四旬節の十字架黙想 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章の御言葉を通して、イエス・キリストの苦難と愛、そして弟子たちに対する仕えの姿勢を深く黙想すべきであることをたびたび強調してきた。特に四旬節(サスンジョル)の期間には、キリストの苦難にいっそう近づき、その苦難がなぜ愛であるのかを悟る時間とすべきだと説く。ヨハネの福音書13章1節の「さて、過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くご自分の時が来たことを知り、この世にいるご自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛された」という聖句は、イエスが地上での宣教を締めくくられる直前、弟子たちに示された“最後まで愛する”姿勢の出発点である。 張ダビデ牧師は、この場面でイエスが示された態度と愛の実践こそ、私たちにも同様に求められる弟子道の核心であると教える。そしてそれを辿っていくならば、イエスがなぜ最後まで愛されたのか、その愛が何を内包しているのかを自然に理解することができるという。なぜなら、愛は苦難であり、その苦難が十字架へと続くからである。イエスが弟子たちを最後まで愛されたとは、彼らのために十字架に至るまでご自分を低くし、仕える立場に立たれたことを意味する。そしてこの愛を通して私たちに「愛は決して呪いではなく、祝福であり、命を得る道」であるという真理が宣言される。パウロが語った「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(Ⅰコリント13:13)という言葉のように、愛こそがすべてを完成させる鍵であり、この愛が私たちを永遠の命へと導くのだという。  張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章から続く19章までの記録を見れば、イエスが十字架の道へ入られる前に、どのような心構えと態度を持たれていたのか、どのように弟子たちを教え、世話をし、最終的にどんな決断で従われたのかを詳しく知ることができると語る。ヨハネ13章からイエスの苦難が本格的に始まるが、その始まりにはいつも愛が置かれている。「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という宣言は、イエスがなぜ苦難を避けられなかったのかへの明確な答えとなる。愛ゆえに、最後まで愛するがゆえにイエスは苦難を引き受け、それが私たちの救いのために不可欠であることを自ら示されたのだ。 張ダビデ牧師は、この事実が私たちの信仰生活においても非常に重要だと強調する。私たちは時に苦難を呪いや刑罰としてのみ捉え、神が私たちを「懲らしめている」のだと考えがちである。しかし実際には、苦難の中には神の深い愛と摂理が織り込まれており、それが最終的に私たちをより成熟させ、聖なる者へと造り変えていくのだという。  聖書の各所には、苦難の益や苦難へ参与すべきことが何度も語られている。たとえば詩編119編では「苦しみに会う前には私は迷い行きをしていました。しかし今はあなたの仰せを守ります」「苦しみにあったことは私にとって幸いでした。それによって私はあなたのおきてを学ぶようになりました」と告白し、苦難がむしろ霊的成長をもたらすと告げている。またローマ書5章3〜11節のパウロの告白は「わたしはキリストと、その復活の力とにあずかり、その苦難にあずかることを知りたい。そしてその死のありさまにあやかって、何とかして死人のうちからの復活に達したい」というように、苦難を通してキリストをいっそう深く知りたいという熱望を示している。コロサイ1章24節の「今や私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜び、キリストの苦難の欠けたところを、その体である教会のため、私の肉体に満たしているのです」や、Ⅱテモテ1章8節の「福音のために苦しみを受けよ」、Ⅱテモテ2章3節の「あなたはキリスト・イエスの立派な兵士として私と共に苦しみにあずかりなさい」、そしてⅠペトロ2章20〜21節、4章13節などにもキリストの苦難への参加を求める命令が繰り返し出てくる。これらのみ言葉はすべて、苦難は決して避けるべきものではなく、むしろ喜んで受け入れ、その中でキリストの道を学び、従うべき重要な霊的真理を提示している。  張ダビデ牧師は、これら聖書の教えを土台として、イエスが弟子たちの足を洗われたヨハネ13章の出来事こそ「愛の内に含まれた苦難」の代表的な例だと説明する。私たちはしばしば愛を語るが、愛は決して言葉だけで完成するものではない。愛するということは、相手のために自分を差し出すこと、相手が当然受けるはずの私の仕えを喜んで担うことである。イエスは弟子たちと最後の晩餐をともにされたその席で、立ち上がり上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻いて、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗われた。これは当時の文化において、しもべが主人や来客の足を洗う行為と同じであり、徹底的な「低いところでの奉仕」を意味する。しかし弟子たちはその前に互いに争っていた。「誰が一番偉いのか」という問題で意見が対立し、中には主の御国で右と左の座に就かせてほしいと願う者までいた。それはすなわち「自分が他人よりも高く評価されたい」という願望を示すものだった。 張ダビデ牧師は「このように弟子たちが世の価値観を抱いて高くなろうとしたがゆえに、イエスは逆に最も低い地位に立つことで、弟子たちに神の国の真の法則を自ら体現して示された」と解説する。  主が見せてくださった神の国の法則は、世の価値観と徹底的に反対である。世は「より高い地位、より大きな権力、より多くの名誉」を求めるが、イエスは「より低い地位、より小さな権力、より謙った姿」で仕えよと教えられる。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は仕える者となり、あなたがたの間でいちばん上になりたいと思う者は、みなのお世話をする者とならねばならない」(マタイ20:26〜27)との言葉の中で、イエスは新しい秩序を宣言された。人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、その仕えは自らの命をあがないの代価として捧げるところにまで至るのだ。 張ダビデ牧師は、イエスが語られた仕えの道は決して容易ではなく、それはすなわち自我の死と苦難を伴うものであると強調する。しかしキリストの弟子として私たちがその道を歩むとき、はじめて真の命、真の喜び、復活の力を体験することができる。世の論理では到底理解できない「下る道が上る道になる」という逆説が、神の国の中では真実となるのだ。  ヨハネの福音書13章全体の流れを見ると、イエスはご自分に迫っている十字架の運命をすでに知っておられた。張ダビデ牧師は「イエスは、この世を去って父のみもとに行く時が来たことを知り」(ヨハネ13:1)という御言葉が、まもなく始まる苛酷な苦難と死の時を明確に認識しておられたことを示唆していると言う。しかしそのような状況にあっても、イエスはご自分の者たちを最後まで愛された。「最後まで」という表現には「完全に、徹底的に、永遠に」という意味が含まれる。それは単なる一時的な感情や一過性のケアではなく、十字架ですべてを差し出すまで確固として進められる愛である。張ダビデ牧師は、この事実こそクリスチャン生活の核心だと力説する。私たちは苦難に直面するとき、しばしば自分のことだけに没頭してしまう。自分の心配、自分の置かれた状況、自分の問題に囚われ、他人を顧みる余裕を失う。しかしイエスは十字架の痛みが目の前に迫っていても、むしろ弟子たちを集めて最後の晩餐を設け、彼らを教え、慰め、仕えられた。これこそ真の愛であり、私たちが見習うべき姿だ。  その愛の頂点が足を洗うという出来事で表れる。当時のパレスチナの道はほとんど舗装されていない土の道であり、履物もせいぜい現代でいうサンダル程度、あるいはさらに貧しい人々は裸足で歩くことも多かった。一日中、埃まみれの道を歩けば足が汚れるのは当然なので、家に戻ると水で洗う風習があった。誰かが夕食に招かれたなら、しもべがその客人の足を洗ってもてなしを示した。しかし最後の晩餐の席、しかもイエスが弟子たちと共に過ごす厳粛で大切な瞬間に、弟子たちは「誰が偉いか」を争い、誰も足を洗うしもべの役割を引き受けようとしなかった。そこでイエスが直接上着を脱がれ、腰に手ぬぐいを巻き、弟子たちの足を洗われたのである。 張ダビデ牧師は「これはイエスが口先だけの仕えを唱えられたのではなく、それをはっきりと示す行動をとられた」ことを顕著に示す出来事だと言い、主が弟子たちに教えられたことが実際の生活にどのように具現されるか、その実演を自ら行なわれたと解釈する。主の生涯は御言葉そのものであり、その御言葉が行動となって現れる姿こそ、私たちが絶えず黙想し、見習うべき弟子道のエッセンスだと語る。多くの人々が愛を説き、仕えを教え、分かち合いを唱えるが、実際にその生き方をしていない場合は多い。しかしイエスは語られたとおりに行動し、さらには死の瀬戸際にあっても他者に仕える姿でご自分を差し出された。これが十字架へと至る道であり、同時に愛の道だった。私たちがこの愛の道をいっそう深く黙想し、実践すべきことを、張ダビデ牧師は四旬節だけでなく日常のすべてにおいて決して見失ってはならないと再三強調する。  このように愛は苦難を伴う。単に美しい感情や映画が描くロマンチックな要素ではなく、自分を徹底的に低くして相手を高くするために払う犠牲的行為が愛であるということ。もしイエスがご自分の威厳や権利を主張されていたなら、弟子たちの足を洗う理由はまったくなかったはずだ。しかしイエスは自ら進んでしもべの位に降りられた。その結果、弟子たちは言葉だけで聞いていたイエスの教えを目で直接見て、真の仕えの意味を体得することができたのである。 張ダビデ牧師は、この出来事全体を今日の教会や信仰共同体の生活に適用すべきだと力説する。教会の中でも、職分や役割、年齢や社会的地位、あるいは財政的条件などによって高慢が生まれ、「仕えを受けたい」という思いが大きくなれば、決して主が望まれる共同体をつくることはできない。かつて弟子たちが互いに高くなろうとした姿を、現代の私たちが繰り返してはならず、むしろイエスの行動を思い起こし、それに倣うことで、互いの足を洗い合う純粋な交わりが実現されるべきだというのだ。  愛は結局、相手からの影響を受けないとも言われる。相手がどう反応しようと、たとえ自分を裏切ったり誤解したりしても最後まで責任をとるのが愛だ。ヨハネ13章を読むと、イエスはイスカリオテのユダがご自分を裏切ることをすでにご存じであったにもかかわらず、彼の足も洗われたことがわかる。これは人間的な観点では到底理解しがたい決断だが、イエスはそういう道を選ばれた。 張ダビデ牧師は、これこそが「神の国の逆説」だと呼ぶ。世の中では報復や憎しみ、傷つけあいの連鎖が自然に起こるが、神の国ではむしろ恵みと赦し、自己犠牲と愛が溢れる。だからイエスは「あなたがたは私を先生また主と呼びますが、それは正しいことです。実際そのとおりだからです。それなのに、主であり先生であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:13〜14)と語られた。張ダビデ牧師は、ここで「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」という命令こそ、教会共同体と信徒が日常において実践すべき核心だと主張する。それは「弟子が弟子に、兄弟が兄弟に、互いに仕える生き方」をすることであり、その仕えの中でイエスの栄光が現れるからだ。  もちろんこれは容易いことではない。愛は驚くほど多くの犠牲を要求する。イエスが語られた「偉くなりたい者、いちばんになりたい者は仕える者となり、しもべとならなければならない」というこの逆説は、人間の本性が受け入れ難い部分である。誰しも自分が高く評価されたい、認められたい、他人よりも優位に立ちたいという欲望があるからだ。しかしイエスは「あなたがたの間ではそうであってはならない」(マタイ20:26)と仰せられた。私たちがキリストの福音を信じて従うならば、世のやり方ではなく、神のやり方で考え行動しなければならないということだ。 張ダビデ牧師はこれを「価値観の終末」と表現する。古い人の価値観が完全に終わりを迎え、新しい人の価値観が始まってこそ、本当の弟子になれるのだと言う。世の目で高いと考えられる場所ではなく、神がご覧になって価値ある生き方の場所を選ぶこと、それこそが苦難の道であり、同時に祝福の道でもある。  イエスは弟子たちとの最後の晩餐でパンとぶどう酒を分け与え、「これはあなたがたのために与える私のからだである。これを行なって私を覚えていなさい」(ルカ22:19)と仰せになった。張ダビデ牧師はこの場面について、イエスの自己犠牲が単なる理論的教義や教訓ではなく、きわめて具体的で現実的な出来事であることを肝に銘じるべきだと説く。