousia)则属更直接行使统治权的势力,犹如在执政者之下负责指挥与发动攻势的军官。若将撒但视为“大将军”,这些掌权者便宛如官佐,深入世界各层面,通过政治、社会、文化等领域影响人心,被称作“空中掌权者”,引诱世人陷于罪恶与黑暗。 “管辖这幽暗世界的”所对应的“Cosmocrator”,表示统治或支配世界之者。张大卫牧师特别提醒,这些“看不见的黑暗组织”往往与世上的制度及掌权者勾结,造成深重又广泛的影响。历史上某些大规模屠杀或反人类罪行,往往不只是出于人的残酷,也能在中间见到黑暗属灵权势推波助澜。全球各地的战争、种族清洗、有组织犯罪及骇人的暴力等,不仅源于人性罪性,还因有邪灵干预,使其更为惨烈和扩张。 至于“天空属灵气的恶魔”,并非指我们一般观念中的“神所在的天堂”,而应对应以弗所书2章2节的“空中掌权者”所在范围。那并非神国度完全彰显的荣耀之所,而是撒但及其部属在现世中活跃的中间领域。张大卫牧师指出,这些“天空属灵气的恶魔”渗透于世界各城市、国家和各种层面,引导人们走向无知与悖逆。即使我们已是神的儿女,却依然需要与之角力,因为撒但势力在最终审判来临前仍会垂死挣扎,教会必须常存属灵警醒。 魔鬼确有智谋和组织力,若信徒对其一无所觉,便容易受其摆布。我们务必记得,邪灵最喜人对其毫不在意或心智麻痹。倘若漠视黑暗势力,就容易受其欺骗与操控。然而,我们必须深信,在拥有天上地下全部权柄的基督里,我们同样领受得胜的权能。既是耶稣已击败魔鬼,那么在祂得胜里的教会就无须畏惧,反而能勇敢迎战、捆绑并释放被掳的人。 认清“执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔”对教会在祷告、宣教、福音传播及各样事工都至关紧要。若只对人的行为生怒与绝望,而忽略在其背后动工的“看不见的仇敌”,便难以用祷告与福音之力实施有效争战。若教会忽视这个层面,只能被动面对世俗文化或政治权力,久而久之,将丧失当有的属灵权柄。因此,信徒务要深记此事实,依照圣经原则,为属灵争战制定合宜策略。 那我们该怎么在这属灵争战中得胜?张大卫牧师强调:“以弗所书6章中,保罗所提出的全副军装,正是这场争战的关键。”保罗并非仅停留于阐述“有恶灵存在”这层面,而是非常具体地教导如何应对;如果说6章12节揭示了执政掌权者的实在性,那么6章10-18节正是教会如何武装来抵挡它们的全景图。接下来,我们将透过剖析全副军装的内涵,探讨如何借着平安福音与祈祷,在实际生活中赢得属灵胜利。 第二部分:借着平安的福音与全副军装而得的属灵胜利 以弗所书6章10-18节被称为“神所赐的全副军装”经文。保罗在此指出六项信徒必须穿戴的装备,以便胜过魔鬼诡计,并在末了强调祷告的重要性。张大卫牧师形容,这是“属灵争战中必备的军备清单”,古往今来,各世代教会都需依此来抵挡恶势力。 第一,真理的腰带 就如古时战士束紧宽大衣袍以便行动,信徒亦须以真理作腰带,才能稳立。圣经所言的“真理”就是耶稣基督与其话语,也就是福音本身。“我就是道路、真理、生命”正是明证。魔鬼常以谎言攻击,若信徒不明白真理,就容易陷于撒但的诡计。张大卫牧师强调,想要系紧真理的腰带,就须让神的道与福音成为整个生命的核心支柱。 第二,公义的护心镜 相当于保护胸腹的铠甲。圣经所言之“义”,并非因我们自身而来,而是耶稣基督十字架所成就的恩典之义。撒但常射出“你是罪人,不配”之箭,但当我们确信自己已披戴基督的义,魔鬼的攻击便无法穿透。张大卫牧师也提到,公义的护心镜不仅意味着脱离控诉,也让人渴慕神的公义与圣洁,愿在生活中践行。如此,当魔鬼以罪咎或诡计来动摇,我们也能坚如磐石。 第三,平安福音的鞋 象征信徒对福音的积极拓展。保罗在罗马书10章15节说:“那报福音、传喜信的人,他们的脚踪何等佳美!”可见双脚正是福音传至世界的工具。张大卫牧师特别提到:“穿上福音之鞋不只是守势,而是要向前迈进,以福音的平安在属灵疆域上攻城略地。”因这是“平安的福音”,教会并非仰仗世俗暴力,而是用爱与平安的信息转化人心,带给人真正的自由与释放。 