連合の神秘 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. アダムから伝わった罪と人間の実存の問題 ローマ書5章12節から21節において、パウロはアダムとイエス・キリストを対比し、それぞれが人類を罪と死のうち、あるいは義と命のうちに結びつける「代表」であると説明している。張ダビデ牧師は、このテキストを解説する際に特に「一人の人が罪を犯したことによって多くの人が罪人となり、もう一人の人の従順によって多くの人が命を得る」という論理を通じて、福音の力と「連帯性」の重要性を説く。この箇所は、キリスト教神学の重要なテーマである原罪論(Original Sin)とも直結するが、パウロはすべての人に罪が転嫁された理由が、まさにアダムという一人の人から始まったのだと教えている。 一般的に現代人は「アダムが罪を犯したからといって、なぜ私が罪人なのか?」という抵抗感を抱く。しかし聖書は、人間に普遍的に備わっている罪性(sinfulness)、つまり本質的に罪を免れることのできない状態が、最初の人であるアダムの不従順から始まったのだと宣言する。張ダビデ牧師は「私たちが実感する現実が、神が本来計画されたエデンの美しさとはかけ離れており、死が支配する不条理で暴力的な世界に生きているという事実こそ、すでに私たちが霊的に死んでいることを意味する。そしてその死の始まりがアダムの罪にあると聖書は証言している」と説明する。聖書によると、アダムは神の言葉を不信して不従順に至り、その不従順が罪の扉を開いて死と滅びが入り込むことになった。したがってアダムが代表として犯した罪の結果として、その後のすべての子孫が罪の傾向に感染し、それが人類に普遍的に苦痛と死をもたらす根本的理由だというわけである。 張ダビデ牧師は、人間が実際に罪を犯しているにもかかわらず、「なぜ聖書は『人間が罪を持たないなどとは言えない』とあれほど強調するのか」という問いに答える。罪と死に対する神の判断は、単なる道徳的な善悪のレベルを超えた「存在論的状態」だからである。私たちは「まだ生きているのだから死んでいない」と思うかもしれないが、パウロは霊的・究極的な次元で、すでに人間は死のうちにあることをはっきりと主張する。そういう意味で、原罪はすべての人間が逃れることのできない罪の軛(くびき)であり、私たちは生まれながらにして神の御心とは無関係の腐敗した世界に属して生きているといえる。 パウロは「罪は律法が与えられる以前から世にあった」と語る。ここで言う律法とは、モーセが神から授かった戒めの数々を指すが、その律法が与えられる前にも罪が存在していたのだとわかる。ただ、人々は明示的な法がなかったために、それが罪なのかどうかをはっきりとは認識していなかった。しかしカインがアベルを殺したことや、アダムが禁断の実を食べた出来事が明白に罪悪とされているように、律法が存在する以前から神への不信と不従順という行為はすでに罪だったのである。人間の良心は自然に「殺人や反逆、不従順は悪いことだ」と教えるが、具体的に律法が示されることによって、罪が「法的・公式的」に確定されるようになった。ただし、律法は人間を罪から完全に解放しない。律法は罪を「罪」としてはっきり暴き出す機能を持つが、罪そのものを取り除いたり救いを与えたりする力はないからである。 パウロはさらに、アダムからモーセまで―つまり律法が与えられる前の時代を指して―死が「王として君臨していた(王のように支配していた)」と主張する。死がまるで独裁者のような権威をもって人類すべてを圧倒していたというのだ。これは「人間は罪の奴隷になっている」というパウロの表現を想起させ、すべての人が自力では抜け出せない罪と死の横暴に直面していることを示す。張ダビデ牧師はこれを「罪と死の構造的支配、すなわちすべての人は律法がなくともどこかで罪と死に隷属している」という点として、現代の人々にわかりやすく説き明かす。社会構造や個人の道徳的な弱さだけでなく、さらに深い次元で人類全体が「死の力」のもとに束縛されていることを指摘し、それは結局、私たちがエデンの園から絶えず追放された状態で生きていることを証明する歴史的事実だと解釈する。 聖書はアダムを「来たるべき方のひな型(型)」とも呼ぶ。アダムが人類に決定的な影響を及ぼしたように、キリストもまた決定的な影響を及ぼす「第二の、または最後のアダム」の役割を担われるお方である。だからこそローマ書5章14節で「アダムは来るべき方の型である」と宣言したパウロの言葉は、最初の人アダムが罪の始祖としてすべての子孫に罪と死を転嫁したのと同様に、やがて来られる方(キリスト)は逆に、信じるすべての人に義と命をもたらすという意味を含んでいる。張ダビデ牧師は説教の中で、「私たちは毎日、自分の意思で『自分の人生』を営んでいると思うが、実はアダムの影響をもって生まれ、罪へと引かれるしかない運命のなかにいる。しかしもうひとり、新しいアダムであるイエス・キリストがこの支配を打ち破り、新しい命をもたらしてくださる」と強調する。この点こそが、パウロが力強く宣言する福音であり、罪と死という圧倒的な現実に新たな突破口が開かれた瞬間なのだ。 律法は「罪を増し加えさせる目的」、すなわち罪の実態をより鮮明に明るみに出すために入ってきたのだと、パウロは語る(ローマ書5章20節)。これが「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という有名な言葉に続く。どんなに罪が積み重なり、死がすべての人生を飲み込もうとも、それよりもさらに大きな権能をもって恵みが訪れるという意味である。張ダビデ牧師は「人間が自力では抜け出せない罪の軛が徹底的にあらわになるほど、逆に神の恵みがいかに広大で強力であるかがいっそう浮き彫りになる」と解説する。言い換えれば、律法が罪を明確にすればするほど、罪人である私たちはさらに大きな罪悪感と恐れに捕らわれるが、同時にキリストのうちに広がる恵みの世界がどれほど絶対的な力をもっているのかを悟るようになるのだ。 アダム一人によって人類全体が罪人となったという宣言は、個人主義的思考が強い現代社会ではなかなか受け入れがたいかもしれない。しかし聖書は繰り返し「連帯性」を強調する。共同体的な思考があまり馴染まない人であっても、「国家の代表がある条約を結べば、その国民全体が影響を受ける」という例を出すと理解はそう難しくないだろう。これは古代近東の歴史的・社会的背景においても、「一人」が代表性を担うとき、その影響が全体に及ぶという認識が当然視されていたことにも由来する。張ダビデ牧師は、原罪に対する拒否感の強い人々に対し、「この解釈は究極的に『新しいアダムであるイエスが成し遂げた義と命が、どのような仕方で私たちに転嫁されるのか』を説明する鍵となる」と力説する。つまり、もし私たちが受け入れがたいからといってこの代表性と連帯性の原則を認めないならば、福音が提示する救いの論理そのものも同時に拒否せざるを得なくなるというわけである。 原罪論は、人間が先天的にどうしようもなく罪の支配下にあることを語る。これはそもそも人間の自由意志や善行では決して完全には解決できない問題である。私たちはみな、生まれた瞬間から罪の束縛下にあり、倫理的・道徳的な善行だけでは真の義に達することができない。『決して私たちの力だけでは救いに至ることはない』というのが、プロテスタントにおける救いの核心であり、張ダビデ牧師の説教もこの観点から「原罪論に目を背けてはならない」と訴える。これは人間の弱さや無価値を強調するためではなく、キリストの救いがいかに絶対的で価値あるものであるかを明らかにするためなのだという点を、彼は明確に語る。 したがって、最初の小主題の結論は明快である。アダムによって始まった罪と死はすでに人類を掌握してしまった巨大な実存的問題であり、律法はその罪を浮き彫りにし、裁きを宣言することで私たちを窮地に追い込む。しかしこうした絶望的状況が、ただちに希望を覆い隠すわけではない。むしろ罪が明るみに出ることによって、私たちはキリストがもたらす恵みと救いの力に目を開くことになる。だからこそ、アダムから伝わった罪が不快で不合理に感じられようとも、これこそが人間の実存を解き明かす端緒であり、イエス・キリストの贖罪のみわざを理解するうえで欠かせない始発点なのだ。張ダビデ牧師は「アダムが開いてしまった罪の世界はあまりにも強固に見えるが、神はそれ以上に強力な恵みの計画を秘めておられた」と強調し、続いて第二の小主題であるイエス・キリストの従順と義の転嫁へと読者を導いていく。 Ⅱ. イエス・キリストの従順と義の転嫁 パウロはローマ書5章15節から19節のあいだで、アダムとキリストの対照を精巧に展開する。一人(アダム)の不従順によって罪と死が人類にやってきたのならば、もう一人(イエス・キリスト)の従順によって義と命がもたらされるというのである。張ダビデ牧師は説教や著作の中で「原罪(Original Sin)がアダムを通じて転嫁されたように、今度はキリストの義(Original Righteousness)が私たちに転嫁されたのだ」と解説する。こうして転嫁された義は、教会の伝統において「信仰による義認(以信称義、justification by faith)」の教理と結びついてきた。 ここでいう「一人の人イエス・キリストの従順」とは、十字架での代贖(だいしょく)的犠牲を意味する。パウロはコリント第一の手紙15章45節以下でも、最初の人アダムと最後のアダム(キリスト)を比較し、最初のアダムは「土(ちり)から出た者」であり、最後のアダムは「天からこられた方」だと宣言する。第一のアダムが生きた魂(a living being)となったのに対して、第二のアダムであるイエスは生かす御霊(a life-giving spirit)となった、とも述べる。生きた魂は自分自身が命を享受する存在だが、生かす御霊はその命を他者にも分け与える源泉を持つ存在である。だからパウロはイエス・キリストの死と復活が「私たちをも生かす力」だと強調する。張ダビデ牧師は「キリストの従順は、単なる道徳的模範を示したということではない。それは罪に陥った人類を永遠に生かす生命の源であり、神の義が私たちに転嫁される決定的な出来事なのだ」とまとめている。 原罪論から始まる「転嫁」の思想は、イエス・キリストの十字架の出来事によって「義の転嫁」という形で拡張される。アダムが罪を人類に転嫁したのは、その代表性によるものであり、キリストが御自分の成し遂げた義を私たちに転嫁してくださるのも同じ法理で理解される。代表であり頭(かしら)である方が成し遂げたことの結果が、彼に属するすべての者にそのまま及ぶのである。このとき張ダビデ牧師は「代表と連帯という概念は聖書全体に流れる重要な原理で、私たちには不合理に思えるかもしれないが、神はそもそも人類を共同体的存在として創造された。一つの体、一つの系譜、一つの共同体という意識が、キリスト教的世界観のなかで極めて中心的な位置を占めるからだ」と力説する。 神の救いの計画は、人間の無力さを暴き出す律法ののち、イエス・キリストのうちで完成に至る。律法が罪を明確にしたものの、その罪を解決はしなかったのに対して、イエスは罪の刑罰を自ら負い、私たちの代わりに死ぬことによって「私たちを義と宣言してくださる」道を開いてくださった。だからこそパウロはローマ書3章24-25節で「キリスト・イエスによる贖いにより、神の恵みによって無償で義とされるのである。神はこのイエスを、その血を通して信仰にもとづく宥めの供え物(贖いのいけにえ)として立てられた」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所において三つのイメージを引用する。第一に、奴隷市場で身代金を支払って奴隷を解放する「贖い(redemption)」の視点、第二に、法廷で無罪だと宣言される「義認(justification)」の視点、第三に、いけにえに関する概念として罪の代わりにいけにえが捧げられ罪を除く「贖罪(atonement)」あるいは宥めの供え物(propitiation)の視点である。これらすべての比喩がイエス・キリストの十字架の出来事に同時に含まれており、それはイエスが人類を代表して流された血と従順に基づいているのだ。 聖書のいたるところに現れる「祝福の連帯性」もまた、イエスの従順によって決定的に完成される。すでに旧約においてアブラハムとの契約が与えられた際、神は彼とその子孫を通して「諸国の民が祝福されるだろう」と約束された。この契約はアブラハム一人にとどまることなく、彼の系譜をたどってイスラエル民族全体、さらに全世界にまで至る祝福の継続性を語っている。張ダビデ牧師はこれについて「アブラハムと結ばれた契約は、新約の時代になるとイエス・キリストのうちで完全に成就する。イエスに属するすべての者、すなわちイエスを信じるすべての者に祝福が連帯的に伝わっていく」と解説する。ゆえにイエスの従順が歴史的出来事として一度生じたものの、その効力は時空を超えて信じるすべての人に同時に適用されるのである。 しかしこの義の転嫁は自動的に与えられるものではなく、信仰(faith)を通して私たち一人ひとりに個人的に適用されるという点が重要だ。パウロは「キリスト・イエスを信じることによって」義とされると宣言するが、これは代表であるイエスとの「個人的な連合(union)」が必要であることを意味する。張ダビデ牧師は「結局、アダムに生まれながら自然に入り込んできた罪は、私たちの同意にかかわらず適用される。