張ダビデ牧師 - ユダがパン切れを受け取って出て行った夜
「ユダはその一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。すると、すでに夜であった」(ヨハネ13章30節)。ヨハネによる福音書13章20~30節には、イエス様が最後の晩餐の席で弟子たちに語られた言葉と、そのうちの一人であったユダがイエス様を裏切る決断を最終的に固める場面が描かれている。この本文にはイエス様と弟子たちとの間に漂う緊張感、イエス様のはかりしれない愛、そして弟子たちが容易に気づけなかった悲劇的な結末の種子が交錯している。とりわけ、「ユダはその一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。すると、すでに夜であった」(ヨハネ13章30節)という一文は、表面上は出来事のタイミングを説明しているように見えるが、実際には深い霊的意味と人間の内面が陥る悲劇を同時にあぶり出している。また、張ダビデ牧師の洞察を踏まえて本文を深く考察し、彼が強調する主の愛と勧め、そして人間の内面の頑なさのあいだで起こる痛ましい衝突に焦点を当てる。 イエス様が弟子たちとともに過越の食事を分かち合われるこの場面(ヨハネ13章)は、キリスト教信仰において非常に重要な位置を占める。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)でも、最後の晩餐の場面はイエス様が十字架にかかられる直前、弟子たちとともにパンと杯を分けられたことが記されており、これは聖餐の起源となった出来事でもある。しかしヨハネによる福音書は、他の三つの福音書とは異なり、より深い神学的解釈とイエス様の言葉の描写に焦点が当てられている。とりわけヨハネ13章においては、「弟子たちの足を洗われるイエス様」の姿と、その後に続く「あなたがたの中に、わたしを裏切る者がいる」というイエス様の宣言が連続して描かれるが、その根底には弟子たちに対するイエス様の尽きない愛と、その愛を最後まで拒み通すユダの裏切りが対比されている。 張ダビデ牧師は、この場面において主が示される「愛の行為」と「愛の言葉」の双方が明らかになると指摘する。すなわち主は弟子たちの足を洗われ、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13章14節)と勧めることで、弟子たちが互いに愛をもって仕え合うように促された。しかし、この愛で満ちるべき晩餐の席で、イエス様はご自身の裏切り者が弟子たちの一人であると宣言される。愛に満たされるべき食卓に裏切りの気配が混じるという、この矛盾した場面こそ、人間の罪性と神の愛がいかに激しく衝突するかを示している。 張ダビデ牧師は、愛とは強制されるものではなく、神の愛もまた人間を「人格的存在」として尊重するがゆえに、心を無理やり変えてしまうことはなさらないと強調する。したがって、ユダの裏切りは決してイエス様が意図したり誘導したりされたものではなく、イエス様は最後までつなぎ止めようとされたにもかかわらず、とうとう翻意しなかったユダ自身の自由意志的反応だったのだ、と見るのである。神は決して人を無理やり救われることはなく、わたしたちがみずから悔い改めて立ち返るよう愛をもって招いてくださるが、その招きに応じずに最後まで背を向ける人には、そのままにされてしまうのだ。 この本文でヨハネは、「まことにまことに、あなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」(ヨハネ13章21節)と宣言されるイエス様のお声を記録している。当時の弟子たちにとって、これは信じがたい言葉だった。共に奇跡を体験し、主の教えを至近距離で聞き、同じ共同体で寝食をともにしてきた仲間のうちの誰かが主を裏切るなど、想像しにくかったからである。しかしイエス様は、すでに自分を裏切る者を知っておられ、それでも最後の瞬間まで立ち返るよう機会を与えられた。ヨハネ13章20節でイエス様が「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方をも受け入れることになる」と語られるが、これはイエス様を受け入れることが、そのまま神を受け入れることであり、それこそが神の救いの計画の中で最も重要な信仰の道であることを示唆している。それにもかかわらず、ユダはこの勧めの言葉を受け入れなかった。 張ダビデ牧師は、この場面について「主が受け入れを求められたその瞬間こそ、ユダに許された事実上最後の悔い改めの機会であった」と述べる。イエス様は直接パン切れを手に取り、それをユダに渡された(ヨハネ13章26節)。