第四,信德的藤牌 能熄灭那恶者的一切火箭,是强力的防御装备。圣经指明:“可以用它灭尽那恶者一切火箭,”暗示魔鬼造就的疑惑、不安、愤怒、贪婪等思虑,将在信心的笃定中失效。张大卫牧师认为,该藤牌不仅代表个人信心,也意味着教会团体的共同信心,如同罗马军团靠紧密排列盾牌来抵御箭雨。当教会在信心里彼此扶持,就能形成牢不可破的防线,使邪恶难以入侵。 第五,救恩的头盔 用以防护头部——思想与认知的中枢,也是魔鬼最想攻击之处。倘若信徒对“自己是否真得救”心存疑惑,整个人就会松散。戴上救恩的头盔,也就是深信耶稣基督已完成救赎,并确信神接纳我们为儿女。如此,即使魔鬼以各种谎言逼近,我们也能因救恩确据而岿然不动。 第六,圣灵的宝剑——神的道 这是全副军装里唯一用于进攻的兵器。耶稣在旷野受魔鬼试探时,屡以“经上记着说”来击退,给我们立下榜样。我们对神的话语越认识和宣告,就能越有效抵挡魔鬼。张大卫牧师补充,只有在圣灵光照下被领悟、并被宣讲的道才具透人心腑、动摇世界的力量。装备这道的教会能向人宣告真理与生命,带来悔改更新。 在列举六样装备后,保罗又嘱咐我们要“靠着圣灵,多方祷告祈求”。张大卫牧师将祷告视为给全副军装注入“生动力”的关键,“若没有祷告,全副军装大多停留在知识层面”。教会若具真理装备却无祈祷,就像兵士有武器却不知如何作战;祷告不仅能把“神的权柄”带进实战场景,也如雷达般指引我们找出敌人所在。 因此,借着平安福音与全副军装而获得的属灵胜利,乃是源于教会和信徒重新看清自己是谁:教会作为被高举在众执政掌权者之上的基督身体,撒但势力无法真正击败教会;关键在于我们是否相信并支取这真理,并勇敢地披戴全副军装投身争战。张大卫牧师进一步表示,当教会在世不可仅局限防御,而要进攻地宣讲福音时,黑暗之地便会于光面前退缩。教会并不靠武力,而以基督的平安与爱的福音,预备教会脚踏之处皆纳于圣灵掌权之下,正是属灵争战最终的目标。 要记住,这争战并非叫我们憎恨或对立人,而是要使人从罪和黑暗的捆绑中被释放。穿上“平安福音鞋”的信徒,不会心生恐惧或退却,也相信就算是昔日“仇敌”,亦可悔改更新、归入真光。这正是教会存留世上的重大理由,与以弗所书整体所言的教会宏大呼召一脉相承。 结论与应用 以弗所书6章12节不止提示“魔鬼确实存在”,也实际呼吁我们:“我们所要争战的,乃是执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔”。张大卫牧师一再提醒,若我们对属灵世界无所觉,便不可能从根本上化解世间诸多矛盾。所有问题背后都有罪、悖逆与邪灵的搅扰,信徒就当在那隐形的敌人面前,以祷告和神的话语积极迎战。 因为基督已宣告得胜,我们无需惧怕魔鬼或陷于失败主义,反倒要当教会——基督的身体——穿戴全副军装时,散布在各处的黑暗势力就必定消弱或坍塌。正如光一出现,黑暗便消失;当我们以真理、公义、平安、信心、救恩和神的话语形成一股强大的攻守平衡,魔鬼的攻击就不再奏效。 教会也要在这种武装状态中彼此扶持,并为彼此祷告。以弗所书6章18节说:“要靠着圣灵,随时多方祷告祈求,并要在此儆醒不倦,为众圣徒祈求。”全副军装虽关乎个人,也需要整体军队都武装才能发挥最大威力。若教会共同扎根于祷告与神的话,彼此补足弱点并活用彼此的优点,再大的属灵争战也不会将教会动摇。 属灵争战涵盖我们在世生活的方方面面。敬拜、宣教、济贫、服事、社会参与等,都可能是争战的一种表达。我们日常要拿起信心的盾牌,穿上福音的鞋,戴上救恩头盔,并以神的话语抵挡魔鬼谎言,将耶稣的爱带给四周的人,在不公与混乱之地彰显神的公义与秩序,这便是属灵争战的实况。 张大卫牧师见证,当教会正确看待并实践属灵争战,以福音与祷告来装备,即便过程看似缓慢,却可带来确切的转化。家庭和睦、成瘾摆脱、社区福音化等,都因属灵争战得以实现。就算教会内本有冲突或嫌隙,也会因再次想起“我们并非与属血气的争战”而回到正轨,提早截断魔鬼的攻击。 因此,我们必须完全领受以弗所书6章12节及6章10-18节的教导。若我们日日在这真理之光中反思并操练,便会看见教会愈发坚固,黑暗也被驱逐。