四旬節の十字架黙想 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章の御言葉を通して、イエス・キリストの苦難と愛、そして弟子たちに対する仕えの姿勢を深く黙想すべきであることをたびたび強調してきた。特に四旬節(サスンジョル)の期間には、キリストの苦難にいっそう近づき、その苦難がなぜ愛であるのかを悟る時間とすべきだと説く。ヨハネの福音書13章1節の「さて、過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くご自分の時が来たことを知り、この世にいるご自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛された」という聖句は、イエスが地上での宣教を締めくくられる直前、弟子たちに示された“最後まで愛する”姿勢の出発点である。 張ダビデ牧師は、この場面でイエスが示された態度と愛の実践こそ、私たちにも同様に求められる弟子道の核心であると教える。そしてそれを辿っていくならば、イエスがなぜ最後まで愛されたのか、その愛が何を内包しているのかを自然に理解することができるという。なぜなら、愛は苦難であり、その苦難が十字架へと続くからである。イエスが弟子たちを最後まで愛されたとは、彼らのために十字架に至るまでご自分を低くし、仕える立場に立たれたことを意味する。そしてこの愛を通して私たちに「愛は決して呪いではなく、祝福であり、命を得る道」であるという真理が宣言される。パウロが語った「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(Ⅰコリント13:13)という言葉のように、愛こそがすべてを完成させる鍵であり、この愛が私たちを永遠の命へと導くのだという。  張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章から続く19章までの記録を見れば、イエスが十字架の道へ入られる前に、どのような心構えと態度を持たれていたのか、どのように弟子たちを教え、世話をし、最終的にどんな決断で従われたのかを詳しく知ることができると語る。ヨハネ13章からイエスの苦難が本格的に始まるが、その始まりにはいつも愛が置かれている。「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という宣言は、イエスがなぜ苦難を避けられなかったのかへの明確な答えとなる。愛ゆえに、最後まで愛するがゆえにイエスは苦難を引き受け、それが私たちの救いのために不可欠であることを自ら示されたのだ。 張ダビデ牧師は、この事実が私たちの信仰生活においても非常に重要だと強調する。私たちは時に苦難を呪いや刑罰としてのみ捉え、神が私たちを「懲らしめている」のだと考えがちである。しかし実際には、苦難の中には神の深い愛と摂理が織り込まれており、それが最終的に私たちをより成熟させ、聖なる者へと造り変えていくのだという。  聖書の各所には、苦難の益や苦難へ参与すべきことが何度も語られている。たとえば詩編119編では「苦しみに会う前には私は迷い行きをしていました。しかし今はあなたの仰せを守ります」「苦しみにあったことは私にとって幸いでした。それによって私はあなたのおきてを学ぶようになりました」と告白し、苦難がむしろ霊的成長をもたらすと告げている。またローマ書5章3〜11節のパウロの告白は「わたしはキリストと、その復活の力とにあずかり、その苦難にあずかることを知りたい。そしてその死のありさまにあやかって、何とかして死人のうちからの復活に達したい」というように、苦難を通してキリストをいっそう深く知りたいという熱望を示している。コロサイ1章24節の「今や私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜び、キリストの苦難の欠けたところを、その体である教会のため、私の肉体に満たしているのです」や、Ⅱテモテ1章8節の「福音のために苦しみを受けよ」、Ⅱテモテ2章3節の「あなたはキリスト・イエスの立派な兵士として私と共に苦しみにあずかりなさい」、そしてⅠペトロ2章20〜21節、4章13節などにもキリストの苦難への参加を求める命令が繰り返し出てくる。これらのみ言葉はすべて、苦難は決して避けるべきものではなく、むしろ喜んで受け入れ、その中でキリストの道を学び、従うべき重要な霊的真理を提示している。  張ダビデ牧師は、これら聖書の教えを土台として、イエスが弟子たちの足を洗われたヨハネ13章の出来事こそ「愛の内に含まれた苦難」の代表的な例だと説明する。私たちはしばしば愛を語るが、愛は決して言葉だけで完成するものではない。愛するということは、相手のために自分を差し出すこと、相手が当然受けるはずの私の仕えを喜んで担うことである。イエスは弟子たちと最後の晩餐をともにされたその席で、立ち上がり上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻いて、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗われた。これは当時の文化において、しもべが主人や来客の足を洗う行為と同じであり、徹底的な「低いところでの奉仕」を意味する。しかし弟子たちはその前に互いに争っていた。「誰が一番偉いのか」という問題で意見が対立し、中には主の御国で右と左の座に就かせてほしいと願う者までいた。それはすなわち「自分が他人よりも高く評価されたい」という願望を示すものだった。 張ダビデ牧師は「このように弟子たちが世の価値観を抱いて高くなろうとしたがゆえに、イエスは逆に最も低い地位に立つことで、弟子たちに神の国の真の法則を自ら体現して示された」と解説する。  主が見せてくださった神の国の法則は、世の価値観と徹底的に反対である。世は「より高い地位、より大きな権力、より多くの名誉」を求めるが、イエスは「より低い地位、より小さな権力、より謙った姿」で仕えよと教えられる。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は仕える者となり、あなたがたの間でいちばん上になりたいと思う者は、みなのお世話をする者とならねばならない」(マタイ20:26〜27)との言葉の中で、イエスは新しい秩序を宣言された。人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、その仕えは自らの命をあがないの代価として捧げるところにまで至るのだ。 張ダビデ牧師は、イエスが語られた仕えの道は決して容易ではなく、それはすなわち自我の死と苦難を伴うものであると強調する。しかしキリストの弟子として私たちがその道を歩むとき、はじめて真の命、真の喜び、復活の力を体験することができる。世の論理では到底理解できない「下る道が上る道になる」という逆説が、神の国の中では真実となるのだ。  ヨハネの福音書13章全体の流れを見ると、イエスはご自分に迫っている十字架の運命をすでに知っておられた。張ダビデ牧師は「イエスは、この世を去って父のみもとに行く時が来たことを知り」(ヨハネ13:1)という御言葉が、まもなく始まる苛酷な苦難と死の時を明確に認識しておられたことを示唆していると言う。しかしそのような状況にあっても、イエスはご自分の者たちを最後まで愛された。「最後まで」という表現には「完全に、徹底的に、永遠に」という意味が含まれる。それは単なる一時的な感情や一過性のケアではなく、十字架ですべてを差し出すまで確固として進められる愛である。張ダビデ牧師は、この事実こそクリスチャン生活の核心だと力説する。私たちは苦難に直面するとき、しばしば自分のことだけに没頭してしまう。自分の心配、自分の置かれた状況、自分の問題に囚われ、他人を顧みる余裕を失う。しかしイエスは十字架の痛みが目の前に迫っていても、むしろ弟子たちを集めて最後の晩餐を設け、彼らを教え、慰め、仕えられた。これこそ真の愛であり、私たちが見習うべき姿だ。  その愛の頂点が足を洗うという出来事で表れる。当時のパレスチナの道はほとんど舗装されていない土の道であり、履物もせいぜい現代でいうサンダル程度、あるいはさらに貧しい人々は裸足で歩くことも多かった。一日中、埃まみれの道を歩けば足が汚れるのは当然なので、家に戻ると水で洗う風習があった。誰かが夕食に招かれたなら、しもべがその客人の足を洗ってもてなしを示した。しかし最後の晩餐の席、しかもイエスが弟子たちと共に過ごす厳粛で大切な瞬間に、弟子たちは「誰が偉いか」を争い、誰も足を洗うしもべの役割を引き受けようとしなかった。そこでイエスが直接上着を脱がれ、腰に手ぬぐいを巻き、弟子たちの足を洗われたのである。 張ダビデ牧師は「これはイエスが口先だけの仕えを唱えられたのではなく、それをはっきりと示す行動をとられた」ことを顕著に示す出来事だと言い、主が弟子たちに教えられたことが実際の生活にどのように具現されるか、その実演を自ら行なわれたと解釈する。主の生涯は御言葉そのものであり、その御言葉が行動となって現れる姿こそ、私たちが絶えず黙想し、見習うべき弟子道のエッセンスだと語る。多くの人々が愛を説き、仕えを教え、分かち合いを唱えるが、実際にその生き方をしていない場合は多い。しかしイエスは語られたとおりに行動し、さらには死の瀬戸際にあっても他者に仕える姿でご自分を差し出された。これが十字架へと至る道であり、同時に愛の道だった。私たちがこの愛の道をいっそう深く黙想し、実践すべきことを、張ダビデ牧師は四旬節だけでなく日常のすべてにおいて決して見失ってはならないと再三強調する。  このように愛は苦難を伴う。単に美しい感情や映画が描くロマンチックな要素ではなく、自分を徹底的に低くして相手を高くするために払う犠牲的行為が愛であるということ。もしイエスがご自分の威厳や権利を主張されていたなら、弟子たちの足を洗う理由はまったくなかったはずだ。しかしイエスは自ら進んでしもべの位に降りられた。その結果、弟子たちは言葉だけで聞いていたイエスの教えを目で直接見て、真の仕えの意味を体得することができたのである。 張ダビデ牧師は、この出来事全体を今日の教会や信仰共同体の生活に適用すべきだと力説する。教会の中でも、職分や役割、年齢や社会的地位、あるいは財政的条件などによって高慢が生まれ、「仕えを受けたい」という思いが大きくなれば、決して主が望まれる共同体をつくることはできない。かつて弟子たちが互いに高くなろうとした姿を、現代の私たちが繰り返してはならず、むしろイエスの行動を思い起こし、それに倣うことで、互いの足を洗い合う純粋な交わりが実現されるべきだというのだ。  愛は結局、相手からの影響を受けないとも言われる。相手がどう反応しようと、たとえ自分を裏切ったり誤解したりしても最後まで責任をとるのが愛だ。ヨハネ13章を読むと、イエスはイスカリオテのユダがご自分を裏切ることをすでにご存じであったにもかかわらず、彼の足も洗われたことがわかる。これは人間的な観点では到底理解しがたい決断だが、イエスはそういう道を選ばれた。 張ダビデ牧師は、これこそが「神の国の逆説」だと呼ぶ。世の中では報復や憎しみ、傷つけあいの連鎖が自然に起こるが、神の国ではむしろ恵みと赦し、自己犠牲と愛が溢れる。だからイエスは「あなたがたは私を先生また主と呼びますが、それは正しいことです。実際そのとおりだからです。それなのに、主であり先生であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:13〜14)と語られた。張ダビデ牧師は、ここで「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」という命令こそ、教会共同体と信徒が日常において実践すべき核心だと主張する。それは「弟子が弟子に、兄弟が兄弟に、互いに仕える生き方」をすることであり、その仕えの中でイエスの栄光が現れるからだ。  もちろんこれは容易いことではない。愛は驚くほど多くの犠牲を要求する。イエスが語られた「偉くなりたい者、いちばんになりたい者は仕える者となり、しもべとならなければならない」というこの逆説は、人間の本性が受け入れ難い部分である。誰しも自分が高く評価されたい、認められたい、他人よりも優位に立ちたいという欲望があるからだ。しかしイエスは「あなたがたの間ではそうであってはならない」(マタイ20:26)と仰せられた。私たちがキリストの福音を信じて従うならば、世のやり方ではなく、神のやり方で考え行動しなければならないということだ。 張ダビデ牧師はこれを「価値観の終末」と表現する。古い人の価値観が完全に終わりを迎え、新しい人の価値観が始まってこそ、本当の弟子になれるのだと言う。世の目で高いと考えられる場所ではなく、神がご覧になって価値ある生き方の場所を選ぶこと、それこそが苦難の道であり、同時に祝福の道でもある。  イエスは弟子たちとの最後の晩餐でパンとぶどう酒を分け与え、「これはあなたがたのために与える私のからだである。これを行なって私を覚えていなさい」(ルカ22:19)と仰せになった。張ダビデ牧師はこの場面について、イエスの自己犠牲が単なる理論的教義や教訓ではなく、きわめて具体的で現実的な出来事であることを肝に銘じるべきだと説く。パンはイエスのからだを、ぶどう酒はイエスの血を象徴する。それはイエスが弟子たちのため、また人類の救いのために実際に身を裂かれ、血を流された事実を記念するものだ。ところが、この厳粛な瞬間でさえ弟子たちは自分の権利や地位を気にかけ、「誰がより大きいのか」をめぐって争っていた。これは彼らが主の苦難と犠牲を完全には理解できていなかったことをよく示している。しかしそれでもイエスは彼らを捨てることなく、最後まで教え、元の位置に立ち返らせてくださった。 張ダビデ牧師は、こうして弟子たちを最後まで見捨てずに導かれたイエスの愛を見れば、私たちもたとえ弱く欠けていても神の愛のうちに新しく生まれることができると悟らねばならないと強調する。  特に教会は、苦難について正しく教える責任を担っていると張ダビデ牧師は力を込めて語る。多くの信徒がいまだに苦難を「神に見捨てられた証拠」あるいは「神の刑罰」として誤解しているが、聖書の多様な本文が語るところはまったく異なる視点である。イエスが私たちを最後まで愛してくださったように、私たちも苦難を通して信仰が精錬され、愛をさらに深く学び、キリストに似る道を歩むようになる。パウロの多くの書簡やペトロの勧めは、苦難がかえって私たちの喜びとなり、その苦難の中で私たちが真の希望を見いだすのだと宣言している。 張ダビデ牧師は「私たちはキリストとともに死にあずかり、その復活の力にもあずかることこそ、信仰の究極の実りだ」と教える。そしてその愛のうちでこそ、私たちは永遠の命を得るのだという。  ヨハネ13章に再び目を向けると、イエスが悲惨な十字架へ向かう道に入られる直前、弟子たちに最初に示された姿が足を洗う場面であったことは非常に印象的だ。主は「いまこそ私はあなたがたを離れ、父のみもとへ行く時が来た。この世を去る直前だ」という事実を知っておられたのに、それでも弟子たちのために最後の晩餐を準備し、彼らの足を洗われた。それは自らしもべとなって「愛の手本」を示そうという意図が明白だった。 張ダビデ牧師は「イエスにとっては切迫した瞬間であればあるほど、ご自分だけに没頭するのではなく、むしろ弟子たちを目覚めさせ、霊的に立たせようとされるほどの愛があるとわかる」と述べる。そして私たちも人生の苦難や逆境が深まるほど自己憐憫や不平に陥るのではなく、むしろ身近な人々を顧みて仕えることができるような信仰と決断を求めて祈るべきだと助言する。  さらに、弟子たちが足を洗われる姿にどのように反応したかに注目する必要がある。特にペトロは「主よ、あなたが私の足を洗うなど、とんでもありません」と叫んだが、イエスが「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関わりもないことになる」と言われると、すぐに「主よ、それなら足だけではなく、手も頭も洗ってください」と言い換える(ヨハネ13:8〜9)。ここでイエスは「すでに身体を洗った者は、足以外に洗う必要はない」と教えられ、霊的にはすでにきよめられた弟子であっても、日々の歩みの中で付着する罪や過ちを洗うことが必要であることを示唆された。 張ダビデ牧師は、この箇所から、私たちがイエス・キリストを信じて救いを受けたとしても、日常生活の中で足が汚れるように罪に染まることがあるため、日々悔い改め、洗い清められるべきだという大切な教訓を得られると強調する。