パンはイエスのからだを、ぶどう酒はイエスの血を象徴する。それはイエスが弟子たちのため、また人類の救いのために実際に身を裂かれ、血を流された事実を記念するものだ。ところが、この厳粛な瞬間でさえ弟子たちは自分の権利や地位を気にかけ、「誰がより大きいのか」をめぐって争っていた。これは彼らが主の苦難と犠牲を完全には理解できていなかったことをよく示している。しかしそれでもイエスは彼らを捨てることなく、最後まで教え、元の位置に立ち返らせてくださった。 張ダビデ牧師は、こうして弟子たちを最後まで見捨てずに導かれたイエスの愛を見れば、私たちもたとえ弱く欠けていても神の愛のうちに新しく生まれることができると悟らねばならないと強調する。  特に教会は、苦難について正しく教える責任を担っていると張ダビデ牧師は力を込めて語る。多くの信徒がいまだに苦難を「神に見捨てられた証拠」あるいは「神の刑罰」として誤解しているが、聖書の多様な本文が語るところはまったく異なる視点である。イエスが私たちを最後まで愛してくださったように、私たちも苦難を通して信仰が精錬され、愛をさらに深く学び、キリストに似る道を歩むようになる。パウロの多くの書簡やペトロの勧めは、苦難がかえって私たちの喜びとなり、その苦難の中で私たちが真の希望を見いだすのだと宣言している。 張ダビデ牧師は「私たちはキリストとともに死にあずかり、その復活の力にもあずかることこそ、信仰の究極の実りだ」と教える。そしてその愛のうちでこそ、私たちは永遠の命を得るのだという。  ヨハネ13章に再び目を向けると、イエスが悲惨な十字架へ向かう道に入られる直前、弟子たちに最初に示された姿が足を洗う場面であったことは非常に印象的だ。主は「いまこそ私はあなたがたを離れ、父のみもとへ行く時が来た。この世を去る直前だ」という事実を知っておられたのに、それでも弟子たちのために最後の晩餐を準備し、彼らの足を洗われた。それは自らしもべとなって「愛の手本」を示そうという意図が明白だった。 張ダビデ牧師は「イエスにとっては切迫した瞬間であればあるほど、ご自分だけに没頭するのではなく、むしろ弟子たちを目覚めさせ、霊的に立たせようとされるほどの愛があるとわかる」と述べる。そして私たちも人生の苦難や逆境が深まるほど自己憐憫や不平に陥るのではなく、むしろ身近な人々を顧みて仕えることができるような信仰と決断を求めて祈るべきだと助言する。  さらに、弟子たちが足を洗われる姿にどのように反応したかに注目する必要がある。特にペトロは「主よ、あなたが私の足を洗うなど、とんでもありません」と叫んだが、イエスが「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関わりもないことになる」と言われると、すぐに「主よ、それなら足だけではなく、手も頭も洗ってください」と言い換える(ヨハネ13:8〜9)。ここでイエスは「すでに身体を洗った者は、足以外に洗う必要はない」と教えられ、霊的にはすでにきよめられた弟子であっても、日々の歩みの中で付着する罪や過ちを洗うことが必要であることを示唆された。 張ダビデ牧師は、この箇所から、私たちがイエス・キリストを信じて救いを受けたとしても、日常生活の中で足が汚れるように罪に染まることがあるため、日々悔い改め、洗い清められるべきだという大切な教訓を得られると強調する。そして、その悔い改めのプロセスもまた、互いに仕え愛し合う共同体の中で行われるとき、豊かな実を結ぶのだと付け加える。  イエスが弟子たちの足を洗う出来事が終わると、主は「私があなたがたにしたことがわかりますか」と問われた(ヨハネ13:12)。張ダビデ牧師は、このイエスの問いかけが現代の私たちにも同じように投げかけられていると見る。「本当にイエスのなさったことを知っているのか。その仕えと愛、そして十字架の意味を正しく悟っているのか」という問いである。知るからこそ行動でき、悟るからこそそれを伝えられる。だから張ダビデ牧師は、もし教会がこの本質を見失い、プログラムや組織運営、数的成長のみを追求するなら、「イエスがなさったこと」を知っているとは言えないのではないかと指摘する。イエスの足洗いの出来事は単なる一度きりの慈悲深い行為ではなく、弟子道を定義する象徴であり、教会共同体が存在する理由を宣言する予表である。すなわち「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい戒めの土台を具体的に示すモデルなのだ。  また、イエスは足洗いのあと、弟子たちに向かって「私があなたがたにした通りに、あなたがたもするように」と命じられた(ヨハネ13:15)。張ダビデ牧師は、この命令の口調が非常に断定的であることを強調する。イエスはこれを選択や提案ではなく、弟子ならば必ず従うべき命令として下されたのだ。愛は理論ではなく実践であり、仕えは言葉ではなく行動である。だから教会は互いに足を洗うことでイエスの愛を世に示し、その結果としてキリストの福音が証しされるべきだというのが、張ダビデ牧師の中心的な教えである。結局のところ、愛と苦難は切り離せない関係にある。他人に仕えようとすれば自分が犠牲を払わねばならず、他人を高めようとすれば自分が低くならねばならない。他人の罪や過ちを覆おうとすれば、まず自分が理解と忍耐を示さなくてはならない。その過程は時に痛みや困難を伴い、私たちの自己を絶えず砕く必要がある。しかしその道こそイエスが歩まれた道であり、十字架へと続く道なのだ。  このようにイエスの最後の晩餐と足洗いの出来事がもつ意味を総合的に見るとき、私たちは愛とは何かをより明確に知るようになる。愛は決して感情的な喜びや、単なる好意を超えたものである。愛は献身と犠牲を前提とし、ときに裏切りや誤解さえも甘受する行為だ。イエスが最後までご自分の者たちを愛されたように、私たちも誰かを最後まで愛する力を持たねばならない、と張ダビデ牧師は語る。もちろん人間的な意志や能力だけでは不可能であり、聖霊の助けが必要だ。しかし私たちがその道を歩む決心をするとき、イエスの御霊が私たちのうちに働き、その道を全うできるよう導いてくださる。教会がキリストのからだとして世の中で光と塩となるとは、この愛の実践を通して証明されるのである。  さらに張ダビデ牧師は、苦難を恐れたり回避しようとするだけでは、決してこうした愛の成熟には至れないと指摘する。苦難は最終的に、自分がどれほど愛しているかを炙り出す道具となり、同時にその愛を一層清める火ともなる。イエスが十字架へ向かわれる道中には、弟子たちの裏切り、ユダヤ人宗教指導者の謀略、兵士たちのあざけりや鞭打ち、そして凄まじい痛みが次々とあった。しかしそれらすべての状況こそが「最後まで愛された」という御言葉を最も劇的に示す装置となった。もし愛がなければイエスは決して十字架を選ばれなかっただろうが、愛があったがゆえにその苦難を自ら受けてくださり、私たちを救ってくださったのだ。これは教会と信徒が世に遣わされる理由とも重なる。たとえ世が私たちを憎み排斥しても、私たちの内におられるイエスの愛が、その苦難を克服する力を与えてくださるからである。  ここで注目すべきは、「最後まで愛された」という言葉には受動的な意味以上に能動的な意味が含まれているという点だ。イエスは単に弟子たちをあきらめずに「見捨てなかった」というだけでなく、さらに一歩進んで「積極的に最後まで彼らの世話を焼かれた」という意味を持つ。最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈られるときも、イエスは弟子たちの弱さを心配しつつ「誘惑に陥らないよう、目を覚ましていなさい」と忠告された。張ダビデ牧師は、この勧めもまた「愛の最後まで行く姿」として見ることができるという。主は十字架に至る苦しみと死の恐怖の前でも、弟子たちの霊魂の状態と、その信仰がくじけないよう促すことに集中された。これが愛の最終形である。私たちはこういうイエスの姿を思うとき、自分の限界を感じるときにこそ「それでもなお(にもかかわらず)」という言葉をもって愛をやめられなかった主を思い起こすことができるはずだ。  張ダビデ牧師は、足洗いの直後、イエスが「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と宣言された事実に注目すべきだと語る(ヨハネ13:21)。つまり、もっとも美しい愛の場面の後に裏切りの予告が続くのである。私たちが容易に納得しがたい逆説的な状況だ。しかしイエスはこの事実を知りながらも愛を引っ込められなかった。イエスの足洗いの中にはユダも含まれていたはずなので、結果的にイエスは裏切りの張本人の足までも自ら洗われたことになる。張ダビデ牧師は「これこそ、人間的な打算や感情を完全に超越した神的な愛の本質だ」と強調する。もし私たちが、自分を裏切る者をあらかじめ知っていれば決して黙って放置はしないだろうし、少なくとも好意的には扱えないだろう。しかしイエスは裏切りを阻止されず、ユダに最後まで恵みを与えられた。最終的に裏切りの報いを負ったのはユダ自身となったが、少なくともイエスの愛の中で彼に閉ざされた扉はなかったわけだ。これがイエスの「最後まで愛される」姿の具体的かつ痛ましい現実なのである。  愛が苦難を伴うゆえに、もし教会が苦難を教えないなら、愛の本質も失われるだろうと張ダビデ牧師は警告する。もし教会が苦難なくしてうまくいくことや順調さだけを強調するなら、イエスが示された真の十字架の道からはかけ離れてしまうおそれがある。十字架なき復活はあり得ず、苦難なき栄光はキリストの教えから外れるからだ。だから四旬節は、キリストの苦難を深く黙想し、その苦難の内にある神の愛を振り返り、私たちもその愛を倣って生きる決心をする期間となるべきである。そしてこの決心は四旬節に限定されることなく、復活の後も教会が継続して実践すべき課題である。張ダビデ牧師は、教会の使命は「その愛を世に知らせること、苦難を受けるすべての人々にイエスの仕えと犠牲を伝えること」だと教えている。  ヨハネ13章1節の「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という言葉は、イエスの地上での宣教の最後の局面を開く序曲であり、そのすべての苦難のプロセスを解き明かすキーワードとも言える。イエスは弟子たちとともに最後の晩餐をし、弟子たちの足を洗い、新しい戒めを与えられ、その後捕らえられ、苦難を受け、死なれ、復活される。このすべての流れは、愛という大きな柱で貫かれている。張ダビデ牧師は「愛すると言いながら最後まで愛さないのなら、それは真の愛とは言えない」と語り、最後まで愛することによって苦難さえも抱きとめ、その苦難の中で復活の栄光を望むことこそキリスト教信仰の核心だと力説する。実際、イエスはヨハネ17章で祈られるときにも弟子たちのために執り成し、「真理によって彼らを聖別してください」と願われた。さらにはご自分を捕らえに来た者たちにも直接「わたしがそれだ」と名乗り、抵抗されなかった。それほどに徹底して神の御旨に従い、愛をもって行動されたのだ。弟子たちの裏切りと逃亡を知りながらも、彼らを再び立ち上がらせることを期待しておられる思いがうかがえる。  張ダビデ牧師は、現代の教会と信徒がこの御言葉を黙想するとき、私たちも結局この道を歩まなければならないという自覚が起こるべきだと強調する。「もしあなたがたが私を先生、主と呼ぶならば、あなたがたも互いに足を洗い合うべきではないか」というイエスの御言葉を深く刻むべきなのである。教会の中で職分が高いからといって仕えを受けたがったり、世の権力や金銭、名誉に執着するならば、決して主の弟子として成熟することはできない。イエスが示された仕えの手本は、誰にとっても実践は難しいが、教会が存在する理由でもある。愛は私が引き受れるべき分であり、その分を通して主の栄光が現れる。このことを覚え、それぞれの位置で主の足洗いをもう一度再現するのが教会の使命だという。  弟子たちが誰が偉いかと論じ合っていたマタイ20章やルカ22章でも、イエスは「異邦人の支配者たちは人々を支配し、権力を振るうが、あなたがたはそうであってはならない」とはっきり語られた。これは今日の教会にも同じく当てはまる言葉である。イエスが仕えを通して真のリーダーシップを示されたのなら、教会の指導者であれ信徒であれ、すべて仕える姿勢を持つのが当然だ。張ダビデ牧師は、「偉くなりたい者は仕える者となり、いちばんになりたい者はしもべとならねばならない」というイエスの教えこそ、教会の霊的秩序を正しく打ち立てる基準だと説く。その秩序がきちんと立つとき、教会は世とはまったく異なる光を放ち始める。互いに高くなる世界ではなく、互いに低くなる共同体。それこそを通して人々は「イエス・キリストの福音が真実である」ということを体験的に悟るようになる。  張ダビデ牧師がヨハネ13章を根拠に示すメッセージは明確である。イエスはこの世にいるご自分の者たちを最後まで愛され、その愛を具体的に示されたうえで、その過程で苦難を決して避けられなかった。むしろ苦難を愛で耐え抜き、その道を通して人類の救いを成し遂げられた。