これはヘブライ文化圏ではしばしば見られる「最も親密な愛の表現」あるいは「尊敬と好意のしるし」であり、当時の過越の食卓においてパンを浸して相手に与える行為は、単なる食物の分かち合いという以上に「特別な親密さ」を意味していた。それはすなわち「わたしはまだあなたを愛している。あなたに対して心を開いている」という主の思いを示す行動だったのだ。主はすでにご存じでありながら、それでもユダが振り返って悔い改めることを切に願われた。パン切れはむしろユダに下される裁きのしるしではなく、彼の心が変わるようにとの最後の愛の招待だったのである。 しかしユダは、そのパン切れを受け取りながらも翻意しなかった。「ユダはその一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。すると、すでに夜であった」(ヨハネ13章30節)。張ダビデ牧師は、この文章が単なる時刻の報告を超えて、「霊的闇」と「頑固な拒絶」が同時に示される表現だと注釈する。ここで「夜であった」とは、物理的な時の夜であると同時に、ユダが霊的な暗闇へと呑み込まれていく状態を象徴している。ユダが食卓を離れるとすぐ、大祭司たちのもとに行き、主を引き渡す合意を決定的に結ぶ場面へと急いだ(マタイ26章14~15節参照)。再三にわたる愛の警告と勧めにもかかわらず、ついに自分の利益や世俗的な基準を優先し、主を裏切る道を選んでしまった人間の内面が陥る悲劇なのである。 なぜユダはあれほど重大な罪を犯すに至ったのだろうか。福音書全体を見ると、ユダは弟子たちの中で金銭の管理を任された人物(ヨハネ13章29節参照)であり、マリアが香油の壺を割ってイエス様に注いだとき、その香油を売って貧しい人々に分け与えなかったことを不平に思っていた(ヨハネ12章4~6節)ことも記録されている。彼は共同体の財政を担当していたにもかかわらず「盗みを働いていた」という記述があるほど(ヨハネ12章6節)、お金に対する欲が強かったことがうかがえる。しかし、だからといって単に「金銭を愛する思い」だけでユダの裏切りを説明できるわけではない。張ダビデ牧師は、ユダの問題をさらに根本的に捉え、「主の言葉を絶えず世俗の物差しで測り、自分の理屈に合わなければ拒否する傲慢な心」にあると見る。つまり彼はイエス様の宣教のやり方が自分の思惑どおりに運ばれないと判断すると、イエス様を「イスラエルの政治的メシア」として利用するどころか、その道が「失敗」に見え、自分に得がある別の道を選んだというのである。これはイエス様を自分の欲望の道具にしようとしながら思いどおりにならなかったため、主を見限るという典型的な不信仰の姿だとも言える。 張ダビデ牧師はこうした解釈の延長で、現代にもいろいろな形で「ユダの道」を歩む人々がいる可能性があると警告する。すなわち、礼拝や奉仕に熱心なように見えても、実は本当に主を愛してはいないで、自分の世俗的野心を叶える手段として信仰生活を営んでいる場合があり得る。また、イエス様の言葉に最後まで従順しようとせず、ある時点で自分の理性や世の価値観を優先し、主の導きを拒んでしまうこともある。こうした態度が積み重なると、結局ユダのように「主を売る」ほどの事態に陥ることがあるのだ。裏切りという行為は極端な事件のように見えて、その根底には日常において繰り返される小さな不従順と自己中心的な判断が蓄積されている点が肝心だ。些細な「外へ出て行く」行動が積み重なり、最終的には完全な闇へと踏み込んでしまうのである。 一方で、ペトロもまたイエス様を三度否み、罵りまでしたが(マタイ26章69~74節)、やがて悔い改めて回復された。その違いはどこにあるのか。張ダビデ牧師は、「ペトロの裏切りは自分の弱さや未熟さゆえのものであり、ユダの裏切りは頑なに最後まで振り返らなかったもの」と分析する。ペトロは心の底からイエス様を愛していたものの、恐れと人間的な弱さで一瞬つまずき、主を否んだ後、激しく泣いて悔い改めた(マタイ26章75節)。しかしユダは、その裏切りが、愛するがゆえにやむを得ず一時的に倒れた「失敗」ではなく、意識的に、ついに心を変えず、主を売るほうを選んだのだ。さらに裏切りの後も悔い改めに至らず、自害する道を選んでしまったこと(マタイ27章5節)が、彼の思いがすでに主と完全に切り離されていた証左となる。 ヨハネ13章30節における「ユダはその一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。すると、すでに夜であった」という表現は、こうした彼の最終的決断を象徴的に示す核心的な一節だ。夜に出て行ったというのは、単に「昼ではなく夜」という時間を意味するだけではなく、ヨハネ福音書特有の「光と闇」の対比から見ても、明らかに「霊的な闇」へと落ちこんだ状態を暗示する。張ダビデ牧師はこれを「ユダが霊的に完全な闇に浸食された瞬間」であると説く。