連合の神秘 – 張ダビデ牧師
Ⅰ. アダムから伝わった罪と人間の実存の問題 ローマ書5章12節から21節において、パウロはアダムとイエス・キリストを対比し、それぞれが人類を罪と死のうち、あるいは義と命のうちに結びつける「代表」であると説明している。張ダビデ牧師は、このテキストを解説する際に特に「一人の人が罪を犯したことによって多くの人が罪人となり、もう一人の人の従順によって多くの人が命を得る」という論理を通じて、福音の力と「連帯性」の重要性を説く。この箇所は、キリスト教神学の重要なテーマである原罪論(Original Sin)とも直結するが、パウロはすべての人に罪が転嫁された理由が、まさにアダムという一人の人から始まったのだと教えている。 一般的に現代人は「アダムが罪を犯したからといって、なぜ私が罪人なのか?」という抵抗感を抱く。しかし聖書は、人間に普遍的に備わっている罪性(sinfulness)、つまり本質的に罪を免れることのできない状態が、最初の人であるアダムの不従順から始まったのだと宣言する。張ダビデ牧師は「私たちが実感する現実が、神が本来計画されたエデンの美しさとはかけ離れており、死が支配する不条理で暴力的な世界に生きているという事実こそ、すでに私たちが霊的に死んでいることを意味する。そしてその死の始まりがアダムの罪にあると聖書は証言している」と説明する。聖書によると、アダムは神の言葉を不信して不従順に至り、その不従順が罪の扉を開いて死と滅びが入り込むことになった。したがってアダムが代表として犯した罪の結果として、その後のすべての子孫が罪の傾向に感染し、それが人類に普遍的に苦痛と死をもたらす根本的理由だというわけである。 張ダビデ牧師は、人間が実際に罪を犯しているにもかかわらず、「なぜ聖書は『人間が罪を持たないなどとは言えない』とあれほど強調するのか」という問いに答える。罪と死に対する神の判断は、単なる道徳的な善悪のレベルを超えた「存在論的状態」だからである。私たちは「まだ生きているのだから死んでいない」と思うかもしれないが、パウロは霊的・究極的な次元で、すでに人間は死のうちにあることをはっきりと主張する。そういう意味で、原罪はすべての人間が逃れることのできない罪の軛(くびき)であり、私たちは生まれながらにして神の御心とは無関係の腐敗した世界に属して生きているといえる。 パウロは「罪は律法が与えられる以前から世にあった」と語る。ここで言う律法とは、モーセが神から授かった戒めの数々を指すが、その律法が与えられる前にも罪が存在していたのだとわかる。ただ、人々は明示的な法がなかったために、それが罪なのかどうかをはっきりとは認識していなかった。しかしカインがアベルを殺したことや、アダムが禁断の実を食べた出来事が明白に罪悪とされているように、律法が存在する以前から神への不信と不従順という行為はすでに罪だったのである。人間の良心は自然に「殺人や反逆、不従順は悪いことだ」と教えるが、具体的に律法が示されることによって、罪が「法的・公式的」に確定されるようになった。ただし、律法は人間を罪から完全に解放しない。律法は罪を「罪」としてはっきり暴き出す機能を持つが、罪そのものを取り除いたり救いを与えたりする力はないからである。 パウロはさらに、アダムからモーセまで―つまり律法が与えられる前の時代を指して―死が「王として君臨していた(王のように支配していた)」と主張する。死がまるで独裁者のような権威をもって人類すべてを圧倒していたというのだ。これは「人間は罪の奴隷になっている」というパウロの表現を想起させ、すべての人が自力では抜け出せない罪と死の横暴に直面していることを示す。張ダビデ牧師はこれを「罪と死の構造的支配、すなわちすべての人は律法がなくともどこかで罪と死に隷属している」という点として、現代の人々にわかりやすく説き明かす。社会構造や個人の道徳的な弱さだけでなく、さらに深い次元で人類全体が「死の力」のもとに束縛されていることを指摘し、それは結局、私たちがエデンの園から絶えず追放された状態で生きていることを証明する歴史的事実だと解釈する。 聖書はアダムを「来たるべき方のひな型(型)」とも呼ぶ。アダムが人類に決定的な影響を及ぼしたように、キリストもまた決定的な影響を及ぼす「第二の、または最後のアダム」の役割を担われるお方である。だからこそローマ書5章14節で「アダムは来るべき方の型である」と宣言したパウロの言葉は、最初の人アダムが罪の始祖としてすべての子孫に罪と死を転嫁したのと同様に、やがて来られる方(キリスト)は逆に、信じるすべての人に義と命をもたらすという意味を含んでいる。