私たちもキリストの弟子として召されたのなら、同じく愛の道、仕えの道、苦難の道を歩むべきであり、その道において現れる栄光は最終的に復活のような真の喜びとして私たちに与えられる。たとえ今は私たちも弟子たちのように「誰が偉いか」という争いに陥り、イエスの教えを十分に理解できないことが多いとしても、大切なのは主が変わらず私たちを最後まで愛してくださり、御言葉と御霊を通して私たちを導いてくださるという事実だ。私たちがすべきは、その愛に従い、日常生活の中で互いに足を洗い合う実践をやめないことである。これこそが教会の本質であり、私たちが追求し続けるべき価値なのだ。  四旬節の黙想期間だけでなく、日常のあらゆる場面で、イエス・キリストの苦難と愛、そして「最後まで愛される」仕えを思い返すとき、私たちは自分の誤った価値観を下ろし、神の国の価値観によってあらためて武装し直す必要がある。世は今もなお力や物質、名誉を最上とみなすが、イエスはご自分の命を捨てて私たちを贖われ、しもべの姿で生き抜かれ、復活の栄光によってそれが真理であることを証明された。だからこそ私たちは自分を顕すことより人を高くすることに注力し、互いの足を洗い合うしもべの心で生きるとき、初めてイエスの弟子と呼ばれる資格を得るのである。張ダビデ牧師は「何にもまして、まず私たちはイエスの愛のうちで自分の罪を洗い清められたことを思い出すべきだ」と語る。そしてその洗い清められた恵みを日々新たに感謝しつつ、他の人々に対しても喜んで仕えを実践するのだ。そうすることで、教会の中ではもはや「誰が偉いか」という争いではなく、互いを高め合い励まし合う美しい交わりが起こり、その姿を通して世の人々はイエスこそが真に生きておられる主であると発見するようになるだろう。  ヨハネ13章の核心句である「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という御言葉は、イエスの苦難が始まる序曲であると同時に、弟子たちの足洗いの出来事とともに「愛の最も濃厚な表現」を示す場面である。そしてこの物語は教会史2000年の間、数多くの信徒と教会によって繰り返し読まれ、教えられ、実践されてきた。張ダビデ牧師は、この場面こそ私たちが決して忘れてはならない福音の精髄であり、教会の存在理由そのものだと言う。四旬節はもとより、日常的にもこの場面を絶えず黙想するならば、私たちもイエスの愛と仕えを見習い、互いの足を洗う備えができるはずだ。そしてその小さな献身と苦難を分かち合う愛が積み重なることで、教会は主のからだとして完全な機能を担い、世はキリストの光によって少しずつ変えられていく。イエスが最後まで私たちを愛してくださったように、私たちも最後まで他者を愛することこそ、キリスト者の究極的な召しであり、福音の驚くべき力なのである。愛しつつ最後まで愛する生き方、仕えながらしもべの姿で仕える生き方こそ、イエス・キリストを信じる者に求められる真の従順であり、その中で私たちは神の国の栄光を前もって味わう。やがてそれは究極的に与えられる天国において、イエスが「よくやった、善良で忠実なしもべだよ」と称えてくださる瞬間への予告編でもある、と張ダビデ牧師は教えるのである。 www.davidjang.org

連合の神秘 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. アダムから伝わった罪と人間の実存の問題 ローマ書5章12節から21節において、パウロはアダムとイエス・キリストを対比し、それぞれが人類を罪と死のうち、あるいは義と命のうちに結びつける「代表」であると説明している。張ダビデ牧師は、このテキストを解説する際に特に「一人の人が罪を犯したことによって多くの人が罪人となり、もう一人の人の従順によって多くの人が命を得る」という論理を通じて、福音の力と「連帯性」の重要性を説く。この箇所は、キリスト教神学の重要なテーマである原罪論(Original Sin)とも直結するが、パウロはすべての人に罪が転嫁された理由が、まさにアダムという一人の人から始まったのだと教えている。 一般的に現代人は「アダムが罪を犯したからといって、なぜ私が罪人なのか?」という抵抗感を抱く。しかし聖書は、人間に普遍的に備わっている罪性(sinfulness)、つまり本質的に罪を免れることのできない状態が、最初の人であるアダムの不従順から始まったのだと宣言する。張ダビデ牧師は「私たちが実感する現実が、神が本来計画されたエデンの美しさとはかけ離れており、死が支配する不条理で暴力的な世界に生きているという事実こそ、すでに私たちが霊的に死んでいることを意味する。そしてその死の始まりがアダムの罪にあると聖書は証言している」と説明する。聖書によると、アダムは神の言葉を不信して不従順に至り、その不従順が罪の扉を開いて死と滅びが入り込むことになった。したがってアダムが代表として犯した罪の結果として、その後のすべての子孫が罪の傾向に感染し、それが人類に普遍的に苦痛と死をもたらす根本的理由だというわけである。 張ダビデ牧師は、人間が実際に罪を犯しているにもかかわらず、「なぜ聖書は『人間が罪を持たないなどとは言えない』とあれほど強調するのか」という問いに答える。罪と死に対する神の判断は、単なる道徳的な善悪のレベルを超えた「存在論的状態」だからである。私たちは「まだ生きているのだから死んでいない」と思うかもしれないが、パウロは霊的・究極的な次元で、すでに人間は死のうちにあることをはっきりと主張する。そういう意味で、原罪はすべての人間が逃れることのできない罪の軛(くびき)であり、私たちは生まれながらにして神の御心とは無関係の腐敗した世界に属して生きているといえる。 パウロは「罪は律法が与えられる以前から世にあった」と語る。ここで言う律法とは、モーセが神から授かった戒めの数々を指すが、その律法が与えられる前にも罪が存在していたのだとわかる。ただ、人々は明示的な法がなかったために、それが罪なのかどうかをはっきりとは認識していなかった。しかしカインがアベルを殺したことや、アダムが禁断の実を食べた出来事が明白に罪悪とされているように、律法が存在する以前から神への不信と不従順という行為はすでに罪だったのである。人間の良心は自然に「殺人や反逆、不従順は悪いことだ」と教えるが、具体的に律法が示されることによって、罪が「法的・公式的」に確定されるようになった。ただし、律法は人間を罪から完全に解放しない。律法は罪を「罪」としてはっきり暴き出す機能を持つが、罪そのものを取り除いたり救いを与えたりする力はないからである。 パウロはさらに、アダムからモーセまで―つまり律法が与えられる前の時代を指して―死が「王として君臨していた(王のように支配していた)」と主張する。死がまるで独裁者のような権威をもって人類すべてを圧倒していたというのだ。これは「人間は罪の奴隷になっている」というパウロの表現を想起させ、すべての人が自力では抜け出せない罪と死の横暴に直面していることを示す。張ダビデ牧師はこれを「罪と死の構造的支配、すなわちすべての人は律法がなくともどこかで罪と死に隷属している」という点として、現代の人々にわかりやすく説き明かす。社会構造や個人の道徳的な弱さだけでなく、さらに深い次元で人類全体が「死の力」のもとに束縛されていることを指摘し、それは結局、私たちがエデンの園から絶えず追放された状態で生きていることを証明する歴史的事実だと解釈する。 聖書はアダムを「来たるべき方のひな型(型)」とも呼ぶ。アダムが人類に決定的な影響を及ぼしたように、キリストもまた決定的な影響を及ぼす「第二の、または最後のアダム」の役割を担われるお方である。だからこそローマ書5章14節で「アダムは来るべき方の型である」と宣言したパウロの言葉は、最初の人アダムが罪の始祖としてすべての子孫に罪と死を転嫁したのと同様に、やがて来られる方(キリスト)は逆に、信じるすべての人に義と命をもたらすという意味を含んでいる。張ダビデ牧師は説教の中で、「私たちは毎日、自分の意思で『自分の人生』を営んでいると思うが、実はアダムの影響をもって生まれ、罪へと引かれるしかない運命のなかにいる。しかしもうひとり、新しいアダムであるイエス・キリストがこの支配を打ち破り、新しい命をもたらしてくださる」と強調する。この点こそが、パウロが力強く宣言する福音であり、罪と死という圧倒的な現実に新たな突破口が開かれた瞬間なのだ。 律法は「罪を増し加えさせる目的」、すなわち罪の実態をより鮮明に明るみに出すために入ってきたのだと、パウロは語る(ローマ書5章20節)。これが「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という有名な言葉に続く。どんなに罪が積み重なり、死がすべての人生を飲み込もうとも、それよりもさらに大きな権能をもって恵みが訪れるという意味である。張ダビデ牧師は「人間が自力では抜け出せない罪の軛が徹底的にあらわになるほど、逆に神の恵みがいかに広大で強力であるかがいっそう浮き彫りになる」と解説する。言い換えれば、律法が罪を明確にすればするほど、罪人である私たちはさらに大きな罪悪感と恐れに捕らわれるが、同時にキリストのうちに広がる恵みの世界がどれほど絶対的な力をもっているのかを悟るようになるのだ。 アダム一人によって人類全体が罪人となったという宣言は、個人主義的思考が強い現代社会ではなかなか受け入れがたいかもしれない。しかし聖書は繰り返し「連帯性」を強調する。共同体的な思考があまり馴染まない人であっても、「国家の代表がある条約を結べば、その国民全体が影響を受ける」という例を出すと理解はそう難しくないだろう。これは古代近東の歴史的・社会的背景においても、「一人」が代表性を担うとき、その影響が全体に及ぶという認識が当然視されていたことにも由来する。張ダビデ牧師は、原罪に対する拒否感の強い人々に対し、「この解釈は究極的に『新しいアダムであるイエスが成し遂げた義と命が、どのような仕方で私たちに転嫁されるのか』を説明する鍵となる」と力説する。つまり、もし私たちが受け入れがたいからといってこの代表性と連帯性の原則を認めないならば、福音が提示する救いの論理そのものも同時に拒否せざるを得なくなるというわけである。 原罪論は、人間が先天的にどうしようもなく罪の支配下にあることを語る。これはそもそも人間の自由意志や善行では決して完全には解決できない問題である。私たちはみな、生まれた瞬間から罪の束縛下にあり、倫理的・道徳的な善行だけでは真の義に達することができない。『決して私たちの力だけでは救いに至ることはない』というのが、プロテスタントにおける救いの核心であり、張ダビデ牧師の説教もこの観点から「原罪論に目を背けてはならない」と訴える。これは人間の弱さや無価値を強調するためではなく、キリストの救いがいかに絶対的で価値あるものであるかを明らかにするためなのだという点を、彼は明確に語る。 したがって、最初の小主題の結論は明快である。アダムによって始まった罪と死はすでに人類を掌握してしまった巨大な実存的問題であり、律法はその罪を浮き彫りにし、裁きを宣言することで私たちを窮地に追い込む。しかしこうした絶望的状況が、ただちに希望を覆い隠すわけではない。むしろ罪が明るみに出ることによって、私たちはキリストがもたらす恵みと救いの力に目を開くことになる。だからこそ、アダムから伝わった罪が不快で不合理に感じられようとも、これこそが人間の実存を解き明かす端緒であり、イエス・キリストの贖罪のみわざを理解するうえで欠かせない始発点なのだ。張ダビデ牧師は「アダムが開いてしまった罪の世界はあまりにも強固に見えるが、神はそれ以上に強力な恵みの計画を秘めておられた」と強調し、続いて第二の小主題であるイエス・キリストの従順と義の転嫁へと読者を導いていく。 Ⅱ. イエス・キリストの従順と義の転嫁 パウロはローマ書5章15節から19節のあいだで、アダムとキリストの対照を精巧に展開する。一人(アダム)の不従順によって罪と死が人類にやってきたのならば、もう一人(イエス・キリスト)の従順によって義と命がもたらされるというのである。張ダビデ牧師は説教や著作の中で「原罪(Original Sin)がアダムを通じて転嫁されたように、今度はキリストの義(Original Righteousness)が私たちに転嫁されたのだ」と解説する。こうして転嫁された義は、教会の伝統において「信仰による義認(以信称義、justification by faith)」の教理と結びついてきた。 ここでいう「一人の人イエス・キリストの従順」とは、十字架での代贖(だいしょく)的犠牲を意味する。パウロはコリント第一の手紙15章45節以下でも、最初の人アダムと最後のアダム(キリスト)を比較し、最初のアダムは「土(ちり)から出た者」であり、最後のアダムは「天からこられた方」だと宣言する。第一のアダムが生きた魂(a living being)となったのに対して、第二のアダムであるイエスは生かす御霊(a life-giving spirit)となった、とも述べる。生きた魂は自分自身が命を享受する存在だが、生かす御霊はその命を他者にも分け与える源泉を持つ存在である。だからパウロはイエス・キリストの死と復活が「私たちをも生かす力」だと強調する。張ダビデ牧師は「キリストの従順は、単なる道徳的模範を示したということではない。