David Jang – Le vœu de Jephté

1. L’enseignement de Jésus sur le serment et la comparaison avec la Loi Le pasteur David Jang souligne la profondeur et la radicalité de l’« antithèse » (en grec, antithese) que Jésus propose vis-à-vis de la Loi, en s’appuyant sur l’enseignement de Jésus dans Matthieu 5.33-37. Dans ce passage, Jésus déclare : « Vous avez encore … Read more

张大卫牧师——耶弗他的誓愿

1. 耶稣关于誓言的教导与律法的比较 张大卫牧师通过马太福音第5章33-37节中耶稣的教导,强调耶稣对律法的“反题(Antithese)”是多么彻底和深刻。在经文中,耶稣说:“你们又听见有吩咐古人的话,说‘不可背誓,所起的誓总要向主谨守’,只是我告诉你们,什么誓都不可起……”(参马太福音5:33-34)。这比起旧约律法“指着耶和华起誓时,不可起假誓,并且必须守住所起的誓”的命令,又提升了一个层次。 当时的犹太人为了守护律法可谓倾尽全力,而“起誓”这个行为也被视为具有最高道德价值、极其严肃的仪式。比如,若在某件事上说“我指着耶和华起誓”,就意味着绝不能说谎。然而,随着人们在各种问题或情境中滥用誓言,以此来强化自己的立场,誓言的分量和神圣性逐渐被破坏。此时耶稣教导说:“根本不要起誓。”换言之,“草率地起誓会动摇整个群体的根基,不如不起誓。你们只要‘是’就说‘是’,‘不是’就说‘不是’,再多说的就出于那恶者”(参马太福音5:37)。 张大卫牧师解释,耶稣的这一教导更是强调了“不可起假誓,如果真的起了誓,就必须守住它”这一点。若说律法强调誓言的严肃性,那么耶稣就是进一步指出:不要轻易决定誓言的内容,一旦起誓就要不惜性命去遵守。特别是“不可指着天、地、耶路撒冷,甚至自己的头起誓”这段话(参马太福音5:34-36),提醒我们誓言所指向的对象本质上是神的领域。因为人连自己的一根头发要变白或变黑都无法掌控,所以根本不应将这些超出自身能力的事情轻率地拿来起誓。 耶稣的“反对命题”要求我们不仅遵守十诫的字面内容,更要遵守其中的精神和内在动机。旧约最后一条诫命——“不可贪恋你邻舍的东西”——已经涉及心里所生的罪;同样,耶稣在更高层次上教导“心里已经犯下的罪也是罪”。例如关于“不可奸淫”的诫命,耶稣说只要看见妇女就动淫念的人,心里已经与她犯了奸淫。因此,誓言也必须在内心中被谨守,一旦发出就绝对不能违背,成为不可动摇的誓约。 如今的基督徒同样适用这个原则。张大卫牧师强调,在教会内外所立的一切约定与决心,尤其是在神面前的誓言,都因为是“借着立约之血”而确立的,带有深重的分量,不可轻易翻悔。整个圣经中,有多处例子展现了错误使用誓言或不看重誓言的人,最终不仅伤害了共同体,也伤害了自己。因此,务必记住耶稣所说的“不能遵守的誓言就干脆不要起;若已起誓,就当无论付出什么代价都要坚守”这条准则。 耶稣是宣讲“黄金法则”的那位主,也对我们提出崇高的伦理要求。教会常引用的“你们愿意人怎样待你们,你们也要怎样待人”(马太福音7:12)这黄金法则,同样适用于彼此之间的约定和盟约之上。张大卫牧师指出:“在信仰中若有人立誓却无法遵守,那么群体的信任就会崩塌,人与神的关系也会出现问题。”因此,我们当谨慎自己的决心、誓言,一旦下定决心,就要拿出舍命的态度去成就它,这才是圣经信仰的根本态度。 在教会群体里,我们常会以多种方式决志投入服事、制定事工计划,或是许下传福音、宣教,乃至财物奉献等方面的承诺。对此,张大卫牧师提醒信徒必须铭记:“誓言若被滥用,就会破坏约的诚信;所以最好不要轻易发誓。但若已起了誓,就要抱持‘宁可赴死也要完成’的决心去遵守。”这一原则适用于教会领袖层面、家庭以及社会生活的各个场景。只有当我们意识到所有大大小小的约定都是在神面前立的盟约时,这样的态度才能让群体得以坚固,使信仰的传承得以完整地交给下一代。 2. 耶弗他的誓愿与誓言的严肃性,以及我们的决断 张大卫牧师提及旧约中一个典型的例子,用以说明誓言是何等严肃:这便是士师记第11章所记载的耶弗他的誓愿。耶弗他在与亚扪人激烈争战前,对神许下誓言:“若祢将亚扪人交在我手中,我平安得胜归来时,就把我家门口第一个出来迎接我的人献给耶和华为燔祭。”在古代战争中,一旦失败,全体百姓都有被掳为奴的危险,因此,为了拯救以色列百姓,耶弗他在神面前立下了用自己性命作抵押的誓愿。 最后,以色列取得了胜利。耶弗他带着凯旋的消息回到家中时,第一个出来击鼓跳舞迎接他的,竟是他唯一的女儿。见到女儿的一刻,耶弗他撕裂衣服,痛哭不已,喊道:“我已经向耶和华开口起誓,不能挽回!”(士师记11:35)。女儿听后也回应:“父亲啊,既然你向耶和华开了口,就照你所说的行吧。因为耶和华已经为父亲和百姓报了仇。我愿按这誓言献上自己。” 张大卫牧师指出,这是旧约中一幕悲痛却又同时展现“圣洁意志”的事件。耶弗他的女儿明知自己若被献上,将会失去生命,但因那是父亲在神面前的誓愿,她也愿顺从。此后,以色列的女子年年为她哀哭(士师记11:39-40),追思她的死,并纪念那崇高的决心。 很多现代读者读到这里都会产生疑问:耶弗他为何不更谨慎地许愿?或神为何不提供一个免去牺牲女儿的途径?然而,张大卫牧师提醒,我们要聚焦的重点并非“因履行誓言而不得不牺牲女儿的残酷”,而是耶弗他及其女儿“不惜一切也要守住与神立下的誓言”这一份迫切而炽热的信心。在当时,那场战争攸关以色列百姓的生死存亡。耶弗他孤注一掷,将自己的一切都赌在了神面前;誓言最终要求牺牲他女儿的生命,给耶弗他带来永远无法平复的悲痛,也让他女儿做出了将生命奉献给神的决定。 张大卫牧师指出,我们能从中得到的核心教训十分明确:“誓言不可轻易发,但若真发出了,就要以性命去担当其责任。”这正是耶稣在马太福音第5章所说的:“不要起誓,若已起誓就必须遵守。”在教会群体或个人灵命生活中,若我们曾在神面前许下誓愿,就必须竭力去实践。否则,“约的诚实”就会崩解,继而家庭、群体及个人都将面临破碎。 圣经中还有一个对照性的事件:使徒行传第12章记载彼得被囚时,神差遣天使将他救出;但看守的士兵却因此担了刑责,被希律王处死(使徒行传12:19)。对彼得而言,这是“得救的神迹”,但对那些士兵来说却是无比冤屈的死亡。张大卫牧师指出,若用“人类的善恶标准或公平原则”去衡量神国度的事工,我们常会陷入众多两难。然而,最为关键的是——在神宏伟的旨意与计划中展开的一切,我们无法用狭隘的视野尽知其全貌,这是神的奥秘所在。 耶弗他的誓言与使徒行传中的看守士兵之死,一方面彰显神拯救方式的多样化,另一方面也展现人在其中所经历的苦难与牺牲,蕴含多么深重而严肃的意义。张大卫牧师提醒我们要反省:“自己在神面前曾许下多少誓言和承诺?如今是否认真地履行了?”基督徒的群体理应成为彼此守信、对神守约的地方,否则一旦轻视起誓,结果必然导致共同体走向崩溃。 因此,耶稣禁止我们起誓(“什么誓都不可起”)的教导,并非单纯的“绝对禁止”,而是对那种“随意起誓或滥用誓言”的警告,也宣告“若已发誓,就必须以性命去遵守”。张大卫牧师建议将此教训应用在今日教会与信徒的实际生活中,需做到以下几点:第一,若在信仰团体内必须做出重大决断或誓言时,一定要先经过祷告,谨慎考虑。第二,若已经起了誓,就要竭尽全力去守,哪怕为此付出巨大代价。第三,若自知没有能力去守,那就干脆不要开口发誓,这才是对群体和自己灵魂有益之举。最后,若有人已在神面前正直地立下誓愿,但在履行过程中面临牺牲与困难,教会群体应该与之同哀哭、同祈祷。 誓言终究是神、人以及群体共同承担的责任。耶弗他与女儿的故事是一个极端例子,向我们展示誓言绝非儿戏,即便是看似微不足道的许诺,一旦向神许下,也不容轻忽。此事不仅影响个人的成圣,也关系到整个群体的成熟与成长。因此,张大卫牧师不断呼吁我们要有“在神面前不可草率废弃誓言的属灵态度”。在教会年末或新的一年开始之际,我们要重新检视自己曾许下的誓言,若有未履行之处就当悔改,赶紧把欠缺之处补足。 正如耶稣在马太福音5:37所说,基督徒应当“是就说是,不是就说不是”,言语当中没有多余或虚假。我们的信仰伦理标准远高于世俗,一旦心中立定,就要以诚实加以持守。张大卫牧师称之为“信心的纯洁(圣洁)”,这正是基督徒区别于世俗,并能成为“世上的光和盐”的根基。 因守誓言而累积的群体信任,是得救的信徒们共同建造神国的重要支柱之一。耶弗他的誓愿虽是个极端案例,却时刻提醒我们要深思:不要轻易许诺;若已经许诺,就算付出极大代价也要努力遵守。唯有这样的态度,才能拯救教会与邻舍,也拯救我们自己。这也是张大卫牧师反复传达的核心信息,且与耶稣的黄金法则密不可分。对于“我们应当如何对待他人”这一问题,最根本的是彼此在真诚中相待,而这种真诚必须落实到实际的坚守和行动上。 最后,张大卫牧师勉励我们:要使自己的信仰不只停留在言语和知识层面,更要在与神所立的一切之约上保持真诚与始终如一。即便进度缓慢,甚至必须付出牺牲,基督徒也绝不可轻言放弃。耶弗他与他女儿那痛苦的誓约之举,再次告诉我们“誓言之重,就如生命之重”。耶稣嘱咐我们“根本不要起誓”(马太福音5:34),乃是警告我们:誓言的分量绝不轻,不可随便挂在嘴边;同时也提醒我们“要承认人本身并无守约的能力,随时都要倚靠神”。唯有倚靠神,我们才能获得守约的力量与智慧,并在这誓言之中被塑造成圣。 关于誓言的教导,既是神国子民的伦理要求,也关乎群体与个人的责任,更是基督徒身份的重要部分。张大卫牧师强调的核心是:“不可乱发空誓,一旦起誓,就要以生命去遵守。”只有当我们真正秉持并实践这一原则,教会才能在世上成为神国度的光与盐,发挥圣洁且正面的影响力。而我们对誓言的坚守,也正是我们对神的真实敬拜与日常生活的敬拜。愿我们都能牢记并行出来。 www.davidjang.org