当教会保持警醒,“管辖这幽暗世界的”与“天空属灵气的恶魔”就无法任意妄为。基督已完成救赎,教会则要“凭信”将祂的得胜带入现实世界,这是我们被委托的任务。 穿戴神所赐的全副军装并在属灵争战中奋勇前行,绝非消极或畏缩,而是穿着“平安福音”的鞋去到各处;以信心的盾彼此守护;高举圣灵的宝剑攻破黑暗。如此以福音平安为盔甲的信徒,永不至于失败。只要我们肯领受并实践已赐下的权柄,就能在属灵争战中见证真正的胜利。 结束祷告示例 慈爱的天父上帝,感谢祢借着以弗所书6章12节,让我们看见争战并非与属血气的人,而是与执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔。我们为能够正确认识属灵实况而感恩,好不惧怕魔鬼那有组织的黑暗势力,并能参与主耶稣已得胜的征战。愿祢引领我们穿戴祢所赐的全副军装,使我们在真理、公义、平安福音、信心、救恩及神的话语中更加坚固。也盼望祢帮助我们常在圣灵里祷告守望,为教会彼此代求,好让我们亲眼目睹黑暗势力倒塌。愿我们在世之时,能穿着福音之鞋,将被恶魔捆绑的人带往自由之境;使我们时时想起以弗所书所昭示的教会呼召与荣耀,在等待主再临的日子里,以信心勇敢作战。一切感恩祈求,奉主耶稣基督的名,阿们。 总结与勉励 属灵争战指的不是与属血气的人相斗,而是面对其背后的执政、掌权、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔。耶稣基督藉十字架与复活,早已摧毁魔鬼及其势力权柄,教会则蒙赐在今世享受并施行这份得胜。我们的职责是相信、支取这一属灵事实,并穿戴全副军装、藉着祷告时刻警醒,将众多被囚的灵魂释放,把黑暗逐出无藏身之地。真理的腰带、公义的护心镜、平安福音的鞋、信心的盾牌、救恩的头盔、神话语的宝剑,以及多方的祷告与祈求,使教会永远不会失败。张大卫牧师多次强调,这正是教会的使命与信徒胜利的钥匙,也在无数事工中得以印证。为此,我们要以神的权柄勇往直前,将平安的福音扩散到全地,在我们被差派之处抵挡魔鬼的谬妄,带给人真正的自由与生命。当我们持续进行这样的圣洁争战,教会就能在世界中闪耀更强光芒。 盼望每一位都能牢牢记住这份教导与经文,日常里活出全副军装的属灵战士身份。既因这争战是奉耶稣基督之名而战,又因祂已然得胜,我们就能在复活大能中,无所畏惧地往前迈进。如此,神的国度必在我们的家庭、生活、城市,以至万国万邦中彰显,教会也将成为世上更光辉的灯台。只要教会忠实实践这使命,黑暗必然退去,神的荣耀也必更显明。

霊的戦い – 張ダビデ牧師

はじめに エペソ人への手紙6章12節には「わたしたちの格闘は血肉に対するものではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊に対するものです」とあります。この箇所は、クリスチャンが霊的戦いに臨むうえでの視点の基盤かつ核心であり、張ダビデ牧師は多くの説教や講義を通して、この御言葉の意味と具体的な適用法を強調してきました。 目に見えない世界が実在し、そこには悪魔が率いる組織的な悪の勢力があること、そしてすべての聖徒が彼らと格闘しなければならないという事実が、この本文に明確に示されています。パウロは、問題の根源を血肉や目に見える対立·問題だけに限定してはならないと指摘しているので、私たちは「目に見えない敵」の正体と、彼らが私たちの生活に及ぼす影響力を正確に把握する必要があります。もし霊的実体に対する認識が不足していれば、問題の根を正しく扱えず、人間的なレベルの対立にとどまってしまいます。 ゆえに「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」について正しく理解することが肝要です。また、すでに勝利を宣言なさったイエス·キリストの権威のもと、いかにして全身の武具を身に着け、霊的戦いで実際的な勝利を収めるかも重要な課題です。エペソ書は、教会のアイデンティティと使命が何か、そしてなぜ聖徒がこの戦いに大胆に立つべきかを、教理的にも実践的にも明らかに示しています。 