それは罪に陥った人類を永遠に生かす生命の源であり、神の義が私たちに転嫁される決定的な出来事なのだ」とまとめている。 原罪論から始まる「転嫁」の思想は、イエス・キリストの十字架の出来事によって「義の転嫁」という形で拡張される。アダムが罪を人類に転嫁したのは、その代表性によるものであり、キリストが御自分の成し遂げた義を私たちに転嫁してくださるのも同じ法理で理解される。代表であり頭(かしら)である方が成し遂げたことの結果が、彼に属するすべての者にそのまま及ぶのである。このとき張ダビデ牧師は「代表と連帯という概念は聖書全体に流れる重要な原理で、私たちには不合理に思えるかもしれないが、神はそもそも人類を共同体的存在として創造された。一つの体、一つの系譜、一つの共同体という意識が、キリスト教的世界観のなかで極めて中心的な位置を占めるからだ」と力説する。 神の救いの計画は、人間の無力さを暴き出す律法ののち、イエス・キリストのうちで完成に至る。律法が罪を明確にしたものの、その罪を解決はしなかったのに対して、イエスは罪の刑罰を自ら負い、私たちの代わりに死ぬことによって「私たちを義と宣言してくださる」道を開いてくださった。だからこそパウロはローマ書3章24-25節で「キリスト・イエスによる贖いにより、神の恵みによって無償で義とされるのである。神はこのイエスを、その血を通して信仰にもとづく宥めの供え物(贖いのいけにえ)として立てられた」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所において三つのイメージを引用する。第一に、奴隷市場で身代金を支払って奴隷を解放する「贖い(redemption)」の視点、第二に、法廷で無罪だと宣言される「義認(justification)」の視点、第三に、いけにえに関する概念として罪の代わりにいけにえが捧げられ罪を除く「贖罪(atonement)」あるいは宥めの供え物(propitiation)の視点である。これらすべての比喩がイエス・キリストの十字架の出来事に同時に含まれており、それはイエスが人類を代表して流された血と従順に基づいているのだ。 聖書のいたるところに現れる「祝福の連帯性」もまた、イエスの従順によって決定的に完成される。すでに旧約においてアブラハムとの契約が与えられた際、神は彼とその子孫を通して「諸国の民が祝福されるだろう」と約束された。この契約はアブラハム一人にとどまることなく、彼の系譜をたどってイスラエル民族全体、さらに全世界にまで至る祝福の継続性を語っている。張ダビデ牧師はこれについて「アブラハムと結ばれた契約は、新約の時代になるとイエス・キリストのうちで完全に成就する。イエスに属するすべての者、すなわちイエスを信じるすべての者に祝福が連帯的に伝わっていく」と解説する。ゆえにイエスの従順が歴史的出来事として一度生じたものの、その効力は時空を超えて信じるすべての人に同時に適用されるのである。 しかしこの義の転嫁は自動的に与えられるものではなく、信仰(faith)を通して私たち一人ひとりに個人的に適用されるという点が重要だ。パウロは「キリスト・イエスを信じることによって」義とされると宣言するが、これは代表であるイエスとの「個人的な連合(union)」が必要であることを意味する。張ダビデ牧師は「結局、アダムに生まれながら自然に入り込んできた罪は、私たちの同意にかかわらず適用される。一方、イエスの義は、私たちが信仰によって受け取ることによって私たちに転嫁される」と説明する。これが恵みの逆説である。人間は罪を遺伝的に受け継ぎ、否応なく罪人として生まれるが、同時にイエスは恵みによって私たちに義を贈り、この賜物を受け取る道は信仰を通じてであり、それは決して私たちの功績や努力によるものではない。 パウロが語る「罪が死の中で王のように支配したように、恵みもまた王のように支配して、私たちの主イエス・キリストによって永遠の命に導く」(ローマ書5章21節)という言葉は、要するにアダムの不従順よりもはるかに強力なイエス・キリストの従順が「王権」を置き換えたことを告げる。以前は死が支配していたが、今や恵みが支配するようになったのだ。張ダビデ牧師はこれを「福音は、単に罪を洗い清めるだけでなく、全く新しい支配体制を私たちの内にもたらす。私たちはもはや罪に隷属する民ではなく、『命』という王の統治を受ける神の国の民となる。これが核心である」と言う。 ローマ書5章18-19節においてパウロは「一人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人となったように、一人(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるだろう」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所を最も決定的な要約節だと指摘する。この言葉は罪と死の普遍性をそのまま認めつつ、それをさらに上回る義と命の普遍性を宣言するためである。イエス・キリストの従順がもたらす恩恵を妨げることは誰にもできず、その力と権威は、初めの創造から人類を誕生させた神が自ら計画した「種子(しゅし)の改良」と比喩できると彼は解釈する。不従順の種子が死と朽ち果てる実をもたらしたならば、従順の種子は義と命の実を結ばせるというわけだ。 旧約のイザヤ書53章に出てくる苦難のしもべの預言も、同じ論理を例示している。「彼は病を負い死に至るが、そこから『子孫』が生じる。この『苦難のしもべ』の死によって、新たな子孫、新たな民が誕生する」(イザヤ書53章10節)という箇所は、単に肉体的な子孫を指すのではなく、苦難のしもべの代贖的働きによって誕生する「霊的子孫」、すなわちメシアを信じて従う人々を意味している。張ダビデ牧師はこの言葉を「種子改良論」と呼び、私たちがアダムから罪と死の遺伝子を受け継いだのなら、今はキリストから義と命の遺伝子を継いだ「新しい人」として生まれ変わることができると強調する。ガラテヤ書2章20節にある「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という聖句は、これを神学的に要約したものである。私たちはアダムの子孫として生まれたが、イエスとの連合によってキリストの子孫、すなわち義と命に生きる者となったのだ。 結局、この第二の小主題は、イエス・キリストの従順とそこから転嫁された義が、どのようにして私たちを罪と死から解放し、新たな命の次元を開いてくれるのか、その答えを示している。アダムの不従順によって始まった罪と死の王国に属した私たちが、イエスの十字架と復活によって恵みと命の王国に移された、というのが要点である。そしてこれは信仰によって個々人の人生に適用されるのだ。張ダビデ牧師は「この驚くべき真理を単なる教理知識で終わらせるのではなく、日々の生活と信仰実践の中で実際に体現しなければならない。なぜなら私たちはもはや罪ではなく恵みに、死ではなく命に支配されているからだ」と言い、キリストにあって享受できる自由と解放を実践的に強調する。 Ⅲ. 代表理論と連合理論の実際的意味 ローマ書5章12-21節が提示する中心構造は、人類の歴史をアダムとキリストという二人の人物を通して解釈する点にある。これは神学的には「代表理論(Doctrine of Representation)」あるいは「連邦主義(Federal Headship Theory)」と呼ばれ、アダムは人類の頭(federal head)として罪を転嫁し、キリストは教会の頭として義を転嫁する、という説明に該当する。また「連合理論(Principle of Corporate Solidarity)」という関連概念もあり、私たちはアダムとも連合しており、キリストとも連合している存在だという聖書の教えがそこにある。 張ダビデ牧師は「一人の個人が歴史に莫大な影響を与えるのは、私たちの日常生活の中でも目にすることができる。国家元首が外交協定を結べば、その結果は国民全体に及ぶし、家族の代表者がひとつの決断を下すだけで家計が破綻したり繁栄したりすることもある」と述べ、この代表と連合の神学的原理が決して観念的な主張ではないことを説得力をもって提示する。実際、旧約に登場する例として、コラ(コラ)の反逆とその家族全体の滅亡、アカンの犯罪とそれに関連するすべての者たちへの処罰など、罪が単なる個人の問題で終わらず、共同体に連帯的に波及することが鮮明に描かれている。このように罪と処罰、祝福と恵みが特定の人物を通して全体に及ぶ構造は、古代の共同体社会においても当然のこととみなされていた。 この原理は同時に、福音の核心を説明する鍵でもある。アダムによる呪いがいかにすべての人類に及んだかを理解すれば、キリストによる救いがいかに信じる者たちに与えられるかも理解しやすくなる。代表者が行うことに、残りの構成員が連帯的に参加する構造だからである。張ダビデ牧師は「代表性と連合という言葉を、私たちは現実感覚をもって受け止めるべきだ。個人主義が蔓延する現代では、すべてを『私と神』だけの関係で考えがちだが、聖書は徹底して共同体的連帯を前提にしている。私たちは太初からアダムの中にあり、今はキリストの中にある。この二つのうちどちらかを選択すべきなのだ」と力説する。 パウロの言葉で言えば、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝」(ヨハネの福音書15章)というイエスの宣言を引用し、人間の生はどの「木」に接ぎ木されるかによって結ぶ実が変わる。アダムの木に接ぎ木されていれば罪と死の実を結ぶしかないが、キリストの木に接ぎ木されていれば義と命の実を得ることができるというわけだ。イエスのうちに「とどまる(abide)」という表現は、単に教会に通うとか礼拝に参加する以上の意味をもち、実際にイエスの生命力と力が私たちの内に働くように「連合」することである。張ダビデ牧師は「連合理論は神学的知識を超え、私たちの実存を変革する実際の力をもつ。アダムに属していたときには罪が当たり前だった。しかしキリストのうちにとどまるならば、その方の義、その方の愛、その方の力が私たちに流れ込み、まったく別の存在として生きられるようになる」と説く。 代表理論と連合理論を改めて強調する際、私たちはガラテヤ書2章20節の告白をしばしば引用する。パウロは「私はキリストとともに十字架につけられた。ゆえに、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と宣言するが、これはイエスとの連合を最も劇的に表現した例である。古い人(アダムに属する者としての私)はすでにイエスとともに死に、今やイエスの命が私のうちで動いているということだ。このように見るなら、キリスト教信仰は「イエスを信じて天国に行く」というレベルを超え、「今この瞬間、キリストにあって私は新しい被造物として生きている」という変容された自己理解を要請するものだといえる。張ダビデ牧師は「この自己理解こそが実際の生活を変える。日々の繰り返される日常の中で『私はアダムから来た罪人だから仕方がない』と自暴自棄になるのではなく、『私はすでにキリストと連合した義人だ』というアイデンティティを握りしめること。これこそ福音がもたらす力だ」と強調する。 聖書における代表と連合の概念をほかの例で示すならば、アブラハムを通して祝福が諸国へ流れるという約束や、エリヤが祈ったら全地に雨が降らず、また祈ったら雨が降ったという出来事もある。アブラハムやエリヤは個人だが、彼らが受けた契約や祈りの力が連帯的に周囲へ波及していく。同様に、イエス・キリストが新約における決定的代表となり、私たちには到底背負いきれない罪の重荷を代わりに担い、その結果としてイエスの義と命が私たちに連帯的に適用されるのが新約の福音の真髄だ。張ダビデ牧師はこれを牧会現場で「教会こそキリストの体として、頭である主と連帯し、その方の命と恵みを実践する共同体」であると再解釈する。教会を通してキリストの救いの業が広がり、また教会は互いに重荷を担い合い、ともに祈り礼拝する連帯的な生き方を示す。これらすべてが代表性と連合の枠組みのなかで理解されるべきだというのである。 では代表理論と連合理論は、どのような実際的な実を結ぶのだろうか。第一に、自己アイデンティティの変化である。私たちは生まれながらアダムの子孫だったが、イエスを信じたとき即座にキリストの子孫となる。自分が罪に取り込まれどうしようもないと感じる時でも、「すでにキリストのうちにあって新しい命を与えられているのだ」という意識が確固として根づけば、「罪がもはや私の人生を支配できない」という解放感を持つことができる。張ダビデ牧師は、この解放感こそが福音生活の出発点なのだと繰り返し強調する。 第二に、私たちに伴う帰属意識と共同体性である。アダムにあって私たちがすべての人類と結びついているように、キリストにあっては信じる者すべてが結びついている。聖徒たちはひとりひとりがバラバラの島ではなく、一つの体として互いに肢体(しだい)となる。この連帯的な教会観こそが聖書的であり、パウロがエフェソ書やコリント第一の手紙などで「私たちはキリストの体であり、その肢体だ」と述べるのと一致する。