そして、その悔い改めのプロセスもまた、互いに仕え愛し合う共同体の中で行われるとき、豊かな実を結ぶのだと付け加える。  イエスが弟子たちの足を洗う出来事が終わると、主は「私があなたがたにしたことがわかりますか」と問われた(ヨハネ13:12)。張ダビデ牧師は、このイエスの問いかけが現代の私たちにも同じように投げかけられていると見る。「本当にイエスのなさったことを知っているのか。その仕えと愛、そして十字架の意味を正しく悟っているのか」という問いである。知るからこそ行動でき、悟るからこそそれを伝えられる。だから張ダビデ牧師は、もし教会がこの本質を見失い、プログラムや組織運営、数的成長のみを追求するなら、「イエスがなさったこと」を知っているとは言えないのではないかと指摘する。イエスの足洗いの出来事は単なる一度きりの慈悲深い行為ではなく、弟子道を定義する象徴であり、教会共同体が存在する理由を宣言する予表である。すなわち「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい戒めの土台を具体的に示すモデルなのだ。  また、イエスは足洗いのあと、弟子たちに向かって「私があなたがたにした通りに、あなたがたもするように」と命じられた(ヨハネ13:15)。張ダビデ牧師は、この命令の口調が非常に断定的であることを強調する。イエスはこれを選択や提案ではなく、弟子ならば必ず従うべき命令として下されたのだ。愛は理論ではなく実践であり、仕えは言葉ではなく行動である。だから教会は互いに足を洗うことでイエスの愛を世に示し、その結果としてキリストの福音が証しされるべきだというのが、張ダビデ牧師の中心的な教えである。結局のところ、愛と苦難は切り離せない関係にある。他人に仕えようとすれば自分が犠牲を払わねばならず、他人を高めようとすれば自分が低くならねばならない。他人の罪や過ちを覆おうとすれば、まず自分が理解と忍耐を示さなくてはならない。その過程は時に痛みや困難を伴い、私たちの自己を絶えず砕く必要がある。しかしその道こそイエスが歩まれた道であり、十字架へと続く道なのだ。  このようにイエスの最後の晩餐と足洗いの出来事がもつ意味を総合的に見るとき、私たちは愛とは何かをより明確に知るようになる。愛は決して感情的な喜びや、単なる好意を超えたものである。愛は献身と犠牲を前提とし、ときに裏切りや誤解さえも甘受する行為だ。イエスが最後までご自分の者たちを愛されたように、私たちも誰かを最後まで愛する力を持たねばならない、と張ダビデ牧師は語る。もちろん人間的な意志や能力だけでは不可能であり、聖霊の助けが必要だ。しかし私たちがその道を歩む決心をするとき、イエスの御霊が私たちのうちに働き、その道を全うできるよう導いてくださる。教会がキリストのからだとして世の中で光と塩となるとは、この愛の実践を通して証明されるのである。  さらに張ダビデ牧師は、苦難を恐れたり回避しようとするだけでは、決してこうした愛の成熟には至れないと指摘する。苦難は最終的に、自分がどれほど愛しているかを炙り出す道具となり、同時にその愛を一層清める火ともなる。イエスが十字架へ向かわれる道中には、弟子たちの裏切り、ユダヤ人宗教指導者の謀略、兵士たちのあざけりや鞭打ち、そして凄まじい痛みが次々とあった。しかしそれらすべての状況こそが「最後まで愛された」という御言葉を最も劇的に示す装置となった。もし愛がなければイエスは決して十字架を選ばれなかっただろうが、愛があったがゆえにその苦難を自ら受けてくださり、私たちを救ってくださったのだ。これは教会と信徒が世に遣わされる理由とも重なる。たとえ世が私たちを憎み排斥しても、私たちの内におられるイエスの愛が、その苦難を克服する力を与えてくださるからである。  ここで注目すべきは、「最後まで愛された」という言葉には受動的な意味以上に能動的な意味が含まれているという点だ。イエスは単に弟子たちをあきらめずに「見捨てなかった」というだけでなく、さらに一歩進んで「積極的に最後まで彼らの世話を焼かれた」という意味を持つ。最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈られるときも、イエスは弟子たちの弱さを心配しつつ「誘惑に陥らないよう、目を覚ましていなさい」と忠告された。張ダビデ牧師は、この勧めもまた「愛の最後まで行く姿」として見ることができるという。主は十字架に至る苦しみと死の恐怖の前でも、弟子たちの霊魂の状態と、その信仰がくじけないよう促すことに集中された。これが愛の最終形である。私たちはこういうイエスの姿を思うとき、自分の限界を感じるときにこそ「それでもなお(にもかかわらず)」という言葉をもって愛をやめられなかった主を思い起こすことができるはずだ。  張ダビデ牧師は、足洗いの直後、イエスが「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と宣言された事実に注目すべきだと語る(ヨハネ13:21)。つまり、もっとも美しい愛の場面の後に裏切りの予告が続くのである。私たちが容易に納得しがたい逆説的な状況だ。しかしイエスはこの事実を知りながらも愛を引っ込められなかった。イエスの足洗いの中にはユダも含まれていたはずなので、結果的にイエスは裏切りの張本人の足までも自ら洗われたことになる。張ダビデ牧師は「これこそ、人間的な打算や感情を完全に超越した神的な愛の本質だ」と強調する。もし私たちが、自分を裏切る者をあらかじめ知っていれば決して黙って放置はしないだろうし、少なくとも好意的には扱えないだろう。しかしイエスは裏切りを阻止されず、ユダに最後まで恵みを与えられた。最終的に裏切りの報いを負ったのはユダ自身となったが、少なくともイエスの愛の中で彼に閉ざされた扉はなかったわけだ。これがイエスの「最後まで愛される」姿の具体的かつ痛ましい現実なのである。  愛が苦難を伴うゆえに、もし教会が苦難を教えないなら、愛の本質も失われるだろうと張ダビデ牧師は警告する。もし教会が苦難なくしてうまくいくことや順調さだけを強調するなら、イエスが示された真の十字架の道からはかけ離れてしまうおそれがある。十字架なき復活はあり得ず、苦難なき栄光はキリストの教えから外れるからだ。だから四旬節は、キリストの苦難を深く黙想し、その苦難の内にある神の愛を振り返り、私たちもその愛を倣って生きる決心をする期間となるべきである。そしてこの決心は四旬節に限定されることなく、復活の後も教会が継続して実践すべき課題である。張ダビデ牧師は、教会の使命は「その愛を世に知らせること、苦難を受けるすべての人々にイエスの仕えと犠牲を伝えること」だと教えている。  ヨハネ13章1節の「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という言葉は、イエスの地上での宣教の最後の局面を開く序曲であり、そのすべての苦難のプロセスを解き明かすキーワードとも言える。イエスは弟子たちとともに最後の晩餐をし、弟子たちの足を洗い、新しい戒めを与えられ、その後捕らえられ、苦難を受け、死なれ、復活される。このすべての流れは、愛という大きな柱で貫かれている。張ダビデ牧師は「愛すると言いながら最後まで愛さないのなら、それは真の愛とは言えない」と語り、最後まで愛することによって苦難さえも抱きとめ、その苦難の中で復活の栄光を望むことこそキリスト教信仰の核心だと力説する。実際、イエスはヨハネ17章で祈られるときにも弟子たちのために執り成し、「真理によって彼らを聖別してください」と願われた。さらにはご自分を捕らえに来た者たちにも直接「わたしがそれだ」と名乗り、抵抗されなかった。それほどに徹底して神の御旨に従い、愛をもって行動されたのだ。弟子たちの裏切りと逃亡を知りながらも、彼らを再び立ち上がらせることを期待しておられる思いがうかがえる。  張ダビデ牧師は、現代の教会と信徒がこの御言葉を黙想するとき、私たちも結局この道を歩まなければならないという自覚が起こるべきだと強調する。「もしあなたがたが私を先生、主と呼ぶならば、あなたがたも互いに足を洗い合うべきではないか」というイエスの御言葉を深く刻むべきなのである。教会の中で職分が高いからといって仕えを受けたがったり、世の権力や金銭、名誉に執着するならば、決して主の弟子として成熟することはできない。イエスが示された仕えの手本は、誰にとっても実践は難しいが、教会が存在する理由でもある。愛は私が引き受れるべき分であり、その分を通して主の栄光が現れる。このことを覚え、それぞれの位置で主の足洗いをもう一度再現するのが教会の使命だという。  弟子たちが誰が偉いかと論じ合っていたマタイ20章やルカ22章でも、イエスは「異邦人の支配者たちは人々を支配し、権力を振るうが、あなたがたはそうであってはならない」とはっきり語られた。これは今日の教会にも同じく当てはまる言葉である。イエスが仕えを通して真のリーダーシップを示されたのなら、教会の指導者であれ信徒であれ、すべて仕える姿勢を持つのが当然だ。張ダビデ牧師は、「偉くなりたい者は仕える者となり、いちばんになりたい者はしもべとならねばならない」というイエスの教えこそ、教会の霊的秩序を正しく打ち立てる基準だと説く。その秩序がきちんと立つとき、教会は世とはまったく異なる光を放ち始める。互いに高くなる世界ではなく、互いに低くなる共同体。それこそを通して人々は「イエス・キリストの福音が真実である」ということを体験的に悟るようになる。  張ダビデ牧師がヨハネ13章を根拠に示すメッセージは明確である。イエスはこの世にいるご自分の者たちを最後まで愛され、その愛を具体的に示されたうえで、その過程で苦難を決して避けられなかった。むしろ苦難を愛で耐え抜き、その道を通して人類の救いを成し遂げられた。私たちもキリストの弟子として召されたのなら、同じく愛の道、仕えの道、苦難の道を歩むべきであり、その道において現れる栄光は最終的に復活のような真の喜びとして私たちに与えられる。たとえ今は私たちも弟子たちのように「誰が偉いか」という争いに陥り、イエスの教えを十分に理解できないことが多いとしても、大切なのは主が変わらず私たちを最後まで愛してくださり、御言葉と御霊を通して私たちを導いてくださるという事実だ。私たちがすべきは、その愛に従い、日常生活の中で互いに足を洗い合う実践をやめないことである。これこそが教会の本質であり、私たちが追求し続けるべき価値なのだ。  四旬節の黙想期間だけでなく、日常のあらゆる場面で、イエス・キリストの苦難と愛、そして「最後まで愛される」仕えを思い返すとき、私たちは自分の誤った価値観を下ろし、神の国の価値観によってあらためて武装し直す必要がある。世は今もなお力や物質、名誉を最上とみなすが、イエスはご自分の命を捨てて私たちを贖われ、しもべの姿で生き抜かれ、復活の栄光によってそれが真理であることを証明された。だからこそ私たちは自分を顕すことより人を高くすることに注力し、互いの足を洗い合うしもべの心で生きるとき、初めてイエスの弟子と呼ばれる資格を得るのである。張ダビデ牧師は「何にもまして、まず私たちはイエスの愛のうちで自分の罪を洗い清められたことを思い出すべきだ」と語る。そしてその洗い清められた恵みを日々新たに感謝しつつ、他の人々に対しても喜んで仕えを実践するのだ。そうすることで、教会の中ではもはや「誰が偉いか」という争いではなく、互いを高め合い励まし合う美しい交わりが起こり、その姿を通して世の人々はイエスこそが真に生きておられる主であると発見するようになるだろう。  ヨハネ13章の核心句である「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という御言葉は、イエスの苦難が始まる序曲であると同時に、弟子たちの足洗いの出来事とともに「愛の最も濃厚な表現」を示す場面である。そしてこの物語は教会史2000年の間、数多くの信徒と教会によって繰り返し読まれ、教えられ、実践されてきた。張ダビデ牧師は、この場面こそ私たちが決して忘れてはならない福音の精髄であり、教会の存在理由そのものだと言う。四旬節はもとより、日常的にもこの場面を絶えず黙想するならば、私たちもイエスの愛と仕えを見習い、互いの足を洗う備えができるはずだ。そしてその小さな献身と苦難を分かち合う愛が積み重なることで、教会は主のからだとして完全な機能を担い、世はキリストの光によって少しずつ変えられていく。イエスが最後まで私たちを愛してくださったように、私たちも最後まで他者を愛することこそ、キリスト者の究極的な召しであり、福音の驚くべき力なのである。愛しつつ最後まで愛する生き方、仕えながらしもべの姿で仕える生き方こそ、イエス・キリストを信じる者に求められる真の従順であり、その中で私たちは神の国の栄光を前もって味わう。やがてそれは究極的に与えられる天国において、イエスが「よくやった、善良で忠実なしもべだよ」と称えてくださる瞬間への予告編でもある、と張ダビデ牧師は教えるのである。 www.davidjang.org

日ごとの糧を求める生き方 – 張ダビデ牧師

1. 「日ごとの糧」の意味と張ダビデ牧師の教え 私たちがよく口にする「主の祈り」は、マタイの福音書6章9節から13節に登場します。その中の「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」(マタイ6:11)という願いは、キリスト者であれば誰もがしばしば唱える大切な句です。しかし、多くの信徒は口先で唱えるだけで、その実際の意味を深く考えないまま過ごしてしまうことも少なくありません。これについて、張ダビデ牧師は多くの講義や説教で「神様が本当に“パンをください”と祈れと仰せになったとき、そのパンが何を意味するのかを深く黙想する必要がある」と強調しています。つまり「日ごとの糧」が指し示す具体的な次元は、私たちの生存に必要な物質的なものを含むと同時に、さらに深い霊的価値や天の御国への憧れまでも包含するというのです。 人々は「日ごとの糧」と聞いて霊的な糧を思い浮かべることがあります。もちろん霊的なみことばや恵みは絶対的に重要ですが、主の祈りの中でイエス様が直接教えてくださった「日ごとの糧」は、まずは非常に現実的な次元、すなわち日々食べて生きるために必須の糧を指しています。張ダビデ牧師は「私たちが『霊的な糧』だけを強調して、現実的に必要な糧を軽視するならば、それはイエス様が教えられた祈りのバランスを失うことになる」と述べています。なぜならイエス様はマタイ4章4節で「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる」と仰せられ、同時にマタイ6章の主の祈りでは「食べるものを求めなさい」とも明確におっしゃったからです。この絶妙なバランスの中で、私たちは二つの事実を共に受け取るべきなのです。神のみことばは人間の生活を支える根本的な霊的原理であり、しかし日々生きる上で欠かせないパン(物質的糧)も神に求めるべき重要な部分である、ということです。 では、なぜ「日ごとの糧」を求める祈りがそれほどまでに切実なのでしょうか。張ダビデ牧師は申命記8章3節のことばに注目します。「人はパンだけで生きるのではない。主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(要約)。この箇所は、神が荒野でマナを降らせた目的を示しています。マナを通して神の民は最低限の食糧を供給され、「神は実際に私たちの飢えを満たしてくださるお方だ」という真理を悟るようになります。しかし同時に、マナ自体が人生のすべてではなく、そのマナがどこから来たのかを認識し、神のみことばに従って生きるよう導くのが神ご自身だということを学ぶのです。張ダビデ牧師はここで「もしマナがなければ、イスラエルの民は飢えて死ぬしかなかった。しかしマナだけが与えられて、神のみことばがなかったならば、彼らは荒野生活の真の目的とアイデンティティを見失っただろう」と力説します。結局、パンも必要ですが、そのパンが単なる物質的豊かさの終着点ではなく、「神が与えてくださる生きた恵み」であることを知らなければなりません。だからこそ主の祈りの「日ごとの糧をお与えください」という句は、私たちが毎日食べたり着たりする経済的問題を神に委ねるように促しつつも、その供給の主が神であることを忘れてはならない、と命じているのです。 張ダビデ牧師はここで「パンとはすなわちお金のこと」とたとえることもあります。