張ダビデ牧師 – イプタの誓願

1. イエス様の「誓い」に関する教えと律法との比較 張ダビデ牧師は、マタイの福音書5章33節から37節にあるイエス様の教えを通して、イエス様の「反題(Antithese)」がいかに徹底して深遠であるかを強調する。本節でイエス様は次のように言われた。 「また昔の人に、『偽りの誓いをしてはならない。あなたが誓ったことは主に対して果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない」(マタイ5:33-34) これは、旧約の律法が「神をさして誓うときには、その誓いを無駄にしてはならず、必ず守らなければならない」と命じていたよりも、一段と高い基準を示される御言葉である。 当時のユダヤ人たちは、律法を自分の命のように大切に守ろうとする熱意があり、「誓い」という行為も、最高レベルの倫理的価値をもつ厳粛な儀式として受け止めていた。たとえば、ある事柄について「主(ヤハウェ)に誓います」と言えば、それは決して偽りを言えないという意味を持っていた。しかし次第に、人々は自らの立場を有利にするため、さまざまな問題や状況で誓いを乱用し始め、それによって誓いの重みと神聖さが損なわれていったのである。そこでイエス様は「まったく誓ってはならない」と教えられた。つまり、 「むやみに誓う行為そのものが共同体の根幹を揺るがすのだから、むしろ誓わないほうがよい。『然り』ということは『然り』、『否』ということは『否』とはっきり言いなさい。それ以上に付け足す言葉は悪から出るのです」(マタイ5:37) という意味である。 張ダビデ牧師は、イエス様のこの教えが「偽りの誓いをしてはならず、もし誓ったなら必ず守らねばならない」という点をさらに強調しているのだと説明する。律法が誓いの厳粛さを説くとするなら、イエス様は誓いの内容を軽々しく決めてもいけないし、いったん誓ったなら命をかけてでも守れ、と教えておられる。特に「天や地、エルサレム、あるいはあなたの頭をも誓いの対象にしてはならない」というイエス様の言葉から、誓いの対象が神の領域そのものであることを思い出させる。人間は自分の髪一本さえ、白くも黒くも自由に変えられない存在であり、そもそも自分の力の及ばない領域に属するものを引き合いに出して、むやみやたらに誓いを乱発すべきではないということだ。 イエス様のこの「反対命題」は、十戒を文字通り守るだけでなく、その精神と内面の動機まで守るように求める。旧約の十戒の最後の戒め(「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」)が心の中で起こる罪を扱うように、イエス様は律法の次元をさらに高めて、「心の中でもすでに罪を犯してはならない」と言われる。たとえば「姦淫するな」という戒めについても、「女を見て情欲を抱く者は、すでに姦淫したのも同然」と言及された。このように誓いもまた、内面から守られるべきものであり、一度してしまったら決して破ることのできない絶対的な誓約となるのである。 現代のクリスチャンにも、同様の原理が当てはまると張ダビデ牧師は説く。教会内外で交わされるあらゆる約束や決意、特に神の前での誓いは「契約の血」によって立てられる厳粛なものであり、容易に翻してはならないというのだ。聖書全体を見ると、「誓い」を誤って用いたり、その重さを顧みなかった人が、最終的に共同体や自分自身をも傷つけてしまう事例はいくつもある。したがって「守れない誓いは最初からしないこと」が賢明であり、「すでに誓ったことがあるなら、いかなる代価を払ってでも守るべきだ」というイエス様の教えを心に刻まなければならない。 イエス様は「黄金律」を語られた方であり、私たちに高い倫理的基準を求められる。教会でよく学ぶとおり、「人にしてもらいたいと望むことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)という黄金律は、たがいの約束や契約に対してもそのまま適用される。張ダビデ牧師は「信仰の中で誓いを立てたのに、それを守らないなら、最終的に共同体の信頼が崩れ、さらには神との関係もおかしくなってしまう」と指摘する。だからこそ、自分自身の決心や誓い、約束は常に慎重であるべきであり、一度決断したなら命をかけて守ることこそが、聖書的信仰の基本的な姿勢だというのである。 特に教会の共同体では、さまざまな形で献身を決断し、奉仕を計画し、伝道や宣教、あるいは財政的・物質的献身について約束することが多い。そのとき張ダビデ牧師は、信者たちが必ず覚えておくべき点を挙げる。 「誓いが乱発されると、契約の真実性が損なわれる。だからこそ、むやみに誓わないほうが良い。だが、すでに誓った部分があるなら、死をも覚悟してそれを守りなさい。」 これは教会のリーダーシップ、家庭、社会の現場、どこにおいても同様に当てはまる原理だ。大小を問わず、すべての約束は神の前に立てられた契約だと自覚するとき、それは共同体をしっかりと建て上げ、信仰の遺産を次世代にまっすぐ継承する土台となる。 2. イプタの誓願と誓いの重さ、そして私たちの決断 張ダビデ牧師は、誓いがどれほど重大なものであるかを示す旧約の代表的な実例として、士師記11章に登場するイプタの誓願を強調する。イプタはアンモンの子らとの激しい戦いを前にして、神にこう誓願した。 「もし私がこの戦いに勝利して帰ってくることができるならば、私の家の門から最初に出てきて私を迎える者を、主への全焼のいけにえとしてささげます。」 古代の戦争は、敗北した場合、民全体が奴隷として連れて行かれるという苛酷な現実があったゆえ、イプタはイスラエルを救うため命を懸けた誓いを神の前にささげたのだ。 結果として戦いはイスラエルの勝利に終わり、イプタは勝利の報せを携えて自分の家に帰る。しかし家の門から最初に出てきて、踊りとタンバリンでイプタを迎えたのは、彼のたった一人の娘であった。娘を見た瞬間、イプタは衣を裂いて嘆き、 「ああ、わが娘よ。私は主に誓いを立ててしまった。それを取り消すことはできない」(士師記11:35) と叫ぶ。すると娘はこう応じる。 「お父さまが主に向かって口から出されたことを、そのまま私に行ってください。主は、お父さまと民のために敵への復讐を果たしてくださいました。ですから私も、その誓いに従って神にささげられましょう。」 張ダビデ牧師は、この場面が旧約聖書において非常に悲痛でありながらも、同時に神聖な意志を示す出来事だと解説する。イプタの娘は、自分の命が神にささげられる道であっても、それが父の誓願ならば喜んで従うと告白する。そのため、イスラエルの女性たちは毎年一定期間を定めてイプタの娘を嘆き悲しみ、その崇高な決断を記念するようになった(士師記11:39-40)。 今日の読者はこの物語に触れるとき、「イプタはもう少し慎重に誓願をすべきだったのではないか」とか、「神はなぜ娘を犠牲にせずに済む方法を用意されなかったのか」という疑問を抱くかもしれない。しかし張ダビデ牧師は、この本文の焦点は「誓願の成就のためやむなく娘を犠牲にせねばならなかった悲惨さ」にあるのではなく、「神との誓いを絶対に不履行にしようとしなかったイプタと娘の、切実で熱い信仰」にあるのだと説く。当時のイスラエルの民の運命がかかった戦いで、イプタは最後の覚悟として、神に自分のすべてを懸ける誓いをささげた。そしてその誓いは、娘ひとりの犠牲を求める形で現実化したのである。イプタはこのことによって、生涯にわたり胸が詰まるような悲しみを抱えたが、娘もまた自らの命を神にささげる決断を下した。 張ダビデ牧師は、ここで学ぶべき核心的な教訓は明快だと言う。それは「誓いはむやみに行うものではなく、もし真に立てた誓いなら、命を懸けて責任を負わなければならない」ということである。まさにこの点が、イエス様がマタイ5章で「そもそも誓ってはならない。しかし誓ったのなら必ず守れ」と言われた御言葉の真意である。教会の共同体でも、個人の信仰生活でも、神の前に立てた誓願があるなら、その約束は必ず守られねばならない。もしこれをきちんと履行しないのであれば、「契約の真実性」は崩れ去り、その結果、共同体や家庭、そして自分自身が崩壊する事態を招きかねないのだ。 聖書にはまた別の出来事が対照的に描かれている。使徒の働き12章では、ペテロが牢に捕らえられたとき、神が天使を遣わして彼を救い出す。しかし逆説的に、その看守たちはペテロの脱獄の責任を問われ、ヘロデにより処刑されてしまう(使徒12:19)。この場面も読むと心が痛む。ペテロにとっては「救いの御業」だったかもしれないが、看守たちにとっては不条理な死であったからだ。張ダビデ牧師は、このような出来事を通して神の国の摂理を単純に「人間的な善悪や公平」の基準だけで断じようとすると、多くのジレンマに直面するのだと語る。しかし最終的に大切なのは、神の偉大な目的と計画のうちに成し遂げられることには、私たちの狭い視野では計り知れない神秘があるという事実である。 イプタの誓願の物語や使徒の働きに出てくる看守の物語は、一方では神の救いの御業が作用する多様な形を示し、他方ではその過程で生じる人間の苦しみや犠牲がいかに厳粛で深い意味をもつかを示している。張ダビデ牧師は、この箇所を読みながら「私たち自身も、神の前で立てた数々の誓願や約束を振り返り、それらを真剣に果たしているかどうか」を問いかける必要があると助言する。クリスチャンの共同体とは、互いに信頼を与え合い、そして神に向かって告白するすべての契約を誠実に守る場所でなければならない。そうでなければ、その共同体はすぐに崩れ去り、誓いの軽率さが波及する結果を招くのである。 ゆえに、誓いそのものを禁じられたイエス様の言葉は「絶対誓い禁止」という意味ではなく、 「無駄な誓願を乱発したり、乱用してはならない。すでに立ててしまった誓いなら、命を懸けて守りなさい」 という警告だといえる。張ダビデ牧師は、これを今日の教会と信徒たちに次のように適用するよう提案する。 誓いとは、最終的に神と個人、そして共同体が共に負う責任である。イプタとその娘の物語は、誓いが決して軽くないことを示す極端な例となっている。たとえ些細な約束であろうとも、それが神の前にささげたものであるなら、それは決して軽いものではない。それは個人の聖化や共同体の成熟にも深く影響を与える。だからこそ張ダビデ牧師は、「神の前で立てた切実な約束を、軽々しく破棄しない霊的態度を持つべきだ」と繰り返し語る。今日の教会暦で一年を締めくくる時期や、新しい年を迎えるタイミングで、自らが誓願してきたことを振り返り、守れなかった部分があれば悔い改めて速やかに果たしていくことが望ましいというのだ。 イエス様の御言葉(マタイ5:37)のように、クリスチャンは「然りは然り、否は否」と明確に語り、それ以上でも以下でもない生き方をすべきである。クリスチャンの信仰倫理は世の基準よりも高いところにあり、一度心に決めたことは最後まで守り抜く正直さによって支えられなければならない。張ダビデ牧師はこれを「信仰の聖潔(せいけつ)」と呼び、まさにそこが世と区別される「光と塩」の役割を果たす土台なのだと説明する。 誓いを守ることで得られる共同体的な信頼は、救われた信徒たちが共に築き上げていく神の国の重要な柱のひとつである。イプタの誓願が極端な例であったからこそ、その重大さを思い起こし、あまりにも軽々しく誓いを立てないように気をつけるべきなのだ。そしてすでに立てた誓いがあるなら、どんな代価が伴おうとも、それを守る方を選択しなければならない。そのような姿勢こそが教会と隣人を生かし、さらに自分自身をも生かす道であると張ダビデ牧師は強調する。これはイエス様の黄金律とも深く結びついている。「私たちは他者に対してどのように接すべきか?」という問いの核心は、結局、互いに誠実を尽くすこと、そしてその誠実さには必ず実行が伴わなければならないという点にあるからである。 張ダビデ牧師は最後に、私たちの信仰がただ言葉や知識だけにとどまらないように、神と結ぶすべての契約に真実性と一貫性をもたせるよう勧める。それがたとえ遅々としていたり、ときに犠牲を伴うとしても、クリスチャンは歩むべき道を放棄してはならない。イプタと彼の娘が示した痛ましい誓いの決断は、「誓いの重さとは、すなわち命の重さ」だという事実を私たちに改めて教えてくれる。イエス様が「決して誓ってはならない」と命じられた御言葉(マタイ5:34)は、その重さが決して軽くないので、むやみに口にしないようにという厳粛な警告である。だが同時に「約束を守る力のない人間であることを認め、常に神に頼りなさい」という挑戦でもある。私たちが神に頼るとき、約束を守る力と知恵が与えられ、その誓いのうちにあって私たちは聖く建て上げられていくからだ。 誓いに対する教えは、神の国の民の倫理であり、共同体と個人の責任であり、クリスチャンのアイデンティティの重要な一部である。張ダビデ牧師が強調するのは、 「むやみに偽りの誓いを立てず、すでに立てた誓いは命を懸けて守ろう」 ということである。この原理が正しく守られるとき、教会は神の国の「光と塩」の役割を果たすことができ、世の中に対して聖なる影響力を発揮できる。そして私たちが誓いを守り通すというその誠実さが、真の礼拝と日々の生活の礼拝となるのである。 www.davidjang.org