張ダビデ牧師は「代表理論と連合理論を理解すれば、なぜ教会生活が必要であり、どんな動機があるのかが一層はっきりする。私たちは頭なるイエス・キリストに繋がってこそ霊的な栄養を得て、また肢体同士が相互依存しながら成長していく存在なのだ」と教える。 第三に、罪に対する新たな態度である。過去には罪が自然なことであり、避けられないものであったとすれば、今や代表が変わった以上、罪を克服する可能性が開かれたと見る。もちろん依然としてこの地上では罪の誘惑を受け、失敗もあるだろうが、私たちのアイデンティティは「アダムにある罪人」ではなく「キリストにある義人」へと根本的に変わったのだ。だから罪に対して毅然と「ノー」と言うことができ、悔い改めを通して即座に神のみもとへ駆け寄る特権を享受できる。張ダビデ牧師はこれを「聖化(sanctification)の歩みにおいて大きな原動力となるのは、私がキリストと連合しているという事実である。イエスが私のために死んでくださったのだから、私も罪に対しては死んだ者とみなし、義の器として神に捧げなければならない」と語る。 結局、代表理論と連合理論は非常に抽象的な教理のように見えるが、実際には日常の信仰生活に深く関わっている。私たちが教会に集まり礼拝し、聖餐にあずかり、洗礼を通じて「キリストのうちへ入れられた」という事実を公に宣言するすべての信仰行為が、この理論と直結するのである。張ダビデ牧師は説教で「アダムが私たちの古い頭(かしら)であったなら、教会の頭はイエス・キリストである。頭が変われば、それに伴う支配と秩序、価値観も変わる。この事実を深く悟り、実践するとき、私たちは罪と死から解放され、恵みと命の支配のもとで生きる真の自由を味わうようになる」と説く。 ローマ書5章の最後の節(20-21節)に「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という言葉が登場する。これはパウロが最後に響かせる恵みの賛歌ともいえる箇所である。いかなる人も死の陰から逃れられなかった人類に対して、一人のイエス・キリストの従順が新しい門を開いた。パウロはこれを「まるで踊るように、恵みと命を賛美する歌」とも見なしうる。張ダビデ牧師もこの本文を解き明かしながら「罪が極まると嘆くとき、むしろ恵みはさらに大きく臨む。私たちはキリストの従順と義の転嫁によって罪の圧迫から解かれ、神のみ前へ大胆に近づけるようになった。これは人類史上もっとも革命的な知らせである」と宣言する。古い世界が過ぎ去り、キリストのうちにまったく新しい秩序が到来したことを示し、それが個人と教会、そして世界にどのような変化と希望をもたらすかを具体的・実際的に黙想しようと勧めるのだ。 最終的に、この本文の核心メッセージは明白である。アダムが開いた罪と死の歴史の上に、イエス・キリストが義と命の新たな歴史を開かれたという点だ。これは単なる神学的観念ではなく、現実にこの地を生きる信徒たちの人生を覆すように変革する力であり、アダムに属していた過去の自分は死に、キリストのうちに生きる新しい自分として毎日を歩む推進力なのである。代表理論と連合理論が示すように、私たちは自力や自分の能力で罪に打ち勝つのではない。ただ私の代表であるイエスがすでに勝利しており、その勝利を私が共有することによって義人として生きるのだ。張ダビデ牧師は「この真理こそ福音のエッセンスであり、キリスト教信仰のエンジンだ」と呼び、ローマ書5章12-21節を通じて信仰の道を歩むすべての人が罪を超える自由と命、そして感謝と賛美の生へと向かうように勧めるのである。

パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師が使徒の働き20章の御言葉を通して語る核心的な教えは、パウロがトロアスからアッソを経てミレトに至るまで歩んでいくその宣教の旅の中で現れる「謙遜と涙」の牧会精神である。この精神は、神の言葉を伝える中で数多くの困難に遭遇しても決して退かずに最後まで忠実でありながら、同時に兄弟姉妹に対する深い愛を失わなかった点に最もはっきりと表れている。張ダビデ牧師はこの本文を解説する際、パウロが小アジア地域を行き先に歩んだ道のりが、単なる地理的な移動にとどまらず、深い霊的意味を帯びていると強調する。その道程でパウロは、新たにイエス・キリストの福音を受け入れた人々、あるいはすでに教会の中に存在していてもいまだ弱さを抱える共同体に出会い、自身の謙遜と献身を行いによって示した。しかし何よりも重要なのは、パウロが「聖霊に縛られた」状態で、自分が歩むべき道を明確に悟り、それに従順していた事実である。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の背景を説明する際、パウロが第2回宣教旅行で立ち寄れなかった地域を改めて訪ね、かつて福音を蒔いておいた諸教会を顧みて勧め、立て直す牧会的な心を見せるのだと指摘する。パウロは自分のそばで共に仕えていた一行を先に船に乗せ、自分はわざわざ長い距離を歩いてアッソまで移動した。この点について張ダビデ牧師は、パウロにとって被造物と向き合う時間、すなわち大地を踏みしめながら創造主なる神の御前で自分を見つめ、黙想する大切な瞬間だったのではないか、と解釈する。人間的に見れば、あえて歩かずとも船に乗るほうが便利で早い移動が可能であったはずだが、パウロはその長い距離(少なくとも40~50km、当時の道の状況を考慮すればはるかに過酷な道のり)を歩く中で、一層神に対して謙遜になり、既に建てられた教会やまだ福音に触れていない人々を想う切実な思いを新たにしたのだろう。  トロアスでの行程からアッソへ歩いて下った場面は、パウロが持っていた霊的集中力と決断力を象徴的に示している。張ダビデ牧師はこの本文を根拠として、宣教や教会の働きが道半ばで直面する様々な困難をいかに解釈し、乗り越えるべきかを強調する。働き人は時に孤独を感じ、世の目から見れば労苦に見合う正当な報いを得ていないと感じることもある。しかしパウロが神の召しに従う心で長い道のりを黙々と歩んだように、働き人もまた道中で味わう孤独を神の御前で黙想し、自らの内面を点検する時間が必要だというのである。張ダビデ牧師は、このような「道の上での黙想」を大切に考え、すべての働き人や信仰者が、目に見える実よりもまず自分を聖霊の導きに委ねて歩み続けることが真の信仰の巡礼だと教える。  その後パウロはアッソで同労者たちと合流し、ミトレネ、キオ、サモを経由してミレトに到着する。この行程を記録するルカの文体は非常に細やかで具体的だ。張ダビデ牧師は、ルカが医者出身であるため記録が綿密であること、そしてルカがパウロと共に「私たち(we)」という表現で同行していることに触れつつ、使徒の働きが単なる抽象的な信仰の歴史や教理集ではなく、実際の時間と空間の中で行われた生き生きとした歴史であり宣教の旅であると強調する。これは教会がどれほど貴重な一瞬一瞬を見逃さずに記念し、記録すべきかを示唆する。教会共同体が派遣する宣教師や牧師、そして信徒たちの働きが、日々いかに神の摂理のうちに動いているのか、そのような記録が積み重なり教会史となり、やがて後世に生きた証しとして残るのだという。  張ダビデ牧師は、パウロが「少しも遅れることなく」エルサレムへ向かおうと急いだ理由は、五旬節の祭りを守るためだと説明する。パウロは祭りを遵守しようとするユダヤ人の敬虔な伝統を尊重した。この祭りが持つ意味は、単に年に一度めぐってくる行事的意義を超え、エルサレム教会との霊的連帯感、そして神が定められた聖なる祭りに全身全霊をもって参与しようとする信仰的意志だった。張ダビデ牧師は、このパウロの態度から、信仰共同体がともに守る祭りや礼拝がいかに大切であるかを見出せると語る。今日の教会の中で“行事”や“イベント”としてしか捉えられない祭りも、実は信徒たちに霊的力と共同体的結束をもたらす大切な機会だということだ。パウロはエペソに立ち寄ることなくミレトへ直行することを決めたが、いざミレトに到着してみるとエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、最後の勧めを残す。これはパウロが直接教会を訪ねる代わりに、その指導者を招いてより集中した対話を交わしたかったことを示す場面である。  ミレトで長老たちと会い交わされるパウロの勧めは、使徒の働きの中でも非常に重要な場面である。張ダビデ牧師はこの場面を「パウロのエペソ説教」あるいは「エペソの長老たちへの最後の遺言」と呼ぶ。なぜなら、この短い言葉の中に、パウロがエペソ教会で働きをする中で見せた生き方の姿勢、彼が伝えた福音の核心、そしてこれから教会の指導者たちが守るべき原理が凝縮されているからだ。張ダビデ牧師は、このパウロの談話こそ、多くの教会指導者や信徒が生涯黙想すべきモデルだと説明する。  まずパウロは、自分がアジアに入った最初の日からどのように生きてきたのかを思い起こさせる。そしてその核心を「すべての謙遜と涙」と要約する。張ダビデ牧師は、パウロが告白したこの二つの言葉こそ、教会奉仕の原型だと述べる。謙遜は神の御前での姿勢である。人間的な自慢や名誉欲、あるいは自己顕示ではなく、ひたすら自分を低くして主の御心に従うこと。涙は教会員(兄弟姉妹)に対する愛の表現である。パウロは、表面上は石打ちに遭っても再び立ち向かう剛毅さを持っていたが、同時に弱さを抱える兄弟姉妹とともに痛み、共に泣く愛を持っていた。張ダビデ牧師は、教会史を振り返ってみても、真の指導者たちは常にこのような謙遜と涙をもって群れを世話してきたと指摘する。ゆえに本当の霊的リーダーシップとは、カリスマ的な雄弁や優れた行政力に先立ち、神の御前では徹底的に低くなり、人々の前では泣くことができる愛を実践することを学ぶのだ。  さらにパウロは「ユダヤ人の陰謀によって受けた試練」を強調する。これは宣教と福音伝道の道が決して平坦ではなかったことを示す。激しい迫害や不当な中傷、さらには命の危険にまで直面していたが、パウロはそれらすべてを忍耐によって耐えた。張ダビデ牧師はこの箇所で、働き人に避けられない「縛られと患難」の意味を説く。教会の歴史はいつも内部と外部双方からの試練が同時に押し寄せ、宣教師や指導者たちはその攻撃の前で揺らがざるを得なかった。しかし聖霊に満たされた者は、ここで挫折や放棄に至るのではなく、むしろ「イエス・キリストの十字架を黙想し」忍耐と信仰によって勝利する。パウロは使徒の働き20章24節で告白するように、主から受けた使命、すなわち「恵みの福音を証しすること」を果たすためには自分の命さえ惜しまない。張ダビデ牧師は、これが宣教の本質だと言う。福音とは「神の恵み」を伝えることであり、それゆえ自分の人生をすべて捧げても惜しくない絶対的価値なのだ。  張ダビデ牧師は続けて、パウロが「あなたがたの間を巡回し神の国を宣べ伝えてきたが、今やもはやあなたがたは私の顔を再び見ることはないだろう」と語る場面において、パウロの悲壮な決断と霊的洞察を読み取る。パウロはミレトで長老たちに会った際、事実上これが最後の対面であることを直感していた。そして誰かが罪の道へ逸れても、自分に責任を問うことはできないとはっきり宣言する。これはエゼキエル書33章にある見張り人の使命とつながる。神が見張り人に委ねられた務めは、角笛を吹いて民に危険を知らせることだ。見張り人がきちんと警告を行ったなら、民が悔い改めず滅びたとしても、その責任は民自身にある。しかし見張り人が角笛を吹かずに民が滅びたならば、その責任は見張り人に帰する。パウロがエペソ教会で3年という時間をかけて休む間もなく福音を伝え、教え尽くしたことによって「すべての人の血に対して私は潔白である」と宣言する場面は、見張り人としての使命を果たした自負の告白にほかならない。  張ダビデ牧師は特にこの部分を、牧師や教会指導者たちに深く適用する。教会の指導者はパウロのように真理を明確に伝えねばならない。福音は時にユダヤ人にとって妨げとなり、ギリシア人には愚かなものと映るかもしれないが、決して妥協したり飾り立てたりしてはならない。人々からの称賛や認められることだけを求めていたら、罪を指摘することもできず、真実な悔い改めを促すこともできなくなる。しかしパウロがユダヤ人にもギリシア人にも区別なく「神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰」を同じように証ししたように、教会はどのような状況でも福音の本質をあいまいにせず語るべきである。むしろ福音が命だと悟った者たちは、罪と不義から離れて神の御前にひれ伏すようになる。これこそが教会が世の中で担う唯一無二の使命なのだ。  その後パウロはエペソの長老たちに「聖霊があなたがたを監督者として立てられた」と告げ、神がご自分の血で買い取られた教会を牧するよう勧める。ここで張ダビデ牧師は、教会の本質に関するきわめて重要な定義が示されていると解説する。教会は、人間が自らの嗜好や必要に応じて選んで参加する親睦団体ではなく、キリストの十字架の血潮によって贖われた神の所有だという点だ。だからこそ監督者(長老や牧師)は、文字通り「よく見渡す」使命を託された者たちである。羊の群れが危険にさらされないよう目を覚ましていなければならず、歪んだ言葉を語る異端や偽教師が入り込まないように阻止すべきである。