現代社会においてパンや餅は象徴的であり、実際に私たちの日常で最も身近にやりとりされる形は貨幣である場合が多いからです。ゆえに「日ごとの糧をお与えください」という願いの中には、「日々生きるために必要な経済的資源・物質をお与えください」という祈りが含まれています。すると「どれほど稼げばよいのか」「どれほどあれば十分なのか」という問いが生じるかもしれませんが、その限度を一律に定めることは難しいとしても、少なくともイエス様が提示された祈りの意図は「自分が日々必要とするだけでなく、周りの人々をも仕えることができる分を、正々堂々と求めなさい」ということです。どの程度の物質が適切でどの程度が過剰かは人によって異なるかもしれませんが、その中心にある精神は「自分の欲望や贅沢のためではなく、神の国と愛の実践のために必要な財政を求める」という点です。 主の祈りは大きく見ると、まず「天におられる私たちの父よ、み名があがめられますように。み国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という「二つの前提」から始まります。張ダビデ牧師は「この二つの前提が主の祈り全体の方向を決定づける」と語ります。神の御名があがめられること、そして神の国が来ること。これが私たちの人生の目的と存在理由を示しています。人は本来、神のかたちに造られ、神の国の完成に向けて自分の人生を捧げる存在なのです。そういう観点から「まず神の国とその義を求めよ」とおっしゃったイエス様のみことばは、至極当然であり、絶対的な命令だと言えます。そしてその命令に実際に従う過程で、私たちは「今日必要なパン」を求めることになるのです。張ダビデ牧師はこれを「神的優先順位の原理」と呼びます。神の国が先にあって、その次に物質が伴う。しかし物質を軽んじるのでもなく、むしろ神に大胆に求め、一方で求めたその物質を通して神の国に積極的に参与すべきだというのです。 このような思考法から導き出される核心メッセージがあります。申命記8章3節のみことばのように、「パンだけがすべてではない」と知ると同時に、「しかしパンも神が与えてくださらなければ享受できない」ことを悟る、ということです。つまりパンを軽んじるのではなく大切にしつつ、それが私たちの目的や人生のすべてになってしまうことを戒めるのです。このとき張ダビデ牧師は、イエス様が荒野で試みを受けられたとき(マタイ4:1-11)、「これらの石をパンに変えよ」というサタンの誘惑にどう対処されたかを改めて強調します。イエス様はパン自体を否定なさったわけではありませんが、「人はパンだけで生きるのではない」というみことばを引用し、パンより上にあるみことばの優先性を宣言されました。これこそが信徒の理想的な姿勢であり、日ごとの糧を求めつつも、その糧が神より上位に置かれないようにしなければならない、と張ダビデ牧師は説きます。 このように「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、信徒にとって極めて現実的な要望と霊的な意味が結びついたリクエストです。一方では「お腹がすいているので食べるものをください」と、子どもが親に自然に言うように神様に祈ることであり、他方では、そのパンを与えてくださる方が神様であることを忘れない、という信仰告白でもあります。張ダビデ牧師は特に、ルカの福音書11章に登場する「真夜中に友人のところへ行ってパンを三つ借りる」例えを引用し、これこそ日ごとの糧を求める祈りの基本姿勢を示していると解説します。具体的には、ルカ11章5節以下に言及されたこの物語には、夜遅くにやってきた客をもてなすために熱心にパンを願う人の姿が描かれます。その時間帯に訪ねること自体が失礼にあたり得ますが、友人にパンをくれとドアを叩く切実さ、そしてそれに応じずにはいられない愛と連帯が核心テーマです。最終的に、この切実さと愛が交わるとき、パンを持っている友人は戸を開けてパンを与えざるを得なくなるのです。 張ダビデ牧師はこの場面を「切実な祈りとは何か」をよく示す例だと言います。まさに真夜中にドアを叩きながら「友よ、友よ、パンを三つだけくれ」と叫ぶように、私たちも神の前に出て「神様、今日も私に必要なものを与えてください。私だけでなく、私の周りの不足や苦しんでいる人々を助けるために、もっと多くの資源が必要です」と祈るべきだというのです。ここで重要なのは「三つのパン」という表現に象徴性があること。自分が食べる一塊だけでなく、共に分かち合うパン、隣人を顧みるためのパンまでも求める姿勢を示しているのです。結局、これが「日ごとの糧を求める祈り」に込められた深い意図です。単に自分の飢えを満たすだけの祈りではなく、自分を取り囲む他者の不足をも一緒に抱え、共に解決しようとする愛の祈りなのです。 主はルカ11章9節以下で次のように語られます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」そして続く13節では「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っているのです。まして天の父は、求める者たちに聖霊をお与えにならないはずがあるでしょうか」と言われました。張ダビデ牧師はここで、「聖霊」こそ神がくださる最大の賜物であり、神の御霊を受けた信徒が日ごとの糧を求め、それを分かち合う生き方へと進む際の根本的原動力になると強調します。なぜなら、物質を得たとしても、それを自己満足と欲望を満たすために使うのか、それとも神の国のために分かち合い仕えるために使うのかは、まさに大きな岐路だからです。その分かれ道で、神が与えてくださる聖霊は「愛の心、他者を顧み思いやる心」を呼び起こす必須の要素となります。ですからイエス様は「何でも求めれば与えられる」と言って終わるのではなく、最終的に神の御霊を求めるところまで祈りを拡張すべきだと示してくださったのです。 では実際に、どうやって日ごとの糧を求め、また聖霊を受けてその糧を分かち合うことができるのでしょうか。張ダビデ牧師は「具体的な現実の中で日ごとの糧を求める祈り」の例として、マタイ17章24節以下に登場する「神殿税を納めるためのお金を魚の口から得た話」をよく挙げます。イエス様と弟子のペテロは神殿税を払わねばなりませんでしたが、手元に適切なお金がありませんでした。そのときイエス様は「海に釣り針を投げて、最初に上がってくる魚を捕まえて、その口を開けると1シケルの銀貨が見つかるから、それであなたと私の分を払いなさい」と命じられます。これは驚くべき奇跡です。しかしこの奇跡は単に「困ったとき空からお金が降ってくる」式の話ではなく、神の国を拡張するために必要が生じたとき、神がその不足を満たすことがおできになる、という象徴を示しています。張ダビデ牧師は「魚が銀貨をくわえていた」という一見荒唐無稽にも思えるエピソードを通して、私たちが日ごとの糧を求める祈りは決して空しくない、と悟るように言います。人の計算では不可能に見える状況も、神が働き始められれば変わり得るのです。ただし、そのお金を手にしたときに「それをどこへ使うのか」という問題、つまり神の国と愛の実践のために使う準備が整っているのかどうかが重要だ、というわけです。 これらを総合すると、「日ごとの糧を求める祈り」は、神の国が人生の絶対的優先順位だと認識する一方で、日々に必要な現実的要求を神に切に願えというイエス様の教えに基づいています。そして、その祈りの姿勢は欲望ではなく愛と分かち合い、隣人への思いから出発すべきです。このように「お金」自体を求めても、「それを愛をもって使う」という決断とともに求めるとき、神は「その願いどおり」、さらには「必要以上に」満たしてくださる方です。ルカ11章でイエス様が教えられたたとえの核心はそこにあり、張ダビデ牧師が常々力説する「信仰生活の実際的なスタイル」でもあるのです。 2. 求めよ、探せ、たたけ ― 祈りと愛の実践 ルカ11章9節のみことばである「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」は、キリスト者の祈りの生活を象徴的に描き出しています。ここで私たちは「求める者」になること、「探す者」になること、そして「たたく者」になることがどういう意味なのかを考えてみる必要があります。張ダビデ牧師はこの本文を解き明かしながら、「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」のフレーズが、それぞれ異なる次元の祈りの段階を示していると説きます。単に一度のリクエストで終わるのではなく、段階的に神に近づく姿勢を現わしているというのです。 第一に、「求めなさい」は、私たちが最も基本的に持つべき祈りの姿勢を意味します。先に見たように、具体的に「神様、今日食べる糧が必要です。経済的に苦しい状況にあります。助けてください」と祈る態度です。張ダビデ牧師はこの段階を「子どもの心情」と呼びます。子どもが親に「ママ、ご飯ちょうだい」とねだることを、未熟だとか卑しいと見る人はいません。それはむしろ親子の自然な関係を示すものです。しかし、多くの信徒は「神様にこんな些細な問題まで求めるのは、どこか未熟に思える」と感じて祈りをやめてしまう場合がある、と言います。張ダビデ牧師はこれを戒め、「イエス様ご自身がパンを求めよとおっしゃったのだから、当然求めなければならない。むしろ求めない方が高慢なのだ」と指摘します。具体的な生活の必要を率直に打ち明けることこそが、祈りの第一段階なのです。 第二に、「探しなさい」は、目に見える表面的な必要を超えて、その必要を通して私たちに教えようとなさる神の御心を見いだす次元です。たとえば日ごとの糧を求めるとしても、単に自分の飢えを満たすためで終わるのではなく、「この糧を通して、私は神の国にどう寄与し、隣人にどう愛を分かち合うことができるのか」という視点へと進む段階です。張ダビデ牧師は「ただ『ご飯をください』で終わるのではなく、このご飯を通して神が私の人生をどのように導かれるのか、その意味を探し求めることが大切だ」と語ります。だからこそ祈りはしばしば「黙想」と結びつきます。ご飯をくださいと祈ったとき、神がその糧を与えてくださる奇跡よりもっと大切なのは、その過程を通して私たちの心が変えられ、成熟していくことです。不足や苦しみの中で神が働かれる様子を探し出し、そのプロセスを経て私たちの信仰は成長し、最終的にはすべてが神の栄光へと結びつくのです。これが「探す祈り」の段階と言えます。 第三に、「たたきなさい」は、さらに能動的・積極的な姿勢を意味します。張ダビデ牧師はこれを「堅固な信仰をもって神に近づくこと」と説明します。真夜中に鍵のかかった戸をたたくには相当な勇気と切実さが必要です。先に述べた例え話のように、深夜に友人の家を訪ねる者は、不躾と思われる可能性や、断られるかもしれない不安を抱えながらも、「友よ、パンを三つだけくれ」と願い続けました。そしてその友人はとうとう戸を開け、三つ以上のものを与え得たのです。私たちが祈るときも同じです。まるで道が塞がれているかのように見える状況、全く解決策が見いだせない状況でも、信仰を失わず粘り強く戸をたたく姿勢が求められます。張ダビデ牧師はこれを「強く求めること(強請)」と言い、「神に愛の心で強く求めるとき、ついには神が戸を開けてくださる。そのようにして開かれる戸は、私たちが想像していた以上の恵みと供給へとつながっていく」と述べます。 しかし、この全過程で見落としてはならないのが「愛」です。愛がない祈りは欲望の祈りになりかねません。より多く持ちたい、もっと成功や富を享受したい、ときには隣人を顧みず自分の満足だけを追いかけて祈る場合もありうるからです。そこでイエス様はルカ11章の「友人の例え」で、真夜中に願いに来た人が、自分一人の空腹を満たすためではなく、「お客をもてなす」ためにパンを三つ求めた場面を提示されました。張ダビデ牧師は「隣人をもてなすために、より多くの糧が自分に必要だという強い願いは、神が喜んで受け止めてくださる祈り」だと解釈します。愛を動機とする願い、神の国の拡張を目指す願い、そして隣人を生かすための願い。これこそ主が教えてくださった祈りの最も重要な原理なのです。 結局、「日ごとの糧」を求めても、その糧がどこから来て、なぜ必要なのかをはっきり理解していなければなりません。「神様、私にパンをください。そして私はそのパンをもって隣人の飢えを満たす者となることができますように」という姿勢こそ、張ダビデ牧師が示す祈りの実践的な例です。「私たちに日ごとの糧をお与えください」という主の祈りの一句は、現代において飢えに苦しむ隣人の問題や福音伝道のために必要な財源、教会共同体内の働き人や宣教師の生活費など、具体的かつ聖なる目標を抱いて熱心に願うよう私たちを招きます。このように祈りは単に生活の問題を解決するための手段ではなく、愛を行動に移す霊的原動力なのです。 さらに、旧約と新約の歴史を通して神の国のために自発的に財を寄付したり、人生を捧げた多くの人々の実例からも、この真理を確認できます。初代教会の時代にも、所有物を売って使徒たちの足もとに置き(使徒4:34-35)、共同体がそれを必要に応じて分かち合ったとき、驚くべきリバイバルと愛のわざが広がりました。張ダビデ牧師はこうした事例を根拠に、「神が与えてくださる日ごとの糧」を正しく理解した人は、その財を握りしめて自分のためだけに使うのではなく、使徒言行録の教会のように、必要に応じて喜んで手放すことができる、と説きます。分かち合いの中にこそ、真の喜びと豊かさが存在するからです。そこで私たちは主が「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)と仰せられた意味を改めて噛みしめることになるでしょう。求めつつも、分かち合うために求める人は誰でも「求めたとおり受け取る」祝福の器となり得るのです。 3. 神の国と赦し、そして信仰の方向 主の祈りの流れを振り返ると、「御国が来ますように」という祈りがまずあり、続いて「日ごとの糧をお与えください」が続き、その後「私たちも自分に負い目のある人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」という赦しの祈りへと展開します。ルカ11章では、もう少し簡潔に三つの祈りの課題が同時に示されます。すなわち「神の国が来るように」「日ごとの糧を与えてください」「私たちが負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪をも赦してください」という内容です。張ダビデ牧師はこれらを「祈りの三本柱」と呼びます。信徒の生活を支える三つの重要な柱が、「神の国」「物質的・霊的糧の供給」、そして「赦し」なのです。 まず、神の国は私たちの存在理由と究極的な目標となります。神は初めに人間を創造され、その目的は「神の国を共に築き上げる同労者」としての存在となることです。イエス様は公生涯を始められるときから「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫ばれ、すべての教えの中心に「神の国(キングダム)」を置かれました。張ダビデ牧師は、私たちが日ごとの糧を求めるのも最終的にはこの神の国ビジョンの中でなされるべきだと、繰り返し強調します。「神の国」という壮大な絵の中で、私は今日必要な糧を求め、その糧をもって神の国のために奉仕し、その中で喜びを得る――という循環構造が生まれるのです。もし神の国が抜け落ちた状態で、単に「自分の生活だけ楽にしてください」と願うなら、祈りは歪んでしまうでしょう。 第二に、赦しの問題です。ルカ11章4節を見ると、「私たちは自分に負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」とあります。これは人間関係の問題であり、同時に人間の内部問題でもあります。私たちの罪が赦されなければ、私たちは神の前に大胆に立つことができません。そして、私たちが他人を赦せないならば、神が与えてくださった赦しを十分に味わうことができません。張ダビデ牧師は、赦しこそ祈りにおいて「核心中の核心」だと語ります。どんなに物質的必要を満たしても、さらに神の国のビジョンを掲げて熱心に奉仕しても、心の奥底に赦せない思いがあるならば、それが結局、関係を壊し、共同体を破壊してしまうからです。他者との関係で生まれた傷や恨み、憎しみが解決されない限り、最終的には自分自身も罪悪感や憎悪に囚われて自由を得られません。