Pastor David Jang – Jephthah’s Vow

1. Jesus’ Teaching on Oaths Compared to the Law Pastor David Jang, reflecting on Jesus’ teaching in Matthew 5:33-37, highlights the thoroughness and depth of Jesus’ “antitheses” regarding the Law. In this passage, Jesus says, “Again, you have heard that it was said to the people long ago, ‘Do not break your oath, but fulfill … Read more

장재형목사 – 입다의 서원

1. 맹세에 대한 예수님의 가르침과 율법의 비교 장재형(장다윗)목사는 마태복음 5장 33절부터 37절에 이르는 예수님의 가르침을 통해, 율법에 대한 예수님의 ‘반제(反題, Antithese)’가 얼마나 철저하며 심오한지 강조한다. 본문에서 예수님은 “또 옛 사람에게 말한 바 헛 맹세를 하지 말고 네 맹세한 것을 주께 지키라 하였다는 것을 너희가 들었으나 나는 너희에게 이르노니 도무지 맹세하지 말라”(마 5:33-34)라고 말씀하셨다. 이는 구약 율법이 ‘하나님을 두고 맹세할 때 헛된 맹세를 하지 말고 반드시 지키라’고 … Read more

Méditation de la Croix pour le Carême – Pasteur David Jang

Le pasteur David Jang a souligné à plusieurs reprises, en s’appuyant sur l’Évangile de Jean chapitre 13, l’importance de méditer profondément sur la souffrance et l’amour de Jésus-Christ, ainsi que sur le service que Celui-ci a rendu à Ses disciples. Il insiste tout particulièrement sur la nécessité, pendant la période du Carême, de nous approcher … Read more