張ダビデ牧師は、パウロが去った後、実際にエペソ教会に異端的な思想が侵入したことを指摘し、今日の教会も多様な形態の偽りの教えや分裂に対して警戒を怠ってはならないと繰り返し強調する。  教会の中で最も大きな危険の一つは、パウロが言及した「凶暴な狼」が外部から侵入して羊を害する場合であるかもしれないが、時には内部で歪められた教えや葛藤が起こり、会衆を混乱に陥れるほうがより致命的であることもある。これは使徒の働きの後に続く初代教会が絶えず直面してきた挑戦でもあった。張ダビデ牧師は、このような混乱を防ぐためにこそ、常に聖霊の導きに従順し、恵みの御言葉の上に堅く立たなければならないと説く。教会指導者だけでなくすべての信徒が絶えず福音の本質を想起し、「与えるほうが受けるよりも幸いである」というイエスの言葉を心に刻む必要があるという。パウロが自らテントメーキングを行い、自分の手で労して宣教の経費や同行者たちの生活費を自給自足していた姿に目を向ければ、教会指導者は決して物質や名誉を求めてはならないことがわかる。むしろ自分自身の欲望に打ち勝ち、弱い者たちを助けることに全力を尽くすことこそが、本当の奉仕の本質である。  張ダビデ牧師は結論として、これらすべての教えが「ひざまずいて共に祈る」場面で締めくくられることを指摘する。パウロが長老たちと共に捧げた祈りには、最後の瞬間まで交わされる涙の交わりが込められている。互いに熱く泣き、口づけを交わしながらパウロを船まで見送る場面は、牧師と教会員の固い愛と信仰共同体の絆を象徴している。張ダビデ牧師は、このような愛を教会が回復しなければならないと教える。現代社会では個人主義や分裂が横行しているが、初代教会の原型とキリストの心を思い起こすならば、教会は再び互いのために心から泣いて祈る熱い共同体となれるのだという。  以上のように、張ダビデ牧師は使徒の働き20章13節から38節に記録されたパウロの旅路と彼が残した勧め、そして長老たちと交わされた熱い交わりが、今日の教会と信徒たちに与える示唆は非常に大きいと語る。パウロの生涯が常に謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして主イエス・キリストの恵みに対する証しで満ちていたように、私たちもそのような信仰の道を歩むべきである。主の教会は神が血代をもって買い取られた共同体であるゆえ、教会の指導者も信徒も互いに身を低くし、愛し合いながら、同時に福音に逆らう偽りには断固として立ち向かわねばならない。これこそパウロの足跡であり、また彼を範として張ダビデ牧師が強調する真の教会の姿なのである。  張ダビデ牧師が使徒の働き20章を中心に展開する牧会神学の核心は、パウロが示した「謙遜と涙」そして「福音伝達への全的な献身」の融合が、教会を支える最も強力な力だという点にある。謙遜は神の御前での態度、涙は隣人への愛から発したものであり、この二つが結びつくとき真の福音の働きが誕生する。張ダビデ牧師は、エペソ教会がこの二要素を完全に握っていた時はいかなる危機にも揺るがなかった一方、それを失ったとき徐々に分裂や葛藤、さらには異端の侵入まで経験したことを指摘する。それでは今日の教会は、この使徒の働きの本文をどのように適用し、どの道へ進むべきなのだろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、パウロが示した「聖霊に縛られた」従順の態度を深く黙想しようと提案する。使徒の働き20章22節でパウロは「今や私は心に迫られてエルサレムへ行くが、そこでどんなことが起こるかは知らない」と告白する。「心に迫られる」とは聖霊の強力な導きに従うことを意味する。これは働き人や信徒が日常において立てるあらゆる計画が、聖霊の導きに基づかなければならないことを含意する。多くの人は福音を伝えることに伴う危険や試練を恐れたり、自分の安定や快適さを優先的に考えがちである。しかしパウロのように聖霊に捉えられるならば、危険を前にしても退くのではなく、むしろより大胆な勇気と献身を発揮するようになる。張ダビデ牧師は、現代の教会がこのような強力な聖霊の充満と導きを渇望すべきだと力説する。制度的な安定や物質的な豊かさに安住してしまうと、教会はすぐに安逸に陥る。何をするにもまず神に問い、その召しに敏感に応答する霊性こそ、初代教会共同体が持っていた命の源だということを思い起こすべきなのである。  第二に、張ダビデ牧師は、パウロが説いた「悔い改めと信仰」というメッセージを再照明する。パウロは20章21節で「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰とを証ししてきた」と宣言する。ここで悔い改めと信仰は、福音宣教の核心構造となる。悔い改めは神の御前で罪を告白し、自分の生き方の方向を変えることであり、信仰はイエス・キリストを救い主として受け入れ、その十字架と復活によって新しいいのちを得ることである。ところが張ダビデ牧師は、教会がしばしば悔い改めを強調せずに信仰ばかりを偏って教えたり、あるいは信仰を行いや実をともなわない「個人的な信念」のように弱めてしまう問題を指摘する。パウロが伝えた福音はいつでも鋭く罪を指摘し、そこから離れなければ真の信仰は打ち立てられないと強調していた。これは教会の指導者たちが、説教や教えにおいて「不快だから」と悔い改めの要求を省いてはならないことを意味する。教会が教会らしくあるためには、信徒一人ひとりが依然として根深く残る罪性から離れるための霊的戦いを続け、その中でイエス・キリストの恵みを体験するとき、はじめて完全な信仰が完成するのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロがエペソの長老たちに与えた「聖霊があなたがたを監督者とされたことを思い起こせ」という勧めを通して、現代教会の指導者に求められる役割を強調する。監督者(長老、牧師)は、教会共同体とその群れを牧しなければならない。その牧しは単なる行政的管理や礼拝の主催ではなく、凶暴な狼や歪んだ言葉を語る者たちが教会を害することのないように見張る霊的な番人の役割を担うことを含む。張ダビデ牧師は、監督者になろうとする者は、まず神の御言葉によって自分自身を徹底的に照らし「自分の羊ではなく、主の羊を牧する」という畏れを持つべきだと述べる。教会が時に組織的・規模的・財政的に成長することを目標としやすいが、パウロが教える真の成長は、羊たちの魂が目覚め、神の御言葉を正しく握るところに現れるのだ。もし指導者が世俗的成功や名誉を求めて教会の魂を顧みることを怠るなら、すぐに内部でさまざまな不協和音や分裂が生じる。さらにはパウロが「あなたがたの中からも弟子たちを引き込み、自分のもとに従わせようとする者が出るだろう」とまで言及している。指導者が油断している間に、教会の中で新たな“教祖”的存在になろうと企む者や、信徒たちを歪んだ道へ導こうとする勢力が現れるという警告である。それゆえ教会指導者は常に目を覚まし、教会がしっかりと握るべき聖書的真理を守り抜かなければならない。  第四に、張ダビデ牧師は、パウロが自らの働きを「見張り人」の役割として規定し、罪の血の責任を自分には問えないと宣言する場面を取り上げ、教会が世に対してどのような責任を負うべきかを問う。教会は世に対する見張り人の存在である。ぬくぬくとした安息の場に集まって自分たちの安寧だけを追求する共同体ではなく、主の角笛を吹いて世界に警告し、福音を宣べ伝える見張り人となるべきである。もし教会が傍観や沈黙によって世の罪悪化を放置するなら、神はその責任を教会に問われるだろう。パウロは「私はあなたがたの血に対して責任がない」と宣言したが、それは彼が言うべきことをすべて言い、罪を指摘すべきときには指摘し、悔い改めを叫ぶべきときには叫び尽くしたからである。張ダビデ牧師は現代教会もこのパウロの姿勢を見習い、福音が強調するいのちの価値を守り抜くべきだと語る。その過程で拒絶や嘲笑を受けるかもしれないが、それでも語るべきメッセージははっきりと伝え、キリストの恵みのうちへと立ち返るように手を差し伸べなければならない。  第五に、張ダビデ牧師は、パウロが「私はだれの銀や金や衣服をも欲しがったことはない」と述べる部分から、教会指導者の物質観と清貧の美徳を再考する。今日の教会は様々な財政的圧力や世俗的欲望にさらされやすい。パウロは教会を建てる際に自費で働き、彼自身と同行する者たちまで養った。その姿勢は当時としても非常に特異な例だった。ユダヤ人のラビは弟子たちから日常的な必要の供給を受けることが当然視され、ギリシアの哲学者たちも後援を受けることが普通だった。しかしパウロは自ら生計を維持しながら、「与えるほうが受けるより幸いである」というイエスの教えを自らの生き方によって証明したのだ。張ダビデ牧師は、教会が財政を運営する際に世の「利益」論理にとらわれる危険性を警告する。さらに指導者が物質的な豊かさから教会に重荷を負わせたり、ひいては自分の私利私欲を満たすことが生じるならば、教会は急速に霊的力を失い、批判の的になる。したがってパウロが示したように自足し質素に生きる姿勢、物質を扱うときに常に宣教と救済、そして弱い人々を助ける働きに優先順位を置くことこそが聖書的な原理である。  結局、これらすべての勧めの最後は愛の交わりによって完成される。パウロとエペソの長老たちがひざまずいて祈り合い、互いに抱き合って涙を流したミレトの海辺の場面は、教会がどんな組織的プログラムや華やかな外的スペックよりも先に回復すべき霊的な愛を示している。張ダビデ牧師は、共同体の中にこのような熱い涙と切実な祈りが生きているときこそ、教会が世の中に福音の光を照らす真の証人として立ち上がれるのだ、と力説する。エペソの長老たちは、パウロの顔を二度と見ることができないと考え、大いに悲しんだが、その嘆きはある意味、強力な愛の現れでもあった。教会とは、まさにそのような霊的親密さ、互いを想う切実さによって結ばれた共同体である。張ダビデ牧師は、使徒の働き20章を通して、宣教の道は孤独に見えても決して一人ではないという事実を改めて強調する。その道には共に涙を流してくれる同労者がおり、そのすべてを見守ってくださる神がおられるからだ。  パウロのこの旅路と勧めは、現代にも同じように適用し得る。教会がその光を失わないためには、謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして聖霊に縛られた従順が絶えず呼び覚まされなければならない。張ダビデ牧師はこれを教会の基本、つまり霊的DNAと呼んでいる。教会が成長し信徒数が増えても、この基本がなければ空虚な外形にとどまる。逆にどんなに小さく見える教会でも、この霊的DNAが生きていれば神の国の力が強力に現れる。したがって今の時代を生きる信徒たちは、パウロのミレトでの出来事を頭で理解するだけでなく、心で受け止め、実践へと移さなければならない。教会の中で愛の涙を流した経験がない者にとっては、パウロが長老たちと共に泣きながら祈ったという事実は馴染みが薄いかもしれない。しかしこの場面こそが初代教会に宿る本質的な愛の徴であり、私たちがその心を取り戻すとき、教会は世の中で再び生き生きと動き始める神の共同体となるのだ。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の御言葉を説き起こしながら、最終的に教会の未来と方向性に対して深いメッセージを届ける。パウロが歩んだ道と彼が伝え残した御言葉には、教会が守り続けるべき信仰の遺産がそのまま詰まっているからである。牧師は使徒の働きを、単に初代教会の歴史を示す古代文書として見るのではなく、現代教会が引き続き書き進めていく「開かれた書」として解釈する。使徒の働き28章の終わりで物語が締めくくられるのではなく、今日の教会こそが使徒の働きの延長線上で福音を証しし、神の国を拡大していく主役にならなければならないというのである。では、パウロとエペソの長老たちとのあいだで交わされたこの場面から、私たちが学ぶべき具体的な実践は何だろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、教会共同体が必ず「御言葉中心」に立たなければならないと強調する。パウロは「私ははばからず、神のご計画のすべてを余すところなく伝えた」と語った。御言葉とは、人をただ慰めるために甘く飾ったり、あるいは権威的に脅して服従させる手段ではない。御言葉は魂を回復し、教会を堅固に建て上げ、同時に罪や不義を砕く力を持っている。ゆえに教会の指導者も信徒も日々御言葉の前に自身を顧み、そのみこころを悟って生活に適用しようと努力すべきである。もし教会が御言葉よりも世の知恵や流行する哲学に敏感になってしまうなら、たちまち使徒の働き20章でパウロが警告した「凶暴な狼」と「歪んだ言葉」に翻弄されるしかない。張ダビデ牧師は、したがって御言葉を握る信仰の訓練こそが、教会の中に生きた伝統として息づくべきだと力説する。  第二に、教会内部のリーダーシップがある程度整ったからといって、安心してはならない点を指摘する。エペソはパウロが3年も滞在して苦労して建てた教会であった。