ゆえに赦しは霊的自由への道であり、真の神の国共同体の出発点でもあるのです。 張ダビデ牧師は、ここで言う「赦し」が単なる感情的な次元や道徳的マナー以上のものだと語ります。神がイエス・キリストを通して示された「十字架の赦し」は、人間には到底返済不可能な負債を免除されたも同然のことです。この計り知れない恵みを思い起こすならば、私たちも他人を赦さない理由はなく、またその人との関係を回復するために祈らずにいられないはずです。このようにして「神の赦し」と「私たちの赦し」が連動して回転するとき、主の祈りは完成度を持ちます。実際、「赦し」が抜けた「神の国」は、正義と公義を叫びながらも、結果的に律法主義に陥る危険があり、「赦し」が抜けた「日ごとの糧を求める祈り」は、自己中心的かつ貪欲な方向へ行きがちです。ゆえに、この三本柱―「国」「糧」「赦し」―が一体となって、健全な信仰の枠組みを形成するのです。 具体的に神の国を求める祈りとは、この地上ですでに神の支配が始まっていると信じ、その支配が完成する未来を見据えて生きる姿勢を意味します。張ダビデ牧師は「歴史意識」という言葉をたびたび用い、「人類の歴史は最終的に神の国という結論に収束していく。この壮大な方向性を理解し、そこに参加する者こそ賢い信徒だ」と言います。私たちが現在の生活において、目に見えるものだけを基準にするときには、ときに人生の目標を見失いがちであり、世の数多くの誘惑や恐れにより落胆してしまいやすい。しかし、「天においてすでに成し遂げられたみこころ」が必ずこの地において実現する、という信仰があるならば、私たちはどんな状況にあっても希望を失わずにいられます。そしてその信仰は祈りによって具体化されるのです。神の国をさらに前進させてください、御心が天において成し遂げられているように私たちの職場や家庭や社会においても実現するようにしてください、教会と世界の隅々で神のご支配が表されるようにしてください――これが神の国を求める祈りの本質です。 こうして神の国と赦しの原動力の中で日ごとの糧を求めるとき、私たちは日々の生活で奇跡を体験できるでしょう。あるいは奇跡が起こらなくても、神が常に必要なだけは与えてくださるという平安の中を生きることができます。「今日も食べるものがあること」に感謝し、その中から少しでも隣人と分かち合えることに感謝する。そして一見ささやかな「ご飯一杯を分かち合う行為」の中にも、イエス様の愛が浸透するならば、それがすなわち神の国の現実的拡張となるのです。張ダビデ牧師は、このように「愛が込められた小さな行為が積み重なり、教会を建て上げ、社会を変革し、最終的には神の国の前進に寄与していく」と繰り返し強調しています。 結局、信仰の方向とは「神の御名があがめられ、御国とみこころがこの地に成就し、そのプロセスの中で私たちに日ごとの糧が与えられ、互いに赦しと愛が実践される」その全体に焦点を合わせることです。私たちはこの道を歩む中で、ときに失敗や挫折を経験するでしょう。物質的豊かさを求めても簡単には解決しない時があるかもしれないし、赦したいと思っても感情がそう簡単にはほどけず苦しむこともあるでしょう。しかしイエス様の「求めよ、探せ、たたけ」ということばは、私たちが絶えず祈りの場に出て行く限り、最終的に神が応えてくださるという約束です。張ダビデ牧師は「神が初めから今に至るまで恵みを注いできた方法は驚くほど一貫している。祈る者にご自身を現わし、聖霊を満たして、分かち合い、仕え、赦すことができるようにしてくださるのだ」と教えます。だからこそ私たちの祈りの生活こそが信仰生活の根幹であり、その祈りを通じて私たちは神の国の視点と日ごとの糧をいただく恵み、そして赦しの力を経験するのです。 また、張ダビデ牧師は「神様が私たちに望んでおられるのは美辞麗句や抽象的な告白ではなく、実際の生活での愛の実践である」と語ります。新約聖書の至るところでも「ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって行いなさい」(Ⅰヨハネ3:18)と教えられています。教会共同体の中で、家庭の中で、また社会の中で、私たちが具体的に「自分のもの」と思っている時間や才能、財産などを差し出し合って互いに仕えるとき、キリストの愛が証しされます。したがって「私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、「主よ、この糧をもって世に出て、あなたの愛を分かち合う者としてください」という決意へと拡張されなければなりません。これこそ私たちが生活をもって捧げる礼拝であり、神の国がこの地に実現していく通路とも言えます。 まとめると、主の祈りの「私たちに日ごとの糧をお与えください」という一文は、次のような多層的な意味を同時に内包しています。第一に、私たちの現実的な必要に対する神の供給を切実に願いなさい、ということ。第二に、その願いの中には神の国と隣人への愛が込められていなければならないこと。第三に、これを通して赦しと愛が実現されるべきこと。第四に、最終的にその祈りの原動力は聖霊であり、私たちが求めるすべてのものの中で最も尊いのは「神との親密さ」であることを忘れてはならないということ。張ダビデ牧師は、このすべての過程を通じて「信徒は愛のモード(loving mode)へと切り替えられる」と説明します。最初は所有のため(having mode)に祈っていたとしても、聖霊の働きの中で徐々に「存在(being mode)」を悟り、最終的には「愛(loving mode)」へと進むことができる、というのです。 特に「三つのパン」の例えから、私たちは「自分一人だけが食べるためのパンではなく、共に分かち合い、隣人を立て上げる糧を求める祈り」がいかに尊いかを知ることができます。真夜中にパンを求めて戸をたたく行為は、自分だけが得をしようとする利己的な行動ではありません。客を迎え、もてなさなければならない状況で、「どうしても彼らの必要を満たしてあげたい」という愛が、その戸をたたかせたのです。このような思いをもって祈るとき、神は私たちが予想し得ない方法で戸を開いてくださり、「その願いどおりに」さらには「必要以上に」与えてくださると約束なさいます(ルカ11:8)。 要するに、主の祈りの中の「日ごとの糧をお与えください」という願いは、表面的で一回きりの祈りではなく、日々の生活の中で神と共に歩む霊的習慣となります。私たちに本当に切実に必要なものは何なのかを改めて問いかけ、同時に私たちの関心を隣人や共同体へと広げてくれます。神が与えてくださる物質や健康、そしてエネルギーは、すべて隣人愛を実践する道具として用いられるべきだからです。さらに張ダビデ牧師は「教会の歴史を振り返ると、神を熱烈に愛し、心から祈る人々に神はあふれるほどに与えて貧しい人を助け、福音を伝える者たちを支える道へと導かれた。その流れに私たちも歩んでいる」と要約します。まさに、このような生き方こそが「神の御名をあがめ、御国と御心をこの地に実現する」証しなのです。 最後に、私たちはルカ11章13節の結論を覚えておく必要があります。「まして天の父が、求める者に聖霊を与えてくださらないはずがあるでしょうか」。神は日ごとの糧をはじめ、私たちの人生に必要なすべてを惜しみなく与えてくださる方ですが、最終的に最も尊い賜物は聖霊です。その聖霊が臨まれるとき、私たちは単なる人生の小さな問題解決を超えて、神の国とその義、そして赦しを生きる者へと変えられていきます。張ダビデ牧師は「聖霊に満たされたキリスト者は、結局イエス様がなさったとおり仕え、愛し、赦し、福音を伝える人へと変貌せざるを得ない。それこそ私たちの存在目的なのだから」と言います。こうして聖霊の賜物を受けるならば、私たちが求めるすべての日ごとの糧もまた愛の通路となり、神の栄光をあらわす媒介となるのです。 結局、「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という短い祈りは、信徒の生活全般を貫く重要な信仰告白であり、同時に実践的な願いです。私たちは毎日この祈りを唱えつつ、その中に込められた神の心をより深く黙想すべきでしょう。申命記8章のマナの物語を通しても、マタイ6章や7章の教えを通しても、ルカ11章の「真夜中の友人」の例えを通しても確認できるのは、神が私たちの日常と生全体を見守り、そのうえで神の国を共に築くことを望んでおられるという事実です。張ダビデ牧師はこれらのみことばを結びつけつつ、「神の御名があがめられ、御国が来て、私たちに日ごとの糧を満たされるプロセスを通して、私たちの存在はついに『愛の通路』へと変えられる」と繰り返し強調します。私たちがこの原理をしっかり掴み、日々祈りをもって神に近づくならば、不足することはなく、むしろあふれるほど豊かな恵みを味わうことができるでしょう。それこそがイエス様が弟子たちに遺された教えであり、張ダビデ牧師が伝えようとしている核心的メッセージです。そしてこのメッセージを実践する生き方こそ、神が私たちに計画された「神の国を共に築く同労者」となる道なのです。

連合の神秘 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. アダムから伝わった罪と人間の実存の問題 ローマ書5章12節から21節において、パウロはアダムとイエス・キリストを対比し、それぞれが人類を罪と死のうち、あるいは義と命のうちに結びつける「代表」であると説明している。張ダビデ牧師は、このテキストを解説する際に特に「一人の人が罪を犯したことによって多くの人が罪人となり、もう一人の人の従順によって多くの人が命を得る」という論理を通じて、福音の力と「連帯性」の重要性を説く。この箇所は、キリスト教神学の重要なテーマである原罪論(Original Sin)とも直結するが、パウロはすべての人に罪が転嫁された理由が、まさにアダムという一人の人から始まったのだと教えている。 一般的に現代人は「アダムが罪を犯したからといって、なぜ私が罪人なのか?」という抵抗感を抱く。しかし聖書は、人間に普遍的に備わっている罪性(sinfulness)、つまり本質的に罪を免れることのできない状態が、最初の人であるアダムの不従順から始まったのだと宣言する。張ダビデ牧師は「私たちが実感する現実が、神が本来計画されたエデンの美しさとはかけ離れており、死が支配する不条理で暴力的な世界に生きているという事実こそ、すでに私たちが霊的に死んでいることを意味する。そしてその死の始まりがアダムの罪にあると聖書は証言している」と説明する。聖書によると、アダムは神の言葉を不信して不従順に至り、その不従順が罪の扉を開いて死と滅びが入り込むことになった。したがってアダムが代表として犯した罪の結果として、その後のすべての子孫が罪の傾向に感染し、それが人類に普遍的に苦痛と死をもたらす根本的理由だというわけである。 張ダビデ牧師は、人間が実際に罪を犯しているにもかかわらず、「なぜ聖書は『人間が罪を持たないなどとは言えない』とあれほど強調するのか」という問いに答える。罪と死に対する神の判断は、単なる道徳的な善悪のレベルを超えた「存在論的状態」だからである。私たちは「まだ生きているのだから死んでいない」と思うかもしれないが、パウロは霊的・究極的な次元で、すでに人間は死のうちにあることをはっきりと主張する。そういう意味で、原罪はすべての人間が逃れることのできない罪の軛(くびき)であり、私たちは生まれながらにして神の御心とは無関係の腐敗した世界に属して生きているといえる。 パウロは「罪は律法が与えられる以前から世にあった」と語る。ここで言う律法とは、モーセが神から授かった戒めの数々を指すが、その律法が与えられる前にも罪が存在していたのだとわかる。ただ、人々は明示的な法がなかったために、それが罪なのかどうかをはっきりとは認識していなかった。しかしカインがアベルを殺したことや、アダムが禁断の実を食べた出来事が明白に罪悪とされているように、律法が存在する以前から神への不信と不従順という行為はすでに罪だったのである。人間の良心は自然に「殺人や反逆、不従順は悪いことだ」と教えるが、具体的に律法が示されることによって、罪が「法的・公式的」に確定されるようになった。ただし、律法は人間を罪から完全に解放しない。律法は罪を「罪」としてはっきり暴き出す機能を持つが、罪そのものを取り除いたり救いを与えたりする力はないからである。 パウロはさらに、アダムからモーセまで―つまり律法が与えられる前の時代を指して―死が「王として君臨していた(王のように支配していた)」と主張する。死がまるで独裁者のような権威をもって人類すべてを圧倒していたというのだ。これは「人間は罪の奴隷になっている」というパウロの表現を想起させ、すべての人が自力では抜け出せない罪と死の横暴に直面していることを示す。張ダビデ牧師はこれを「罪と死の構造的支配、すなわちすべての人は律法がなくともどこかで罪と死に隷属している」という点として、現代の人々にわかりやすく説き明かす。社会構造や個人の道徳的な弱さだけでなく、さらに深い次元で人類全体が「死の力」のもとに束縛されていることを指摘し、それは結局、私たちがエデンの園から絶えず追放された状態で生きていることを証明する歴史的事実だと解釈する。 聖書はアダムを「来たるべき方のひな型(型)」とも呼ぶ。アダムが人類に決定的な影響を及ぼしたように、キリストもまた決定的な影響を及ぼす「第二の、または最後のアダム」の役割を担われるお方である。だからこそローマ書5章14節で「アダムは来るべき方の型である」と宣言したパウロの言葉は、最初の人アダムが罪の始祖としてすべての子孫に罪と死を転嫁したのと同様に、やがて来られる方(キリスト)は逆に、信じるすべての人に義と命をもたらすという意味を含んでいる。張ダビデ牧師は説教の中で、「私たちは毎日、自分の意思で『自分の人生』を営んでいると思うが、実はアダムの影響をもって生まれ、罪へと引かれるしかない運命のなかにいる。しかしもうひとり、新しいアダムであるイエス・キリストがこの支配を打ち破り、新しい命をもたらしてくださる」と強調する。この点こそが、パウロが力強く宣言する福音であり、罪と死という圧倒的な現実に新たな突破口が開かれた瞬間なのだ。 律法は「罪を増し加えさせる目的」、すなわち罪の実態をより鮮明に明るみに出すために入ってきたのだと、パウロは語る(ローマ書5章20節)。これが「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という有名な言葉に続く。どんなに罪が積み重なり、死がすべての人生を飲み込もうとも、それよりもさらに大きな権能をもって恵みが訪れるという意味である。張ダビデ牧師は「人間が自力では抜け出せない罪の軛が徹底的にあらわになるほど、逆に神の恵みがいかに広大で強力であるかがいっそう浮き彫りになる」と解説する。言い換えれば、律法が罪を明確にすればするほど、罪人である私たちはさらに大きな罪悪感と恐れに捕らわれるが、同時にキリストのうちに広がる恵みの世界がどれほど絶対的な力をもっているのかを悟るようになるのだ。 アダム一人によって人類全体が罪人となったという宣言は、個人主義的思考が強い現代社会ではなかなか受け入れがたいかもしれない。しかし聖書は繰り返し「連帯性」を強調する。共同体的な思考があまり馴染まない人であっても、「国家の代表がある条約を結べば、その国民全体が影響を受ける」という例を出すと理解はそう難しくないだろう。これは古代近東の歴史的・社会的背景においても、「一人」が代表性を担うとき、その影響が全体に及ぶという認識が当然視されていたことにも由来する。張ダビデ牧師は、原罪に対する拒否感の強い人々に対し、「この解釈は究極的に『新しいアダムであるイエスが成し遂げた義と命が、どのような仕方で私たちに転嫁されるのか』を説明する鍵となる」と力説する。つまり、もし私たちが受け入れがたいからといってこの代表性と連帯性の原則を認めないならば、福音が提示する救いの論理そのものも同時に拒否せざるを得なくなるというわけである。 原罪論は、人間が先天的にどうしようもなく罪の支配下にあることを語る。これはそもそも人間の自由意志や善行では決して完全には解決できない問題である。私たちはみな、生まれた瞬間から罪の束縛下にあり、倫理的・道徳的な善行だけでは真の義に達することができない。『決して私たちの力だけでは救いに至ることはない』というのが、プロテスタントにおける救いの核心であり、張ダビデ牧師の説教もこの観点から「原罪論に目を背けてはならない」と訴える。