一方、イエスの義は、私たちが信仰によって受け取ることによって私たちに転嫁される」と説明する。これが恵みの逆説である。人間は罪を遺伝的に受け継ぎ、否応なく罪人として生まれるが、同時にイエスは恵みによって私たちに義を贈り、この賜物を受け取る道は信仰を通じてであり、それは決して私たちの功績や努力によるものではない。 パウロが語る「罪が死の中で王のように支配したように、恵みもまた王のように支配して、私たちの主イエス・キリストによって永遠の命に導く」(ローマ書5章21節)という言葉は、要するにアダムの不従順よりもはるかに強力なイエス・キリストの従順が「王権」を置き換えたことを告げる。以前は死が支配していたが、今や恵みが支配するようになったのだ。張ダビデ牧師はこれを「福音は、単に罪を洗い清めるだけでなく、全く新しい支配体制を私たちの内にもたらす。私たちはもはや罪に隷属する民ではなく、『命』という王の統治を受ける神の国の民となる。これが核心である」と言う。 ローマ書5章18-19節においてパウロは「一人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人となったように、一人(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるだろう」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所を最も決定的な要約節だと指摘する。この言葉は罪と死の普遍性をそのまま認めつつ、それをさらに上回る義と命の普遍性を宣言するためである。イエス・キリストの従順がもたらす恩恵を妨げることは誰にもできず、その力と権威は、初めの創造から人類を誕生させた神が自ら計画した「種子(しゅし)の改良」と比喩できると彼は解釈する。不従順の種子が死と朽ち果てる実をもたらしたならば、従順の種子は義と命の実を結ばせるというわけだ。 旧約のイザヤ書53章に出てくる苦難のしもべの預言も、同じ論理を例示している。「彼は病を負い死に至るが、そこから『子孫』が生じる。この『苦難のしもべ』の死によって、新たな子孫、新たな民が誕生する」(イザヤ書53章10節)という箇所は、単に肉体的な子孫を指すのではなく、苦難のしもべの代贖的働きによって誕生する「霊的子孫」、すなわちメシアを信じて従う人々を意味している。張ダビデ牧師はこの言葉を「種子改良論」と呼び、私たちがアダムから罪と死の遺伝子を受け継いだのなら、今はキリストから義と命の遺伝子を継いだ「新しい人」として生まれ変わることができると強調する。ガラテヤ書2章20節にある「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という聖句は、これを神学的に要約したものである。私たちはアダムの子孫として生まれたが、イエスとの連合によってキリストの子孫、すなわち義と命に生きる者となったのだ。 結局、この第二の小主題は、イエス・キリストの従順とそこから転嫁された義が、どのようにして私たちを罪と死から解放し、新たな命の次元を開いてくれるのか、その答えを示している。アダムの不従順によって始まった罪と死の王国に属した私たちが、イエスの十字架と復活によって恵みと命の王国に移された、というのが要点である。そしてこれは信仰によって個々人の人生に適用されるのだ。張ダビデ牧師は「この驚くべき真理を単なる教理知識で終わらせるのではなく、日々の生活と信仰実践の中で実際に体現しなければならない。なぜなら私たちはもはや罪ではなく恵みに、死ではなく命に支配されているからだ」と言い、キリストにあって享受できる自由と解放を実践的に強調する。 Ⅲ. 代表理論と連合理論の実際的意味 ローマ書5章12-21節が提示する中心構造は、人類の歴史をアダムとキリストという二人の人物を通して解釈する点にある。これは神学的には「代表理論(Doctrine of Representation)」あるいは「連邦主義(Federal Headship Theory)」と呼ばれ、アダムは人類の頭(federal head)として罪を転嫁し、キリストは教会の頭として義を転嫁する、という説明に該当する。また「連合理論(Principle of Corporate Solidarity)」という関連概念もあり、私たちはアダムとも連合しており、キリストとも連合している存在だという聖書の教えがそこにある。 張ダビデ牧師は「一人の個人が歴史に莫大な影響を与えるのは、私たちの日常生活の中でも目にすることができる。国家元首が外交協定を結べば、その結果は国民全体に及ぶし、家族の代表者がひとつの決断を下すだけで家計が破綻したり繁栄したりすることもある」と述べ、この代表と連合の神学的原理が決して観念的な主張ではないことを説得力をもって提示する。実際、旧約に登場する例として、コラ(コラ)の反逆とその家族全体の滅亡、アカンの犯罪とそれに関連するすべての者たちへの処罰など、罪が単なる個人の問題で終わらず、共同体に連帯的に波及することが鮮明に描かれている。このように罪と処罰、祝福と恵みが特定の人物を通して全体に及ぶ構造は、古代の共同体社会においても当然のこととみなされていた。 この原理は同時に、福音の核心を説明する鍵でもある。アダムによる呪いがいかにすべての人類に及んだかを理解すれば、キリストによる救いがいかに信じる者たちに与えられるかも理解しやすくなる。代表者が行うことに、残りの構成員が連帯的に参加する構造だからである。張ダビデ牧師は「代表性と連合という言葉を、私たちは現実感覚をもって受け止めるべきだ。個人主義が蔓延する現代では、すべてを『私と神』だけの関係で考えがちだが、聖書は徹底して共同体的連帯を前提にしている。私たちは太初からアダムの中にあり、今はキリストの中にある。この二つのうちどちらかを選択すべきなのだ」と力説する。 パウロの言葉で言えば、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝」(ヨハネの福音書15章)というイエスの宣言を引用し、人間の生はどの「木」に接ぎ木されるかによって結ぶ実が変わる。アダムの木に接ぎ木されていれば罪と死の実を結ぶしかないが、キリストの木に接ぎ木されていれば義と命の実を得ることができるというわけだ。イエスのうちに「とどまる(abide)」という表現は、単に教会に通うとか礼拝に参加する以上の意味をもち、実際にイエスの生命力と力が私たちの内に働くように「連合」することである。張ダビデ牧師は「連合理論は神学的知識を超え、私たちの実存を変革する実際の力をもつ。アダムに属していたときには罪が当たり前だった。しかしキリストのうちにとどまるならば、その方の義、その方の愛、その方の力が私たちに流れ込み、まったく別の存在として生きられるようになる」と説く。 代表理論と連合理論を改めて強調する際、私たちはガラテヤ書2章20節の告白をしばしば引用する。パウロは「私はキリストとともに十字架につけられた。ゆえに、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と宣言するが、これはイエスとの連合を最も劇的に表現した例である。古い人(アダムに属する者としての私)はすでにイエスとともに死に、今やイエスの命が私のうちで動いているということだ。このように見るなら、キリスト教信仰は「イエスを信じて天国に行く」というレベルを超え、「今この瞬間、キリストにあって私は新しい被造物として生きている」という変容された自己理解を要請するものだといえる。張ダビデ牧師は「この自己理解こそが実際の生活を変える。日々の繰り返される日常の中で『私はアダムから来た罪人だから仕方がない』と自暴自棄になるのではなく、『私はすでにキリストと連合した義人だ』というアイデンティティを握りしめること。これこそ福音がもたらす力だ」と強調する。 聖書における代表と連合の概念をほかの例で示すならば、アブラハムを通して祝福が諸国へ流れるという約束や、エリヤが祈ったら全地に雨が降らず、また祈ったら雨が降ったという出来事もある。アブラハムやエリヤは個人だが、彼らが受けた契約や祈りの力が連帯的に周囲へ波及していく。同様に、イエス・キリストが新約における決定的代表となり、私たちには到底背負いきれない罪の重荷を代わりに担い、その結果としてイエスの義と命が私たちに連帯的に適用されるのが新約の福音の真髄だ。張ダビデ牧師はこれを牧会現場で「教会こそキリストの体として、頭である主と連帯し、その方の命と恵みを実践する共同体」であると再解釈する。教会を通してキリストの救いの業が広がり、また教会は互いに重荷を担い合い、ともに祈り礼拝する連帯的な生き方を示す。これらすべてが代表性と連合の枠組みのなかで理解されるべきだというのである。 では代表理論と連合理論は、どのような実際的な実を結ぶのだろうか。第一に、自己アイデンティティの変化である。私たちは生まれながらアダムの子孫だったが、イエスを信じたとき即座にキリストの子孫となる。自分が罪に取り込まれどうしようもないと感じる時でも、「すでにキリストのうちにあって新しい命を与えられているのだ」という意識が確固として根づけば、「罪がもはや私の人生を支配できない」という解放感を持つことができる。張ダビデ牧師は、この解放感こそが福音生活の出発点なのだと繰り返し強調する。 第二に、私たちに伴う帰属意識と共同体性である。アダムにあって私たちがすべての人類と結びついているように、キリストにあっては信じる者すべてが結びついている。聖徒たちはひとりひとりがバラバラの島ではなく、一つの体として互いに肢体(しだい)となる。この連帯的な教会観こそが聖書的であり、パウロがエフェソ書やコリント第一の手紙などで「私たちはキリストの体であり、その肢体だ」と述べるのと一致する。張ダビデ牧師は「代表理論と連合理論を理解すれば、なぜ教会生活が必要であり、どんな動機があるのかが一層はっきりする。私たちは頭なるイエス・キリストに繋がってこそ霊的な栄養を得て、また肢体同士が相互依存しながら成長していく存在なのだ」と教える。 第三に、罪に対する新たな態度である。過去には罪が自然なことであり、避けられないものであったとすれば、今や代表が変わった以上、罪を克服する可能性が開かれたと見る。もちろん依然としてこの地上では罪の誘惑を受け、失敗もあるだろうが、私たちのアイデンティティは「アダムにある罪人」ではなく「キリストにある義人」へと根本的に変わったのだ。だから罪に対して毅然と「ノー」と言うことができ、悔い改めを通して即座に神のみもとへ駆け寄る特権を享受できる。張ダビデ牧師はこれを「聖化(sanctification)の歩みにおいて大きな原動力となるのは、私がキリストと連合しているという事実である。イエスが私のために死んでくださったのだから、私も罪に対しては死んだ者とみなし、義の器として神に捧げなければならない」と語る。 結局、代表理論と連合理論は非常に抽象的な教理のように見えるが、実際には日常の信仰生活に深く関わっている。私たちが教会に集まり礼拝し、聖餐にあずかり、洗礼を通じて「キリストのうちへ入れられた」という事実を公に宣言するすべての信仰行為が、この理論と直結するのである。張ダビデ牧師は説教で「アダムが私たちの古い頭(かしら)であったなら、教会の頭はイエス・キリストである。頭が変われば、それに伴う支配と秩序、価値観も変わる。この事実を深く悟り、実践するとき、私たちは罪と死から解放され、恵みと命の支配のもとで生きる真の自由を味わうようになる」と説く。 ローマ書5章の最後の節(20-21節)に「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という言葉が登場する。これはパウロが最後に響かせる恵みの賛歌ともいえる箇所である。いかなる人も死の陰から逃れられなかった人類に対して、一人のイエス・キリストの従順が新しい門を開いた。パウロはこれを「まるで踊るように、恵みと命を賛美する歌」とも見なしうる。張ダビデ牧師もこの本文を解き明かしながら「罪が極まると嘆くとき、むしろ恵みはさらに大きく臨む。私たちはキリストの従順と義の転嫁によって罪の圧迫から解かれ、神のみ前へ大胆に近づけるようになった。これは人類史上もっとも革命的な知らせである」と宣言する。古い世界が過ぎ去り、キリストのうちにまったく新しい秩序が到来したことを示し、それが個人と教会、そして世界にどのような変化と希望をもたらすかを具体的・実際的に黙想しようと勧めるのだ。 最終的に、この本文の核心メッセージは明白である。アダムが開いた罪と死の歴史の上に、イエス・キリストが義と命の新たな歴史を開かれたという点だ。これは単なる神学的観念ではなく、現実にこの地を生きる信徒たちの人生を覆すように変革する力であり、アダムに属していた過去の自分は死に、キリストのうちに生きる新しい自分として毎日を歩む推進力なのである。代表理論と連合理論が示すように、私たちは自力や自分の能力で罪に打ち勝つのではない。ただ私の代表であるイエスがすでに勝利しており、その勝利を私が共有することによって義人として生きるのだ。張ダビデ牧師は「この真理こそ福音のエッセンスであり、キリスト教信仰のエンジンだ」と呼び、ローマ書5章12-21節を通じて信仰の道を歩むすべての人が罪を超える自由と命、そして感謝と賛美の生へと向かうように勧めるのである。