張ダビデ牧師が多くの現場の説教で繰り返し強調するように、霊的戦いを正しく理解しなければ、教会がなぜ地上に存在しなければならないのかという核心を見失い、世と悪魔の策略に容易に揺さぶられることになります。本稿では、張ダビデ牧師の教えを主要なキーワードとして、エペソ書6章12節を中心に大きく二つのテーマを扱います。第一に、霊的戦いと「支配と権威」に対する正しい理解について論じ、第二に、平和の福音と全身の武具を通して得られる霊的勝利を深く考察します。これら二つのテーマを通じて、教会と聖徒がなぜこの戦いを避けられないのか、そしてすでに成し遂げられたキリストの勝利をどのように自らの生活に具体的に適用していけるのか、洞察を得られることでしょう。 第1部 霊的戦いと「支配と権威」に対する正しい理解 エペソ書6章12節でパウロは、人間が経験する葛藤や問題が単なる人間レベルを超えるものであることを明言しています。私たちの戦いの相手は人間そのものではなく、その背後にある霊的権勢なのです。張ダビデ牧師は、この御言葉を教会に与えられた「霊眼(霊の目)」だとたとえ、「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」という四つの異なる表現に着目すべきだと説きます。パウロが一つの節の中であえて四つの表現を用いているのは、当時すでに悪霊の組織的な活動が具体的に知られていたことを示唆しているのです。 まず「支配」と「権威」について考察すると、「支配」(ギリシア語のアルケー, Archē)は「始まり」「根源」を意味するとともに、支配者や首領を指す言葉でもあります。これはルシファーをはじめとする最上位の悪霊を指すとされ、ヨハネの黙示録12章7節以下で天から追い出された「昔の蛇」や「大きな竜」がまさにこれを代表する存在だといえます。彼は堕落前には天使長の地位にあったと推測され、黙示録は彼が天から落とされて地上を惑わしている姿を描写しています。 「権威」(エクスシア, Exousia)は、「支配」の下で統治権を実際に行使する勢力であり、実務的な指揮や攻撃を担当する存在といえます。もしサタンが総司令官であるなら、この「権威」に属する悪霊たちは将校や参謀に相当すると考えられるでしょう。彼らは世に降りて社会·政治·文化全般に干渉し、「空中の権威」をとらえて罪と暗闇へと人々を誘導します。 続く「この暗闇の世界の支配者たち」という表現は、ギリシア語の「コスモクラトール(cosmocrator)」が使われており、世界を支配する者たちを意味します。張ダビデ牧師は彼らを「目に見えない暗黒組織が世の制度や権力者と結託し、大きな影響を及ぼす存在」と説明し、歴史上の大量虐殺や反人道的犯罪が単に人間の力や残酷さだけで起こったのではないと指摘します。普通では想像しがたい規模の悪行が行われる背景には、このような霊的勢力の働きがあるというのです。世界各地で起こる戦争、民族浄化、組織的犯罪、常軌を逸した暴力事件などは、人間の罪性も原因ですが、その罪性を巧みに操る悪の組織がさらに大きな要因として働いているといえます。 また「天にいる悪の霊たち」という表現は、一般的に思い浮かべる「神がいる天国」ではなく、エペソ書2章2節に描かれる「空中の権威を持つ者が活動している領域」と理解すべきです。これは神の国の完全な栄光に満ちた領域ではなく、サタンと配下の悪霊が現実的に活動する中間的な霊的領域を指します。張ダビデ牧師は「この天にいる悪の霊たち」が世界中の都市や国家、さまざまな領域に入り込み、人々を無知と不従順へと導くと述べつつ、たとえ神の子どもがすでに救われていても、彼らとの格闘が依然として必要な理由を強調します。私たちはイエスの勝利にあずかっているものの、サタンの勢力は最後の審判まであがき続けるため、教会は霊的に常に目を覚ましていなければならないのです。 悪魔は実際に知能と組織力を持ち、私たちがこれを知らず警戒しなければ、簡単に太刀打ちできなくなるおそれがあります。