四旬期十字架默想——张大卫牧师

张大卫牧师多次通过对约翰福音第13章经文的分享,强调我们要更加深入地默想耶稣基督的苦难与爱,以及祂对门徒的服侍。尤其是在四旬期期间,更应贴近基督的苦难,并体会这苦难为何体现了爱。约翰福音13章1节“逾越节前,耶稣知道自己离开这世界归到父那里去的时候到了,就爱世间属自己的人,并且爱他们到底”这段话,揭示了耶稣在地上事工行将结束之际,对门徒所展现的“爱他们到底”的起点。张大卫牧师指出,正是在这幅场景中,耶稣所展现的态度与爱的实践,正是同样要求于我们的门徒之道的核心;顺着这个脉络去思考,我们自然就能理解耶稣为何“爱他们到底”,以及这份爱包含了什么。因为爱本身就意味着苦难,而这苦难最终通向十字架。耶稣对门徒“爱他们到底”,意味着祂甘心卑微自己、服侍到底,甚至走向十字架,为门徒舍命。透过这份爱,我们看见“爱绝非咒诅,而是祝福与得生命之道”的真理得到宣告。正如使徒保罗所言:“如今常存的有信、有望、有爱这三样,其中最大的是爱”(林前13:13),爱才是一切的成全之钥,而这爱也带领我们进入永生。 张大卫牧师表示,如果从约翰福音13章一直看到19章的记载,我们就能更加清楚地看到耶稣在踏上十字架之路之前,怀着怎样的心志与态度,如何教导并照顾门徒,并最终以何种决断顺服天父。虽然从约翰福音13章起,耶稣的苦难正式展开,但这个开端仍然建立在“爱”之上。“逾越节前,耶稣知道自己离开这世界归到父那里去的时候到了,就爱世间属自己的人,并且爱他们到底”的宣告,正是解释了为何耶稣并未逃避苦难的明确答案。因为祂爱,所以祂选择“爱到底”,甚至自愿走进苦难,而这是为成就我们救恩不可或缺的道路。张大卫牧师强调,这一点对我们的信仰生活也极其重要。我们常常会把苦难看作咒诅、刑罚或上帝对我们的“惩戒”,然而事实上,在苦难之中同样蕴含着上帝深远的爱和旨意,正是这苦难使我们更加成熟、更加圣洁。 圣经在多处反复提到苦难的益处以及要与苦难同在。比如诗篇119篇中有“我受苦以前走迷了路,现在却遵守你的话”“我受苦是与我有益,为要使我学习你的律例”的宣告,说明苦难反而带来灵性的成长;在罗马书5章3-11节中,使徒保罗也有“使我认识基督和他复活的大能,并且知道和他一同受苦,效法他的死,或者我也得以从死人中复活”这样的告白,表明他愿意通过苦难更加深刻地认识基督。歌罗西书1章24节“现在我为你们受苦倒觉欢乐,并且为基督的身体就是为教会,要在我肉身上补满基督患难的缺欠”,提摩太后书1章8节“你和我为福音同受苦难”,以及提摩太后书2章3节“你要和我同受苦难,好像基督耶稣的精兵”,彼得前书2章20~21节、4章13节等等,这些经文都多次提到要与基督一同受苦。所有这些都说明,苦难不是我们要逃避的对象,反倒应该带着喜乐去领受,并在其中学习基督的道路。 基于这样的圣经教导,张大卫牧师进一步解释说,约翰福音13章中耶稣为门徒洗脚这一事件,正是“爱中所包含的苦难”的典型例子。我们时常口头上谈“爱”,但若只有言语而没有实际行动,爱便无法完整呈现。所谓爱,就是为了对方将自己舍出去,是甘心承担原本对方应该得到的服侍。在最后的晚餐上,耶稣起身脱去外衣,用毛巾束腰,倒水在盆里,开始为门徒洗脚。这在当时犹太文化中,通常是仆人为主人和客人洗脚的行为,完全象征了“在最卑微的位置服侍”的涵义。然而在此之前,门徒彼此却在争论“谁为大”。有的门徒甚至请求将来在主的国里能坐在耶稣左右,那无异于想要“比别人得到更高的地位”。张大卫牧师说:“正因为门徒带着世界的价值观在彼此争谁大,所以耶稣反而以最低的姿态示范,让门徒亲眼看见神国真正的法则。” 耶稣所展示的神国法则,完全与世人的价值观背道而驰。世人追求“更高的位置、更大的权力、更显赫的名声”,但耶稣却教导说,要站在“更低的位置、更小的权力、更卑微的身份”去服侍。“你们中间谁愿为大,就必做你们的用人;谁愿为首,就必做你们的仆人”(太20:26~27)。在这段话里,耶稣宣告了一种全新的秩序:人子来不是要受人的服侍,而是要服侍人,并且要舍命作多人的赎价。张大卫牧师强调,耶稣所说的服侍之路绝不容易,它意味着自我的死和苦难的伴随。然而当我们作为基督的门徒走这条道路时,才能真正经历生命、喜乐与复活的大能。在神的国度里,世界上难以理解的“往下走的路反成了往上走的路”这看似荒谬的逻辑,却实实在在地成立。 若我们纵观约翰福音13章的整体脉络,就会发现,耶稣早已知晓自己要走上十字架的命运。张大卫牧师指出,“耶稣知道自己离开这世界归到父那里去的时候到了”(约13:1)这句话就暗示了祂非常清楚即将到来的残酷苦难与死亡。但是在那样的状况下,耶稣依然“爱世间属自己的人,并且爱他们到底”。这里的“到底”一词包含“完全地、彻底地、永远地”的意义,指的不仅是一时的情感或短暂的照顾,而是一条延续到十字架、倾尽所有的坚定之爱。张大卫牧师说,这一点对于我们的基督徒生活极为重要。我们常常在遭遇苦难时只顾自己,陷入自怜和顾虑中,忽略了周围需要关心和帮助的人。但耶稣在十字架的痛苦已经近在眼前,却依然把门徒聚集在一起,举行最后的晚餐,教导他们、安慰他们、服侍他们。这才是真爱,也是我们应当效法的榜样。 这种爱的巅峰,便在为门徒洗脚的场景中得到最直观的展现。当时巴勒斯坦地区大多是未铺设的泥土路,人们穿的鞋子也不过类似如今的凉鞋,有的穷人甚至光脚行走,一天下来脚肯定沾满尘土。因此进屋时往往需要用水清洗,若是有人受邀参加晚餐,仆人就会为客人洗脚,表示欢迎与敬意。然而在这最后的晚餐——耶稣与门徒共度的那至关重要而神圣的时刻,门徒们却忙着争论“谁更大”,没有一人愿意主动做为他人洗脚的卑微仆人。于是耶稣亲自脱去外衣、束上毛巾、拿水盆为他们一一洗脚。 张大卫牧师说:“这件事鲜明地表明,耶稣并非只是在口头上提倡服侍,而是切实地躬身践行。”主教导门徒的话语,透过行动被具体地示范出来;祂的生命本身就是道,而道也通过祂的行为充分显现。许多人会讲爱、讲服侍、讲分享,可真正能把这些话活出来的却不多。然而耶稣正是在迈向死亡的门槛上,仍然选择了服侍他人。这是通往十字架的路,同时也是爱的道路。张大卫牧师多次强调,不仅在四旬期,我们在日常生活中也务必要不停地默想并实践这样的爱。 正因为如此,爱总是与苦难相伴。它绝不仅仅是一种美好的情感或电影里充满浪漫的因素,而是我甘愿卑微自己、成全对方的牺牲行为。若耶稣坚持自己的威严或权利,就不会去为门徒洗脚。但祂甘心自降为仆。结果,门徒真实看到了主所教导的服侍究竟是什么。张大卫牧师说,我们必须把这一事件应用到当今教会和信仰群体的生活中。若教会里也按照职分、地位、年龄、社会身份或经济状况来分高下,并滋生骄傲,彼此想要被服侍而非主动去服侍,那就无法成为主所盼望的教会。门徒在争“谁为大”的光景不应重现在我们身上;我们更应记住耶稣所作的榜样,去彼此洗脚,才可能形成真正纯洁的团契。 有句话说,“爱是不会因为外在条件而改变的”。哪怕对方的反应并不尽如人意,甚至背叛或误解你,真正的爱依旧会承担到底。在约翰福音13章的叙述中,耶稣明知犹大将要出卖自己,却仍然为他洗脚。从人的角度看,这几乎无法理解,可耶稣却走了这条道路。张大卫牧师将其称为“天国的悖论”,因为在世人看来,报复与仇恨、以牙还牙才理所应当,但在神的国度里却是涌流恩典与饶恕、舍己与爱。所以耶稣说:“你们称呼我夫子,称呼我主,你们说得不错,我本来是。 我是你们的主、你们的夫子,尚且洗你们的脚,你们也当彼此洗脚。”(约13:13~14)张大卫牧师指出,这里“你们也当彼此洗脚”的命令,正是教会群体和信徒在日常中要践行的核心——也就是“门徒彼此之间、弟兄彼此之间,以服侍的姿态生活”,而在这样的服侍中,耶稣的荣耀就会彰显。 当然,这绝非易事。爱往往需要大量的牺牲。耶稣所说的“谁愿为大,就必做用人;谁愿为首,就必做仆人”这一悖论,人性的本能并不容易接受。谁都想被高抬、被肯定、被尊崇,而非自降为卑。可耶稣却吩咐:“你们中间不可这样”(太20:26)。如果我们跟随基督的福音,就必须用神的方式、而不是世俗的方式思考和行动。张大卫牧师将这一点称为“价值观的终结”:旧人的价值观要完全结束,才会开启新人、真门徒的价值观;这意味着不选择世人眼中所谓更高的位置,而是选择在神眼中更有价值的道路,而这条道路往往就是苦难之路,同时也会带来祝福。 在与门徒共度的最后晚餐上,耶稣分饼与酒时说:“这是为你们舍的我的身体,你们要如此行,为的是纪念我”(路22:19)。对此,张大卫牧师提醒我们,耶稣的自我牺牲并非停留在某种抽象教义或理论教训上,而是极为具体且真实的事件。饼代表耶稣的身体,杯中的酒象征祂的宝血,寓意耶稣为门徒,也为全人类的救赎,真实地经历了身体撕裂、鲜血流尽。可是在如此庄严的时刻,门徒仍在争执谁的地位更高,显然他们并未真正领悟主的苦难与牺牲。然而耶稣并没有放弃他们,仍然教导到最后,让他们站立在正确的位置上。张大卫牧师说,透过这种对门徒的守护与带领,我们也应当意识到,尽管自己软弱不足,但仍能在神的爱中重生与更新。 特别是教会对于“苦难”有责任做出正确的教导,张大卫牧师对此格外强调。许多信徒仍将苦难误解为“被神抛弃”或“神的刑罚”,但圣经多处告诉我们完全相反的视角。耶稣之所以“爱他们到底”,同样意味着在苦难中仍有神的深刻爱和掌权,它会使我们的信心如精金般被熬炼,也使我们更深地学习爱,走上效法基督的道路。保罗在多卷书信中,以及彼得的劝勉,都宣告苦难能成为我们的喜乐之源,因为我们会在其中发掘真正的盼望。