これは人間の弱さや無価値を強調するためではなく、キリストの救いがいかに絶対的で価値あるものであるかを明らかにするためなのだという点を、彼は明確に語る。 したがって、最初の小主題の結論は明快である。アダムによって始まった罪と死はすでに人類を掌握してしまった巨大な実存的問題であり、律法はその罪を浮き彫りにし、裁きを宣言することで私たちを窮地に追い込む。しかしこうした絶望的状況が、ただちに希望を覆い隠すわけではない。むしろ罪が明るみに出ることによって、私たちはキリストがもたらす恵みと救いの力に目を開くことになる。だからこそ、アダムから伝わった罪が不快で不合理に感じられようとも、これこそが人間の実存を解き明かす端緒であり、イエス・キリストの贖罪のみわざを理解するうえで欠かせない始発点なのだ。張ダビデ牧師は「アダムが開いてしまった罪の世界はあまりにも強固に見えるが、神はそれ以上に強力な恵みの計画を秘めておられた」と強調し、続いて第二の小主題であるイエス・キリストの従順と義の転嫁へと読者を導いていく。 Ⅱ. イエス・キリストの従順と義の転嫁 パウロはローマ書5章15節から19節のあいだで、アダムとキリストの対照を精巧に展開する。一人(アダム)の不従順によって罪と死が人類にやってきたのならば、もう一人(イエス・キリスト)の従順によって義と命がもたらされるというのである。張ダビデ牧師は説教や著作の中で「原罪(Original Sin)がアダムを通じて転嫁されたように、今度はキリストの義(Original Righteousness)が私たちに転嫁されたのだ」と解説する。こうして転嫁された義は、教会の伝統において「信仰による義認(以信称義、justification by faith)」の教理と結びついてきた。 ここでいう「一人の人イエス・キリストの従順」とは、十字架での代贖(だいしょく)的犠牲を意味する。パウロはコリント第一の手紙15章45節以下でも、最初の人アダムと最後のアダム(キリスト)を比較し、最初のアダムは「土(ちり)から出た者」であり、最後のアダムは「天からこられた方」だと宣言する。第一のアダムが生きた魂(a living being)となったのに対して、第二のアダムであるイエスは生かす御霊(a life-giving spirit)となった、とも述べる。生きた魂は自分自身が命を享受する存在だが、生かす御霊はその命を他者にも分け与える源泉を持つ存在である。だからパウロはイエス・キリストの死と復活が「私たちをも生かす力」だと強調する。張ダビデ牧師は「キリストの従順は、単なる道徳的模範を示したということではない。それは罪に陥った人類を永遠に生かす生命の源であり、神の義が私たちに転嫁される決定的な出来事なのだ」とまとめている。 原罪論から始まる「転嫁」の思想は、イエス・キリストの十字架の出来事によって「義の転嫁」という形で拡張される。アダムが罪を人類に転嫁したのは、その代表性によるものであり、キリストが御自分の成し遂げた義を私たちに転嫁してくださるのも同じ法理で理解される。代表であり頭(かしら)である方が成し遂げたことの結果が、彼に属するすべての者にそのまま及ぶのである。このとき張ダビデ牧師は「代表と連帯という概念は聖書全体に流れる重要な原理で、私たちには不合理に思えるかもしれないが、神はそもそも人類を共同体的存在として創造された。一つの体、一つの系譜、一つの共同体という意識が、キリスト教的世界観のなかで極めて中心的な位置を占めるからだ」と力説する。 神の救いの計画は、人間の無力さを暴き出す律法ののち、イエス・キリストのうちで完成に至る。律法が罪を明確にしたものの、その罪を解決はしなかったのに対して、イエスは罪の刑罰を自ら負い、私たちの代わりに死ぬことによって「私たちを義と宣言してくださる」道を開いてくださった。だからこそパウロはローマ書3章24-25節で「キリスト・イエスによる贖いにより、神の恵みによって無償で義とされるのである。神はこのイエスを、その血を通して信仰にもとづく宥めの供え物(贖いのいけにえ)として立てられた」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所において三つのイメージを引用する。第一に、奴隷市場で身代金を支払って奴隷を解放する「贖い(redemption)」の視点、第二に、法廷で無罪だと宣言される「義認(justification)」の視点、第三に、いけにえに関する概念として罪の代わりにいけにえが捧げられ罪を除く「贖罪(atonement)」あるいは宥めの供え物(propitiation)の視点である。これらすべての比喩がイエス・キリストの十字架の出来事に同時に含まれており、それはイエスが人類を代表して流された血と従順に基づいているのだ。 聖書のいたるところに現れる「祝福の連帯性」もまた、イエスの従順によって決定的に完成される。すでに旧約においてアブラハムとの契約が与えられた際、神は彼とその子孫を通して「諸国の民が祝福されるだろう」と約束された。この契約はアブラハム一人にとどまることなく、彼の系譜をたどってイスラエル民族全体、さらに全世界にまで至る祝福の継続性を語っている。張ダビデ牧師はこれについて「アブラハムと結ばれた契約は、新約の時代になるとイエス・キリストのうちで完全に成就する。イエスに属するすべての者、すなわちイエスを信じるすべての者に祝福が連帯的に伝わっていく」と解説する。ゆえにイエスの従順が歴史的出来事として一度生じたものの、その効力は時空を超えて信じるすべての人に同時に適用されるのである。 しかしこの義の転嫁は自動的に与えられるものではなく、信仰(faith)を通して私たち一人ひとりに個人的に適用されるという点が重要だ。パウロは「キリスト・イエスを信じることによって」義とされると宣言するが、これは代表であるイエスとの「個人的な連合(union)」が必要であることを意味する。張ダビデ牧師は「結局、アダムに生まれながら自然に入り込んできた罪は、私たちの同意にかかわらず適用される。一方、イエスの義は、私たちが信仰によって受け取ることによって私たちに転嫁される」と説明する。これが恵みの逆説である。人間は罪を遺伝的に受け継ぎ、否応なく罪人として生まれるが、同時にイエスは恵みによって私たちに義を贈り、この賜物を受け取る道は信仰を通じてであり、それは決して私たちの功績や努力によるものではない。 パウロが語る「罪が死の中で王のように支配したように、恵みもまた王のように支配して、私たちの主イエス・キリストによって永遠の命に導く」(ローマ書5章21節)という言葉は、要するにアダムの不従順よりもはるかに強力なイエス・キリストの従順が「王権」を置き換えたことを告げる。以前は死が支配していたが、今や恵みが支配するようになったのだ。張ダビデ牧師はこれを「福音は、単に罪を洗い清めるだけでなく、全く新しい支配体制を私たちの内にもたらす。私たちはもはや罪に隷属する民ではなく、『命』という王の統治を受ける神の国の民となる。これが核心である」と言う。 ローマ書5章18-19節においてパウロは「一人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人となったように、一人(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるだろう」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所を最も決定的な要約節だと指摘する。この言葉は罪と死の普遍性をそのまま認めつつ、それをさらに上回る義と命の普遍性を宣言するためである。イエス・キリストの従順がもたらす恩恵を妨げることは誰にもできず、その力と権威は、初めの創造から人類を誕生させた神が自ら計画した「種子(しゅし)の改良」と比喩できると彼は解釈する。不従順の種子が死と朽ち果てる実をもたらしたならば、従順の種子は義と命の実を結ばせるというわけだ。 旧約のイザヤ書53章に出てくる苦難のしもべの預言も、同じ論理を例示している。「彼は病を負い死に至るが、そこから『子孫』が生じる。この『苦難のしもべ』の死によって、新たな子孫、新たな民が誕生する」(イザヤ書53章10節)という箇所は、単に肉体的な子孫を指すのではなく、苦難のしもべの代贖的働きによって誕生する「霊的子孫」、すなわちメシアを信じて従う人々を意味している。張ダビデ牧師はこの言葉を「種子改良論」と呼び、私たちがアダムから罪と死の遺伝子を受け継いだのなら、今はキリストから義と命の遺伝子を継いだ「新しい人」として生まれ変わることができると強調する。ガラテヤ書2章20節にある「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という聖句は、これを神学的に要約したものである。私たちはアダムの子孫として生まれたが、イエスとの連合によってキリストの子孫、すなわち義と命に生きる者となったのだ。 結局、この第二の小主題は、イエス・キリストの従順とそこから転嫁された義が、どのようにして私たちを罪と死から解放し、新たな命の次元を開いてくれるのか、その答えを示している。アダムの不従順によって始まった罪と死の王国に属した私たちが、イエスの十字架と復活によって恵みと命の王国に移された、というのが要点である。そしてこれは信仰によって個々人の人生に適用されるのだ。張ダビデ牧師は「この驚くべき真理を単なる教理知識で終わらせるのではなく、日々の生活と信仰実践の中で実際に体現しなければならない。なぜなら私たちはもはや罪ではなく恵みに、死ではなく命に支配されているからだ」と言い、キリストにあって享受できる自由と解放を実践的に強調する。 Ⅲ. 代表理論と連合理論の実際的意味 ローマ書5章12-21節が提示する中心構造は、人類の歴史をアダムとキリストという二人の人物を通して解釈する点にある。これは神学的には「代表理論(Doctrine of Representation)」あるいは「連邦主義(Federal Headship Theory)」と呼ばれ、アダムは人類の頭(federal head)として罪を転嫁し、キリストは教会の頭として義を転嫁する、という説明に該当する。また「連合理論(Principle of Corporate Solidarity)」という関連概念もあり、私たちはアダムとも連合しており、キリストとも連合している存在だという聖書の教えがそこにある。 張ダビデ牧師は「一人の個人が歴史に莫大な影響を与えるのは、私たちの日常生活の中でも目にすることができる。国家元首が外交協定を結べば、その結果は国民全体に及ぶし、家族の代表者がひとつの決断を下すだけで家計が破綻したり繁栄したりすることもある」と述べ、この代表と連合の神学的原理が決して観念的な主張ではないことを説得力をもって提示する。実際、旧約に登場する例として、コラ(コラ)の反逆とその家族全体の滅亡、アカンの犯罪とそれに関連するすべての者たちへの処罰など、罪が単なる個人の問題で終わらず、共同体に連帯的に波及することが鮮明に描かれている。このように罪と処罰、祝福と恵みが特定の人物を通して全体に及ぶ構造は、古代の共同体社会においても当然のこととみなされていた。 この原理は同時に、福音の核心を説明する鍵でもある。アダムによる呪いがいかにすべての人類に及んだかを理解すれば、キリストによる救いがいかに信じる者たちに与えられるかも理解しやすくなる。代表者が行うことに、残りの構成員が連帯的に参加する構造だからである。張ダビデ牧師は「代表性と連合という言葉を、私たちは現実感覚をもって受け止めるべきだ。個人主義が蔓延する現代では、すべてを『私と神』だけの関係で考えがちだが、聖書は徹底して共同体的連帯を前提にしている。私たちは太初からアダムの中にあり、今はキリストの中にある。この二つのうちどちらかを選択すべきなのだ」と力説する。 パウロの言葉で言えば、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝」(ヨハネの福音書15章)というイエスの宣言を引用し、人間の生はどの「木」に接ぎ木されるかによって結ぶ実が変わる。アダムの木に接ぎ木されていれば罪と死の実を結ぶしかないが、キリストの木に接ぎ木されていれば義と命の実を得ることができるというわけだ。イエスのうちに「とどまる(abide)」という表現は、単に教会に通うとか礼拝に参加する以上の意味をもち、実際にイエスの生命力と力が私たちの内に働くように「連合」することである。張ダビデ牧師は「連合理論は神学的知識を超え、私たちの実存を変革する実際の力をもつ。アダムに属していたときには罪が当たり前だった。しかしキリストのうちにとどまるならば、その方の義、その方の愛、その方の力が私たちに流れ込み、まったく別の存在として生きられるようになる」と説く。 代表理論と連合理論を改めて強調する際、私たちはガラテヤ書2章20節の告白をしばしば引用する。パウロは「私はキリストとともに十字架につけられた。ゆえに、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と宣言するが、これはイエスとの連合を最も劇的に表現した例である。古い人(アダムに属する者としての私)はすでにイエスとともに死に、今やイエスの命が私のうちで動いているということだ。このように見るなら、キリスト教信仰は「イエスを信じて天国に行く」というレベルを超え、「今この瞬間、キリストにあって私は新しい被造物として生きている」という変容された自己理解を要請するものだといえる。張ダビデ牧師は「この自己理解こそが実際の生活を変える。日々の繰り返される日常の中で『私はアダムから来た罪人だから仕方がない』と自暴自棄になるのではなく、『私はすでにキリストと連合した義人だ』というアイデンティティを握りしめること。これこそ福音がもたらす力だ」と強調する。 聖書における代表と連合の概念をほかの例で示すならば、アブラハムを通して祝福が諸国へ流れるという約束や、エリヤが祈ったら全地に雨が降らず、また祈ったら雨が降ったという出来事もある。アブラハムやエリヤは個人だが、彼らが受けた契約や祈りの力が連帯的に周囲へ波及していく。同様に、イエス・キリストが新約における決定的代表となり、私たちには到底背負いきれない罪の重荷を代わりに担い、その結果としてイエスの義と命が私たちに連帯的に適用されるのが新約の福音の真髄だ。張ダビデ牧師はこれを牧会現場で「教会こそキリストの体として、頭である主と連帯し、その方の命と恵みを実践する共同体」であると再解釈する。教会を通してキリストの救いの業が広がり、また教会は互いに重荷を担い合い、ともに祈り礼拝する連帯的な生き方を示す。これらすべてが代表性と連合の枠組みのなかで理解されるべきだというのである。 では代表理論と連合理論は、どのような実際的な実を結ぶのだろうか。第一に、自己アイデンティティの変化である。私たちは生まれながらアダムの子孫だったが、イエスを信じたとき即座にキリストの子孫となる。自分が罪に取り込まれどうしようもないと感じる時でも、「すでにキリストのうちにあって新しい命を与えられているのだ」という意識が確固として根づけば、「罪がもはや私の人生を支配できない」という解放感を持つことができる。張ダビデ牧師は、この解放感こそが福音生活の出発点なのだと繰り返し強調する。 第二に、私たちに伴う帰属意識と共同体性である。アダムにあって私たちがすべての人類と結びついているように、キリストにあっては信じる者すべてが結びついている。聖徒たちはひとりひとりがバラバラの島ではなく、一つの体として互いに肢体(しだい)となる。この連帯的な教会観こそが聖書的であり、パウロがエフェソ書やコリント第一の手紙などで「私たちはキリストの体であり、その肢体だ」と述べるのと一致する。張ダビデ牧師は「代表理論と連合理論を理解すれば、なぜ教会生活が必要であり、どんな動機があるのかが一層はっきりする。私たちは頭なるイエス・キリストに繋がってこそ霊的な栄養を得て、また肢体同士が相互依存しながら成長していく存在なのだ」と教える。 第三に、罪に対する新たな態度である。過去には罪が自然なことであり、避けられないものであったとすれば、今や代表が変わった以上、罪を克服する可能性が開かれたと見る。もちろん依然としてこの地上では罪の誘惑を受け、失敗もあるだろうが、私たちのアイデンティティは「アダムにある罪人」ではなく「キリストにある義人」へと根本的に変わったのだ。だから罪に対して毅然と「ノー」と言うことができ、悔い改めを通して即座に神のみもとへ駆け寄る特権を享受できる。