The Mystery of Union – David Jang

I. The Problem of Original Sin Transmitted from Adam and the Issue of Human Existence Romans 5:12–21 is a crucial passage in which Paul contrasts Adam and Jesus Christ, explaining that each one serves as a “representative” who binds humanity either in sin and death or in righteousness and life. When Pastor David Jang expounds … Read more

연합의 신비 – 장재형 목사

Ⅰ. 아담으로부터 전가된 죄와 인간 실존의 문제 로마서 5장 12절부터 21절까지는 바울이 아담과 예수 그리스도를 대조하고, 이 둘이 각각 인류를 죄와 사망 안에 혹은 의와 생명 안에 묶어 두는 ‘대표’가 된다는 사실을 설명하는 핵심 본문이다. 장재형 (장다윗)목사는 이러한 텍스트를 해설할 때, 특별히 “한 사람이 죄를 지음으로 많은 사람이 죄인이 되었고, 다른 한 사람이 순종함으로 많은 이가 생명을 얻는다”는 논리를 통해 복음의 능력과 ‘연대성’의 중요함을 설파한다. 이 대목은 기독교 … Read more

Le Salut Par La Foi – Pasteur David Jang

1. La nature de la foi et l’importance du chapitre 3 de l’Épître aux Galates Comprendre correctement le chapitre 3 de l’Épître aux Galates équivaut à saisir la clé qui donne accès à l’ensemble de cette épître. En effet, l’apôtre Paul y emploie le terme “foi” pas moins de quatorze fois. La relation entre la … Read more