张大卫牧师说:“与基督同死、也与基督同复活,正是信仰最终的果实。”在这份爱里,我们才能享受永远的生命。 再次回到约翰福音13章,耶稣在开始走向那悲惨的十字架之时,向门徒展示的第一个动作便是为他们洗脚这一事让人印象深刻。主明知自己将要离开世界、回到父那里,却依然为门徒预备了最后的晚餐,替他们洗脚,以仆人的身份彰显“爱的榜样”。张大卫牧师在此指出:“当时对耶稣而言是何等紧迫的关头,但祂不是只顾自己,而是将门徒召集起来,用爱唤醒并坚固他们。”这提醒我们,当我们的人生陷入苦难或逆境时,不应该沉溺于自怜或抱怨,而要祈求信心与决心,使我们能反过来关怀与服侍周围的人。 更进一步地,我们也需留意门徒对耶稣洗脚的反应。其中彼得喊道:“主啊,你永不可洗我的脚!”(约13:8)但当耶稣告诉他“我若不洗你,你就与我无分”时,彼得立刻转变说:“主啊,不但我的脚,连手和头也要洗!”(约13:9)。耶稣随即说:“凡洗过澡的人只要把脚一洗,全身就干净了。”这意味着即使门徒因信主而已经得着了洁净,但在日常生活中仍会因各种罪性或软弱而沾染尘垢,需要不断地悔改与洗净。张大卫牧师说,这也提醒我们,每位得救的基督徒都应当天天省察自己是否再次沾染罪恶的尘埃,需通过悔改重新得洁净。而当这种悔改在彼此服侍、彼此相爱的教会群体里展开时,便能结出更丰盛的果实。 在洗脚结束后,耶稣对门徒说:“我向你们所做的,你们明白吗?”(约13:12)张大卫牧师指出,这个问题如今同样摆在我们面前:“我们真的明白耶稣所做的吗?能否真正领悟祂的服侍与爱,以及十字架的意义?”只有明白了,才能去实践;只有领悟了,才能传扬。因而他也提醒教会,若只是忙着活动或组织运作,或只在意数字层面的增长,却忽略了耶稣“所行之事”的本质,就谈不上真正的认识。耶稣的洗脚事件不仅是一幕“慈悲”的场景,更是诠释门徒之道、宣告教会存在理由的象征——也就是约翰福音13章34节“我赐给你们一条新命令,乃是叫你们彼此相爱;我怎样爱你们,你们也要怎样相爱”这“新命令”的基石。 此外,耶稣在洗脚之后还说:“我给你们作了榜样,叫你们也照着我所做的去做。”(约13:15)张大卫牧师强调,这句话里有一种非常明确的命令口吻。耶稣并不是在给门徒提供一个可以选择的建议,而是作为门徒必须顺服的吩咐。爱不是理论,而是需要落实在行动之中;服侍不是口号,而要真实地做出来。因此,教会要以“彼此洗脚”的方式,将耶稣的爱彰显给世人,并通过这样实际的见证来传播基督的福音。最终,爱与苦难不可分离。要服侍别人,必定要付出我自己的代价;要抬高别人,就得先降低自己;要遮盖别人的罪与缺失,就要先学会理解与忍耐。在这个过程中,我们会感到疼痛和不易,也需要不断破碎自我。但这正是耶稣所走的道路,引领我们通向十字架。 通过耶稣最后晚餐与洗脚事件的综合含义,我们对“爱”有了更加清晰的认识。爱从来不只是感官的愉悦或简单的好意,而是包含了献身与牺牲,甚至承担背叛与误解。耶稣“爱他们到底”,也意味着我们也要操练“爱人到底”的能力。我们凭自己的人性或意志力根本做不到,唯有依靠圣灵的帮助。然而只要我们立志走在这条爱之路上,耶稣的灵就会在我们里面动工,让我们能坚持到底。教会要作为基督的身体,在世上成为光和盐,正是要透过这种爱的实践来证实福音的真实与大能。 张大卫牧师提醒说,若我们只是害怕苦难、逃避苦难,就不可能在这样的爱中成熟。苦难既能显明我们对爱的真实程度,也能在爱里炼净我们。耶稣走向十字架的道路中,遭遇门徒的背弃、犹太宗教领袖的诬陷、士兵的戏弄和鞭打、以及残酷的折磨,这些都接踵而至。但正是在“爱他们到底”的宣告下,这些痛苦才凸显了爱的极致。如果没有爱,耶稣绝不会选择十字架;正因为有爱,祂才甘愿受难,以成就我们的救恩。而这也正是教会和信徒被召的意义:即使世界拒绝或恨恶,我们仍有基督的爱在我们里面,使我们能胜过苦难。 值得注意的是,“爱他们到底”不仅有消极意义上的“不放弃”,也有积极意义上的“竭尽全力看顾与守护”。在最后的晚餐之后,当耶稣在客西马尼园祷告时,依旧记挂门徒的软弱,嘱咐他们“总要警醒祷告,免得入了迷惑”。张大卫牧师将此视为耶稣“爱到底”的延伸——祂在即将面对十字架的恐惧中,仍然专注关心门徒的灵魂状况,提醒他们不要失脚。这就展示了爱最终的样式。若我们仰望这样一位耶稣,当我们走到极限时,也能想起这位“即使如此也不停下爱”的主。 张大卫牧师还提到,耶稣在为门徒洗脚后不久,便宣告“你们中间有一个人要卖我”(约13:21),也就是在这最美好的爱的场景之后,紧接着出现背叛的预告。对我们而言,这完全是个难以想象的反差。但耶稣既然早已知道,却仍为犹大洗脚。张大卫牧师指出,这才是超越人间权谋或情感算计的“神性之爱”的真谛。若换作我们,当知道有人要背叛自己,必定不会与之善言相待,甚至想方设法避免他实施背叛。然而耶稣却容许犹大离开,直到最后依然给他机会。结果如何,成为犹大自己的责任,但耶稣的爱并没有因此对他关闭。对耶稣来说,“爱到底”就意味着在最现实、最痛苦的层面上也不收回那份爱。 既然爱伴随苦难,如果教会不教导苦难,就必然失去爱的本质。倘若教会只强调不受苦、一帆风顺,就会与耶稣所示范的十字架之路背道而驰。没有十字架就没有复活,没有苦难就没有荣耀,这在基督的教导中是不变的真理。因此,四旬期不是只有悲痛与缅怀,而是要更深地默想基督的苦难与爱,并在其中省察自身是否愿意效法祂去活出这样的爱。而这份决心也不能只局限在四旬期,复活之后,教会仍当不断实践。张大卫牧师说,教会的使命就是“将这爱带给世界,将耶稣的服侍与牺牲见证给一切在苦难中的人”。 约翰福音13章1节“逾越节前,耶稣知道自己离开这世界归到父那里去的时候到了,就爱世间属自己的人,并且爱他们到底”,可谓耶稣地上事工尾声的序曲,也成为祂在苦难过程中一切行动的注脚。耶稣与门徒吃了最后的晚餐,为他们洗脚,然后被捉、受苦、被杀、复活。这一切都被“爱”这条主线贯穿。张大卫牧师说:“若不‘爱到底’,就不是真正的爱。”只有爱到底,才能在苦难中仍紧紧相拥,并且在苦难中期待复活的荣耀。这正是基督教信仰的核心。事实上,耶稣在约翰福音17章的祷告中也为门徒代求:“求你用真理使他们成圣。”甚至在被捉拿时,耶稣直接对前来逮捕的人说“我就是”,毫无抵抗,完全顺服了神的旨意,也彰显了爱。虽然门徒会暂时软弱、分散,但主早已预见他们将来会被再度聚拢和坚固。 张大卫牧师强调,当今教会与信徒在默想这段经文时,应当意识到:我们也必须走上同一条道路。如果我们称呼耶稣为“夫子、主”,就当照祂的榜样彼此洗脚。若教会里的人因地位、职分或金钱而要求被服侍,却不愿服侍别人,就与主的教导背道而驰。耶稣用服侍彰显真领导力,所以无论是教会领袖还是一般信徒,都应当有服侍的姿态。张大卫牧师说:“‘谁愿为大就必做用人、谁愿为首就必做仆人’的教导,是维系教会属灵秩序的根基。”当这种秩序扎根于教会,教会就能放射出与世界迥然不同的光。世界是互相攀比高下,而教会却要彼此谦卑服侍。如此,人们会真切地体会到基督福音的真实性。 张大卫牧师根据约翰福音13章给出的信息非常明确:耶稣爱属自己的人,并且爱他们到底;祂以实际行动彰显了这份爱,在过程中从不逃避苦难,反倒以爱忍受苦难,并通过这样的道路成就了人类的救赎。我们若是基督的门徒,也当走同样的爱之路、服侍之路、苦难之路,并在这条路上同得复活的荣耀。也许我们如今仍像门徒那样会争执“谁更大”,或对耶稣的教诲无法充分领悟,但关键在于主依然“爱我们到底”,并且透过圣灵与话语不断教导、带领我们。我们需要做的就是顺服这爱,在日常生活中彼此洗脚,永不停止这份实践。因为这正是教会的本质,也是我们应持守的价值。 因此,四旬期的默想并不限于此时此刻,而要贯穿我们每一天的生活。当我们再次回望耶稣基督的苦难与爱,以及祂“爱到底”的服侍,我们就需要放下自己错误的价值观,以神国的价值武装心思。世人依旧视权力、财富与名誉为至高,但耶稣却为我们舍命、降卑为仆,且以祂的复活荣耀宣告这才是真理。所以,当我们放下自我追求,转而去抬举别人、为他人洗脚时,我们才真正拥有了耶稣门徒的生命样式。张大卫牧师说:“首先要记得,我们都是在耶稣的爱中被洗净了罪的人。”然后,每天都为这洁净的恩典感谢神,并甘心去服侍他人。当一个教会充满这种“彼此洗脚”精神时,就不会有“谁大谁小”的纷争,取而代之的是彼此尊重、彼此鼓励,这样的见证会让世人看见耶稣确实是又真又活的主。 约翰福音13章的核心经节——“逾越节前,耶稣知道自己离开这世界归到父那里去的时候到了,就爱世间属自己的人,并且爱他们到底”,既是耶稣踏入苦难的序幕,也是祂在为门徒洗脚这件事上最深刻的“爱之表达”。两千年来,教会一直不断地重温、传讲并实践这段经文。张大卫牧师说,这正是我们绝对不能遗忘的福音精髓,也是教会存在的根本理由。如果我们在四旬期以及每一天都能默想此情此景,我们也能效法耶稣的爱与服侍,为彼此洗脚。正是无数次“甘心背起彼此的重担与苦难”的爱汇聚在一起,教会才能真正成为主的身体,发挥应有的功用,也使世界渐渐沐浴在基督的光里。正如耶稣曾“爱我们到底”,我们也要以“爱到底”的方式去爱他人——这是基督徒的终极使命,也是福音所蕴藏的奇妙大能。唯有这样“爱到底、服侍到底”,我们才是真正顺服主的人,并且在其中预先品尝神国的荣耀。等到那日,主也要对我们说:“好!你这又良善又忠心的仆人。”这正是张大卫牧师所教导的核心。 www.davidjang.org