霊的無知こそが悪霊たちにとって最も好都合だからです。暗闇の勢力をまったく認識していない人々は、彼らが張り巡らす惑わしや策略にそのまま巻き込まれ、霊的に鈍感になっていきます。しかし、私たちには天と地のあらゆる権威を持つキリストのうちにあるという確信があるので、イエス様がすでに勝利されたことを踏まえれば、教会は悪魔とその組織を恐れる必要はありません。むしろ大胆に彼らと対峙し、制圧し、束縛された魂を解放していく立場にあるのです。 「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」を正確に見極めることは、祈りや宣教、福音伝道、教会活動全般に大きな影響をもたらします。私たちはただ人の行いだけを見て怒ったり落胆したりするのではなく、その背後にある「目に見えない敵」を正しく識別することで、祈りと福音の力による効果的な戦いを可能にするのです。もし教会がここを軽視すれば、世の文化や政治の権力に対して守勢にまわるばかりで、元来持っている霊的権威を失いかねません。ゆえに聖徒はこの事実を深く胸に刻み、聖書の教えに基づいた霊的戦いの戦略を立てることが必要です。 では、具体的にどうすればこの霊的戦いで勝利できるのでしょうか。張ダビデ牧師は「エペソ書6章でパウロが提示した全身の武具を正確に理解し、実際に身に着けること」が霊的戦いの肝要だと強調します。パウロは単に理論的に「悪霊の存在を知れ」と言うのではなく、きわめて具体的な対処法を示しているのです。もし6章12節が「支配と権威」の正体を明らかにする御言葉だとすれば、6章10〜18節は、その正体に対抗する教会の武装状態を示す御言葉といえます。次の章では、この全身の武具を構成する要素を詳しく確認したうえで、平和の福音と祈りによっていかに実際的な勝利を収めるかを探っていきます。 第2部 平和の福音と全身の武具を通した霊的勝利 エペソ書6章10〜18節は「神の全身の武具」として広く知られる箇所です。パウロはここで、悪魔の策略に十分打ち勝つために必ず身に着けるべき霊的武装を六つ挙げ、最後に祈りを勧めています。張ダビデ牧師は、これを「霊的戦いにおいて必須の兵器リスト」と呼び、昔も今も全世代の教会がこの武具をもって悪しき勢力に対抗しなければならないと語ります。 はじめに「真理の帯」ですが、古代の戦士がだぶついた衣を締めるために腰帯をしっかりと結んだように、聖徒も真理によって動揺せずに立つ必要があります。聖書の語る真理とはイエス·キリストご自身とそのみことば、つまり福音のことです。「わたしが道であり、真理であり、命である」と語られたイエス様の宣言がその証拠となります。悪霊の第一の攻撃はいつも偽りなので、聖徒が真理を知らなければ、たやすくサタンの攻撃に巻き込まれてしまいます。張ダビデ牧師は、真理の帯を身に着けるには、みことばと福音を自分の生活全体を支える中心軸とする必要があると指摘します。 次に「義の胸当て」は、胸を守る鎧に相当します。聖書が教える義は、私たち自身が成し遂げたのではなく、イエス·キリストの十字架によって与えられた恵みの義です。サタンは「おまえは罪人だ、資格がない」といった罪責感の矢を放ちますが、私たちがキリストの義を着せられた者として堂々と立つなら、その攻撃は貫通しません。張ダビデ牧師は、義の胸当てを装着した者は単に罪責から解放されるだけでなく、神の義を慕い、日常生活で聖と公義を行う志を持つようになると説きます。このようにキリストの義で武装すれば、どんな罪責感の誘惑や偽りの策略にも揺さぶられずにすむのです。 三つ目の「平和の福音の靴」は、福音を携えて積極的に踏み出すことを象徴しています。パウロはローマ書10章15節で「福音を宣べ伝える人々の足が何と美しいことか」と述べていますが、それは足が福音を世界へと広める手段であることを意味しています。張ダビデ牧師は「全身の武具は守勢の防御だけでなく、靴を履いて前進するように、教会は福音で攻勢的に世を征服すべきだ」と強調します。