因信得救——张大卫牧师

1. 信心的本质与加拉太书第3章的重要性 如果能够正确理解《加拉太书》第3章,那么就等于掌握了理解整卷《加拉太书》的核心钥匙。因为在这一章里,使徒保罗一共提到了14次“信心”这一词汇。律法与信心的关系,以及不仅限于以色列民族,而是包括外邦人在内的普遍性救恩特质,都在《加拉太书》第3章中集中展现。从宗教改革时期开始,《加拉太书》就获得了“自由的福音”这一别称,它之所以能够如此有力地宣告自由、恩典与信心,背后正是因为第3章中蕴含了使徒保罗的核心教导。 张大卫牧师在数十年间,于韩国及世界各地传扬福音时,一直向陷于律法主义而忽视救恩本质的人们强调《加拉太书》第3章的核心信息。尤其是“因信称义”的真理,也就是“以信得义”,应当成为最重要的教义,他对此反复宣讲。这与“外邦人也不是靠律法,而是靠信心得救”——这一基于耶路撒冷大会(《使徒行传》第15章)并被教会共同确认的真理,在本质上是一脉相承的。 实际上,在耶路撒冷大会当时,所总结的福音重点正是“因着信心得救”的救恩本质,同时也再一次确认了“靠律法无法使人脱离罪和死亡”的真理。犹太主义者(或称假教师)认为,“如果不接受割礼,不遵守律法,就不可能得到完整的救恩”,但使徒彼得、保罗、雅各等在大会中声明,割礼或某些礼仪规定绝不能成为救恩的必备条件。“唯有恩典、唯有信心而得称义”自初代教会起就成为基督教最重要的救恩论核心,而《加拉太书》第3章则清晰地呈现了这一核心。 保罗在整卷《加拉太书》中都在表明自己所传的福音意味着什么,并且要证明它与耶路撒冷的众使徒所认同的福音完全一致。这个福音就是“救恩并非通过律法得来,而是唯独靠信主耶稣基督而获得”。这样的教导引发了众多犹太主义假教师的反对,但保罗在《加拉太书》第3章中最直接地处理了这一问题。 保罗目睹了假教师潜入教会,散布“即使信了耶稣,也必须守律法,而且要行割礼,才能进入完全的救恩”之类的煽动。加拉太的信徒中有些人,原本已因恩典和信心获得自由,却又重新被“律法化的宗教性”所捆绑。所以在第3章第1节,保罗直接责备道:“无知的加拉太人哪!”他们已经通过耶稣基督的十字架之事看到了通往救恩的唯一道路,却仍然想要跟随别的福音。保罗厉声质问:“耶稣基督钉十字架的事已经活画在你们眼前,谁又迷惑了你们?”对今日教会而言,这同样是一个必须警醒的严厉提醒。 张大卫牧师也多次在讲道、演讲和文字事工中强调:“《加拉太书》第3章的焦点就在于十字架与复活,以及藉着信心所获得之救恩的确据。”他一再教导,律法固然能让人看见自己的罪、并让人意识到自己无法自救,但律法本身并不能解决罪的问题。这正是圣经所昭示的真理。耶稣在十字架上担当了所有的咒诅和罪债,从根本上解决了律法所揭示的罪的问题,而宣扬这一事实就是“福音”。我们所要做的就是“凭信心领受”这福音——这才是基督教救恩的本质。 “信心”这个词在信仰生活中常听常用,但《加拉太书》第3章对“信心”的定义与意义有着更深入的探讨:到底信心是什么?它是如何运行的?为何可以因信称义?保罗甚至以旧约(尤其是亚伯拉罕)为例加以说明。其内涵大致包括以下几方面: 在《加拉太书》第3章里,保罗围绕这个主题进行了最清晰且具说服力的阐述。因此,若教会要牢牢抓住救恩论的核心真理,就必须守住《加拉太书》第3章所教导的内容。张大卫牧师指出,“当今仍有不少信徒只是头脑上明白‘因信得救’,却无法将其真正落实在生活中。”他遗憾地提到,“许多人仍被律法、规条、教会中的传统,或社会文化标准等所束缚,常常先自我定罪,然后也彼此定罪”,因此一直呼吁教会要重新恢复保罗所宣扬的“自由的福音”。 最终,《加拉太书》第3章透过对比“信心”与“律法”这两大轴心,向我们揭示“唯有藉信心才得称义”的普遍且终极真理。“无知的加拉太人哪!”——保罗如此严厉的口吻并非仅仅在斥责,而是在迫切呼吁“不要再被律法的枷锁捆住”。如今我们也应当聆听保罗的呼喊,在恩典里享受真自由。 2. 亚伯拉罕的信心、与律法主义的冲突,以及保罗的论证 在《加拉太书》第3章开头,保罗发出“你们领受圣灵,是因行律法呢,还是因听信福音呢?”(参《加拉太书》3:2)这一疑问,目的是让加拉太教会的信徒回想他们已切身经历过圣灵。如果他们已经经历了圣灵的同在,就很清楚这并不是靠律法或仪式获得,而是因对耶稣基督福音的信心而得的。无论是属灵恩赐的经历、重生的体验,还是说方言、预言等圣灵的工作,都不是因遵守律法而来,而是因相信了基督所成就的福音。 紧接着,保罗更进一步引用了旧约中最伟大的先祖之一——亚伯拉罕(参《加拉太书》3:6)。这是因为那些主张律法主义的假教师常常提到亚伯拉罕,认为“我们的祖先亚伯拉罕是因割礼与遵守律法而蒙上帝悦纳的”。然而事实是,亚伯拉罕得称为义是在他“信神的时候”,神就以此算他为义(参《创世记》15:6),这是先于他接受割礼的事件。张大卫牧师也常在各类讲道与圣经解经中引用《创世记》12章到17章所记载的亚伯拉罕生平,反复提醒:“在亚伯拉罕受割礼之前,他已经得到了神所赐的称义。” 割礼的记载出现在《创世记》第17章。也就是说,《创世记》15章6节“亚伯兰信耶和华,耶和华就以此为他的义”这句话,是在“割礼”被引入之前宣告的。至于律法——也就是摩西五经中具体的条文,则比亚伯拉罕所处的时代晚了430年才颁布(参《加拉太书》3:17)。因此亚伯拉罕之所以得称为义,绝不可能是因为律法或割礼。他是因着顺服(参《希伯来书》11:8“他因信蒙召的时候,就遵命出去,往将来要得为业的地方去”),得着“应许之地”和“天上众星般的后裔”的应许;他信神、听从命令,离开本地本族,因而被视为义。 保罗在其他地方称此为“他未受割礼的时候所蒙的称义”(参《罗马书》4:9-10)。也就是说,“因信称义”是在前,割礼不过是印证这个称义的记号。《罗马书》第4章与《加拉太书》第3章在许多经文上是平行的。在《罗马书》第4章,保罗提到了“在不做工的情况下,神却算他为义的人是有福的”,并与大卫的告白相连(参《罗马书》4:6-8),最后总结:亚伯拉罕得以称义完全是因为他的信心,而不是任何行为。 张大卫牧师特别强调《罗马书》和《加拉太书》之间的这一对应结构:通过理解《加拉太书》第3章,可以更深入地明白《罗马书》第4-5章;而对《罗马书》的透彻理解,又能让《加拉太书》第3章更为清晰。这一切都源于《哈巴谷书》2章4节中“义人必因信得生”这一旧约根基,并构成新约救恩论的核心主线(参《加拉太书》3:11;《罗马书》1:17)。 外邦人也能同样承受这种恩典的事实,正体现在保罗宣告“亚伯拉罕成为所有信徒的祖宗”(参《加拉太书》3:7;《罗马书》4:11-12)之中。对于一直以来只把亚伯拉罕当作“他们自己民族祖先”的犹太人而言,保罗的宣告是极大的冲击。然而其福音的逻辑是清晰的: 在《加拉太书》第3章10-12节,保罗直言:“凡以行律法为本的,都在咒诅之下”(引自《申命记》27:26)。因为没有人能够完美地守全律法(参《罗马书》3:10)。律法反倒更明确地显露人的罪,使人加深罪疚与被定罪的感觉。保罗在《哥林多前书》15章56节说过:“死的毒钩就是罪,罪的权势就是律法。”意思是说,律法并不能解决罪的问题,反而使罪更加清晰可见。故此,若有人打算通过律法得称义,最终只会留在咒诅之下,无法得到救恩。 然而在《加拉太书》第3章13-14节,我们看到,“基督既为我们受了咒诅,就赎出我们脱离了律法的咒诅”,这是清楚的宣告。耶稣钉在十字架上,“挂在木头上”的人被视为受咒诅(参《申命记》21:23),他亲身担当了这份律法所带来的咒诅,从而使我们脱离了罪与死亡、咒诅的权势,并得以凭信心领受圣灵的应许。张大卫牧师在讲道时常总结:“既然十字架已经替我们偿清了罪债,我们所能作的就是相信这一事实,凭信心接受。”当我们因信得称义后,就在圣灵的带领下,逐步迈向“成圣”的道路。 《加拉太书》第3章的教导,对今日教会内时常出现的律法主义倾向——即“教会法规、传统、仪式与敬拜形式,或特定道德规范的遵守是得救所不可或缺的条件”——构成了强有力的驳斥。当然,包括张大卫牧师在内的正统神学家都不会鼓吹“废弃律法”或“鄙视道德”。恰恰相反,基督信仰对伦理与爱有着更高的要求。只不过,这些都绝非得救的前提。因基督已替我们成就了救恩,我们只需跟随他的恩典而顺服福音,在圣灵里甘心乐意地行善。这才是在与律法主义截然不同的层次上,“践行”与“成全”律法的真正方式。 因此,在《加拉太书》第3章里,保罗通过极具逻辑性、且建立在圣经解经基础上的辩证,全盘推翻了假教师所散布的“唯有通过行割礼和守律法才能得救”的论调。核心就在于:“连亚伯拉罕都不是凭律法得称义,更何况那些未行割礼的外邦人?他们也能因信得救。”并且,在基督里我们成为一体,都被接在亚伯拉罕的属灵后裔当中。 3. 在基督里的自由、圣灵的工作,以及当今的应用 之所以称《加拉太书》为“自由的福音”,并不是指脱离律法之后就可以放纵,而是指“脱离罪与死的权势而获得的福音自由”。在第3章后段(尤其是3:23-25),保罗说道:“但这因信得救的理还未来以前,我们被看守在律法之下,直圈到那将来的真道显明出来。”也就是说,律法是把我们引向神的“启蒙导师”(《加拉太书》3:24),它能让我们认识罪,却没有从根本上救赎罪的能力。唯有借着耶稣基督的十字架与复活,我们才摆脱了律法的枷锁和咒诅,进入“信心的自由”之中。 因此,围绕《加拉太书》第3章,保罗给出的结论非常明确:“我们不是靠行律法得救,而是藉着信心得救;现在我们已经领受了圣灵作为恩赐,并靠圣灵所赐的能力和果子而生活。”这就是保罗所说的“福音的大能”,而圣灵在坚固我们的称义(Justification)之余,也带领我们进一步走向成圣(Sanctification)。张大卫牧师在他的牧会与讲道中,也常常提及当信徒因信接受圣灵的内住与带领时,如何在个人生命和教会群体中带来翻天覆地的改变。耶稣基督在十字架上为我们开辟了救恩的道路,并已一次性完成了救赎,而其果效则在圣灵的工作中不断在我们心中成长。 保罗所谓的“情欲”和“圣灵”相争,在《加拉太书》第5章中有更详细的讨论,但实际上从第3章就已透出端倪——他说我们曾“被看守在律法之下”,意指我们天然的本性仍受罪性所辖制,单靠律法仅能让我们看见罪,却无法自我切断罪。然而当圣灵降临,我们便获得了胜过罪的力量(参《罗马书》第8章)。律法从外部指责罪,而圣灵则从内里更新我们,使我们活出与“称义”之名相称的生活。正如张大卫牧师所言:“真正经历圣灵同在的信徒,不再只盯着各种规则和禁止条款来过信仰生活,而是因着恩典获得自由,并将这自由用于行善、爱人。”这与律法主义大相径庭,是在圣灵里甘心乐意地遵行神的心意。 由此可见,《加拉太书》第3章的核心可概括为: 这份真理为何如此重要?因为在我们日常的属灵实践中,常常会在“律法”与“恩典”间感到困惑。我们虽已得救,却仍会产生“若我未能好好遵守某些规范,救恩是否会被取消?”的恐惧,或是以为必须靠我的努力与善行才配得神的悦纳。然而,当我们想起《加拉太书》第3章以及《使徒行传》第15章耶路撒冷大会的决定,就会再次抓住“唯独恩典、唯独信心”这基督教救恩论的标志。 张大卫牧师也警告:“当教会陷入律法主义之时,使灵魂得自由的福音大能就会被削弱,人与人之间彼此定罪,只追求外在形式的敬虔。”但相反地,“若牢牢持守真正的福音,信徒就会在圣灵的能力中结出善果,彼此服事,并能积极且有能力地胜过罪。”这正是“自由的福音”,也是藉《加拉太书》第3章圣灵向教会呼唤的信息。 今天我们所要传扬的福音,正是这一信息:耶稣基督钉十字架,为我们而死,凡信的人都能得称为义。正如亚伯拉罕因信得称义,我们也因信基督的福音而得称义,并在圣灵的内住中活出新生命。这就是“因信得救”(以信得义)这一简单而明确的真理。 最后,彼得使徒曾劝勉:“要常作准备,以温柔敬畏的心回答各人,给他们说明你们心中盼望的缘由”(参《彼得前书》3:15)。因此,我们需要对《加拉太书》第3章所提示的信心定义、律法的局限,以及耶稣基督的十字架与复活带来的救恩大能有清晰的认识。这些认知就是支撑我们信仰不至动摇的根基,也成为我们向不认识主的人传扬不变福音的信息来源。张大卫牧师数十年如一日地藉着各种讲道、著述、门徒训练等,一直提醒众人:“当一个人抓住这福音时,一切障碍都会被拆除,不论何种宗教枷锁都不再束缚他,他会真正经历到自由。” 最终,《加拉太书》第3章向我们发问:“你们领受圣灵,是因行律法呢?还是因听信福音呢?”然后给出答案:“是因信心领受的,也是因信心得以称义。”这是我们的宣告,也是当进入我们生命的真理。惟愿我们都能因福音而得自由,在圣灵里不断成长,并在基督里彼此合一——这是《加拉太书》第3章对教会与信徒的呼唤,也是我们当坚持的看似简单却又深邃无比的信仰核心。