パウロが直接教えた長老たちがいただろうから、彼らの霊的レベルや管理能力は相当に高かったはずである。それにもかかわらずパウロは最後の勧めにおいて極めて厳しい警告を与える。「私が去った後、凶暴な狼が入り込んで群れを荒らす。もっと言えば、あなたがたの中からさえ弟子たちを引き込み、自分に従わせようとする者が起こるだろう」と。教会が一瞬でも油断すれば、よく建て上げられた共同体であっても崩れ得ることを示している。張ダビデ牧師は、だからこそ教会は絶えず目を覚まして祈り、自らを点検し、霊的な慢心に陥らぬよういつも気をつけなければならないと説く。どんなプログラムや奉仕、あるいは業務に慣れて上手になったとしても、それ自体が教会の安全装置にはならない。ひざまずき神に祈る霊性こそが教会を守る盾なのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロが語る「福音の本質」を改めて確かめるよう促す。福音とは、パウロの言葉を借りれば「神の恵みの福音」である。律法という重い軛で人を縛る知らせではなく、世の多元的価値観をありのまま取り込んで洗練された形で装飾したメッセージでもない。ただ罪から離れてイエス・キリストを信じることで救いを得て、新しいいのちに生かされる、それが本質だ。張ダビデ牧師は、この福音こそが教会を教会たらしめ、人を変え、世を新しくする力なのだと力説する。問題はしばしば、私たちが福音に自分なりの解釈や伝統的慣習、あるいは文化的要素を「これも福音だ」と付け加えてしまうときに起きる。そうなると教会は複数の道へと分かれ、混乱に陥ってしまう。初代教会もユダヤ人と異邦人のあいだで律法問題をめぐり大きな衝突を経験したが、最終的には「恵みによって救われる」という福音の原則を再確認することで一致を保った。今日の教会も福音の本質が揺らがないよう、いつも御言葉と聖霊に頼って自らを省みなければならない。  第四に、教会が「受けるよりも与えるほうが幸いである」という主の言葉を実行することによって、世の中に仕える模範を示さねばならないと張ダビデ牧師は語る。社会が競争や利己主義に満ちていればいるほど、教会は逆に「分かち合い」と「献身」を通して神の愛を表現しなければならない。パウロが自らテントを作る仕事をして宣教費を賄った姿は、今日の教会リーダーに対しても物質的な欲に捉われずに働きに専念するよう強いチャレンジを投げかけている。張ダビデ牧師は、もちろんすべての教会指導者が自費で働かねばならないとは主張しない。しかし指導者の心の奥底には、「自分が受けることよりも与えることを心から喜んでいるか」という自己点検があるべきだという。教会の予算を使うときも、それが本当に福音を広め、信徒をケアするために最優先で用いられているのか、常に注意深く見極める必要がある。教会が物質を健全に扱えないならば、パウロが警告した「歪んだ言葉」と「凶暴な狼」は物質的利益を狙って教会を飲み込もうとするだろう。だからこそ教会は財政的透明性と清廉さを守り、必要とあればパウロのように労を惜しまぬ献身によって模範を示せるようでなければならない。  第五に、教会の中に熱い祈りと愛が回復されなければならない。パウロとエペソの長老たちが共に泣きながら祈り合い、互いを抱きしめながら最後の別れを交わすこの場面は、使徒の働き20章全体を荘厳な情景として締めくくる。張ダビデ牧師は「教会が本当に生き生きと動くためには、説教者と聞き手、あるいは牧師と信徒がこのように互いに心を開き合い、共に泣ける愛の交わりがなくてはならない」と言う。現代の教会は大型化が進み、プログラムやイベントは増えているが、その一方で信徒同士の率直な交わりが不足しがちである。教会の規模が大きくなるほど、このような霊的親密さと熱い愛の集いが失われる危険性は高まる。しかし初代教会はしばしば家庭集会の形を取り、食事を共にし、お互いの状態を見守りながら祈り合い、涙を流した。パウロがこれほどまでに愛を持って教えたエペソ共同体も、結局はそのような愛によるつながりを持っていたからこそ、パウロとの別れの際に大声で泣きながら彼を見送ったのである。この涙は単なる個人の感情放出ではなく、福音によって築かれた霊的な絆であった。張ダビデ牧師は、教会が本当に世に向かって出て行くためには、まず共同体の中でこのような愛の涙が生きていなければならないと強調する。互いに無関心な共同体は、決して世に対して福音を行動的に伝えることはできない。むしろ世の人々から「口先ばかりだ」と皮肉られるだけだろう。  総括すると、張ダビデ牧師は、使徒の働き20章13節から38節に描かれているパウロのミレトでの勧めこそ、教会が本質についていかに再武装すべきかを教えてくれる決定的な本文だと語る。パウロは長い宣教の旅の中で示した一切の遠慮ない福音宣教、謙遜と涙に象徴される牧会精神、聖霊に縛られた従順、そして見張り人としての責任をすべて圧縮的に示している。また教会指導者たちには偽りの教師を警戒し、羊の群れを守り、何より「神の恵みの御言葉」にしっかり立つよう勧める。これは1世紀のエペソ教会だけの課題ではない。21世紀を生きる今日の教会も同じようにこの勧めを握り、新たに学ばねばならない。  張ダビデ牧師は、使徒の働きが「続けて書き綴られるべき書」であることを繰り返し想起させながら、教会が使徒の働き29章、30章を綴っていくのだという象徴的な表現を用いる。その言葉はつまり、初代教会の純粋な信仰と共同体性が、現代においてもそのまま引き継がれるべきであり、福音によって据えられた働きの土台の上で教会が新たな歴史を創り出していくべきだという意味である。そのためには、パウロが示した中心価値――すなわち愛と献身、悔い改めと信仰、従順と警戒、分かち合いと祈り――が一つの身体のように連動しなければならない。もし教会がこの原理を見失えば、いくら外形的に成長しても、やがて霊的な心臓を失った殻のような共同体に成り下がる可能性がある。  張ダビデ牧師は最後に、この本文を愛するすべての信徒と牧会者が、パウロとエペソの長老たちがともにひざまずいて祈ったあの場面を、今日の現実の中でも再現しようと勧める。互いの首を抱き合い涙を流しながら、主の恵みを求めるあの祈りの場こそ、神の教会が回復する場であるからだ。そこで教会は神の贖いの御業を骨の髄まで刻み、「神がご自分の血で買い取られた」尊い共同体であることを再認識する。その再認識こそが教会を教会らしくし、この世で「光と塩」の使命を果たせる存在へと作り上げる。これが張ダビデ牧師が使徒の働き20章を解き明かしながら、現代の信仰共同体に伝えたい本質的なメッセージである。教会は一瞬たりとも謙遜と涙を失わず、福音に対する熱情を冷ませず、何より聖霊の導きのうちで祈りつつ互いを立て上げるべきなのだ。パウロがミレトで残した「最後の説教」と「共に流した涙の祈り」は、遠い1世紀に留まらず、今なお私たちの信仰を新たにし、教会を導く命の響きとして鳴り続けている。張ダビデ牧師は、その響きに耳を傾ける人々が増えるとき、教会はさらに新しくされ、主の再臨の道を備えていくと信じているのである。

霊的戦い – 張ダビデ牧師

はじめに エペソ人への手紙6章12節には「わたしたちの格闘は血肉に対するものではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊に対するものです」とあります。この箇所は、クリスチャンが霊的戦いに臨むうえでの視点の基盤かつ核心であり、張ダビデ牧師は多くの説教や講義を通して、この御言葉の意味と具体的な適用法を強調してきました。 目に見えない世界が実在し、そこには悪魔が率いる組織的な悪の勢力があること、そしてすべての聖徒が彼らと格闘しなければならないという事実が、この本文に明確に示されています。パウロは、問題の根源を血肉や目に見える対立·問題だけに限定してはならないと指摘しているので、私たちは「目に見えない敵」の正体と、彼らが私たちの生活に及ぼす影響力を正確に把握する必要があります。もし霊的実体に対する認識が不足していれば、問題の根を正しく扱えず、人間的なレベルの対立にとどまってしまいます。 ゆえに「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」について正しく理解することが肝要です。また、すでに勝利を宣言なさったイエス·キリストの権威のもと、いかにして全身の武具を身に着け、霊的戦いで実際的な勝利を収めるかも重要な課題です。エペソ書は、教会のアイデンティティと使命が何か、そしてなぜ聖徒がこの戦いに大胆に立つべきかを、教理的にも実践的にも明らかに示しています。 張ダビデ牧師が多くの現場の説教で繰り返し強調するように、霊的戦いを正しく理解しなければ、教会がなぜ地上に存在しなければならないのかという核心を見失い、世と悪魔の策略に容易に揺さぶられることになります。本稿では、張ダビデ牧師の教えを主要なキーワードとして、エペソ書6章12節を中心に大きく二つのテーマを扱います。第一に、霊的戦いと「支配と権威」に対する正しい理解について論じ、第二に、平和の福音と全身の武具を通して得られる霊的勝利を深く考察します。これら二つのテーマを通じて、教会と聖徒がなぜこの戦いを避けられないのか、そしてすでに成し遂げられたキリストの勝利をどのように自らの生活に具体的に適用していけるのか、洞察を得られることでしょう。 第1部 霊的戦いと「支配と権威」に対する正しい理解 エペソ書6章12節でパウロは、人間が経験する葛藤や問題が単なる人間レベルを超えるものであることを明言しています。私たちの戦いの相手は人間そのものではなく、その背後にある霊的権勢なのです。張ダビデ牧師は、この御言葉を教会に与えられた「霊眼(霊の目)」だとたとえ、「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」という四つの異なる表現に着目すべきだと説きます。パウロが一つの節の中であえて四つの表現を用いているのは、当時すでに悪霊の組織的な活動が具体的に知られていたことを示唆しているのです。 まず「支配」と「権威」について考察すると、「支配」(ギリシア語のアルケー, Archē)は「始まり」「根源」を意味するとともに、支配者や首領を指す言葉でもあります。これはルシファーをはじめとする最上位の悪霊を指すとされ、ヨハネの黙示録12章7節以下で天から追い出された「昔の蛇」や「大きな竜」がまさにこれを代表する存在だといえます。彼は堕落前には天使長の地位にあったと推測され、黙示録は彼が天から落とされて地上を惑わしている姿を描写しています。 「権威」(エクスシア, Exousia)は、「支配」の下で統治権を実際に行使する勢力であり、実務的な指揮や攻撃を担当する存在といえます。もしサタンが総司令官であるなら、この「権威」に属する悪霊たちは将校や参謀に相当すると考えられるでしょう。彼らは世に降りて社会·政治·文化全般に干渉し、「空中の権威」をとらえて罪と暗闇へと人々を誘導します。 続く「この暗闇の世界の支配者たち」という表現は、ギリシア語の「コスモクラトール(cosmocrator)」が使われており、世界を支配する者たちを意味します。張ダビデ牧師は彼らを「目に見えない暗黒組織が世の制度や権力者と結託し、大きな影響を及ぼす存在」と説明し、歴史上の大量虐殺や反人道的犯罪が単に人間の力や残酷さだけで起こったのではないと指摘します。普通では想像しがたい規模の悪行が行われる背景には、このような霊的勢力の働きがあるというのです。世界各地で起こる戦争、民族浄化、組織的犯罪、常軌を逸した暴力事件などは、人間の罪性も原因ですが、その罪性を巧みに操る悪の組織がさらに大きな要因として働いているといえます。 また「天にいる悪の霊たち」という表現は、一般的に思い浮かべる「神がいる天国」ではなく、エペソ書2章2節に描かれる「空中の権威を持つ者が活動している領域」と理解すべきです。これは神の国の完全な栄光に満ちた領域ではなく、サタンと配下の悪霊が現実的に活動する中間的な霊的領域を指します。張ダビデ牧師は「この天にいる悪の霊たち」が世界中の都市や国家、さまざまな領域に入り込み、人々を無知と不従順へと導くと述べつつ、たとえ神の子どもがすでに救われていても、彼らとの格闘が依然として必要な理由を強調します。私たちはイエスの勝利にあずかっているものの、サタンの勢力は最後の審判まであがき続けるため、教会は霊的に常に目を覚ましていなければならないのです。 悪魔は実際に知能と組織力を持ち、私たちがこれを知らず警戒しなければ、簡単に太刀打ちできなくなるおそれがあります。霊的無知こそが悪霊たちにとって最も好都合だからです。暗闇の勢力をまったく認識していない人々は、彼らが張り巡らす惑わしや策略にそのまま巻き込まれ、霊的に鈍感になっていきます。しかし、私たちには天と地のあらゆる権威を持つキリストのうちにあるという確信があるので、イエス様がすでに勝利されたことを踏まえれば、教会は悪魔とその組織を恐れる必要はありません。むしろ大胆に彼らと対峙し、制圧し、束縛された魂を解放していく立場にあるのです。 「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」を正確に見極めることは、祈りや宣教、福音伝道、教会活動全般に大きな影響をもたらします。