しかもそれは平和の福音の靴なので、私たちの「戦い」は世の暴力的な戦争とは異なり、愛と平和のメッセージで人々の心を変え、真の自由と解放をもたらすものなのです。 四つ目の「信仰の盾」は、悪魔が放つ火矢を防ぎ消す強力な武器です。聖書は「信仰の盾をもって悪い者の放つすべての火矢を消し去ることができる」と言いますが、これはサタンが投げかける疑いや不安、怒り、貪欲などの思いが、信仰の確信の前では無力化されることを意味しています。張ダビデ牧師は、この盾が個人の信仰だけでなく、教会共同体としての信仰も指す可能性があると説きます。ローマ軍が盾を互いに連結して敵の矢の雨をしのいだように、教会全体がともに信仰を合わせて助け合うなら、どんな霊的攻撃も突破できないというわけです。 五つ目の「救いのかぶと」は頭を守ります。頭は思考と認識の中心で、サタンがいの一番に揺さぶりたい部分です。もし聖徒が「自分は本当に救われているのだろうか」という疑いに捕らわれてしまえば、心も日常生活も弱まってしまいます。しかし「救いのかぶと」をかぶる者は、イエス·キリストが成し遂げられた救いを確信し、神がご自分の子どもとしてくださった事実をはっきり認識します。だからこそサタンがどんなに偽りで攻撃してきても、救いの確信は揺らがないのです。 六つ目の「御霊の剣」、すなわち神のみことばは、全身の武具の中で唯一攻撃的な性格を持つ武器です。イエス様が荒野でサタンの誘惑を「書いてある」とのみことばで退けられたように、私たちはみことばを知り、それを活用するほどに悪魔に対抗できます。張ダビデ牧師は「聖霊の照らしによって理解·宣言されるみことばだけが、人の魂を突き動かし、世界を変える力を発揮する」と語っています。このみことばを武装した教会は、人々に真理といのちを宣言し、悔い改めと新生を促します。 パウロはこれら六つの武装に加えて、最後に「あらゆる祈りと願いをもって目を覚ましていなさい」と勧めています。張ダビデ牧師は、これを「全身の武具に真の生命力を与える原動力」と呼び、「祈りのない全身の武具は多くの場合、頭の中の知識にとどまる」と指摘します。教会が全身の武具を整えていても、祈りを軽んじれば、戦闘で武器を使いこなせない兵士と同様です。祈りは「神が与えてくださる権威」を現実に引き下ろす通路であり、霊的な戦場で正確に敵を識別して攻撃するためのレーダーの役割も果たします。 結局、「平和の福音」と「全身の武具」による霊的勝利は、教会と聖徒のアイデンティティを改めて認識することから始まります。教会はすでにあらゆる支配と権威の上に高められたキリストのからだであり、サタンの勢力が教会を最終的に打ち負かすことはできません。問題は、聖徒がこの事実をどれほど信じ、行動に移すかにかかっており、全身の武具を身に着けて実際に戦うことを恐れてはいけません。張ダビデ牧師は「教会が世の真っ只中で守勢ではなく攻勢に出て福音を伝えるとき、暗闇の領域は光の前で敗北を味わうことになる」と述べます。銃や剣ではなく、イエス·キリストの平和と愛が導く福音によって、教会が足を踏み入れるあらゆる所を聖霊の支配下に取り戻すことこそ、霊的戦いの最終目的なのです。 この霊的戦いは、人を憎んだり敵視したりするものではなく、むしろ罪と暗闇の束縛から人々を解放することに主眼があります。だからこそ、福音の靴を履いて踏み出す聖徒は恐れではなく大胆さを持ち、以前は「敵」と思えた人々さえ悔い改めと変革に導かれる可能性があると確信します。これこそ教会が地上に存在する重要な理由であり、エペソ書全体が語る教会の高い召しとも一致しています。 結論的な適用 エペソ書6章12節は、単に「悪魔がいる」と指摘するだけでなく、「私たちの戦いは血肉ではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊たちに向けられるのだ」という実践的な行動を促しています。張ダビデ牧師は、この点を繰り返し強調し、霊的世界を知らないままでは世の問題の根本を解決できないと説いてきました。