張ダビデ牧師は説教の中で、「私たちは毎日、自分の意思で『自分の人生』を営んでいると思うが、実はアダムの影響をもって生まれ、罪へと引かれるしかない運命のなかにいる。しかしもうひとり、新しいアダムであるイエス・キリストがこの支配を打ち破り、新しい命をもたらしてくださる」と強調する。この点こそが、パウロが力強く宣言する福音であり、罪と死という圧倒的な現実に新たな突破口が開かれた瞬間なのだ。 律法は「罪を増し加えさせる目的」、すなわち罪の実態をより鮮明に明るみに出すために入ってきたのだと、パウロは語る(ローマ書5章20節)。これが「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という有名な言葉に続く。どんなに罪が積み重なり、死がすべての人生を飲み込もうとも、それよりもさらに大きな権能をもって恵みが訪れるという意味である。張ダビデ牧師は「人間が自力では抜け出せない罪の軛が徹底的にあらわになるほど、逆に神の恵みがいかに広大で強力であるかがいっそう浮き彫りになる」と解説する。言い換えれば、律法が罪を明確にすればするほど、罪人である私たちはさらに大きな罪悪感と恐れに捕らわれるが、同時にキリストのうちに広がる恵みの世界がどれほど絶対的な力をもっているのかを悟るようになるのだ。 アダム一人によって人類全体が罪人となったという宣言は、個人主義的思考が強い現代社会ではなかなか受け入れがたいかもしれない。しかし聖書は繰り返し「連帯性」を強調する。共同体的な思考があまり馴染まない人であっても、「国家の代表がある条約を結べば、その国民全体が影響を受ける」という例を出すと理解はそう難しくないだろう。これは古代近東の歴史的・社会的背景においても、「一人」が代表性を担うとき、その影響が全体に及ぶという認識が当然視されていたことにも由来する。張ダビデ牧師は、原罪に対する拒否感の強い人々に対し、「この解釈は究極的に『新しいアダムであるイエスが成し遂げた義と命が、どのような仕方で私たちに転嫁されるのか』を説明する鍵となる」と力説する。つまり、もし私たちが受け入れがたいからといってこの代表性と連帯性の原則を認めないならば、福音が提示する救いの論理そのものも同時に拒否せざるを得なくなるというわけである。 原罪論は、人間が先天的にどうしようもなく罪の支配下にあることを語る。これはそもそも人間の自由意志や善行では決して完全には解決できない問題である。私たちはみな、生まれた瞬間から罪の束縛下にあり、倫理的・道徳的な善行だけでは真の義に達することができない。『決して私たちの力だけでは救いに至ることはない』というのが、プロテスタントにおける救いの核心であり、張ダビデ牧師の説教もこの観点から「原罪論に目を背けてはならない」と訴える。これは人間の弱さや無価値を強調するためではなく、キリストの救いがいかに絶対的で価値あるものであるかを明らかにするためなのだという点を、彼は明確に語る。 したがって、最初の小主題の結論は明快である。アダムによって始まった罪と死はすでに人類を掌握してしまった巨大な実存的問題であり、律法はその罪を浮き彫りにし、裁きを宣言することで私たちを窮地に追い込む。しかしこうした絶望的状況が、ただちに希望を覆い隠すわけではない。むしろ罪が明るみに出ることによって、私たちはキリストがもたらす恵みと救いの力に目を開くことになる。だからこそ、アダムから伝わった罪が不快で不合理に感じられようとも、これこそが人間の実存を解き明かす端緒であり、イエス・キリストの贖罪のみわざを理解するうえで欠かせない始発点なのだ。張ダビデ牧師は「アダムが開いてしまった罪の世界はあまりにも強固に見えるが、神はそれ以上に強力な恵みの計画を秘めておられた」と強調し、続いて第二の小主題であるイエス・キリストの従順と義の転嫁へと読者を導いていく。 Ⅱ. イエス・キリストの従順と義の転嫁 パウロはローマ書5章15節から19節のあいだで、アダムとキリストの対照を精巧に展開する。一人(アダム)の不従順によって罪と死が人類にやってきたのならば、もう一人(イエス・キリスト)の従順によって義と命がもたらされるというのである。張ダビデ牧師は説教や著作の中で「原罪(Original Sin)がアダムを通じて転嫁されたように、今度はキリストの義(Original Righteousness)が私たちに転嫁されたのだ」と解説する。