張ダビデ牧師はこれを「聖化(sanctification)の歩みにおいて大きな原動力となるのは、私がキリストと連合しているという事実である。イエスが私のために死んでくださったのだから、私も罪に対しては死んだ者とみなし、義の器として神に捧げなければならない」と語る。 結局、代表理論と連合理論は非常に抽象的な教理のように見えるが、実際には日常の信仰生活に深く関わっている。私たちが教会に集まり礼拝し、聖餐にあずかり、洗礼を通じて「キリストのうちへ入れられた」という事実を公に宣言するすべての信仰行為が、この理論と直結するのである。張ダビデ牧師は説教で「アダムが私たちの古い頭(かしら)であったなら、教会の頭はイエス・キリストである。頭が変われば、それに伴う支配と秩序、価値観も変わる。この事実を深く悟り、実践するとき、私たちは罪と死から解放され、恵みと命の支配のもとで生きる真の自由を味わうようになる」と説く。 ローマ書5章の最後の節(20-21節)に「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という言葉が登場する。これはパウロが最後に響かせる恵みの賛歌ともいえる箇所である。いかなる人も死の陰から逃れられなかった人類に対して、一人のイエス・キリストの従順が新しい門を開いた。パウロはこれを「まるで踊るように、恵みと命を賛美する歌」とも見なしうる。張ダビデ牧師もこの本文を解き明かしながら「罪が極まると嘆くとき、むしろ恵みはさらに大きく臨む。私たちはキリストの従順と義の転嫁によって罪の圧迫から解かれ、神のみ前へ大胆に近づけるようになった。これは人類史上もっとも革命的な知らせである」と宣言する。古い世界が過ぎ去り、キリストのうちにまったく新しい秩序が到来したことを示し、それが個人と教会、そして世界にどのような変化と希望をもたらすかを具体的・実際的に黙想しようと勧めるのだ。 最終的に、この本文の核心メッセージは明白である。アダムが開いた罪と死の歴史の上に、イエス・キリストが義と命の新たな歴史を開かれたという点だ。これは単なる神学的観念ではなく、現実にこの地を生きる信徒たちの人生を覆すように変革する力であり、アダムに属していた過去の自分は死に、キリストのうちに生きる新しい自分として毎日を歩む推進力なのである。代表理論と連合理論が示すように、私たちは自力や自分の能力で罪に打ち勝つのではない。ただ私の代表であるイエスがすでに勝利しており、その勝利を私が共有することによって義人として生きるのだ。張ダビデ牧師は「この真理こそ福音のエッセンスであり、キリスト教信仰のエンジンだ」と呼び、ローマ書5章12-21節を通じて信仰の道を歩むすべての人が罪を超える自由と命、そして感謝と賛美の生へと向かうように勧めるのである。

信仰による救い – 張ダビデ牧師

1. 信仰の本質とガラテヤ3章の重要性 ガラテヤ3章を正しく理解することは、ガラテヤ書全体を理解するための核心的な鍵を手に入れることと同じです。というのも、使徒パウロがこの章で「信仰」という言葉を14回も言及しているからです。律法と信仰の関係、さらにイスラエル民族だけでなく異邦人まで含む救いの普遍的な性格がガラテヤ3章に集約されています。ガラテヤ書が宗教改革の時代から「自由の福音」という別称を得るほど、自由と恵み、そして信仰を強力に宣言してきた背景には、まさにこの3章に込められた使徒パウロの核心的な教えが存在するのです。 張ダビデ牧師は数十年にわたり韓国および世界各地で福音を伝え、律法主義に陥って救いの本質を見失う人々に対して、このガラテヤ3章の核心メッセージを強調してきました。特に「信仰によって救いを得る」という事実、すなわち「以信得義(いしんとくぎ)」が最も重要な教理として定着しなければならないと繰り返し説いてきましたが、これは使徒行伝15章に記録されたエルサレム会議に基づき、教会が共有して合意した「異邦人も律法ではなく信仰によって救われる」という真理と同じ流れにあります。 実際、エルサレム会議で最終的に下された結論は、「信仰によって救いを受ける」という救いの本質を再確認するものでした。律法によっては罪と死から解放されないという真理を、改めて明らかにした決定だったのです。ユダヤ主義者(あるいは偽りの教師たち)は「割礼と律法の順守なしには救いが成立しない」と主張しましたが、使徒ペテロやパウロ、ヤコブらは会議を通して、割礼やその他多くの儀式的規定が救いの必須条件にはなり得ないことを宣言しました。「ただ恵みによって、信仰によって義とされる」という事実は、初代教会の時代からキリスト教における最も重要な救い論的核心となり、ガラテヤ3章はその中心を鮮明に示しているのです。 パウロはガラテヤ書全体を通じ、自分が伝えた福音がいかなる意味を持ち、エルサレムの使徒たちと一致している福音であることを証明しようとしています。その福音とは、「律法によってではなく、ただイエス・キリストを信じることで救いを得る」という内容です。この教えは多くのユダヤ主義的な偽教師たちの反発を招きましたが、パウロはガラテヤ3章で最も直接的にその問題を取り上げます。 パウロは偽教師たちが教会に侵入し、「イエスを信じても、律法を守らなければならず、割礼も受けなければ完全な救いに至れない」と扇動している現実を目撃しました。ガラテヤの信徒の中には、本来は恵みによって、信仰によって自由を得たはずなのに、再び「律法的な宗教性」に囚われてしまった人々がいました。そこで3章1節でパウロは「愚かなガラテヤ人たちよ!」と強い調子で叱責するのです。彼らはすでにイエス・キリストの十字架の出来事を通じて救いに至る唯一の道を見ていたのに、別の福音に流されようとしていました。「イエスが十字架につけられたことがあなたがたの目の前にはっきり示されているのに、だれがあなたがたを惑わしたのか」というパウロの厳しい一喝は、今日の教会が重く受け止めるべき重要な警告でもあります。 張ダビデ牧師も、幾度もの説教や講演、文書の働きを通じて「ガラテヤ3章の焦点は十字架と復活、そして信仰によって得る救いの確かさ」にあると強調しています。律法は罪を明らかにし、自力で救うことができないことを悟らせる役割を担いますが、律法によって罪が解決されるわけではないという聖書の真理を繰り返し教えてきました。イエスが十字架の上であらゆる呪いと罪の代価を負われることによって、律法が示す罪の問題を根本的に解決されたことこそが「福音」なのです。そしてその福音を「信仰によって受け入れる」ことが、キリスト教における救いの本質です。 「信仰」という言葉は、信仰生活の中でよく耳にする一般的な用語ですが、ガラテヤ3章はこの「信仰」の定義と意味を詳しく掘り下げています。果たして信仰とは何か、信仰はどのように機能するのか、なぜ信仰によって救いを得ることが可能なのかについて、旧約の例(特にアブラハム)を引き合いに出して論じているのです。これは次のような教えと密接につながっています。 ガラテヤ3章においてパウロは、この主題を最も論理的かつ力強く説明します。ゆえに教会が救い論の核心的真理を見失わないためには、ガラテヤ3章が教えるところを堅く守らなければなりません。張ダビデ牧師は「今日でも多くの信徒が『信仰によって救われること』を頭では知っていても、それが実際の生活につながらない場合が多い」と指摘します。「律法や規則、教会内の伝統、あるいは社会的・文化的な基準などに縛られ、自分自身を罪に定め、さらに他者まで裁く姿が繰り返されている」と嘆きつつ、パウロが語った「自由の福音」を教会の中で改めて回復すべきだと訴えてきました。 結局、ガラテヤ3章は「信仰」と「律法」という二つの大きな軸を対比しながら、ただ信仰によって義とされるという普遍的かつ究極的な真理を提示しています。「愚かなガラテヤ人たちよ!」というパウロの強い口調は、単なる叱責ではなく、「律法のくびきに再び囚われるな」という切実な訴えです。今日の私たちもパウロの叫びを思い起こし、恵みの中で真の自由を享受する者となるべきなのです。 2. アブラハムの信仰、律法主義との衝突、そしてパウロの論証 ガラテヤ3章の冒頭で、パウロが「あなたがたが御霊を受けたのは、律法の行いによってか、それとも聞いて信じたからか」(ガラ3:2)と問う箇所は、ガラテヤ教会の信徒たちがすでに聖霊を体験したことを想起させるためです。既に聖霊を受けたのであれば、救いは律法や儀式によってではなく「信仰」によってもたらされたという事実をよく知っているはずだからです。すなわち、彼らが賜物の体験をしたにせよ、生まれ変わりを経験したにせよ、あるいは異言や預言などの聖霊の働きを目撃したにせよ、それらは律法を守った結果ではなく、イエス・キリストの福音を信じた結果として起こったということを思い出せ、という意味です。 しかしここでパウロはさらに一歩進み、旧約聖書で最も偉大な先祖とされるアブラハムを引き合いに出します(ガラ3:6)。なぜなら、律法主義的な偽教師たちがしばしば強調する人物こそ、アブラハムだったからです。彼らは「私たちの祖アブラハムは、律法と割礼によって神に認められた」と考えていましたが、実際にはアブラハムが義とされたのは「神を信じたとき」であり、その信仰を神が義とみなされた出来事が先にあったのです(創15:6)。張ダビデ牧師も様々な説教や聖書解説で、創世記12章から17章まで連なるアブラハム物語を引用し、「アブラハムが割礼を受ける前にすでに神から義とみなされた時点があった」ということをしばしば喚起しています。 割礼は創世記17章に登場します。つまり、創世記15章6節「アブラムは主を信じた。それで主はそれを彼の義と認められた」という宣言は「割礼」が導入される前に与えられたものなのです。さらに、モーセ五書の具体的な律法としてまとめられる条項は、アブラハムが生きた時代から430年後に与えられたものです(ガラ3:17の言及)。したがって、アブラハムの義は律法や割礼によって得たものでは決してありません。彼は「従順」することで(ヘブライ11:8「行く先を知らずに出て行った」)、約束の地と「天の星のように数多い子孫」を約束され、「知らない地へ行け」という神の言葉を信じて義とされたのです。 パウロはこの原則を「彼が無割礼の時に受けた義」と呼びます(ロマ4:9-10)。つまり、信仰によって義とされた出来事が先にあり、割礼はその義を確認するしるしにすぎないということです。ローマ書4章もガラテヤ3章と平行する箇所が多く、そこでパウロは「何も行わなくても神によって義と認められる人の幸い」をダビデの告白と結びつけて語り(ロマ4:6-8)、アブラハムが義とされたのは行いによるのではなく、全くの「信仰」のゆえだという結論に至ります。 張ダビデ牧師は、このローマ書とガラテヤ書の関連性を特に強調しており、ガラテヤ3章を理解するとローマ書4~5章もさらに深く理解でき、逆にローマ書をよく理解すればガラテヤ3章がより明確になると述べています。それは「ただ義人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4、ガラ3:11、ロマ1:17)という旧約にその根を持つテーマであり、新約全体の救い論を形作る骨格です。 異邦人にも同じ恵みが与えられていることは、アブラハムが「すべての信じる者の父」となったというパウロの宣言(ガラ3:7、ロマ4:11-12)によって明確に示されます。旧約聖書においてアブラハムを自民族の祖先だと見なしてきたユダヤ人にとって、パウロの宣言は衝撃的でした。しかし彼が語る福音の論理はこうです。 ガラテヤ3章10節から12節においてパウロは「律法の行いに頼る者は皆、呪いの下にある」(申27:26の引用)とまで語ります。律法を完全に守りきれる人は一人もいないからです(ロマ3:10)。むしろ律法は罪をよりいっそう際立たせ、罪責と罪の宣告を強化します。パウロがコリント第一15章56節で「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と述べた時、それは律法が罪を解決するというよりは、罪の根拠をますますはっきり示す役割を担うという意味です。ゆえに律法によって義を得ようとする者は、決して救いに至ることはなく、むしろ呪いの下に留まることになります。 ところが、キリストが私たちの呪いを身代わりに負ってくださることで、律法の呪いから私たちを解放してくださったという事実が、ガラテヤ3章13~14節に宣言されています。「キリストは私たちのために呪われた者となって、律法の呪いから私たちを贖い出してくださいました」という御言葉です。イエスが十字架にかけられて死なれたことにより、「木にかけられた者は皆、神に呪われた者である」(申21:23)という律法上の規定さえご自分で負われました。その結果、私たちは罪と死と呪いの支配から解放され、信仰によって聖霊の約束を受けるようになったのです。張ダビデ牧師はこの箇所を、「十字架によってすべての罪の代価が支払われたゆえに、私たちに残されたことは、その事実を信じる信仰だけである」と要約します。そしてこのようにして義とされた私たちは、究極的に聖霊の導きのもと、漸進的な「聖化(せいか)」へと進んでいくのです。 このガラテヤ3章の教えは、現代の教会に繰り返し現れる律法主義的傾向、すなわち「教会法や伝統、儀式や礼拝形式、あるいは特定の倫理規範を守ることが救いの条件になる」というような主張に対する強力な反論となります。もちろん、張ダビデ牧師をはじめ正統的な神学者たちは「律法無用論や道徳の軽視」を唱えているのではありません。むしろキリスト教は、この世のどの宗教よりも高い倫理と愛を求めます。ただし、それらが救いの条件にはなり得ないということです。キリストがすでに救いを完成してくださったからこそ、私たちはその恵みに従って福音に服従し、聖霊のうちに喜んで善を行う者へと変えられていくべきです。これこそが、律法主義とはまったく異なる次元で律法を「履行」し「成就」する真の道なのです。 このようにパウロはガラテヤ3章で非常に論理的かつ聖書解釈に基づいた弁証を用い、偽教師たちが広める「割礼と律法の順守による救い論」を全面的に反駁します。核心は「アブラハムですら律法によらず信仰によって義とされたのだから、割礼のない異邦人であっても信仰によって救われる」という論証です。そしてキリストにあって私たちは一つとなり、その全員がアブラハムの霊的子孫となるのです。 3. キリストにある自由と聖霊の働き、そして今日への適用 ガラテヤ書を「自由の福音」と呼ぶ理由は、律法からの「放縦」を意味するのでは決してなく、「罪と死の力から自由にする福音」を指すからです。3章の後半(特に3:23~25)でパウロは「信仰が来る前、私たちは律法の下で閉じ込められ、やがて示される信仰の時まで監視下に置かれていました」と表現しています。このように律法は私たちを神へと導くための「養育係(モン学先生)」(ガラ3:24)であり、罪を自覚させこそすれ、罪を根本的に解決する力はありません。しかしイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちはこの律法のくびきと呪いから解放され、「信仰の自由」へと進むことができるようになったのです。 ゆえにガラテヤ3章を中心としたパウロの結論は明白です。「私たちは律法の行いではなく信仰によって救われた。今や聖霊を賜物として受け取り、聖霊が与えてくださる力と御霊の実によって生きる」。これこそがパウロの言う「福音の力」であり、聖霊は私たちの義認(Justification)を確固たるものとし、その次の段階である聖化(Sanctification)へ導いていきます。張ダビデ牧師の牧会と説教でも、信仰によっていただく聖霊の内住と導きが、いかに個人の生活と共同体を変革するかがたびたび取り上げられます。イエス・キリストの十字架による贖いは、すでに一度で完成された救いへの道を開き、その救いの効力は聖霊の働きの中で私たちのうちに継続的に成長していくのです。 パウロが言う「肉の欲」と「御霊の願い」の間の葛藤は、ガラテヤ5章でも詳しく取り上げられますが、実は3章からすでに「律法の下に閉じ込められていた」という表現を通して暗示されています。私たちの本性は依然として罪の性質を持つ肉体であるため、律法によって罪を自覚できても、自力で罪を断ち切る力はありません。けれども聖霊が臨まれると、罪を支配する力に打ち勝つことが可能になります(ロマ8章参照)。律法が外面的な規範として罪を指摘するのに対し、聖霊は内面から私たちを新たにし、「義とされた者」にふさわしい生き方へと導いてくださるのです。