信仰による救い – 張ダビデ牧師

1. 信仰の本質とガラテヤ3章の重要性 ガラテヤ3章を正しく理解することは、ガラテヤ書全体を理解するための核心的な鍵を手に入れることと同じです。というのも、使徒パウロがこの章で「信仰」という言葉を14回も言及しているからです。律法と信仰の関係、さらにイスラエル民族だけでなく異邦人まで含む救いの普遍的な性格がガラテヤ3章に集約されています。ガラテヤ書が宗教改革の時代から「自由の福音」という別称を得るほど、自由と恵み、そして信仰を強力に宣言してきた背景には、まさにこの3章に込められた使徒パウロの核心的な教えが存在するのです。 張ダビデ牧師は数十年にわたり韓国および世界各地で福音を伝え、律法主義に陥って救いの本質を見失う人々に対して、このガラテヤ3章の核心メッセージを強調してきました。特に「信仰によって救いを得る」という事実、すなわち「以信得義(いしんとくぎ)」が最も重要な教理として定着しなければならないと繰り返し説いてきましたが、これは使徒行伝15章に記録されたエルサレム会議に基づき、教会が共有して合意した「異邦人も律法ではなく信仰によって救われる」という真理と同じ流れにあります。 実際、エルサレム会議で最終的に下された結論は、「信仰によって救いを受ける」という救いの本質を再確認するものでした。律法によっては罪と死から解放されないという真理を、改めて明らかにした決定だったのです。ユダヤ主義者(あるいは偽りの教師たち)は「割礼と律法の順守なしには救いが成立しない」と主張しましたが、使徒ペテロやパウロ、ヤコブらは会議を通して、割礼やその他多くの儀式的規定が救いの必須条件にはなり得ないことを宣言しました。「ただ恵みによって、信仰によって義とされる」という事実は、初代教会の時代からキリスト教における最も重要な救い論的核心となり、ガラテヤ3章はその中心を鮮明に示しているのです。 パウロはガラテヤ書全体を通じ、自分が伝えた福音がいかなる意味を持ち、エルサレムの使徒たちと一致している福音であることを証明しようとしています。その福音とは、「律法によってではなく、ただイエス・キリストを信じることで救いを得る」という内容です。この教えは多くのユダヤ主義的な偽教師たちの反発を招きましたが、パウロはガラテヤ3章で最も直接的にその問題を取り上げます。 パウロは偽教師たちが教会に侵入し、「イエスを信じても、律法を守らなければならず、割礼も受けなければ完全な救いに至れない」と扇動している現実を目撃しました。ガラテヤの信徒の中には、本来は恵みによって、信仰によって自由を得たはずなのに、再び「律法的な宗教性」に囚われてしまった人々がいました。そこで3章1節でパウロは「愚かなガラテヤ人たちよ!」と強い調子で叱責するのです。彼らはすでにイエス・キリストの十字架の出来事を通じて救いに至る唯一の道を見ていたのに、別の福音に流されようとしていました。「イエスが十字架につけられたことがあなたがたの目の前にはっきり示されているのに、だれがあなたがたを惑わしたのか」というパウロの厳しい一喝は、今日の教会が重く受け止めるべき重要な警告でもあります。 張ダビデ牧師も、幾度もの説教や講演、文書の働きを通じて「ガラテヤ3章の焦点は十字架と復活、そして信仰によって得る救いの確かさ」にあると強調しています。律法は罪を明らかにし、自力で救うことができないことを悟らせる役割を担いますが、律法によって罪が解決されるわけではないという聖書の真理を繰り返し教えてきました。イエスが十字架の上であらゆる呪いと罪の代価を負われることによって、律法が示す罪の問題を根本的に解決されたことこそが「福音」なのです。そしてその福音を「信仰によって受け入れる」ことが、キリスト教における救いの本質です。 「信仰」という言葉は、信仰生活の中でよく耳にする一般的な用語ですが、ガラテヤ3章はこの「信仰」の定義と意味を詳しく掘り下げています。果たして信仰とは何か、信仰はどのように機能するのか、なぜ信仰によって救いを得ることが可能なのかについて、旧約の例(特にアブラハム)を引き合いに出して論じているのです。これは次のような教えと密接につながっています。 ガラテヤ3章においてパウロは、この主題を最も論理的かつ力強く説明します。ゆえに教会が救い論の核心的真理を見失わないためには、ガラテヤ3章が教えるところを堅く守らなければなりません。張ダビデ牧師は「今日でも多くの信徒が『信仰によって救われること』を頭では知っていても、それが実際の生活につながらない場合が多い」と指摘します。「律法や規則、教会内の伝統、あるいは社会的・文化的な基準などに縛られ、自分自身を罪に定め、さらに他者まで裁く姿が繰り返されている」と嘆きつつ、パウロが語った「自由の福音」を教会の中で改めて回復すべきだと訴えてきました。 結局、ガラテヤ3章は「信仰」と「律法」という二つの大きな軸を対比しながら、ただ信仰によって義とされるという普遍的かつ究極的な真理を提示しています。「愚かなガラテヤ人たちよ!」というパウロの強い口調は、単なる叱責ではなく、「律法のくびきに再び囚われるな」という切実な訴えです。今日の私たちもパウロの叫びを思い起こし、恵みの中で真の自由を享受する者となるべきなのです。 2. アブラハムの信仰、律法主義との衝突、そしてパウロの論証 ガラテヤ3章の冒頭で、パウロが「あなたがたが御霊を受けたのは、律法の行いによってか、それとも聞いて信じたからか」(ガラ3:2)と問う箇所は、ガラテヤ教会の信徒たちがすでに聖霊を体験したことを想起させるためです。既に聖霊を受けたのであれば、救いは律法や儀式によってではなく「信仰」によってもたらされたという事実をよく知っているはずだからです。すなわち、彼らが賜物の体験をしたにせよ、生まれ変わりを経験したにせよ、あるいは異言や預言などの聖霊の働きを目撃したにせよ、それらは律法を守った結果ではなく、イエス・キリストの福音を信じた結果として起こったということを思い出せ、という意味です。 しかしここでパウロはさらに一歩進み、旧約聖書で最も偉大な先祖とされるアブラハムを引き合いに出します(ガラ3:6)。なぜなら、律法主義的な偽教師たちがしばしば強調する人物こそ、アブラハムだったからです。彼らは「私たちの祖アブラハムは、律法と割礼によって神に認められた」と考えていましたが、実際にはアブラハムが義とされたのは「神を信じたとき」であり、その信仰を神が義とみなされた出来事が先にあったのです(創15:6)。張ダビデ牧師も様々な説教や聖書解説で、創世記12章から17章まで連なるアブラハム物語を引用し、「アブラハムが割礼を受ける前にすでに神から義とみなされた時点があった」ということをしばしば喚起しています。 割礼は創世記17章に登場します。つまり、創世記15章6節「アブラムは主を信じた。それで主はそれを彼の義と認められた」という宣言は「割礼」が導入される前に与えられたものなのです。さらに、モーセ五書の具体的な律法としてまとめられる条項は、アブラハムが生きた時代から430年後に与えられたものです(ガラ3:17の言及)。したがって、アブラハムの義は律法や割礼によって得たものでは決してありません。彼は「従順」することで(ヘブライ11:8「行く先を知らずに出て行った」)、約束の地と「天の星のように数多い子孫」を約束され、「知らない地へ行け」という神の言葉を信じて義とされたのです。 パウロはこの原則を「彼が無割礼の時に受けた義」と呼びます(ロマ4:9-10)。つまり、信仰によって義とされた出来事が先にあり、割礼はその義を確認するしるしにすぎないということです。ローマ書4章もガラテヤ3章と平行する箇所が多く、そこでパウロは「何も行わなくても神によって義と認められる人の幸い」をダビデの告白と結びつけて語り(ロマ4:6-8)、アブラハムが義とされたのは行いによるのではなく、全くの「信仰」のゆえだという結論に至ります。 張ダビデ牧師は、このローマ書とガラテヤ書の関連性を特に強調しており、ガラテヤ3章を理解するとローマ書4~5章もさらに深く理解でき、逆にローマ書をよく理解すればガラテヤ3章がより明確になると述べています。それは「ただ義人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4、ガラ3:11、ロマ1:17)という旧約にその根を持つテーマであり、新約全体の救い論を形作る骨格です。 異邦人にも同じ恵みが与えられていることは、アブラハムが「すべての信じる者の父」となったというパウロの宣言(ガラ3:7、ロマ4:11-12)によって明確に示されます。旧約聖書においてアブラハムを自民族の祖先だと見なしてきたユダヤ人にとって、パウロの宣言は衝撃的でした。しかし彼が語る福音の論理はこうです。 ガラテヤ3章10節から12節においてパウロは「律法の行いに頼る者は皆、呪いの下にある」(申27:26の引用)とまで語ります。律法を完全に守りきれる人は一人もいないからです(ロマ3:10)。むしろ律法は罪をよりいっそう際立たせ、罪責と罪の宣告を強化します。パウロがコリント第一15章56節で「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と述べた時、それは律法が罪を解決するというよりは、罪の根拠をますますはっきり示す役割を担うという意味です。