こうして転嫁された義は、教会の伝統において「信仰による義認(以信称義、justification by faith)」の教理と結びついてきた。 ここでいう「一人の人イエス・キリストの従順」とは、十字架での代贖(だいしょく)的犠牲を意味する。パウロはコリント第一の手紙15章45節以下でも、最初の人アダムと最後のアダム(キリスト)を比較し、最初のアダムは「土(ちり)から出た者」であり、最後のアダムは「天からこられた方」だと宣言する。第一のアダムが生きた魂(a living being)となったのに対して、第二のアダムであるイエスは生かす御霊(a life-giving spirit)となった、とも述べる。生きた魂は自分自身が命を享受する存在だが、生かす御霊はその命を他者にも分け与える源泉を持つ存在である。だからパウロはイエス・キリストの死と復活が「私たちをも生かす力」だと強調する。張ダビデ牧師は「キリストの従順は、単なる道徳的模範を示したということではない。それは罪に陥った人類を永遠に生かす生命の源であり、神の義が私たちに転嫁される決定的な出来事なのだ」とまとめている。 原罪論から始まる「転嫁」の思想は、イエス・キリストの十字架の出来事によって「義の転嫁」という形で拡張される。アダムが罪を人類に転嫁したのは、その代表性によるものであり、キリストが御自分の成し遂げた義を私たちに転嫁してくださるのも同じ法理で理解される。代表であり頭(かしら)である方が成し遂げたことの結果が、彼に属するすべての者にそのまま及ぶのである。このとき張ダビデ牧師は「代表と連帯という概念は聖書全体に流れる重要な原理で、私たちには不合理に思えるかもしれないが、神はそもそも人類を共同体的存在として創造された。一つの体、一つの系譜、一つの共同体という意識が、キリスト教的世界観のなかで極めて中心的な位置を占めるからだ」と力説する。 神の救いの計画は、人間の無力さを暴き出す律法ののち、イエス・キリストのうちで完成に至る。律法が罪を明確にしたものの、その罪を解決はしなかったのに対して、イエスは罪の刑罰を自ら負い、私たちの代わりに死ぬことによって「私たちを義と宣言してくださる」道を開いてくださった。だからこそパウロはローマ書3章24-25節で「キリスト・イエスによる贖いにより、神の恵みによって無償で義とされるのである。神はこのイエスを、その血を通して信仰にもとづく宥めの供え物(贖いのいけにえ)として立てられた」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所において三つのイメージを引用する。第一に、奴隷市場で身代金を支払って奴隷を解放する「贖い(redemption)」の視点、第二に、法廷で無罪だと宣言される「義認(justification)」の視点、第三に、いけにえに関する概念として罪の代わりにいけにえが捧げられ罪を除く「贖罪(atonement)」あるいは宥めの供え物(propitiation)の視点である。これらすべての比喩がイエス・キリストの十字架の出来事に同時に含まれており、それはイエスが人類を代表して流された血と従順に基づいているのだ。 聖書のいたるところに現れる「祝福の連帯性」もまた、イエスの従順によって決定的に完成される。すでに旧約においてアブラハムとの契約が与えられた際、神は彼とその子孫を通して「諸国の民が祝福されるだろう」と約束された。この契約はアブラハム一人にとどまることなく、彼の系譜をたどってイスラエル民族全体、さらに全世界にまで至る祝福の継続性を語っている。張ダビデ牧師はこれについて「アブラハムと結ばれた契約は、新約の時代になるとイエス・キリストのうちで完全に成就する。イエスに属するすべての者、すなわちイエスを信じるすべての者に祝福が連帯的に伝わっていく」と解説する。ゆえにイエスの従順が歴史的出来事として一度生じたものの、その効力は時空を超えて信じるすべての人に同時に適用されるのである。 しかしこの義の転嫁は自動的に与えられるものではなく、信仰(faith)を通して私たち一人ひとりに個人的に適用されるという点が重要だ。パウロは「キリスト・イエスを信じることによって」義とされると宣言するが、これは代表であるイエスとの「個人的な連合(union)」が必要であることを意味する。張ダビデ牧師は「結局、アダムに生まれながら自然に入り込んできた罪は、私たちの同意にかかわらず適用される。