この点で張ダビデ牧師は「聖霊の臨在を体験した信徒は、もはや規則や禁制条項だけを見つめて信仰生活をするのではなく、むしろ恵みによって得た自由を善き目的と隣人への愛のために用いるようになる」と教えてきました。 結局、ガラテヤ3章が語る核心は次のように要約できます。 この真理がなぜ重要なのか。それは、私たちが日々の信仰生活の中で、「律法」と「恵み」のはざまで絶えず混乱するからです。すでに救われているにもかかわらず、ときに「与えられた規範を守れないなら救いが取り消されるのではないか」という恐れや、自分の努力や善行によってのみ神に認められようとする誤った習慣が、今も残り続けているからです。しかしガラテヤ3章と使徒行伝15章のエルサレム会議の決定を想起するとき、私たちは「ただ恵みによって」「ただ信仰によって」というキリスト教の救い論的な標識を改めてしっかりと握ることができます。 張ダビデ牧師は「教会が律法主義へ傾くと、魂を自由にする福音の力が弱まり、互いを裁き合い、形式的な敬虔さを追い求める共同体になってしまう」と警告します。さらに「一方で、真の福音を握るならば、信徒は聖霊の力の中で善い実を結び、他者に仕え、罪に打ち勝つ能動的かつ躍動的な生活を送るようになる」と強調します。こうした「自由の福音」こそが、ガラテヤ3章を通した聖霊の声なのです。 今日、私たちが伝えるべき福音もまさにこれです。イエス・キリストが十字架につけられて死なれたことによって、信じる者は誰でも義とされることができます。アブラハムが信仰によって義と認められたように、私たちもキリストの福音を信じるなら義とされ、聖霊の内住によって新しい生を歩むようになるのです。これは「信仰によって救いを得る(以信得義)」という単純でありながら明確な真理です。 最後に、使徒ペテロは「あなたがたのうちにある希望について、説明を求める人にはいつでも弁明できるように備えていなさい」(第一ペテロ3:15)と勧めています。私たちはガラテヤ3章が示す信仰の定義と律法の限界、そしてイエス・キリストの十字架と復活がもたらした救いの力を明確に理解しなければなりません。それが私たちの信仰を揺るぎないものとし、主を知らない人々にも変わらぬ福音のメッセージを伝える根拠となるのです。張ダビデ牧師は、この点を数十年にわたり多様な説教と著述、弟子訓練などを通して粘り強く呼び覚ましてきました。そして「この福音を握る者には、どんな障壁も取り除かれ、いかなる種類の宗教的な束縛からも解放され、真の自由を経験するようになる」という事実を常に教えてきました。 結局、ガラテヤ3章は私たちに問いかけます。「あなたがたはどのようにして御霊を受けたのか、律法の行いによってか、それとも信仰によってか」。そしてこう答えます。「信仰によって受け、信仰によって義とされるのだ」。これこそ私たちの告白であり、生活に反映されるべき真理です。福音のうちに自由を得て、聖霊のうちに成長し、キリストにあってさらに一つとなる教会と信徒となることを、ガラテヤ3章は私たちに求めています。それこそが、私たちが常に握りしめるべき、最も単純にして最も深遠な信仰の核心なのです。

パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師が使徒の働き20章の御言葉を通して語る核心的な教えは、パウロがトロアスからアッソを経てミレトに至るまで歩んでいくその宣教の旅の中で現れる「謙遜と涙」の牧会精神である。この精神は、神の言葉を伝える中で数多くの困難に遭遇しても決して退かずに最後まで忠実でありながら、同時に兄弟姉妹に対する深い愛を失わなかった点に最もはっきりと表れている。張ダビデ牧師はこの本文を解説する際、パウロが小アジア地域を行き先に歩んだ道のりが、単なる地理的な移動にとどまらず、深い霊的意味を帯びていると強調する。その道程でパウロは、新たにイエス・キリストの福音を受け入れた人々、あるいはすでに教会の中に存在していてもいまだ弱さを抱える共同体に出会い、自身の謙遜と献身を行いによって示した。しかし何よりも重要なのは、パウロが「聖霊に縛られた」状態で、自分が歩むべき道を明確に悟り、それに従順していた事実である。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の背景を説明する際、パウロが第2回宣教旅行で立ち寄れなかった地域を改めて訪ね、かつて福音を蒔いておいた諸教会を顧みて勧め、立て直す牧会的な心を見せるのだと指摘する。パウロは自分のそばで共に仕えていた一行を先に船に乗せ、自分はわざわざ長い距離を歩いてアッソまで移動した。この点について張ダビデ牧師は、パウロにとって被造物と向き合う時間、すなわち大地を踏みしめながら創造主なる神の御前で自分を見つめ、黙想する大切な瞬間だったのではないか、と解釈する。人間的に見れば、あえて歩かずとも船に乗るほうが便利で早い移動が可能であったはずだが、パウロはその長い距離(少なくとも40~50km、当時の道の状況を考慮すればはるかに過酷な道のり)を歩く中で、一層神に対して謙遜になり、既に建てられた教会やまだ福音に触れていない人々を想う切実な思いを新たにしたのだろう。  トロアスでの行程からアッソへ歩いて下った場面は、パウロが持っていた霊的集中力と決断力を象徴的に示している。張ダビデ牧師はこの本文を根拠として、宣教や教会の働きが道半ばで直面する様々な困難をいかに解釈し、乗り越えるべきかを強調する。働き人は時に孤独を感じ、世の目から見れば労苦に見合う正当な報いを得ていないと感じることもある。しかしパウロが神の召しに従う心で長い道のりを黙々と歩んだように、働き人もまた道中で味わう孤独を神の御前で黙想し、自らの内面を点検する時間が必要だというのである。張ダビデ牧師は、このような「道の上での黙想」を大切に考え、すべての働き人や信仰者が、目に見える実よりもまず自分を聖霊の導きに委ねて歩み続けることが真の信仰の巡礼だと教える。  その後パウロはアッソで同労者たちと合流し、ミトレネ、キオ、サモを経由してミレトに到着する。この行程を記録するルカの文体は非常に細やかで具体的だ。張ダビデ牧師は、ルカが医者出身であるため記録が綿密であること、そしてルカがパウロと共に「私たち(we)」という表現で同行していることに触れつつ、使徒の働きが単なる抽象的な信仰の歴史や教理集ではなく、実際の時間と空間の中で行われた生き生きとした歴史であり宣教の旅であると強調する。これは教会がどれほど貴重な一瞬一瞬を見逃さずに記念し、記録すべきかを示唆する。教会共同体が派遣する宣教師や牧師、そして信徒たちの働きが、日々いかに神の摂理のうちに動いているのか、そのような記録が積み重なり教会史となり、やがて後世に生きた証しとして残るのだという。  張ダビデ牧師は、パウロが「少しも遅れることなく」エルサレムへ向かおうと急いだ理由は、五旬節の祭りを守るためだと説明する。パウロは祭りを遵守しようとするユダヤ人の敬虔な伝統を尊重した。この祭りが持つ意味は、単に年に一度めぐってくる行事的意義を超え、エルサレム教会との霊的連帯感、そして神が定められた聖なる祭りに全身全霊をもって参与しようとする信仰的意志だった。張ダビデ牧師は、このパウロの態度から、信仰共同体がともに守る祭りや礼拝がいかに大切であるかを見出せると語る。今日の教会の中で“行事”や“イベント”としてしか捉えられない祭りも、実は信徒たちに霊的力と共同体的結束をもたらす大切な機会だということだ。パウロはエペソに立ち寄ることなくミレトへ直行することを決めたが、いざミレトに到着してみるとエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、最後の勧めを残す。これはパウロが直接教会を訪ねる代わりに、その指導者を招いてより集中した対話を交わしたかったことを示す場面である。  ミレトで長老たちと会い交わされるパウロの勧めは、使徒の働きの中でも非常に重要な場面である。張ダビデ牧師はこの場面を「パウロのエペソ説教」あるいは「エペソの長老たちへの最後の遺言」と呼ぶ。なぜなら、この短い言葉の中に、パウロがエペソ教会で働きをする中で見せた生き方の姿勢、彼が伝えた福音の核心、そしてこれから教会の指導者たちが守るべき原理が凝縮されているからだ。張ダビデ牧師は、このパウロの談話こそ、多くの教会指導者や信徒が生涯黙想すべきモデルだと説明する。  まずパウロは、自分がアジアに入った最初の日からどのように生きてきたのかを思い起こさせる。そしてその核心を「すべての謙遜と涙」と要約する。張ダビデ牧師は、パウロが告白したこの二つの言葉こそ、教会奉仕の原型だと述べる。謙遜は神の御前での姿勢である。人間的な自慢や名誉欲、あるいは自己顕示ではなく、ひたすら自分を低くして主の御心に従うこと。涙は教会員(兄弟姉妹)に対する愛の表現である。パウロは、表面上は石打ちに遭っても再び立ち向かう剛毅さを持っていたが、同時に弱さを抱える兄弟姉妹とともに痛み、共に泣く愛を持っていた。張ダビデ牧師は、教会史を振り返ってみても、真の指導者たちは常にこのような謙遜と涙をもって群れを世話してきたと指摘する。ゆえに本当の霊的リーダーシップとは、カリスマ的な雄弁や優れた行政力に先立ち、神の御前では徹底的に低くなり、人々の前では泣くことができる愛を実践することを学ぶのだ。  さらにパウロは「ユダヤ人の陰謀によって受けた試練」を強調する。これは宣教と福音伝道の道が決して平坦ではなかったことを示す。激しい迫害や不当な中傷、さらには命の危険にまで直面していたが、パウロはそれらすべてを忍耐によって耐えた。張ダビデ牧師はこの箇所で、働き人に避けられない「縛られと患難」の意味を説く。教会の歴史はいつも内部と外部双方からの試練が同時に押し寄せ、宣教師や指導者たちはその攻撃の前で揺らがざるを得なかった。しかし聖霊に満たされた者は、ここで挫折や放棄に至るのではなく、むしろ「イエス・キリストの十字架を黙想し」忍耐と信仰によって勝利する。パウロは使徒の働き20章24節で告白するように、主から受けた使命、すなわち「恵みの福音を証しすること」を果たすためには自分の命さえ惜しまない。張ダビデ牧師は、これが宣教の本質だと言う。福音とは「神の恵み」を伝えることであり、それゆえ自分の人生をすべて捧げても惜しくない絶対的価値なのだ。  張ダビデ牧師は続けて、パウロが「あなたがたの間を巡回し神の国を宣べ伝えてきたが、今やもはやあなたがたは私の顔を再び見ることはないだろう」と語る場面において、パウロの悲壮な決断と霊的洞察を読み取る。パウロはミレトで長老たちに会った際、事実上これが最後の対面であることを直感していた。そして誰かが罪の道へ逸れても、自分に責任を問うことはできないとはっきり宣言する。これはエゼキエル書33章にある見張り人の使命とつながる。神が見張り人に委ねられた務めは、角笛を吹いて民に危険を知らせることだ。見張り人がきちんと警告を行ったなら、民が悔い改めず滅びたとしても、その責任は民自身にある。しかし見張り人が角笛を吹かずに民が滅びたならば、その責任は見張り人に帰する。パウロがエペソ教会で3年という時間をかけて休む間もなく福音を伝え、教え尽くしたことによって「すべての人の血に対して私は潔白である」と宣言する場面は、見張り人としての使命を果たした自負の告白にほかならない。  張ダビデ牧師は特にこの部分を、牧師や教会指導者たちに深く適用する。教会の指導者はパウロのように真理を明確に伝えねばならない。福音は時にユダヤ人にとって妨げとなり、ギリシア人には愚かなものと映るかもしれないが、決して妥協したり飾り立てたりしてはならない。人々からの称賛や認められることだけを求めていたら、罪を指摘することもできず、真実な悔い改めを促すこともできなくなる。しかしパウロがユダヤ人にもギリシア人にも区別なく「神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰」を同じように証ししたように、教会はどのような状況でも福音の本質をあいまいにせず語るべきである。むしろ福音が命だと悟った者たちは、罪と不義から離れて神の御前にひれ伏すようになる。これこそが教会が世の中で担う唯一無二の使命なのだ。  その後パウロはエペソの長老たちに「聖霊があなたがたを監督者として立てられた」と告げ、神がご自分の血で買い取られた教会を牧するよう勧める。ここで張ダビデ牧師は、教会の本質に関するきわめて重要な定義が示されていると解説する。教会は、人間が自らの嗜好や必要に応じて選んで参加する親睦団体ではなく、キリストの十字架の血潮によって贖われた神の所有だという点だ。だからこそ監督者(長老や牧師)は、文字通り「よく見渡す」使命を託された者たちである。羊の群れが危険にさらされないよう目を覚ましていなければならず、歪んだ言葉を語る異端や偽教師が入り込まないように阻止すべきである。張ダビデ牧師は、パウロが去った後、実際にエペソ教会に異端的な思想が侵入したことを指摘し、今日の教会も多様な形態の偽りの教えや分裂に対して警戒を怠ってはならないと繰り返し強調する。  教会の中で最も大きな危険の一つは、パウロが言及した「凶暴な狼」が外部から侵入して羊を害する場合であるかもしれないが、時には内部で歪められた教えや葛藤が起こり、会衆を混乱に陥れるほうがより致命的であることもある。これは使徒の働きの後に続く初代教会が絶えず直面してきた挑戦でもあった。張ダビデ牧師は、このような混乱を防ぐためにこそ、常に聖霊の導きに従順し、恵みの御言葉の上に堅く立たなければならないと説く。教会指導者だけでなくすべての信徒が絶えず福音の本質を想起し、「与えるほうが受けるよりも幸いである」というイエスの言葉を心に刻む必要があるという。パウロが自らテントメーキングを行い、自分の手で労して宣教の経費や同行者たちの生活費を自給自足していた姿に目を向ければ、教会指導者は決して物質や名誉を求めてはならないことがわかる。むしろ自分自身の欲望に打ち勝ち、弱い者たちを助けることに全力を尽くすことこそが、本当の奉仕の本質である。  張ダビデ牧師は結論として、これらすべての教えが「ひざまずいて共に祈る」場面で締めくくられることを指摘する。パウロが長老たちと共に捧げた祈りには、最後の瞬間まで交わされる涙の交わりが込められている。互いに熱く泣き、口づけを交わしながらパウロを船まで見送る場面は、牧師と教会員の固い愛と信仰共同体の絆を象徴している。張ダビデ牧師は、このような愛を教会が回復しなければならないと教える。現代社会では個人主義や分裂が横行しているが、初代教会の原型とキリストの心を思い起こすならば、教会は再び互いのために心から泣いて祈る熱い共同体となれるのだという。  以上のように、張ダビデ牧師は使徒の働き20章13節から38節に記録されたパウロの旅路と彼が残した勧め、そして長老たちと交わされた熱い交わりが、今日の教会と信徒たちに与える示唆は非常に大きいと語る。パウロの生涯が常に謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして主イエス・キリストの恵みに対する証しで満ちていたように、私たちもそのような信仰の道を歩むべきである。主の教会は神が血代をもって買い取られた共同体であるゆえ、教会の指導者も信徒も互いに身を低くし、愛し合いながら、同時に福音に逆らう偽りには断固として立ち向かわねばならない。これこそパウロの足跡であり、また彼を範として張ダビデ牧師が強調する真の教会の姿なのである。  張ダビデ牧師が使徒の働き20章を中心に展開する牧会神学の核心は、パウロが示した「謙遜と涙」そして「福音伝達への全的な献身」の融合が、教会を支える最も強力な力だという点にある。謙遜は神の御前での態度、涙は隣人への愛から発したものであり、この二つが結びつくとき真の福音の働きが誕生する。張ダビデ牧師は、エペソ教会がこの二要素を完全に握っていた時はいかなる危機にも揺るがなかった一方、それを失ったとき徐々に分裂や葛藤、さらには異端の侵入まで経験したことを指摘する。それでは今日の教会は、この使徒の働きの本文をどのように適用し、どの道へ進むべきなのだろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、パウロが示した「聖霊に縛られた」従順の態度を深く黙想しようと提案する。使徒の働き20章22節でパウロは「今や私は心に迫られてエルサレムへ行くが、そこでどんなことが起こるかは知らない」と告白する。「心に迫られる」とは聖霊の強力な導きに従うことを意味する。