ゆえに律法によって義を得ようとする者は、決して救いに至ることはなく、むしろ呪いの下に留まることになります。 ところが、キリストが私たちの呪いを身代わりに負ってくださることで、律法の呪いから私たちを解放してくださったという事実が、ガラテヤ3章13~14節に宣言されています。「キリストは私たちのために呪われた者となって、律法の呪いから私たちを贖い出してくださいました」という御言葉です。イエスが十字架にかけられて死なれたことにより、「木にかけられた者は皆、神に呪われた者である」(申21:23)という律法上の規定さえご自分で負われました。その結果、私たちは罪と死と呪いの支配から解放され、信仰によって聖霊の約束を受けるようになったのです。張ダビデ牧師はこの箇所を、「十字架によってすべての罪の代価が支払われたゆえに、私たちに残されたことは、その事実を信じる信仰だけである」と要約します。そしてこのようにして義とされた私たちは、究極的に聖霊の導きのもと、漸進的な「聖化(せいか)」へと進んでいくのです。 このガラテヤ3章の教えは、現代の教会に繰り返し現れる律法主義的傾向、すなわち「教会法や伝統、儀式や礼拝形式、あるいは特定の倫理規範を守ることが救いの条件になる」というような主張に対する強力な反論となります。もちろん、張ダビデ牧師をはじめ正統的な神学者たちは「律法無用論や道徳の軽視」を唱えているのではありません。むしろキリスト教は、この世のどの宗教よりも高い倫理と愛を求めます。ただし、それらが救いの条件にはなり得ないということです。キリストがすでに救いを完成してくださったからこそ、私たちはその恵みに従って福音に服従し、聖霊のうちに喜んで善を行う者へと変えられていくべきです。これこそが、律法主義とはまったく異なる次元で律法を「履行」し「成就」する真の道なのです。 このようにパウロはガラテヤ3章で非常に論理的かつ聖書解釈に基づいた弁証を用い、偽教師たちが広める「割礼と律法の順守による救い論」を全面的に反駁します。核心は「アブラハムですら律法によらず信仰によって義とされたのだから、割礼のない異邦人であっても信仰によって救われる」という論証です。そしてキリストにあって私たちは一つとなり、その全員がアブラハムの霊的子孫となるのです。 3. キリストにある自由と聖霊の働き、そして今日への適用 ガラテヤ書を「自由の福音」と呼ぶ理由は、律法からの「放縦」を意味するのでは決してなく、「罪と死の力から自由にする福音」を指すからです。3章の後半(特に3:23~25)でパウロは「信仰が来る前、私たちは律法の下で閉じ込められ、やがて示される信仰の時まで監視下に置かれていました」と表現しています。このように律法は私たちを神へと導くための「養育係(モン学先生)」(ガラ3:24)であり、罪を自覚させこそすれ、罪を根本的に解決する力はありません。しかしイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちはこの律法のくびきと呪いから解放され、「信仰の自由」へと進むことができるようになったのです。 ゆえにガラテヤ3章を中心としたパウロの結論は明白です。「私たちは律法の行いではなく信仰によって救われた。今や聖霊を賜物として受け取り、聖霊が与えてくださる力と御霊の実によって生きる」。これこそがパウロの言う「福音の力」であり、聖霊は私たちの義認(Justification)を確固たるものとし、その次の段階である聖化(Sanctification)へ導いていきます。張ダビデ牧師の牧会と説教でも、信仰によっていただく聖霊の内住と導きが、いかに個人の生活と共同体を変革するかがたびたび取り上げられます。イエス・キリストの十字架による贖いは、すでに一度で完成された救いへの道を開き、その救いの効力は聖霊の働きの中で私たちのうちに継続的に成長していくのです。 パウロが言う「肉の欲」と「御霊の願い」の間の葛藤は、ガラテヤ5章でも詳しく取り上げられますが、実は3章からすでに「律法の下に閉じ込められていた」という表現を通して暗示されています。私たちの本性は依然として罪の性質を持つ肉体であるため、律法によって罪を自覚できても、自力で罪を断ち切る力はありません。けれども聖霊が臨まれると、罪を支配する力に打ち勝つことが可能になります(ロマ8章参照)。律法が外面的な規範として罪を指摘するのに対し、聖霊は内面から私たちを新たにし、「義とされた者」にふさわしい生き方へと導いてくださるのです。この点で張ダビデ牧師は「聖霊の臨在を体験した信徒は、もはや規則や禁制条項だけを見つめて信仰生活をするのではなく、むしろ恵みによって得た自由を善き目的と隣人への愛のために用いるようになる」と教えてきました。 結局、ガラテヤ3章が語る核心は次のように要約できます。 この真理がなぜ重要なのか。それは、私たちが日々の信仰生活の中で、「律法」と「恵み」のはざまで絶えず混乱するからです。すでに救われているにもかかわらず、ときに「与えられた規範を守れないなら救いが取り消されるのではないか」という恐れや、自分の努力や善行によってのみ神に認められようとする誤った習慣が、今も残り続けているからです。しかしガラテヤ3章と使徒行伝15章のエルサレム会議の決定を想起するとき、私たちは「ただ恵みによって」「ただ信仰によって」というキリスト教の救い論的な標識を改めてしっかりと握ることができます。 張ダビデ牧師は「教会が律法主義へ傾くと、魂を自由にする福音の力が弱まり、互いを裁き合い、形式的な敬虔さを追い求める共同体になってしまう」と警告します。さらに「一方で、真の福音を握るならば、信徒は聖霊の力の中で善い実を結び、他者に仕え、罪に打ち勝つ能動的かつ躍動的な生活を送るようになる」と強調します。こうした「自由の福音」こそが、ガラテヤ3章を通した聖霊の声なのです。 今日、私たちが伝えるべき福音もまさにこれです。イエス・キリストが十字架につけられて死なれたことによって、信じる者は誰でも義とされることができます。アブラハムが信仰によって義と認められたように、私たちもキリストの福音を信じるなら義とされ、聖霊の内住によって新しい生を歩むようになるのです。これは「信仰によって救いを得る(以信得義)」という単純でありながら明確な真理です。 最後に、使徒ペテロは「あなたがたのうちにある希望について、説明を求める人にはいつでも弁明できるように備えていなさい」(第一ペテロ3:15)と勧めています。私たちはガラテヤ3章が示す信仰の定義と律法の限界、そしてイエス・キリストの十字架と復活がもたらした救いの力を明確に理解しなければなりません。それが私たちの信仰を揺るぎないものとし、主を知らない人々にも変わらぬ福音のメッセージを伝える根拠となるのです。張ダビデ牧師は、この点を数十年にわたり多様な説教と著述、弟子訓練などを通して粘り強く呼び覚ましてきました。そして「この福音を握る者には、どんな障壁も取り除かれ、いかなる種類の宗教的な束縛からも解放され、真の自由を経験するようになる」という事実を常に教えてきました。 結局、ガラテヤ3章は私たちに問いかけます。「あなたがたはどのようにして御霊を受けたのか、律法の行いによってか、それとも信仰によってか」。そしてこう答えます。「信仰によって受け、信仰によって義とされるのだ」。これこそ私たちの告白であり、生活に反映されるべき真理です。福音のうちに自由を得て、聖霊のうちに成長し、キリストにあってさらに一つとなる教会と信徒となることを、ガラテヤ3章は私たちに求めています。それこそが、私たちが常に握りしめるべき、最も単純にして最も深遠な信仰の核心なのです。

Salvation Through Faith – Pastor David Jang

1. The Essence of Faith and the Importance of Galatians 3 Understanding Galatians chapter 3 correctly is akin to obtaining the key to interpreting the entire book of Galatians. This is because the Apostle Paul uses the word “faith” no fewer than fourteen times in this chapter. The relationship between law and faith, and the … Read more

La Salvación que Proviene de la Fe – Pastor David Jang

1. La naturaleza de la fe y la importancia de Gálatas 3 Comprender correctamente el capítulo 3 de la epístola a los Gálatas es como obtener la clave principal para entender toda la carta. El apóstol Pablo menciona la palabra “fe” catorce veces en este capítulo, enfatizando la relación entre la Ley y la fe, … Read more