私たちはただ人の行いだけを見て怒ったり落胆したりするのではなく、その背後にある「目に見えない敵」を正しく識別することで、祈りと福音の力による効果的な戦いを可能にするのです。もし教会がここを軽視すれば、世の文化や政治の権力に対して守勢にまわるばかりで、元来持っている霊的権威を失いかねません。ゆえに聖徒はこの事実を深く胸に刻み、聖書の教えに基づいた霊的戦いの戦略を立てることが必要です。 では、具体的にどうすればこの霊的戦いで勝利できるのでしょうか。張ダビデ牧師は「エペソ書6章でパウロが提示した全身の武具を正確に理解し、実際に身に着けること」が霊的戦いの肝要だと強調します。パウロは単に理論的に「悪霊の存在を知れ」と言うのではなく、きわめて具体的な対処法を示しているのです。もし6章12節が「支配と権威」の正体を明らかにする御言葉だとすれば、6章10〜18節は、その正体に対抗する教会の武装状態を示す御言葉といえます。次の章では、この全身の武具を構成する要素を詳しく確認したうえで、平和の福音と祈りによっていかに実際的な勝利を収めるかを探っていきます。 第2部 平和の福音と全身の武具を通した霊的勝利 エペソ書6章10〜18節は「神の全身の武具」として広く知られる箇所です。パウロはここで、悪魔の策略に十分打ち勝つために必ず身に着けるべき霊的武装を六つ挙げ、最後に祈りを勧めています。張ダビデ牧師は、これを「霊的戦いにおいて必須の兵器リスト」と呼び、昔も今も全世代の教会がこの武具をもって悪しき勢力に対抗しなければならないと語ります。 はじめに「真理の帯」ですが、古代の戦士がだぶついた衣を締めるために腰帯をしっかりと結んだように、聖徒も真理によって動揺せずに立つ必要があります。聖書の語る真理とはイエス·キリストご自身とそのみことば、つまり福音のことです。「わたしが道であり、真理であり、命である」と語られたイエス様の宣言がその証拠となります。悪霊の第一の攻撃はいつも偽りなので、聖徒が真理を知らなければ、たやすくサタンの攻撃に巻き込まれてしまいます。張ダビデ牧師は、真理の帯を身に着けるには、みことばと福音を自分の生活全体を支える中心軸とする必要があると指摘します。 次に「義の胸当て」は、胸を守る鎧に相当します。聖書が教える義は、私たち自身が成し遂げたのではなく、イエス·キリストの十字架によって与えられた恵みの義です。サタンは「おまえは罪人だ、資格がない」といった罪責感の矢を放ちますが、私たちがキリストの義を着せられた者として堂々と立つなら、その攻撃は貫通しません。張ダビデ牧師は、義の胸当てを装着した者は単に罪責から解放されるだけでなく、神の義を慕い、日常生活で聖と公義を行う志を持つようになると説きます。このようにキリストの義で武装すれば、どんな罪責感の誘惑や偽りの策略にも揺さぶられずにすむのです。 三つ目の「平和の福音の靴」は、福音を携えて積極的に踏み出すことを象徴しています。パウロはローマ書10章15節で「福音を宣べ伝える人々の足が何と美しいことか」と述べていますが、それは足が福音を世界へと広める手段であることを意味しています。張ダビデ牧師は「全身の武具は守勢の防御だけでなく、靴を履いて前進するように、教会は福音で攻勢的に世を征服すべきだ」と強調します。しかもそれは平和の福音の靴なので、私たちの「戦い」は世の暴力的な戦争とは異なり、愛と平和のメッセージで人々の心を変え、真の自由と解放をもたらすものなのです。 四つ目の「信仰の盾」は、悪魔が放つ火矢を防ぎ消す強力な武器です。聖書は「信仰の盾をもって悪い者の放つすべての火矢を消し去ることができる」と言いますが、これはサタンが投げかける疑いや不安、怒り、貪欲などの思いが、信仰の確信の前では無力化されることを意味しています。張ダビデ牧師は、この盾が個人の信仰だけでなく、教会共同体としての信仰も指す可能性があると説きます。ローマ軍が盾を互いに連結して敵の矢の雨をしのいだように、教会全体がともに信仰を合わせて助け合うなら、どんな霊的攻撃も突破できないというわけです。 五つ目の「救いのかぶと」は頭を守ります。頭は思考と認識の中心で、サタンがいの一番に揺さぶりたい部分です。もし聖徒が「自分は本当に救われているのだろうか」という疑いに捕らわれてしまえば、心も日常生活も弱まってしまいます。しかし「救いのかぶと」をかぶる者は、イエス·キリストが成し遂げられた救いを確信し、神がご自分の子どもとしてくださった事実をはっきり認識します。だからこそサタンがどんなに偽りで攻撃してきても、救いの確信は揺らがないのです。 六つ目の「御霊の剣」、すなわち神のみことばは、全身の武具の中で唯一攻撃的な性格を持つ武器です。イエス様が荒野でサタンの誘惑を「書いてある」とのみことばで退けられたように、私たちはみことばを知り、それを活用するほどに悪魔に対抗できます。張ダビデ牧師は「聖霊の照らしによって理解·宣言されるみことばだけが、人の魂を突き動かし、世界を変える力を発揮する」と語っています。このみことばを武装した教会は、人々に真理といのちを宣言し、悔い改めと新生を促します。 パウロはこれら六つの武装に加えて、最後に「あらゆる祈りと願いをもって目を覚ましていなさい」と勧めています。張ダビデ牧師は、これを「全身の武具に真の生命力を与える原動力」と呼び、「祈りのない全身の武具は多くの場合、頭の中の知識にとどまる」と指摘します。教会が全身の武具を整えていても、祈りを軽んじれば、戦闘で武器を使いこなせない兵士と同様です。祈りは「神が与えてくださる権威」を現実に引き下ろす通路であり、霊的な戦場で正確に敵を識別して攻撃するためのレーダーの役割も果たします。 結局、「平和の福音」と「全身の武具」による霊的勝利は、教会と聖徒のアイデンティティを改めて認識することから始まります。教会はすでにあらゆる支配と権威の上に高められたキリストのからだであり、サタンの勢力が教会を最終的に打ち負かすことはできません。問題は、聖徒がこの事実をどれほど信じ、行動に移すかにかかっており、全身の武具を身に着けて実際に戦うことを恐れてはいけません。張ダビデ牧師は「教会が世の真っ只中で守勢ではなく攻勢に出て福音を伝えるとき、暗闇の領域は光の前で敗北を味わうことになる」と述べます。銃や剣ではなく、イエス·キリストの平和と愛が導く福音によって、教会が足を踏み入れるあらゆる所を聖霊の支配下に取り戻すことこそ、霊的戦いの最終目的なのです。 この霊的戦いは、人を憎んだり敵視したりするものではなく、むしろ罪と暗闇の束縛から人々を解放することに主眼があります。だからこそ、福音の靴を履いて踏み出す聖徒は恐れではなく大胆さを持ち、以前は「敵」と思えた人々さえ悔い改めと変革に導かれる可能性があると確信します。これこそ教会が地上に存在する重要な理由であり、エペソ書全体が語る教会の高い召しとも一致しています。 結論的な適用 エペソ書6章12節は、単に「悪魔がいる」と指摘するだけでなく、「私たちの戦いは血肉ではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊たちに向けられるのだ」という実践的な行動を促しています。張ダビデ牧師は、この点を繰り返し強調し、霊的世界を知らないままでは世の問題の根本を解決できないと説いてきました。あらゆる問題の背後には罪と不従順、そして悪霊の介入が存在するため、聖徒は見えない敵に意識的に祈りとみことばで立ち向かわなければならないのです。 キリストがすでに勝利を宣言された以上、私たちは悪魔を恐れる必要も、敗北主義に陥る必要もありません。むしろキリストのからだである教会が全身の武具を完全に身に着けるとき、世の至る所に潜む暗闇の勢力は弱体化し、あるいは崩れ去ります。教会が光を放てば暗闇が退くように、私たちが真理と義、平和と信仰、救いとみことばにより、攻撃と防御のバランスを整えれば、どんな霊的攻撃ももはや脅威ではありません。 教会は共にこの武具を保ち、互いのために祈る必要があります。エペソ書6章18節が「あらゆる祈りと願いによって絶えず目をさまし、すべての聖徒のために祈れ」と続くことは象徴的です。全身の武具は個人で装備するだけではなく、軍隊全体が一緒に武装してこそ最大の効果を発揮します。教会が祈りとみことばのうちに連帯し、互いの弱さを補い合い、長所を生かし合うなら、大きな霊的戦いのただ中でも揺るがされることはありません。 霊的戦いはこの地上での私たちの生全般にわたります。具体的には、礼拝、宣教、救済、奉仕、社会参加など、多様なかたちで表れます。聖徒は日ごとに「信仰の盾」を取り、「福音の靴」を履き、「救いのかぶと」で思考を守り、「御霊の剣」であるみことばを宣言するべきです。日々の暮らしの中で悪魔の偽りを退け、隣人にイエスの愛を伝え、不義と混乱がはびこる場所に神の公義と秩序を確立していくことこそ、霊的戦いの実際的な様相なのです。 張ダビデ牧師は、多くの宣教·教会活動の現場でこの原理が適用されるとき、一見ゆっくりしたように見えても着実かつ確実な変化が起こると証ししています。教会が霊的戦いの本質を理解し、福音と祈りで武装すると、家庭が回復し、中毒が解放され、地域社会の福音化などの奇跡が可能になるのです。教会内に渦巻く対立や憎しみさえも「私たちの戦いは血肉ではない」という真実を改めて認めることで、本来の秩序を取り戻し、悪魔の入り込む隙を根本から断つことができます。 こうしてエペソ書6章12節と6章10〜18節の示すところをしっかりと受け止めるべきです。私たちがこのみことばの光の中で霊的戦いの現実と全身の武具の実践を日々黙想するとき、教会はますます強くなり、暗闇は後退していきます。教会が目を覚ましている限り、この暗闇の世界の支配者や天にいる悪の霊たちは好き勝手に振る舞えません。キリストはすでに勝利を成し遂げられ、教会はその勝利を「信仰を通して」現実社会に適用していく使命を負っているのです。 神の全身の武具を着て霊的戦いを歩む姿勢は、決して受け身や恐れに駆られて後退するものではありません。むしろ平和の福音を「靴」として世の隅々へと出て行き、信仰の盾で共同体を守り合い、御霊の剣のみことばを宣言して闇の権勢を打ち砕くという能動的な行動です。こうして福音の平和で武装した聖徒は決して挫折しません。イエス·キリストの御名によってすでに与えられているこの権威を私たちが受け取り、適用しさえすれば、霊的戦いにおいて真の勝利を体験できるのです。 しめくくりの祈り(例) 愛する天の父なる神様、エペソ書6章12節の御言葉によって、私たちの戦いが血肉ではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊たちに対するものであると示してくださり、ありがとうございます。霊的世界を正しく認識できるように導き、悪魔の組織的·体系的な悪の勢力の前にあっても恐れず、主がすでに取られた勝利に参加できるよう願います。 あなたがくださる全身の武具を着るよう私たちを導き、真理と義、平和の福音、信仰、救い、みことばによって私たちを強くしてください。何より、祈りを通して御霊のうちに常に目覚めておらせてください。教会が互いのために祈り合うとき、暗闇の勢力が崩れ去るのを自分たちの目で見られるように助けてください。世のただ中で福音の靴を履いて前進し、悪霊に縛られている多くの魂を解放する教会とならせてください。 エペソ書全体が示す教会の召しと栄光を思い起こしつつ、主の再臨の日まで信仰をもって力強く戦い抜くことができますように。すべてを成し遂げられたイエス·キリストの御名によって祈ります。アーメン。 要約と勧め 霊的戦いとは、血肉ではなく、その背後にある「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」と戦うことを指します。イエス·キリストはすでに十字架と復活を通して悪魔とその勢力の権威を打ち砕かれ、教会にその勝利を実際に享受する特権を与えられました。私たちに求められるのは、この霊的事実を信じ受け取り、全身の武具を身に着けて祈りに目覚め、多くの捕らわれた人々を解放し、暗闇を光へと追い払うことです。 真理の帯、義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の盾、救いのかぶと、そして御霊の剣である神のみことば、さらにあらゆる祈りと願いで武装した教会は決して敗北しません。張ダビデ牧師は、この御言葉に基づく生き方こそ教会の使命であり、聖徒にとっての勝利の鍵だと繰り返し説いており、実際に多くの宣教の現場で暗闇の力が退けられた証が生じています。だからこそ私たちも、与えられた権威をもって霊的戦いに臨み、この世界に平和の福音を広げるべきです。イエス様が送り出された場所で、悪魔の偽りと対峙し、人々を自由といのちへ導く戦いをやめないとき、教会は地上でいっそう輝く光となるでしょう。 私たち一人ひとりがこの教えと御言葉を握り、日々の生活で全身の武具を装着した霊的戦士として歩むことを願います。イエス·キリストの御名によって始まったこの戦いは、すでに主が勝利を得られた戦いです。私たちは復活の力に支えられて大胆に進むべきです。そうするとき、神の御国が私たちの家庭や人生、さらには地域と諸国に及び、教会を通して世にいっそう明るい光がもたらされると信じます。