一方、イエスの義は、私たちが信仰によって受け取ることによって私たちに転嫁される」と説明する。これが恵みの逆説である。人間は罪を遺伝的に受け継ぎ、否応なく罪人として生まれるが、同時にイエスは恵みによって私たちに義を贈り、この賜物を受け取る道は信仰を通じてであり、それは決して私たちの功績や努力によるものではない。 パウロが語る「罪が死の中で王のように支配したように、恵みもまた王のように支配して、私たちの主イエス・キリストによって永遠の命に導く」(ローマ書5章21節)という言葉は、要するにアダムの不従順よりもはるかに強力なイエス・キリストの従順が「王権」を置き換えたことを告げる。以前は死が支配していたが、今や恵みが支配するようになったのだ。張ダビデ牧師はこれを「福音は、単に罪を洗い清めるだけでなく、全く新しい支配体制を私たちの内にもたらす。私たちはもはや罪に隷属する民ではなく、『命』という王の統治を受ける神の国の民となる。これが核心である」と言う。 ローマ書5章18-19節においてパウロは「一人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人となったように、一人(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるだろう」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所を最も決定的な要約節だと指摘する。この言葉は罪と死の普遍性をそのまま認めつつ、それをさらに上回る義と命の普遍性を宣言するためである。イエス・キリストの従順がもたらす恩恵を妨げることは誰にもできず、その力と権威は、初めの創造から人類を誕生させた神が自ら計画した「種子(しゅし)の改良」と比喩できると彼は解釈する。不従順の種子が死と朽ち果てる実をもたらしたならば、従順の種子は義と命の実を結ばせるというわけだ。 旧約のイザヤ書53章に出てくる苦難のしもべの預言も、同じ論理を例示している。「彼は病を負い死に至るが、そこから『子孫』が生じる。この『苦難のしもべ』の死によって、新たな子孫、新たな民が誕生する」(イザヤ書53章10節)という箇所は、単に肉体的な子孫を指すのではなく、苦難のしもべの代贖的働きによって誕生する「霊的子孫」、すなわちメシアを信じて従う人々を意味している。張ダビデ牧師はこの言葉を「種子改良論」と呼び、私たちがアダムから罪と死の遺伝子を受け継いだのなら、今はキリストから義と命の遺伝子を継いだ「新しい人」として生まれ変わることができると強調する。ガラテヤ書2章20節にある「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という聖句は、これを神学的に要約したものである。私たちはアダムの子孫として生まれたが、イエスとの連合によってキリストの子孫、すなわち義と命に生きる者となったのだ。 結局、この第二の小主題は、イエス・キリストの従順とそこから転嫁された義が、どのようにして私たちを罪と死から解放し、新たな命の次元を開いてくれるのか、その答えを示している。アダムの不従順によって始まった罪と死の王国に属した私たちが、イエスの十字架と復活によって恵みと命の王国に移された、というのが要点である。そしてこれは信仰によって個々人の人生に適用されるのだ。張ダビデ牧師は「この驚くべき真理を単なる教理知識で終わらせるのではなく、日々の生活と信仰実践の中で実際に体現しなければならない。なぜなら私たちはもはや罪ではなく恵みに、死ではなく命に支配されているからだ」と言い、キリストにあって享受できる自由と解放を実践的に強調する。 Ⅲ. 代表理論と連合理論の実際的意味 ローマ書5章12-21節が提示する中心構造は、人類の歴史をアダムとキリストという二人の人物を通して解釈する点にある。これは神学的には「代表理論(Doctrine of Representation)」あるいは「連邦主義(Federal Headship Theory)」と呼ばれ、アダムは人類の頭(federal head)として罪を転嫁し、キリストは教会の頭として義を転嫁する、という説明に該当する。また「連合理論(Principle of Corporate Solidarity)」という関連概念もあり、私たちはアダムとも連合しており、キリストとも連合している存在だという聖書の教えがそこにある。 