믿음으로 말미암은 구원 – 장재형목사

1.  믿음의 본질과 갈라디아서 3장의 중요성 갈라디아서 3장을 제대로 이해한다는 것은 갈라디아서 전체를 이해하는 핵심 열쇠를 얻는 것과 같습니다. 사도 바울이 이장에서 “믿음”이라는 단어를 14번이나 언급하고 있기 때문입니다. 율법과 믿음의 관계, 또 이스라엘 민족만이 아니라이방인들까지 포함하는 구원의 보편적 성격이 갈라디아서 3장에 집약적으로 나타납니다. 갈라디아서가 종교개혁 시대부터‘자유의 복음’이라는 별칭을 얻었을 정도로 자유와 은혜, 그리고 믿음을 강력하게 선포하는 배경에는, 바로 이 3장에 담긴 사도바울의 핵심 가르침이 자리하고 있습니다. 장재형목사는 수십 년에 걸쳐 한국과 세계 여러 지역에서 복음을 전하며, 율법주의에 빠져 구원의 본질을 놓치는 이들을 향해갈라디아서 3장의 핵심 메시지를 강조해왔습니다. 특히 “믿음으로 말미암아 구원을 얻는다”는 사실, 즉 ‘이신득의(以信得義)’가가장 중요한 교리로 자리 잡아야 함을 반복해서 설파해 왔는데, 이는 예루살렘 회의(사도행전 15장)에 근거하여 교회가공통적으로 합의한 “이방인도 율법이 아니라 믿음으로 구원을 받는다”라는 진리와 동일한 맥락에 있습니다. 실제로 예루살렘 회의 때 결론 지어진 복음은 “믿음으로 말미암아 구원을 받는다”는 구원의 본질이었습니다. 율법으로는 죄와사망에서 벗어날 수 없다는 진리를 재확인한 결정이었습니다. 유대주의자(혹은 거짓 교사들)는 ‘할례’와 ‘율법의 준수’가 없이는구원이 성립될 수 없다고 주장했으나, 사도 베드로와 바울, 야고보 등은 회의를 통해 할례나 여러 의식적 규례가 구원의 필수조건이 될 수 없다고 선포했습니다. “오직 은혜로, 믿음으로 의롭다 함을 받는다”라는 사실은 초대교회 당시부터 기독교의 가장중요한 구원론적 핵심이 되었고, 갈라디아서 3장은 그 핵심을 명료하게 드러냅니다. 바울은 갈라디아서 전체에서 자신이 전한 복음이 어떤 의미이며, 예루살렘의 사도들과도 일치된 복음임을 입증하고자 합니다. 그 복음이란 “율법으로 말미암아 구원을 받지 않고, 오직 예수 그리스도를 믿음으로 구원을 얻는다”는 것입니다. 이런 가르침은다수의 유대주의 거짓 교사들로부터의 반발을 샀지만, 바울은 갈라디아서 3장에서 가장 직접적으로 그 문제를 다룹니다. 바울은 거짓 교사들이 교회 안에 침투해 “예수를 믿어도 율법을 지켜야 하고, 할례까지 받아야 온전한 구원에 이를 수 있다”고선동하는 현실을 목격했습니다. 갈라디아 교인들 가운데 일부는 원래 은혜로, 믿음으로 자유를 얻었으면서도 다시 ‘율법적인종교성’ 안에 갇혀버렸습니다. 그래서 3장 1절에서 바울은 “어리석도다 갈라디아 사람들아!”라고 강력하게 책망합니다. 그들은이미 예수 그리스도의 십자가 사건을 통해 구원에 이르는 유일한 길을 보았음에도, 다른 복음을 따르려는 모습이었습니다. “예수께서 십자가에 못박히신 것이 너희 눈앞에 밝히 보이거늘 누가 너희를 꾀더냐”라고 하는 바울의 호통은, 오늘날 교회가들여다봐야 할 중요한 경고이기도 합니다. 장재형목사 역시 여러 차례 설교와 강연, 문서 사역에서 “갈라디아서 3장의 초점은 십자가와 부활, 그리고 믿음으로 얻는구원의 확실성”이라는 점을 강조합니다. 율법이 죄를 보여주고, 스스로 구원할 수 없음을 깨닫게 하는 역할을 담당하지만, 율법으로 죄가 해결되지는 않는다는 성경적 진리를 되풀이해 가르칩니다. 예수께서 십자가 위에서 모든 저주와 죄값을담당하심으로써, 율법이 보여주는 죄의 문제를 근본적으로 해결하셨음을 선포하는 것이 바로 ‘복음’입니다. 그리고 그 복음을‘믿음으로 받아들이는 것’이 기독교 구원의 본질입니다. ‘믿음’이라는 말은 신앙생활에서 자주 듣는 흔한 용어지만, 갈라디아서 3장은 이 ‘믿음’의 정의와 의미를 자세히 파고듭니다. 과연 믿음이 무엇인지, 믿음은 어떻게 작동하는지, 믿음으로 말미암아 구원을 받는다는 것이 왜 가능한지에 대해 구약의예시(특히 아브라함)까지 들어가며 펼쳐 보이는 것입니다. 이는 다음과 같은 가르침과 맞닿아 있습니다. 즉, 갈라디아서 3장에서 바울은 이 주제를 가장 논리적이고 강력하게 설명합니다. 따라서 교회가 구원론의 핵심 진리를 놓치지않으려면 반드시 갈라디아서 3장이 가르치는 바를 사수해야 합니다. 장재형목사는 “오늘날에도 많은 성도들이 ‘믿음으로구원받는 것’을 머리로만 알지, 그것이 실제 삶으로 이어지지 못하는 경우가 많다”고 지적합니다. “율법이나 규례, 교회 내의전통, 혹은 사회적·문화적 기준 등에 매여 스스로를 정죄하고 더 나아가 다른 이들까지 정죄하는 모습이 되풀이된다”는안타까움을 토로하면서, 바울이 말한 ‘자유의 복음’을 다시금 교회 안에서 회복해야 한다고 촉구해 왔습니다. 결국, 갈라디아서 3장은 ‘믿음’과 ‘율법’이라는 두 가지 큰 축을 대조하여 보여주면서, 오직 믿음을 통해 의롭다 함을 얻는다는보편적·궁극적 진리를 제시합니다. “어리석도다 갈라디아 사람들아!”라는 바울의 강한 어조는, 단순한 질책이 아니라 ‘율법의굴레에 다시 매이지 말라’는 절절한 호소입니다. 오늘날 우리 역시 바울의 외침을 되새기며, 은혜 안에서 참된 자유를 누리는이들이 되어야 합니다. 2. 아브라함의 믿음, 율법주의와의 충돌, 그리고 바울의 논증 갈라디아서 3장의 앞부분에서 바울이 “성령을 받은 것은 율법의 행위로냐, 듣고 믿음으로냐”라고 묻는 대목(갈 3:2)은 갈라디아교회 성도들이 이미 성령을 체험했음을 상기시키기 위한 것입니다. 이미 성령을 받은 이들이라면, 구원은 율법이나 의식이아니라 ‘믿음’으로 임했다는 사실을 잘 알 것이기 때문입니다. 다시 말해, 그들이 은사 체험을 했든, 거듭남을 체험했든, 방언이나 예언 같은 성령의 역사를 경험했든 간에, 그것이 율법의 준수를 통해서가 아니라 예수 그리스도의 복음을 믿은 결과로일어났다는 점을 회상하라는 것입니다. 그런데 여기서 바울은 한 걸음 더 나아가, 구약성경에서 가장 위대한 선조로 꼽히는 아브라함을 끌어옵니다(갈 3:6). 왜냐하면율법주의적 거짓교사들이 늘 강조하는 인물이 바로 아브라함이었기 때문입니다. 그들은 “우리 조상 아브라함은 율법과 할례로하나님 앞에 인정받았다”고 생각했지만, 실상 아브라함이 의롭다 하심을 얻은 것은 “하나님을 믿었을 때”이며, 그 믿음을하나님께서 의로 여기신 사건이 먼저였습니다(창 15:6). 장재형목사 역시 다양한 설교와 성경 해설에서, 창세기 12장부터17장까지 이어지는 아브라함 서사를 인용하며 “아브라함이 할례를 받기 전 이미 하나님께 의롭다 함을 받은 시점이 있었다”는점을 자주 환기시킵니다. 할례는 창세기 17장에 등장합니다. 다시 말해, 창세기 15장 6절 “아브람이 여호와를 믿으니 여호와께서 이를 그의 의로여기시고”라는 선언은 ‘할례’가 도입되기 전이라는 것입니다. 그리고 율법이라고 할 수 있는 모세오경의 구체적 조항은, 아브라함이 살았던 시대로부터 430년 뒤에나 주어진 것입니다(갈 3:17의 언급). 그러므로 아브라함의 의로움은 율법이나 할례때문에 얻어진 것이 결코 아닙니다. 그분은 순종함으로(히 11:8 “갈 바를 알지 못하였으나”), 약속의 땅과 ‘하늘의 뭇별 같은후손’을 약속받았고, 낯선 땅으로 떠나라는 하나님의 말씀을 믿고 의롭게 되었습니다. 바울은 이 원리를 “그가 무할례시에 받은 의”라고 부릅니다(롬 4:9-10). 즉, 믿음으로 의롭다 함을 얻은 사건이 먼저이고, 할례는 그 의로움을 확인하는 표징에 지나지 않는다는 것입니다. 로마서 4장도 갈라디아서 3장과 평행을 이루는 구절들이많습니다. 로마서 4장에서 바울은 “일한 것이 없이 하나님께 의로 여기심을 받는 사람의 행복”을 다윗의 고백과 연결해말합니다(롬 4:6-8). 그리고 아브라함이 의롭다 함을 얻은 것은 행위가 아닌 전적인 ‘믿음’ 덕분이라는 결론에 도달합니다. 장재형목사는 이런 로마서와 갈라디아서의 연결 구도를 특별히 강조하는데, 갈라디아서 3장을 알면 로마서 4~5장도 더 깊이이해할 수 있고, 로마서를 잘 이해하면 갈라디아서 3장이 한층 더 명확해진다는 것입니다. 이는 “오직 의인은 믿음으로말미암아 살리라”(합 2:4, 갈 3:11, 롬 1:17)는 구약의 뿌리로부터 시작된 주제이자, 신약 전체 구원론의 골간입니다. 