四旬節の十字架黙想 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章の御言葉を通して、イエス・キリストの苦難と愛、そして弟子たちに対する仕えの姿勢を深く黙想すべきであることをたびたび強調してきた。特に四旬節(サスンジョル)の期間には、キリストの苦難にいっそう近づき、その苦難がなぜ愛であるのかを悟る時間とすべきだと説く。ヨハネの福音書13章1節の「さて、過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くご自分の時が来たことを知り、この世にいるご自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛された」という聖句は、イエスが地上での宣教を締めくくられる直前、弟子たちに示された“最後まで愛する”姿勢の出発点である。 張ダビデ牧師は、この場面でイエスが示された態度と愛の実践こそ、私たちにも同様に求められる弟子道の核心であると教える。そしてそれを辿っていくならば、イエスがなぜ最後まで愛されたのか、その愛が何を内包しているのかを自然に理解することができるという。なぜなら、愛は苦難であり、その苦難が十字架へと続くからである。イエスが弟子たちを最後まで愛されたとは、彼らのために十字架に至るまでご自分を低くし、仕える立場に立たれたことを意味する。そしてこの愛を通して私たちに「愛は決して呪いではなく、祝福であり、命を得る道」であるという真理が宣言される。パウロが語った「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(Ⅰコリント13:13)という言葉のように、愛こそがすべてを完成させる鍵であり、この愛が私たちを永遠の命へと導くのだという。  張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章から続く19章までの記録を見れば、イエスが十字架の道へ入られる前に、どのような心構えと態度を持たれていたのか、どのように弟子たちを教え、世話をし、最終的にどんな決断で従われたのかを詳しく知ることができると語る。ヨハネ13章からイエスの苦難が本格的に始まるが、その始まりにはいつも愛が置かれている。「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という宣言は、イエスがなぜ苦難を避けられなかったのかへの明確な答えとなる。愛ゆえに、最後まで愛するがゆえにイエスは苦難を引き受け、それが私たちの救いのために不可欠であることを自ら示されたのだ。 張ダビデ牧師は、この事実が私たちの信仰生活においても非常に重要だと強調する。私たちは時に苦難を呪いや刑罰としてのみ捉え、神が私たちを「懲らしめている」のだと考えがちである。しかし実際には、苦難の中には神の深い愛と摂理が織り込まれており、それが最終的に私たちをより成熟させ、聖なる者へと造り変えていくのだという。  聖書の各所には、苦難の益や苦難へ参与すべきことが何度も語られている。たとえば詩編119編では「苦しみに会う前には私は迷い行きをしていました。しかし今はあなたの仰せを守ります」「苦しみにあったことは私にとって幸いでした。それによって私はあなたのおきてを学ぶようになりました」と告白し、苦難がむしろ霊的成長をもたらすと告げている。またローマ書5章3〜11節のパウロの告白は「わたしはキリストと、その復活の力とにあずかり、その苦難にあずかることを知りたい。そしてその死のありさまにあやかって、何とかして死人のうちからの復活に達したい」というように、苦難を通してキリストをいっそう深く知りたいという熱望を示している。コロサイ1章24節の「今や私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜び、キリストの苦難の欠けたところを、その体である教会のため、私の肉体に満たしているのです」や、Ⅱテモテ1章8節の「福音のために苦しみを受けよ」、Ⅱテモテ2章3節の「あなたはキリスト・イエスの立派な兵士として私と共に苦しみにあずかりなさい」、そしてⅠペトロ2章20〜21節、4章13節などにもキリストの苦難への参加を求める命令が繰り返し出てくる。これらのみ言葉はすべて、苦難は決して避けるべきものではなく、むしろ喜んで受け入れ、その中でキリストの道を学び、従うべき重要な霊的真理を提示している。  張ダビデ牧師は、これら聖書の教えを土台として、イエスが弟子たちの足を洗われたヨハネ13章の出来事こそ「愛の内に含まれた苦難」の代表的な例だと説明する。私たちはしばしば愛を語るが、愛は決して言葉だけで完成するものではない。愛するということは、相手のために自分を差し出すこと、相手が当然受けるはずの私の仕えを喜んで担うことである。イエスは弟子たちと最後の晩餐をともにされたその席で、立ち上がり上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻いて、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗われた。これは当時の文化において、しもべが主人や来客の足を洗う行為と同じであり、徹底的な「低いところでの奉仕」を意味する。しかし弟子たちはその前に互いに争っていた。「誰が一番偉いのか」という問題で意見が対立し、中には主の御国で右と左の座に就かせてほしいと願う者までいた。それはすなわち「自分が他人よりも高く評価されたい」という願望を示すものだった。 張ダビデ牧師は「このように弟子たちが世の価値観を抱いて高くなろうとしたがゆえに、イエスは逆に最も低い地位に立つことで、弟子たちに神の国の真の法則を自ら体現して示された」と解説する。  主が見せてくださった神の国の法則は、世の価値観と徹底的に反対である。世は「より高い地位、より大きな権力、より多くの名誉」を求めるが、イエスは「より低い地位、より小さな権力、より謙った姿」で仕えよと教えられる。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は仕える者となり、あなたがたの間でいちばん上になりたいと思う者は、みなのお世話をする者とならねばならない」(マタイ20:26〜27)との言葉の中で、イエスは新しい秩序を宣言された。人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、その仕えは自らの命をあがないの代価として捧げるところにまで至るのだ。 張ダビデ牧師は、イエスが語られた仕えの道は決して容易ではなく、それはすなわち自我の死と苦難を伴うものであると強調する。しかしキリストの弟子として私たちがその道を歩むとき、はじめて真の命、真の喜び、復活の力を体験することができる。世の論理では到底理解できない「下る道が上る道になる」という逆説が、神の国の中では真実となるのだ。  ヨハネの福音書13章全体の流れを見ると、イエスはご自分に迫っている十字架の運命をすでに知っておられた。張ダビデ牧師は「イエスは、この世を去って父のみもとに行く時が来たことを知り」(ヨハネ13:1)という御言葉が、まもなく始まる苛酷な苦難と死の時を明確に認識しておられたことを示唆していると言う。しかしそのような状況にあっても、イエスはご自分の者たちを最後まで愛された。「最後まで」という表現には「完全に、徹底的に、永遠に」という意味が含まれる。それは単なる一時的な感情や一過性のケアではなく、十字架ですべてを差し出すまで確固として進められる愛である。張ダビデ牧師は、この事実こそクリスチャン生活の核心だと力説する。私たちは苦難に直面するとき、しばしば自分のことだけに没頭してしまう。自分の心配、自分の置かれた状況、自分の問題に囚われ、他人を顧みる余裕を失う。しかしイエスは十字架の痛みが目の前に迫っていても、むしろ弟子たちを集めて最後の晩餐を設け、彼らを教え、慰め、仕えられた。これこそ真の愛であり、私たちが見習うべき姿だ。  その愛の頂点が足を洗うという出来事で表れる。当時のパレスチナの道はほとんど舗装されていない土の道であり、履物もせいぜい現代でいうサンダル程度、あるいはさらに貧しい人々は裸足で歩くことも多かった。一日中、埃まみれの道を歩けば足が汚れるのは当然なので、家に戻ると水で洗う風習があった。誰かが夕食に招かれたなら、しもべがその客人の足を洗ってもてなしを示した。しかし最後の晩餐の席、しかもイエスが弟子たちと共に過ごす厳粛で大切な瞬間に、弟子たちは「誰が偉いか」を争い、誰も足を洗うしもべの役割を引き受けようとしなかった。そこでイエスが直接上着を脱がれ、腰に手ぬぐいを巻き、弟子たちの足を洗われたのである。 張ダビデ牧師は「これはイエスが口先だけの仕えを唱えられたのではなく、それをはっきりと示す行動をとられた」ことを顕著に示す出来事だと言い、主が弟子たちに教えられたことが実際の生活にどのように具現されるか、その実演を自ら行なわれたと解釈する。主の生涯は御言葉そのものであり、その御言葉が行動となって現れる姿こそ、私たちが絶えず黙想し、見習うべき弟子道のエッセンスだと語る。多くの人々が愛を説き、仕えを教え、分かち合いを唱えるが、実際にその生き方をしていない場合は多い。しかしイエスは語られたとおりに行動し、さらには死の瀬戸際にあっても他者に仕える姿でご自分を差し出された。これが十字架へと至る道であり、同時に愛の道だった。私たちがこの愛の道をいっそう深く黙想し、実践すべきことを、張ダビデ牧師は四旬節だけでなく日常のすべてにおいて決して見失ってはならないと再三強調する。  このように愛は苦難を伴う。単に美しい感情や映画が描くロマンチックな要素ではなく、自分を徹底的に低くして相手を高くするために払う犠牲的行為が愛であるということ。もしイエスがご自分の威厳や権利を主張されていたなら、弟子たちの足を洗う理由はまったくなかったはずだ。しかしイエスは自ら進んでしもべの位に降りられた。その結果、弟子たちは言葉だけで聞いていたイエスの教えを目で直接見て、真の仕えの意味を体得することができたのである。 