張ダビデ牧師は「一人の個人が歴史に莫大な影響を与えるのは、私たちの日常生活の中でも目にすることができる。国家元首が外交協定を結べば、その結果は国民全体に及ぶし、家族の代表者がひとつの決断を下すだけで家計が破綻したり繁栄したりすることもある」と述べ、この代表と連合の神学的原理が決して観念的な主張ではないことを説得力をもって提示する。実際、旧約に登場する例として、コラ(コラ)の反逆とその家族全体の滅亡、アカンの犯罪とそれに関連するすべての者たちへの処罰など、罪が単なる個人の問題で終わらず、共同体に連帯的に波及することが鮮明に描かれている。このように罪と処罰、祝福と恵みが特定の人物を通して全体に及ぶ構造は、古代の共同体社会においても当然のこととみなされていた。 この原理は同時に、福音の核心を説明する鍵でもある。アダムによる呪いがいかにすべての人類に及んだかを理解すれば、キリストによる救いがいかに信じる者たちに与えられるかも理解しやすくなる。代表者が行うことに、残りの構成員が連帯的に参加する構造だからである。張ダビデ牧師は「代表性と連合という言葉を、私たちは現実感覚をもって受け止めるべきだ。個人主義が蔓延する現代では、すべてを『私と神』だけの関係で考えがちだが、聖書は徹底して共同体的連帯を前提にしている。私たちは太初からアダムの中にあり、今はキリストの中にある。この二つのうちどちらかを選択すべきなのだ」と力説する。 パウロの言葉で言えば、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝」(ヨハネの福音書15章)というイエスの宣言を引用し、人間の生はどの「木」に接ぎ木されるかによって結ぶ実が変わる。アダムの木に接ぎ木されていれば罪と死の実を結ぶしかないが、キリストの木に接ぎ木されていれば義と命の実を得ることができるというわけだ。イエスのうちに「とどまる(abide)」という表現は、単に教会に通うとか礼拝に参加する以上の意味をもち、実際にイエスの生命力と力が私たちの内に働くように「連合」することである。張ダビデ牧師は「連合理論は神学的知識を超え、私たちの実存を変革する実際の力をもつ。アダムに属していたときには罪が当たり前だった。しかしキリストのうちにとどまるならば、その方の義、その方の愛、その方の力が私たちに流れ込み、まったく別の存在として生きられるようになる」と説く。 代表理論と連合理論を改めて強調する際、私たちはガラテヤ書2章20節の告白をしばしば引用する。パウロは「私はキリストとともに十字架につけられた。ゆえに、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と宣言するが、これはイエスとの連合を最も劇的に表現した例である。古い人(アダムに属する者としての私)はすでにイエスとともに死に、今やイエスの命が私のうちで動いているということだ。このように見るなら、キリスト教信仰は「イエスを信じて天国に行く」というレベルを超え、「今この瞬間、キリストにあって私は新しい被造物として生きている」という変容された自己理解を要請するものだといえる。張ダビデ牧師は「この自己理解こそが実際の生活を変える。日々の繰り返される日常の中で『私はアダムから来た罪人だから仕方がない』と自暴自棄になるのではなく、『私はすでにキリストと連合した義人だ』というアイデンティティを握りしめること。これこそ福音がもたらす力だ」と強調する。 聖書における代表と連合の概念をほかの例で示すならば、アブラハムを通して祝福が諸国へ流れるという約束や、エリヤが祈ったら全地に雨が降らず、また祈ったら雨が降ったという出来事もある。アブラハムやエリヤは個人だが、彼らが受けた契約や祈りの力が連帯的に周囲へ波及していく。同様に、イエス・キリストが新約における決定的代表となり、私たちには到底背負いきれない罪の重荷を代わりに担い、その結果としてイエスの義と命が私たちに連帯的に適用されるのが新約の福音の真髄だ。張ダビデ牧師はこれを牧会現場で「教会こそキリストの体として、頭である主と連帯し、その方の命と恵みを実践する共同体」であると再解釈する。教会を通してキリストの救いの業が広がり、また教会は互いに重荷を担い合い、ともに祈り礼拝する連帯的な生き方を示す。これらすべてが代表性と連合の枠組みのなかで理解されるべきだというのである。 では代表理論と連合理論は、どのような実際的な実を結ぶのだろうか。第一に、自己アイデンティティの変化である。