이방인들에게도 동일한 은혜가 주어졌음은, 아브라함이 ‘모든 믿는 자의 조상’이 되었다는 바울의 선언(갈 3:7, 롬4:11-12)으로 잘 드러납니다. 구약에서 아브라함을 자기 민족의 조상으로만 여겨왔던 유대인들에게, 바울의 선포는파격적이었습니다. 그러나 그가 말하는 복음의 논리는 이렇습니다. 갈라디아서 3장 10절부터 12절에서 바울은 “무릇 율법 행위에 속한 자들은 저주 아래 있다”(신 27:26 인용)고까지 말합니다. 율법을 완벽히 지킬 수 있는 사람은 하나도 없기 때문입니다(롬 3:10). 오히려 율법은 죄를 더 선명히 드러내어 죄책과정죄감을 강화합니다. 바울이 고린도전서 15장 56절에서 “사망의 쏘는 것은 죄요 죄의 권능은 율법이라”고 했을 때, 율법이죄를 해결하기보다 죄의 근거를 더 또렷이 보여주는 역할을 한다는 뜻입니다. 그러므로 율법으로 의롭다 함을 받으려는 자는결코 구원에 이르지 못하고, 오히려 저주 아래 머무르게 됩니다. 그런데 그리스도께서 우리의 저주를 대신 짊어지심으로, 율법의 저주에서 우리를 해방하셨다는 사실이 갈라디아서 3장13~14절에 선포됩니다. “그리스도께서 우리를 위하여 저주를 받은 바 되사 율법의 저주에서 우리를 속량하셨다”라는말씀입니다. 예수께서 십자가에 달려 죽으심으로, ‘나무에 달린 자마다 저주 아래 있다’(신 21:23)는 율법적 규정조차 스스로받으셨습니다. 그 결과 우리를 죄와 사망과 저주의 권세에서 해방시키셨고, 성령의 약속을 믿음으로 받게 하셨습니다. 장재형목사는 이 대목을 “십자가로 모든 죄값이 지불되었기에, 이제 우리에게 남은 것은 그 사실을 믿는 믿음뿐이다”라고요약합니다. 그리고 이렇게 의롭다 하심을 받은 우리는, 궁극적으로 성령의 인도하심을 받으며 점진적 ‘성화’를 향해 나아가게됩니다. 이러한 갈라디아서 3장의 가르침은 오늘날 교회 안에서 되풀이되는 율법주의적 경향, 즉 “교회법이나 전통, 의식과 예배 형식, 혹은 특정 윤리 규범을 준수하는 것이 구원의 조건”이라는 식의 주장을 향한 강력한 반박이 됩니다. 물론 장재형목사을 비롯해정통 신학자들은 “율법 무용론이나 도덕성 경시”를 말하지는 않습니다. 오히려 기독교는 세상 그 어느 종교보다 높은 윤리와사랑을 요구합니다. 다만 그것이 구원의 조건일 수 없다는 것입니다. 그리스도께서 이미 구원을 이루셨으니, 우리는 그 은혜를따라 복음을 순종하며, 성령 안에서 기쁨으로 선을 행하는 사람들로 변화되어야 합니다. 이것이 율법주의와 완전히 다른차원에서 율법을 ‘이행’하고 ‘성취’하는 참된 길입니다. 이처럼 바울은 갈라디아서 3장에서 매우 논리적이고 성경 해석에 근거한 변증을 통해, 거짓교사들이 퍼뜨리는 할례와 율법준수를 통한 구원론을 전면 반박합니다. 핵심은 “아브라함조차 율법이 아닌 믿음으로 의롭다 하심을 받았으니, 하물며 할례없는 이방인도 믿음으로 구원받는다”라는 논증입니다. 그리고 그리스도 안에서 우리는 하나가 되며, 그 모두가 아브라함의 영적자손이 된다는 사실입니다. 3. 그리스도 안에서의 자유와 성령의 역사, 그리고 오늘의 적용 갈라디아서를 ‘자유의 복음’이라고 부르는 이유는, 율법에서 벗어난 ‘방종’을 말하는 것이 결코 아니라, ‘죄와 사망의 권세로부터자유하게 된 복음’을 말하기 때문입니다. 3장 뒷부분(특히 3:23~25)에서 바울은 “믿음이 오기 전에는 율법 아래 매인 바 되어, 계시될 믿음의 때까지 갇혔다”고 표현합니다. 이처럼 율법은 우리를 하나님께로 데려가는 ‘몽학선생’(갈 3:24)이며, 죄를깨닫게 하되 죄를 해결하는 근원적 능력은 없습니다. 그러나 예수 그리스도의 십자가와 부활로 인해, 우리가 이 율법의 굴레와저주에서 벗어나 ‘믿음의 자유’로 나아가게 되었습니다. 따라서 갈라디아서 3장을 중심으로 한 바울의 결론은 명확합니다. “우리는 율법의 행위가 아니라 믿음으로 구원받았다. 이제성령을 선물로 받고, 성령이 주시는 능력과 열매로 살아간다.” 이것이 바울이 말하는 ‘복음의 능력’이며, 성령은 우리의칭의(Justification)를 견고케 하고, 그다음 단계인 성화(Sanctification)로 나아가게 만듭니다. 장재형목사의 목회와설교에서도, 믿음으로 받는 성령의 내주(內住)와 인도하심이 어떻게 개인의 삶과 공동체를 변화시키는지 많이 다루어집니다. 예수 그리스도의 십자가 구속 사건은 이미 단번에 완성된 구원의 길을 열었고, 그 구원의 효력은 성령의 역사 가운데 우리안에서 계속 자라나는 것입니다. 바울이 말하는 “육체의 정욕”과 “영의 소욕” 사이의 갈등은 갈라디아서 5장에서도 자세히 나오지만, 사실 3장부터 이미 “율법아래서 갇혀 있었다는 표현”을 통해 암시됩니다. 우리 본성은 여전히 죄성을 지닌 육체이기에, 율법을 통해 죄를 자각할 수는있어도, 스스로 죄를 끊어낼 능력이 없습니다. 하지만 성령이 임하시면, 죄를 다스릴 수 있는 능력이 주어집니다(롬 8장 참조). 율법이 외적인 규범으로 죄를 지적한다면, 성령은 그 내면에서부터 우리를 새롭게 하시어 “의롭다 함”에 합당한 삶으로인도하십니다. 이 점에서 장재형목사는 “성령의 임재를 체험한 성도는, 더 이상 규칙과 금지 조항만을 바라보며 신앙생활하지않는다. 오히려 은혜로 인해 자유를 얻고, 그 자유를 선한 목적과 이웃을 위한 사랑으로 쓰게 된다”고 가르쳐 왔습니다. 결국 갈라디아서 3장이 말하는 핵심은 다음과 같이 요약됩니다. 이 진리가 왜 중요한가? 그것은 우리가 날마다 실천적으로 맞닥뜨리는 신앙생활 속에서, 끊임없이 ‘율법’과 ‘은혜’ 사이에서혼동하기 때문입니다. 구원을 받았음에도 종종 ‘내가 주어진 규범을 잘 지키지 못하면 구원이 취소되는 것이 아닐까’ 하는두려움, 혹은 내 노력과 선행을 통해서만 하나님께 인정받으려는 잘못된 습관이 여전히 자리 잡을 수 있습니다. 그러나갈라디아서 3장과 사도행전 15장의 예루살렘 회의 결정을 기억할 때, 우리는 “오직 은혜”와 “오직 믿음”이라는 기독교의구원론적 표지를 다시금 붙들게 됩니다. 장재형목사는 “교회가 율법주의로 흐르면, 영혼을 자유케 하는 복음의 능력이 약화되고, 서로를 정죄하며 형식적인 경건을추구하는 공동체가 된다”고 경고합니다. 이어 “반대로 참된 복음을 붙들면, 성도들은 성령의 권능 가운데 선한 열매를 맺고, 타인을 섬기며 죄를 이기는 능동적이고 역동적인 삶을 산다”고 강조합니다. 이러한 ‘자유의 복음’이야말로, 갈라디아서 3장을통한 성령의 음성입니다. 오늘날 우리가 전해야 할 복음은 바로 이것입니다. 예수 그리스도께서 십자가에 못 박혀 죽으심으로 말미암아, 믿는 자누구든지 의롭다 함을 얻을 수 있습니다. 아브라함이 믿음으로 의롭다 함을 받았듯이, 우리 또한 그리스도의 복음을 믿으면의롭다 함을 받고, 성령의 내주를 통해 새로운 삶을 삽니다. 이는 “믿음으로 말미암아 구원을 받는다: 이신득의(以信得義)”라는단순하고 분명한 진리입니다. 마지막으로, 베드로 사도는 “너희 속에 있는 소망에 관한 이유를 묻는 자들에게 대답할 것을 항상 예비하라”(벧전 3:15)고권면합니다. 우리는 갈라디아서 3장이 제시하는 믿음의 정의와 율법의 한계, 그리고 예수 그리스도의 십자가와 부활이가져다준 구원의 능력을 분명히 이해해야 합니다. 그것이 우리의 신앙이 흔들리지 않도록 붙드는 기둥이 되어, 주님을 알지못하는 이들에게도 변함없는 복음의 메시지를 전하는 근거가 됩니다. 장재형목사는 이 점을 수십 년간 다양한 설교와 저술, 제자 양육 등을 통해 꾸준히 일깨워 왔으며, “이 복음을 붙드는 자들에게는 어떤 장벽도 무너지고, 어떤 종류의 종교적굴레에서도 벗어나 참된 자유를 경험하게 된다”는 사실을 늘 가르쳐 왔습니다. 결국 갈라디아서 3장은 우리에게 질문합니다. “너희는 성령을 어떤 방식으로 받았느냐, 율법 행위로냐 믿음으로냐?” 그리고이렇게 답합니다. “믿음으로 받고, 믿음으로 의롭다 함을 얻었다.” 이것이 우리의 고백이요, 삶으로 이어져야 할 진리입니다. 복음 안에서 자유로워지고, 성령 안에서 성장하며, 그리스도 안에서 더욱 하나를 이루는 교회와 성도가 되길 갈라디아서 3장은요청합니다. 바로 이것이 우리가 늘 붙들어야 할, 가장 단순하나 가장 심오한 신앙의 핵심입니다.