張ダビデ牧師は、この出来事全体を今日の教会や信仰共同体の生活に適用すべきだと力説する。教会の中でも、職分や役割、年齢や社会的地位、あるいは財政的条件などによって高慢が生まれ、「仕えを受けたい」という思いが大きくなれば、決して主が望まれる共同体をつくることはできない。かつて弟子たちが互いに高くなろうとした姿を、現代の私たちが繰り返してはならず、むしろイエスの行動を思い起こし、それに倣うことで、互いの足を洗い合う純粋な交わりが実現されるべきだというのだ。  愛は結局、相手からの影響を受けないとも言われる。相手がどう反応しようと、たとえ自分を裏切ったり誤解したりしても最後まで責任をとるのが愛だ。ヨハネ13章を読むと、イエスはイスカリオテのユダがご自分を裏切ることをすでにご存じであったにもかかわらず、彼の足も洗われたことがわかる。これは人間的な観点では到底理解しがたい決断だが、イエスはそういう道を選ばれた。 張ダビデ牧師は、これこそが「神の国の逆説」だと呼ぶ。世の中では報復や憎しみ、傷つけあいの連鎖が自然に起こるが、神の国ではむしろ恵みと赦し、自己犠牲と愛が溢れる。だからイエスは「あなたがたは私を先生また主と呼びますが、それは正しいことです。実際そのとおりだからです。それなのに、主であり先生であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:13〜14)と語られた。張ダビデ牧師は、ここで「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」という命令こそ、教会共同体と信徒が日常において実践すべき核心だと主張する。それは「弟子が弟子に、兄弟が兄弟に、互いに仕える生き方」をすることであり、その仕えの中でイエスの栄光が現れるからだ。  もちろんこれは容易いことではない。愛は驚くほど多くの犠牲を要求する。イエスが語られた「偉くなりたい者、いちばんになりたい者は仕える者となり、しもべとならなければならない」というこの逆説は、人間の本性が受け入れ難い部分である。誰しも自分が高く評価されたい、認められたい、他人よりも優位に立ちたいという欲望があるからだ。しかしイエスは「あなたがたの間ではそうであってはならない」(マタイ20:26)と仰せられた。私たちがキリストの福音を信じて従うならば、世のやり方ではなく、神のやり方で考え行動しなければならないということだ。 張ダビデ牧師はこれを「価値観の終末」と表現する。古い人の価値観が完全に終わりを迎え、新しい人の価値観が始まってこそ、本当の弟子になれるのだと言う。世の目で高いと考えられる場所ではなく、神がご覧になって価値ある生き方の場所を選ぶこと、それこそが苦難の道であり、同時に祝福の道でもある。  イエスは弟子たちとの最後の晩餐でパンとぶどう酒を分け与え、「これはあなたがたのために与える私のからだである。これを行なって私を覚えていなさい」(ルカ22:19)と仰せになった。張ダビデ牧師はこの場面について、イエスの自己犠牲が単なる理論的教義や教訓ではなく、きわめて具体的で現実的な出来事であることを肝に銘じるべきだと説く。パンはイエスのからだを、ぶどう酒はイエスの血を象徴する。それはイエスが弟子たちのため、また人類の救いのために実際に身を裂かれ、血を流された事実を記念するものだ。ところが、この厳粛な瞬間でさえ弟子たちは自分の権利や地位を気にかけ、「誰がより大きいのか」をめぐって争っていた。これは彼らが主の苦難と犠牲を完全には理解できていなかったことをよく示している。しかしそれでもイエスは彼らを捨てることなく、最後まで教え、元の位置に立ち返らせてくださった。 張ダビデ牧師は、こうして弟子たちを最後まで見捨てずに導かれたイエスの愛を見れば、私たちもたとえ弱く欠けていても神の愛のうちに新しく生まれることができると悟らねばならないと強調する。  特に教会は、苦難について正しく教える責任を担っていると張ダビデ牧師は力を込めて語る。多くの信徒がいまだに苦難を「神に見捨てられた証拠」あるいは「神の刑罰」として誤解しているが、聖書の多様な本文が語るところはまったく異なる視点である。イエスが私たちを最後まで愛してくださったように、私たちも苦難を通して信仰が精錬され、愛をさらに深く学び、キリストに似る道を歩むようになる。パウロの多くの書簡やペトロの勧めは、苦難がかえって私たちの喜びとなり、その苦難の中で私たちが真の希望を見いだすのだと宣言している。 張ダビデ牧師は「私たちはキリストとともに死にあずかり、その復活の力にもあずかることこそ、信仰の究極の実りだ」と教える。そしてその愛のうちでこそ、私たちは永遠の命を得るのだという。  ヨハネ13章に再び目を向けると、イエスが悲惨な十字架へ向かう道に入られる直前、弟子たちに最初に示された姿が足を洗う場面であったことは非常に印象的だ。主は「いまこそ私はあなたがたを離れ、父のみもとへ行く時が来た。この世を去る直前だ」という事実を知っておられたのに、それでも弟子たちのために最後の晩餐を準備し、彼らの足を洗われた。それは自らしもべとなって「愛の手本」を示そうという意図が明白だった。 張ダビデ牧師は「イエスにとっては切迫した瞬間であればあるほど、ご自分だけに没頭するのではなく、むしろ弟子たちを目覚めさせ、霊的に立たせようとされるほどの愛があるとわかる」と述べる。そして私たちも人生の苦難や逆境が深まるほど自己憐憫や不平に陥るのではなく、むしろ身近な人々を顧みて仕えることができるような信仰と決断を求めて祈るべきだと助言する。  さらに、弟子たちが足を洗われる姿にどのように反応したかに注目する必要がある。特にペトロは「主よ、あなたが私の足を洗うなど、とんでもありません」と叫んだが、イエスが「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関わりもないことになる」と言われると、すぐに「主よ、それなら足だけではなく、手も頭も洗ってください」と言い換える(ヨハネ13:8〜9)。ここでイエスは「すでに身体を洗った者は、足以外に洗う必要はない」と教えられ、霊的にはすでにきよめられた弟子であっても、日々の歩みの中で付着する罪や過ちを洗うことが必要であることを示唆された。 張ダビデ牧師は、この箇所から、私たちがイエス・キリストを信じて救いを受けたとしても、日常生活の中で足が汚れるように罪に染まることがあるため、日々悔い改め、洗い清められるべきだという大切な教訓を得られると強調する。そして、その悔い改めのプロセスもまた、互いに仕え愛し合う共同体の中で行われるとき、豊かな実を結ぶのだと付け加える。  イエスが弟子たちの足を洗う出来事が終わると、主は「私があなたがたにしたことがわかりますか」と問われた(ヨハネ13:12)。張ダビデ牧師は、このイエスの問いかけが現代の私たちにも同じように投げかけられていると見る。「本当にイエスのなさったことを知っているのか。その仕えと愛、そして十字架の意味を正しく悟っているのか」という問いである。知るからこそ行動でき、悟るからこそそれを伝えられる。だから張ダビデ牧師は、もし教会がこの本質を見失い、プログラムや組織運営、数的成長のみを追求するなら、「イエスがなさったこと」を知っているとは言えないのではないかと指摘する。イエスの足洗いの出来事は単なる一度きりの慈悲深い行為ではなく、弟子道を定義する象徴であり、教会共同体が存在する理由を宣言する予表である。すなわち「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい戒めの土台を具体的に示すモデルなのだ。  また、イエスは足洗いのあと、弟子たちに向かって「私があなたがたにした通りに、あなたがたもするように」と命じられた(ヨハネ13:15)。張ダビデ牧師は、この命令の口調が非常に断定的であることを強調する。イエスはこれを選択や提案ではなく、弟子ならば必ず従うべき命令として下されたのだ。愛は理論ではなく実践であり、仕えは言葉ではなく行動である。だから教会は互いに足を洗うことでイエスの愛を世に示し、その結果としてキリストの福音が証しされるべきだというのが、張ダビデ牧師の中心的な教えである。結局のところ、愛と苦難は切り離せない関係にある。他人に仕えようとすれば自分が犠牲を払わねばならず、他人を高めようとすれば自分が低くならねばならない。他人の罪や過ちを覆おうとすれば、まず自分が理解と忍耐を示さなくてはならない。その過程は時に痛みや困難を伴い、私たちの自己を絶えず砕く必要がある。しかしその道こそイエスが歩まれた道であり、十字架へと続く道なのだ。  このようにイエスの最後の晩餐と足洗いの出来事がもつ意味を総合的に見るとき、私たちは愛とは何かをより明確に知るようになる。愛は決して感情的な喜びや、単なる好意を超えたものである。愛は献身と犠牲を前提とし、ときに裏切りや誤解さえも甘受する行為だ。イエスが最後までご自分の者たちを愛されたように、私たちも誰かを最後まで愛する力を持たねばならない、と張ダビデ牧師は語る。もちろん人間的な意志や能力だけでは不可能であり、聖霊の助けが必要だ。しかし私たちがその道を歩む決心をするとき、イエスの御霊が私たちのうちに働き、その道を全うできるよう導いてくださる。教会がキリストのからだとして世の中で光と塩となるとは、この愛の実践を通して証明されるのである。  さらに張ダビデ牧師は、苦難を恐れたり回避しようとするだけでは、決してこうした愛の成熟には至れないと指摘する。苦難は最終的に、自分がどれほど愛しているかを炙り出す道具となり、同時にその愛を一層清める火ともなる。イエスが十字架へ向かわれる道中には、弟子たちの裏切り、ユダヤ人宗教指導者の謀略、兵士たちのあざけりや鞭打ち、そして凄まじい痛みが次々とあった。しかしそれらすべての状況こそが「最後まで愛された」という御言葉を最も劇的に示す装置となった。もし愛がなければイエスは決して十字架を選ばれなかっただろうが、愛があったがゆえにその苦難を自ら受けてくださり、私たちを救ってくださったのだ。これは教会と信徒が世に遣わされる理由とも重なる。たとえ世が私たちを憎み排斥しても、私たちの内におられるイエスの愛が、その苦難を克服する力を与えてくださるからである。  