私たちは生まれながらアダムの子孫だったが、イエスを信じたとき即座にキリストの子孫となる。自分が罪に取り込まれどうしようもないと感じる時でも、「すでにキリストのうちにあって新しい命を与えられているのだ」という意識が確固として根づけば、「罪がもはや私の人生を支配できない」という解放感を持つことができる。張ダビデ牧師は、この解放感こそが福音生活の出発点なのだと繰り返し強調する。 第二に、私たちに伴う帰属意識と共同体性である。アダムにあって私たちがすべての人類と結びついているように、キリストにあっては信じる者すべてが結びついている。聖徒たちはひとりひとりがバラバラの島ではなく、一つの体として互いに肢体(しだい)となる。この連帯的な教会観こそが聖書的であり、パウロがエフェソ書やコリント第一の手紙などで「私たちはキリストの体であり、その肢体だ」と述べるのと一致する。張ダビデ牧師は「代表理論と連合理論を理解すれば、なぜ教会生活が必要であり、どんな動機があるのかが一層はっきりする。私たちは頭なるイエス・キリストに繋がってこそ霊的な栄養を得て、また肢体同士が相互依存しながら成長していく存在なのだ」と教える。 第三に、罪に対する新たな態度である。過去には罪が自然なことであり、避けられないものであったとすれば、今や代表が変わった以上、罪を克服する可能性が開かれたと見る。もちろん依然としてこの地上では罪の誘惑を受け、失敗もあるだろうが、私たちのアイデンティティは「アダムにある罪人」ではなく「キリストにある義人」へと根本的に変わったのだ。だから罪に対して毅然と「ノー」と言うことができ、悔い改めを通して即座に神のみもとへ駆け寄る特権を享受できる。張ダビデ牧師はこれを「聖化(sanctification)の歩みにおいて大きな原動力となるのは、私がキリストと連合しているという事実である。イエスが私のために死んでくださったのだから、私も罪に対しては死んだ者とみなし、義の器として神に捧げなければならない」と語る。 結局、代表理論と連合理論は非常に抽象的な教理のように見えるが、実際には日常の信仰生活に深く関わっている。私たちが教会に集まり礼拝し、聖餐にあずかり、洗礼を通じて「キリストのうちへ入れられた」という事実を公に宣言するすべての信仰行為が、この理論と直結するのである。張ダビデ牧師は説教で「アダムが私たちの古い頭(かしら)であったなら、教会の頭はイエス・キリストである。頭が変われば、それに伴う支配と秩序、価値観も変わる。この事実を深く悟り、実践するとき、私たちは罪と死から解放され、恵みと命の支配のもとで生きる真の自由を味わうようになる」と説く。 ローマ書5章の最後の節(20-21節)に「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という言葉が登場する。これはパウロが最後に響かせる恵みの賛歌ともいえる箇所である。いかなる人も死の陰から逃れられなかった人類に対して、一人のイエス・キリストの従順が新しい門を開いた。パウロはこれを「まるで踊るように、恵みと命を賛美する歌」とも見なしうる。張ダビデ牧師もこの本文を解き明かしながら「罪が極まると嘆くとき、むしろ恵みはさらに大きく臨む。私たちはキリストの従順と義の転嫁によって罪の圧迫から解かれ、神のみ前へ大胆に近づけるようになった。これは人類史上もっとも革命的な知らせである」と宣言する。古い世界が過ぎ去り、キリストのうちにまったく新しい秩序が到来したことを示し、それが個人と教会、そして世界にどのような変化と希望をもたらすかを具体的・実際的に黙想しようと勧めるのだ。 最終的に、この本文の核心メッセージは明白である。アダムが開いた罪と死の歴史の上に、イエス・キリストが義と命の新たな歴史を開かれたという点だ。これは単なる神学的観念ではなく、現実にこの地を生きる信徒たちの人生を覆すように変革する力であり、アダムに属していた過去の自分は死に、キリストのうちに生きる新しい自分として毎日を歩む推進力なのである。代表理論と連合理論が示すように、私たちは自力や自分の能力で罪に打ち勝つのではない。ただ私の代表であるイエスがすでに勝利しており、その勝利を私が共有することによって義人として生きるのだ。張ダビデ牧師は「この真理こそ福音のエッセンスであり、キリスト教信仰のエンジンだ」と呼び、ローマ書5章12-21節を通じて信仰の道を歩むすべての人が罪を超える自由と命、そして感謝と賛美の生へと向かうように勧めるのである。