これは働き人や信徒が日常において立てるあらゆる計画が、聖霊の導きに基づかなければならないことを含意する。多くの人は福音を伝えることに伴う危険や試練を恐れたり、自分の安定や快適さを優先的に考えがちである。しかしパウロのように聖霊に捉えられるならば、危険を前にしても退くのではなく、むしろより大胆な勇気と献身を発揮するようになる。張ダビデ牧師は、現代の教会がこのような強力な聖霊の充満と導きを渇望すべきだと力説する。制度的な安定や物質的な豊かさに安住してしまうと、教会はすぐに安逸に陥る。何をするにもまず神に問い、その召しに敏感に応答する霊性こそ、初代教会共同体が持っていた命の源だということを思い起こすべきなのである。  第二に、張ダビデ牧師は、パウロが説いた「悔い改めと信仰」というメッセージを再照明する。パウロは20章21節で「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰とを証ししてきた」と宣言する。ここで悔い改めと信仰は、福音宣教の核心構造となる。悔い改めは神の御前で罪を告白し、自分の生き方の方向を変えることであり、信仰はイエス・キリストを救い主として受け入れ、その十字架と復活によって新しいいのちを得ることである。ところが張ダビデ牧師は、教会がしばしば悔い改めを強調せずに信仰ばかりを偏って教えたり、あるいは信仰を行いや実をともなわない「個人的な信念」のように弱めてしまう問題を指摘する。パウロが伝えた福音はいつでも鋭く罪を指摘し、そこから離れなければ真の信仰は打ち立てられないと強調していた。これは教会の指導者たちが、説教や教えにおいて「不快だから」と悔い改めの要求を省いてはならないことを意味する。教会が教会らしくあるためには、信徒一人ひとりが依然として根深く残る罪性から離れるための霊的戦いを続け、その中でイエス・キリストの恵みを体験するとき、はじめて完全な信仰が完成するのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロがエペソの長老たちに与えた「聖霊があなたがたを監督者とされたことを思い起こせ」という勧めを通して、現代教会の指導者に求められる役割を強調する。監督者(長老、牧師)は、教会共同体とその群れを牧しなければならない。その牧しは単なる行政的管理や礼拝の主催ではなく、凶暴な狼や歪んだ言葉を語る者たちが教会を害することのないように見張る霊的な番人の役割を担うことを含む。張ダビデ牧師は、監督者になろうとする者は、まず神の御言葉によって自分自身を徹底的に照らし「自分の羊ではなく、主の羊を牧する」という畏れを持つべきだと述べる。教会が時に組織的・規模的・財政的に成長することを目標としやすいが、パウロが教える真の成長は、羊たちの魂が目覚め、神の御言葉を正しく握るところに現れるのだ。もし指導者が世俗的成功や名誉を求めて教会の魂を顧みることを怠るなら、すぐに内部でさまざまな不協和音や分裂が生じる。さらにはパウロが「あなたがたの中からも弟子たちを引き込み、自分のもとに従わせようとする者が出るだろう」とまで言及している。指導者が油断している間に、教会の中で新たな“教祖”的存在になろうと企む者や、信徒たちを歪んだ道へ導こうとする勢力が現れるという警告である。それゆえ教会指導者は常に目を覚まし、教会がしっかりと握るべき聖書的真理を守り抜かなければならない。  第四に、張ダビデ牧師は、パウロが自らの働きを「見張り人」の役割として規定し、罪の血の責任を自分には問えないと宣言する場面を取り上げ、教会が世に対してどのような責任を負うべきかを問う。教会は世に対する見張り人の存在である。ぬくぬくとした安息の場に集まって自分たちの安寧だけを追求する共同体ではなく、主の角笛を吹いて世界に警告し、福音を宣べ伝える見張り人となるべきである。もし教会が傍観や沈黙によって世の罪悪化を放置するなら、神はその責任を教会に問われるだろう。パウロは「私はあなたがたの血に対して責任がない」と宣言したが、それは彼が言うべきことをすべて言い、罪を指摘すべきときには指摘し、悔い改めを叫ぶべきときには叫び尽くしたからである。張ダビデ牧師は現代教会もこのパウロの姿勢を見習い、福音が強調するいのちの価値を守り抜くべきだと語る。その過程で拒絶や嘲笑を受けるかもしれないが、それでも語るべきメッセージははっきりと伝え、キリストの恵みのうちへと立ち返るように手を差し伸べなければならない。  第五に、張ダビデ牧師は、パウロが「私はだれの銀や金や衣服をも欲しがったことはない」と述べる部分から、教会指導者の物質観と清貧の美徳を再考する。今日の教会は様々な財政的圧力や世俗的欲望にさらされやすい。パウロは教会を建てる際に自費で働き、彼自身と同行する者たちまで養った。その姿勢は当時としても非常に特異な例だった。ユダヤ人のラビは弟子たちから日常的な必要の供給を受けることが当然視され、ギリシアの哲学者たちも後援を受けることが普通だった。しかしパウロは自ら生計を維持しながら、「与えるほうが受けるより幸いである」というイエスの教えを自らの生き方によって証明したのだ。張ダビデ牧師は、教会が財政を運営する際に世の「利益」論理にとらわれる危険性を警告する。さらに指導者が物質的な豊かさから教会に重荷を負わせたり、ひいては自分の私利私欲を満たすことが生じるならば、教会は急速に霊的力を失い、批判の的になる。したがってパウロが示したように自足し質素に生きる姿勢、物質を扱うときに常に宣教と救済、そして弱い人々を助ける働きに優先順位を置くことこそが聖書的な原理である。  結局、これらすべての勧めの最後は愛の交わりによって完成される。パウロとエペソの長老たちがひざまずいて祈り合い、互いに抱き合って涙を流したミレトの海辺の場面は、教会がどんな組織的プログラムや華やかな外的スペックよりも先に回復すべき霊的な愛を示している。張ダビデ牧師は、共同体の中にこのような熱い涙と切実な祈りが生きているときこそ、教会が世の中に福音の光を照らす真の証人として立ち上がれるのだ、と力説する。エペソの長老たちは、パウロの顔を二度と見ることができないと考え、大いに悲しんだが、その嘆きはある意味、強力な愛の現れでもあった。教会とは、まさにそのような霊的親密さ、互いを想う切実さによって結ばれた共同体である。張ダビデ牧師は、使徒の働き20章を通して、宣教の道は孤独に見えても決して一人ではないという事実を改めて強調する。その道には共に涙を流してくれる同労者がおり、そのすべてを見守ってくださる神がおられるからだ。  パウロのこの旅路と勧めは、現代にも同じように適用し得る。教会がその光を失わないためには、謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして聖霊に縛られた従順が絶えず呼び覚まされなければならない。張ダビデ牧師はこれを教会の基本、つまり霊的DNAと呼んでいる。教会が成長し信徒数が増えても、この基本がなければ空虚な外形にとどまる。逆にどんなに小さく見える教会でも、この霊的DNAが生きていれば神の国の力が強力に現れる。したがって今の時代を生きる信徒たちは、パウロのミレトでの出来事を頭で理解するだけでなく、心で受け止め、実践へと移さなければならない。教会の中で愛の涙を流した経験がない者にとっては、パウロが長老たちと共に泣きながら祈ったという事実は馴染みが薄いかもしれない。しかしこの場面こそが初代教会に宿る本質的な愛の徴であり、私たちがその心を取り戻すとき、教会は世の中で再び生き生きと動き始める神の共同体となるのだ。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の御言葉を説き起こしながら、最終的に教会の未来と方向性に対して深いメッセージを届ける。パウロが歩んだ道と彼が伝え残した御言葉には、教会が守り続けるべき信仰の遺産がそのまま詰まっているからである。牧師は使徒の働きを、単に初代教会の歴史を示す古代文書として見るのではなく、現代教会が引き続き書き進めていく「開かれた書」として解釈する。使徒の働き28章の終わりで物語が締めくくられるのではなく、今日の教会こそが使徒の働きの延長線上で福音を証しし、神の国を拡大していく主役にならなければならないというのである。では、パウロとエペソの長老たちとのあいだで交わされたこの場面から、私たちが学ぶべき具体的な実践は何だろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、教会共同体が必ず「御言葉中心」に立たなければならないと強調する。パウロは「私ははばからず、神のご計画のすべてを余すところなく伝えた」と語った。御言葉とは、人をただ慰めるために甘く飾ったり、あるいは権威的に脅して服従させる手段ではない。御言葉は魂を回復し、教会を堅固に建て上げ、同時に罪や不義を砕く力を持っている。ゆえに教会の指導者も信徒も日々御言葉の前に自身を顧み、そのみこころを悟って生活に適用しようと努力すべきである。もし教会が御言葉よりも世の知恵や流行する哲学に敏感になってしまうなら、たちまち使徒の働き20章でパウロが警告した「凶暴な狼」と「歪んだ言葉」に翻弄されるしかない。張ダビデ牧師は、したがって御言葉を握る信仰の訓練こそが、教会の中に生きた伝統として息づくべきだと力説する。  第二に、教会内部のリーダーシップがある程度整ったからといって、安心してはならない点を指摘する。エペソはパウロが3年も滞在して苦労して建てた教会であった。パウロが直接教えた長老たちがいただろうから、彼らの霊的レベルや管理能力は相当に高かったはずである。それにもかかわらずパウロは最後の勧めにおいて極めて厳しい警告を与える。「私が去った後、凶暴な狼が入り込んで群れを荒らす。もっと言えば、あなたがたの中からさえ弟子たちを引き込み、自分に従わせようとする者が起こるだろう」と。教会が一瞬でも油断すれば、よく建て上げられた共同体であっても崩れ得ることを示している。張ダビデ牧師は、だからこそ教会は絶えず目を覚まして祈り、自らを点検し、霊的な慢心に陥らぬよういつも気をつけなければならないと説く。どんなプログラムや奉仕、あるいは業務に慣れて上手になったとしても、それ自体が教会の安全装置にはならない。ひざまずき神に祈る霊性こそが教会を守る盾なのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロが語る「福音の本質」を改めて確かめるよう促す。福音とは、パウロの言葉を借りれば「神の恵みの福音」である。律法という重い軛で人を縛る知らせではなく、世の多元的価値観をありのまま取り込んで洗練された形で装飾したメッセージでもない。ただ罪から離れてイエス・キリストを信じることで救いを得て、新しいいのちに生かされる、それが本質だ。張ダビデ牧師は、この福音こそが教会を教会たらしめ、人を変え、世を新しくする力なのだと力説する。問題はしばしば、私たちが福音に自分なりの解釈や伝統的慣習、あるいは文化的要素を「これも福音だ」と付け加えてしまうときに起きる。そうなると教会は複数の道へと分かれ、混乱に陥ってしまう。初代教会もユダヤ人と異邦人のあいだで律法問題をめぐり大きな衝突を経験したが、最終的には「恵みによって救われる」という福音の原則を再確認することで一致を保った。今日の教会も福音の本質が揺らがないよう、いつも御言葉と聖霊に頼って自らを省みなければならない。  第四に、教会が「受けるよりも与えるほうが幸いである」という主の言葉を実行することによって、世の中に仕える模範を示さねばならないと張ダビデ牧師は語る。社会が競争や利己主義に満ちていればいるほど、教会は逆に「分かち合い」と「献身」を通して神の愛を表現しなければならない。パウロが自らテントを作る仕事をして宣教費を賄った姿は、今日の教会リーダーに対しても物質的な欲に捉われずに働きに専念するよう強いチャレンジを投げかけている。張ダビデ牧師は、もちろんすべての教会指導者が自費で働かねばならないとは主張しない。しかし指導者の心の奥底には、「自分が受けることよりも与えることを心から喜んでいるか」という自己点検があるべきだという。教会の予算を使うときも、それが本当に福音を広め、信徒をケアするために最優先で用いられているのか、常に注意深く見極める必要がある。教会が物質を健全に扱えないならば、パウロが警告した「歪んだ言葉」と「凶暴な狼」は物質的利益を狙って教会を飲み込もうとするだろう。だからこそ教会は財政的透明性と清廉さを守り、必要とあればパウロのように労を惜しまぬ献身によって模範を示せるようでなければならない。  第五に、教会の中に熱い祈りと愛が回復されなければならない。パウロとエペソの長老たちが共に泣きながら祈り合い、互いを抱きしめながら最後の別れを交わすこの場面は、使徒の働き20章全体を荘厳な情景として締めくくる。張ダビデ牧師は「教会が本当に生き生きと動くためには、説教者と聞き手、あるいは牧師と信徒がこのように互いに心を開き合い、共に泣ける愛の交わりがなくてはならない」と言う。現代の教会は大型化が進み、プログラムやイベントは増えているが、その一方で信徒同士の率直な交わりが不足しがちである。教会の規模が大きくなるほど、このような霊的親密さと熱い愛の集いが失われる危険性は高まる。しかし初代教会はしばしば家庭集会の形を取り、食事を共にし、お互いの状態を見守りながら祈り合い、涙を流した。パウロがこれほどまでに愛を持って教えたエペソ共同体も、結局はそのような愛によるつながりを持っていたからこそ、パウロとの別れの際に大声で泣きながら彼を見送ったのである。この涙は単なる個人の感情放出ではなく、福音によって築かれた霊的な絆であった。張ダビデ牧師は、教会が本当に世に向かって出て行くためには、まず共同体の中でこのような愛の涙が生きていなければならないと強調する。互いに無関心な共同体は、決して世に対して福音を行動的に伝えることはできない。むしろ世の人々から「口先ばかりだ」と皮肉られるだけだろう。  総括すると、張ダビデ牧師は、使徒の働き20章13節から38節に描かれているパウロのミレトでの勧めこそ、教会が本質についていかに再武装すべきかを教えてくれる決定的な本文だと語る。パウロは長い宣教の旅の中で示した一切の遠慮ない福音宣教、謙遜と涙に象徴される牧会精神、聖霊に縛られた従順、そして見張り人としての責任をすべて圧縮的に示している。また教会指導者たちには偽りの教師を警戒し、羊の群れを守り、何より「神の恵みの御言葉」にしっかり立つよう勧める。これは1世紀のエペソ教会だけの課題ではない。21世紀を生きる今日の教会も同じようにこの勧めを握り、新たに学ばねばならない。  張ダビデ牧師は、使徒の働きが「続けて書き綴られるべき書」であることを繰り返し想起させながら、教会が使徒の働き29章、30章を綴っていくのだという象徴的な表現を用いる。その言葉はつまり、初代教会の純粋な信仰と共同体性が、現代においてもそのまま引き継がれるべきであり、福音によって据えられた働きの土台の上で教会が新たな歴史を創り出していくべきだという意味である。そのためには、パウロが示した中心価値――すなわち愛と献身、悔い改めと信仰、従順と警戒、分かち合いと祈り――が一つの身体のように連動しなければならない。もし教会がこの原理を見失えば、いくら外形的に成長しても、やがて霊的な心臓を失った殻のような共同体に成り下がる可能性がある。  張ダビデ牧師は最後に、この本文を愛するすべての信徒と牧会者が、パウロとエペソの長老たちがともにひざまずいて祈ったあの場面を、今日の現実の中でも再現しようと勧める。互いの首を抱き合い涙を流しながら、主の恵みを求めるあの祈りの場こそ、神の教会が回復する場であるからだ。そこで教会は神の贖いの御業を骨の髄まで刻み、「神がご自分の血で買い取られた」尊い共同体であることを再認識する。その再認識こそが教会を教会らしくし、この世で「光と塩」の使命を果たせる存在へと作り上げる。これが張ダビデ牧師が使徒の働き20章を解き明かしながら、現代の信仰共同体に伝えたい本質的なメッセージである。教会は一瞬たりとも謙遜と涙を失わず、福音に対する熱情を冷ませず、何より聖霊の導きのうちで祈りつつ互いを立て上げるべきなのだ。パウロがミレトで残した「最後の説教」と「共に流した涙の祈り」は、遠い1世紀に留まらず、今なお私たちの信仰を新たにし、教会を導く命の響きとして鳴り続けている。張ダビデ牧師は、その響きに耳を傾ける人々が増えるとき、教会はさらに新しくされ、主の再臨の道を備えていくと信じているのである。