あらゆる問題の背後には罪と不従順、そして悪霊の介入が存在するため、聖徒は見えない敵に意識的に祈りとみことばで立ち向かわなければならないのです。 キリストがすでに勝利を宣言された以上、私たちは悪魔を恐れる必要も、敗北主義に陥る必要もありません。むしろキリストのからだである教会が全身の武具を完全に身に着けるとき、世の至る所に潜む暗闇の勢力は弱体化し、あるいは崩れ去ります。教会が光を放てば暗闇が退くように、私たちが真理と義、平和と信仰、救いとみことばにより、攻撃と防御のバランスを整えれば、どんな霊的攻撃ももはや脅威ではありません。 教会は共にこの武具を保ち、互いのために祈る必要があります。エペソ書6章18節が「あらゆる祈りと願いによって絶えず目をさまし、すべての聖徒のために祈れ」と続くことは象徴的です。全身の武具は個人で装備するだけではなく、軍隊全体が一緒に武装してこそ最大の効果を発揮します。教会が祈りとみことばのうちに連帯し、互いの弱さを補い合い、長所を生かし合うなら、大きな霊的戦いのただ中でも揺るがされることはありません。 霊的戦いはこの地上での私たちの生全般にわたります。具体的には、礼拝、宣教、救済、奉仕、社会参加など、多様なかたちで表れます。聖徒は日ごとに「信仰の盾」を取り、「福音の靴」を履き、「救いのかぶと」で思考を守り、「御霊の剣」であるみことばを宣言するべきです。日々の暮らしの中で悪魔の偽りを退け、隣人にイエスの愛を伝え、不義と混乱がはびこる場所に神の公義と秩序を確立していくことこそ、霊的戦いの実際的な様相なのです。 張ダビデ牧師は、多くの宣教·教会活動の現場でこの原理が適用されるとき、一見ゆっくりしたように見えても着実かつ確実な変化が起こると証ししています。教会が霊的戦いの本質を理解し、福音と祈りで武装すると、家庭が回復し、中毒が解放され、地域社会の福音化などの奇跡が可能になるのです。教会内に渦巻く対立や憎しみさえも「私たちの戦いは血肉ではない」という真実を改めて認めることで、本来の秩序を取り戻し、悪魔の入り込む隙を根本から断つことができます。 こうしてエペソ書6章12節と6章10〜18節の示すところをしっかりと受け止めるべきです。私たちがこのみことばの光の中で霊的戦いの現実と全身の武具の実践を日々黙想するとき、教会はますます強くなり、暗闇は後退していきます。教会が目を覚ましている限り、この暗闇の世界の支配者や天にいる悪の霊たちは好き勝手に振る舞えません。キリストはすでに勝利を成し遂げられ、教会はその勝利を「信仰を通して」現実社会に適用していく使命を負っているのです。 神の全身の武具を着て霊的戦いを歩む姿勢は、決して受け身や恐れに駆られて後退するものではありません。むしろ平和の福音を「靴」として世の隅々へと出て行き、信仰の盾で共同体を守り合い、御霊の剣のみことばを宣言して闇の権勢を打ち砕くという能動的な行動です。こうして福音の平和で武装した聖徒は決して挫折しません。イエス·キリストの御名によってすでに与えられているこの権威を私たちが受け取り、適用しさえすれば、霊的戦いにおいて真の勝利を体験できるのです。 しめくくりの祈り(例) 愛する天の父なる神様、エペソ書6章12節の御言葉によって、私たちの戦いが血肉ではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊たちに対するものであると示してくださり、ありがとうございます。霊的世界を正しく認識できるように導き、悪魔の組織的·体系的な悪の勢力の前にあっても恐れず、主がすでに取られた勝利に参加できるよう願います。 あなたがくださる全身の武具を着るよう私たちを導き、真理と義、平和の福音、信仰、救い、みことばによって私たちを強くしてください。何より、祈りを通して御霊のうちに常に目覚めておらせてください。教会が互いのために祈り合うとき、暗闇の勢力が崩れ去るのを自分たちの目で見られるように助けてください。