ここで注目すべきは、「最後まで愛された」という言葉には受動的な意味以上に能動的な意味が含まれているという点だ。イエスは単に弟子たちをあきらめずに「見捨てなかった」というだけでなく、さらに一歩進んで「積極的に最後まで彼らの世話を焼かれた」という意味を持つ。最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈られるときも、イエスは弟子たちの弱さを心配しつつ「誘惑に陥らないよう、目を覚ましていなさい」と忠告された。張ダビデ牧師は、この勧めもまた「愛の最後まで行く姿」として見ることができるという。主は十字架に至る苦しみと死の恐怖の前でも、弟子たちの霊魂の状態と、その信仰がくじけないよう促すことに集中された。これが愛の最終形である。私たちはこういうイエスの姿を思うとき、自分の限界を感じるときにこそ「それでもなお(にもかかわらず)」という言葉をもって愛をやめられなかった主を思い起こすことができるはずだ。  張ダビデ牧師は、足洗いの直後、イエスが「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と宣言された事実に注目すべきだと語る(ヨハネ13:21)。つまり、もっとも美しい愛の場面の後に裏切りの予告が続くのである。私たちが容易に納得しがたい逆説的な状況だ。しかしイエスはこの事実を知りながらも愛を引っ込められなかった。イエスの足洗いの中にはユダも含まれていたはずなので、結果的にイエスは裏切りの張本人の足までも自ら洗われたことになる。張ダビデ牧師は「これこそ、人間的な打算や感情を完全に超越した神的な愛の本質だ」と強調する。もし私たちが、自分を裏切る者をあらかじめ知っていれば決して黙って放置はしないだろうし、少なくとも好意的には扱えないだろう。しかしイエスは裏切りを阻止されず、ユダに最後まで恵みを与えられた。最終的に裏切りの報いを負ったのはユダ自身となったが、少なくともイエスの愛の中で彼に閉ざされた扉はなかったわけだ。これがイエスの「最後まで愛される」姿の具体的かつ痛ましい現実なのである。  愛が苦難を伴うゆえに、もし教会が苦難を教えないなら、愛の本質も失われるだろうと張ダビデ牧師は警告する。もし教会が苦難なくしてうまくいくことや順調さだけを強調するなら、イエスが示された真の十字架の道からはかけ離れてしまうおそれがある。十字架なき復活はあり得ず、苦難なき栄光はキリストの教えから外れるからだ。だから四旬節は、キリストの苦難を深く黙想し、その苦難の内にある神の愛を振り返り、私たちもその愛を倣って生きる決心をする期間となるべきである。そしてこの決心は四旬節に限定されることなく、復活の後も教会が継続して実践すべき課題である。張ダビデ牧師は、教会の使命は「その愛を世に知らせること、苦難を受けるすべての人々にイエスの仕えと犠牲を伝えること」だと教えている。  ヨハネ13章1節の「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という言葉は、イエスの地上での宣教の最後の局面を開く序曲であり、そのすべての苦難のプロセスを解き明かすキーワードとも言える。イエスは弟子たちとともに最後の晩餐をし、弟子たちの足を洗い、新しい戒めを与えられ、その後捕らえられ、苦難を受け、死なれ、復活される。このすべての流れは、愛という大きな柱で貫かれている。張ダビデ牧師は「愛すると言いながら最後まで愛さないのなら、それは真の愛とは言えない」と語り、最後まで愛することによって苦難さえも抱きとめ、その苦難の中で復活の栄光を望むことこそキリスト教信仰の核心だと力説する。実際、イエスはヨハネ17章で祈られるときにも弟子たちのために執り成し、「真理によって彼らを聖別してください」と願われた。さらにはご自分を捕らえに来た者たちにも直接「わたしがそれだ」と名乗り、抵抗されなかった。それほどに徹底して神の御旨に従い、愛をもって行動されたのだ。弟子たちの裏切りと逃亡を知りながらも、彼らを再び立ち上がらせることを期待しておられる思いがうかがえる。  張ダビデ牧師は、現代の教会と信徒がこの御言葉を黙想するとき、私たちも結局この道を歩まなければならないという自覚が起こるべきだと強調する。「もしあなたがたが私を先生、主と呼ぶならば、あなたがたも互いに足を洗い合うべきではないか」というイエスの御言葉を深く刻むべきなのである。教会の中で職分が高いからといって仕えを受けたがったり、世の権力や金銭、名誉に執着するならば、決して主の弟子として成熟することはできない。イエスが示された仕えの手本は、誰にとっても実践は難しいが、教会が存在する理由でもある。愛は私が引き受れるべき分であり、その分を通して主の栄光が現れる。このことを覚え、それぞれの位置で主の足洗いをもう一度再現するのが教会の使命だという。  弟子たちが誰が偉いかと論じ合っていたマタイ20章やルカ22章でも、イエスは「異邦人の支配者たちは人々を支配し、権力を振るうが、あなたがたはそうであってはならない」とはっきり語られた。これは今日の教会にも同じく当てはまる言葉である。イエスが仕えを通して真のリーダーシップを示されたのなら、教会の指導者であれ信徒であれ、すべて仕える姿勢を持つのが当然だ。張ダビデ牧師は、「偉くなりたい者は仕える者となり、いちばんになりたい者はしもべとならねばならない」というイエスの教えこそ、教会の霊的秩序を正しく打ち立てる基準だと説く。その秩序がきちんと立つとき、教会は世とはまったく異なる光を放ち始める。互いに高くなる世界ではなく、互いに低くなる共同体。それこそを通して人々は「イエス・キリストの福音が真実である」ということを体験的に悟るようになる。  張ダビデ牧師がヨハネ13章を根拠に示すメッセージは明確である。イエスはこの世にいるご自分の者たちを最後まで愛され、その愛を具体的に示されたうえで、その過程で苦難を決して避けられなかった。むしろ苦難を愛で耐え抜き、その道を通して人類の救いを成し遂げられた。私たちもキリストの弟子として召されたのなら、同じく愛の道、仕えの道、苦難の道を歩むべきであり、その道において現れる栄光は最終的に復活のような真の喜びとして私たちに与えられる。たとえ今は私たちも弟子たちのように「誰が偉いか」という争いに陥り、イエスの教えを十分に理解できないことが多いとしても、大切なのは主が変わらず私たちを最後まで愛してくださり、御言葉と御霊を通して私たちを導いてくださるという事実だ。私たちがすべきは、その愛に従い、日常生活の中で互いに足を洗い合う実践をやめないことである。これこそが教会の本質であり、私たちが追求し続けるべき価値なのだ。  四旬節の黙想期間だけでなく、日常のあらゆる場面で、イエス・キリストの苦難と愛、そして「最後まで愛される」仕えを思い返すとき、私たちは自分の誤った価値観を下ろし、神の国の価値観によってあらためて武装し直す必要がある。世は今もなお力や物質、名誉を最上とみなすが、イエスはご自分の命を捨てて私たちを贖われ、しもべの姿で生き抜かれ、復活の栄光によってそれが真理であることを証明された。だからこそ私たちは自分を顕すことより人を高くすることに注力し、互いの足を洗い合うしもべの心で生きるとき、初めてイエスの弟子と呼ばれる資格を得るのである。張ダビデ牧師は「何にもまして、まず私たちはイエスの愛のうちで自分の罪を洗い清められたことを思い出すべきだ」と語る。そしてその洗い清められた恵みを日々新たに感謝しつつ、他の人々に対しても喜んで仕えを実践するのだ。そうすることで、教会の中ではもはや「誰が偉いか」という争いではなく、互いを高め合い励まし合う美しい交わりが起こり、その姿を通して世の人々はイエスこそが真に生きておられる主であると発見するようになるだろう。  ヨハネ13章の核心句である「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という御言葉は、イエスの苦難が始まる序曲であると同時に、弟子たちの足洗いの出来事とともに「愛の最も濃厚な表現」を示す場面である。そしてこの物語は教会史2000年の間、数多くの信徒と教会によって繰り返し読まれ、教えられ、実践されてきた。張ダビデ牧師は、この場面こそ私たちが決して忘れてはならない福音の精髄であり、教会の存在理由そのものだと言う。四旬節はもとより、日常的にもこの場面を絶えず黙想するならば、私たちもイエスの愛と仕えを見習い、互いの足を洗う備えができるはずだ。そしてその小さな献身と苦難を分かち合う愛が積み重なることで、教会は主のからだとして完全な機能を担い、世はキリストの光によって少しずつ変えられていく。イエスが最後まで私たちを愛してくださったように、私たちも最後まで他者を愛することこそ、キリスト者の究極的な召しであり、福音の驚くべき力なのである。愛しつつ最後まで愛する生き方、仕えながらしもべの姿で仕える生き方こそ、イエス・キリストを信じる者に求められる真の従順であり、その中で私たちは神の国の栄光を前もって味わう。やがてそれは究極的に与えられる天国において、イエスが「よくやった、善良で忠実なしもべだよ」と称えてくださる瞬間への予告編でもある、と張ダビデ牧師は教えるのである。 www.davidjang.org

Lenten Meditation on the Cross – Pastor David Jang

Pastor David Jang has often emphasized, through the message of John chapter 13, that we must deeply reflect on the suffering and love of Jesus Christ, as well as His servanthood toward His disciples. Particularly during the Lenten season, he stresses that we should draw nearer to Christ’s suffering and realize why that suffering is … Read more