世のただ中で福音の靴を履いて前進し、悪霊に縛られている多くの魂を解放する教会とならせてください。 エペソ書全体が示す教会の召しと栄光を思い起こしつつ、主の再臨の日まで信仰をもって力強く戦い抜くことができますように。すべてを成し遂げられたイエス·キリストの御名によって祈ります。アーメン。 要約と勧め 霊的戦いとは、血肉ではなく、その背後にある「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」と戦うことを指します。イエス·キリストはすでに十字架と復活を通して悪魔とその勢力の権威を打ち砕かれ、教会にその勝利を実際に享受する特権を与えられました。私たちに求められるのは、この霊的事実を信じ受け取り、全身の武具を身に着けて祈りに目覚め、多くの捕らわれた人々を解放し、暗闇を光へと追い払うことです。 真理の帯、義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の盾、救いのかぶと、そして御霊の剣である神のみことば、さらにあらゆる祈りと願いで武装した教会は決して敗北しません。張ダビデ牧師は、この御言葉に基づく生き方こそ教会の使命であり、聖徒にとっての勝利の鍵だと繰り返し説いており、実際に多くの宣教の現場で暗闇の力が退けられた証が生じています。だからこそ私たちも、与えられた権威をもって霊的戦いに臨み、この世界に平和の福音を広げるべきです。イエス様が送り出された場所で、悪魔の偽りと対峙し、人々を自由といのちへ導く戦いをやめないとき、教会は地上でいっそう輝く光となるでしょう。 私たち一人ひとりがこの教えと御言葉を握り、日々の生活で全身の武具を装着した霊的戦士として歩むことを願います。イエス·キリストの御名によって始まったこの戦いは、すでに主が勝利を得られた戦いです。私たちは復活の力に支えられて大胆に進むべきです。そうするとき、神の御国が私たちの家庭や人生、さらには地域と諸国に及び、教会を通して世にいっそう明るい光がもたらされると信じます。

Spiritual Warfare – Pastor David Jang

Introduction Ephesians 6:12 proclaims, “For our struggle is not against flesh and blood, but against the rulers, against the authorities, against the cosmic powers of this darkness, and against the spiritual forces of evil in the heavenly realms.” This passage serves as both the foundation and the heart of the Christian perspective on spiritual warfare. … Read more

Guerra Espiritual – Pastor David Jang

Introducción Efesios 6:12 declara: “Porque nuestra lucha no es contra sangre y carne, sino contra principados, contra potestades, contra los gobernadores de las tinieblas de este siglo, contra huestes espirituales de maldad en las regiones celestes”. Este pasaje constituye la base y el centro de la perspectiva cristiana sobre la guerra espiritual. El pastor David … Read more