主はその闇を見つめながらも、最後まで彼を離したくはなかったが、ユダは自分の足で暗闇の中へ入ることを選んだ。これは神の愛と人類の罪性が衝突するときに起こりうる、最も惨い場面の一つだといえる。 しかし、この場面を通して私たちが得る教訓は、単に「ユダは大きな罪を犯した悪人だ」ということにとどまるものではない。張ダビデ牧師は、「私たちのうちにも少なからずユダの種があるのではないか、ということを常に振り返る必要がある」と勧める。教会や信仰共同体の中で、あるいは神の御前で、いつでも世俗的な損得勘定を優先し、主の御言葉が理解できないからと不満を抱くことはありうる。また、愛をもって近づいてくださる主の御声を聞きながら、悔い改めの機会を自ら外してしまうことも起こりうる。こうした私たちの内にある「ユダ的な要素」を見出したなら、直ちに悔い改めて、改めて十字架の御前にへりくだるべきだ。主はいつも「立ち返りなさい、わたしのもとに来なさい」と愛をもって呼びかけておられるが、私たちの心を無理やり裏返しにはなさらないゆえ、最終的には私たち自身の選択が鍵となるのである。 実際、イエス様の共同体の中でユダが任されていた「会計係」という役職は、当時としては重要な責務であった。張ダビデ牧師は、これを「イエス様が彼をどれほど信頼されていたかを示す証拠でもある」と述べる。お金は人間の罪性を最も鋭く引き出す媒介となるが、同時にそれを克服して善用すれば神の国を拡張するための有益な道具にもなりうる。イエス様はユダを意地悪く誘惑へ陥れるために会計を任せたのではなく、「ユダならこれをうまく担えるだろう」と信じて委ねられたと見るのが自然である。ところがユダは、次第に物質への執着と世俗的な見方を捨てきれず、主への愛よりも自分の欲望や野心を追い求めるようになる。そして時が経つにつれ、イエス様がメシアとして「この地上で政治的・軍事的革命を起こす王」となってほしいと思ったのに対し、イエス様の歩まれる道はまったく違う方向だった。イエス様はさらに低くなり、しもべの姿で仕え、ついには死に至るまで従順すると言われる。ユダの立場からすれば、それは自分の期待にまったくそぐわなかったのだろう。 また、香油の壺を割ったマリアの事件(ヨハネ12章)において、ユダは当時献金を預かって管理する立場だっただけに、「その香油を売って貧しい人々に施せばよかったのに」といった発言をする。いちおう筋が通るようにも思えるが、そのあとに続く福音書の説明では、「彼は盗人であったから」と指摘されている(ヨハネ12章6節)。つまりユダの不平は、実際には貧しい者を思いやってではなく、金銭を別の用途に流用したい思いがあったことを示す。張ダビデ牧師は、ここから「ユダはすでにイエス様を心から愛する思いから離れていた」と指摘する。私たちも信仰生活において、一見正義や正当性を語っているようでいて、実際には自分の欲が絡んでいるかどうかを点検しなければならない。愛を愛として見ず、恵みを恵みとして見ず、いつも「それを売って金に換えたほうがいいのではないか」という世俗的計算を優先するとき、私たちもまたユダのように御霊の声を退けてしまう危険性があるのだ。 イエス様は最後の晩餐の席でユダを「すぐそば」に座らせておられたと伝えられる。古代中東地域の食事文化によれば、人々は食卓のまわりに横になって食事をとり、隣り合う人との頭や胸が互いに近づく形になっていた。通常、主人の右側には最も愛される弟子が、左側には信頼する客や貴い座が用意されたとも言われる。ヨハネ13章23~25節を見ると、イエス様のお気に入りの弟子がイエスの胸に寄りかかっており、シモン・ペトロが彼に合図して「主よ、それはいったい誰のことですか」と尋ねる場面がある。この配置から推測するに、ユダはイエス様のもう一方の近い位置に座っていた可能性が大きい。張ダビデ牧師は、これを「主がどれほど最後までユダを傍に置き、彼の心を変えようとなさったかを物語る場面だ」と言及する。普通なら、自分に敵意を抱いているらしい人物を遠ざけたり、共同体から追放しようとしそうなものだが、イエス様はむしろ最後の晩餐のときまで彼をそばに置き、機会を与え続けられたのだ。 しかしユダは、その最後の愛の説得を受け入れなかった。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(ヨハネ13章27節)とイエス様がおっしゃると、彼はすぐさま外へ出て行く。そしてヨハネは「そのときは夜であった」と記す。弟子たちはユダがどこへ行くのか正確にはわからず、ただ「祭りに必要な物を買いに行くのだろうか」とか「貧しい人々に何か施しをしに行くのだろうか」と考えていた(ヨハネ13章29節)。このくだりから、弟子たちが「いったい誰のことだろう?」と疑問を抱くほどには、ユダは外面的には普通にふるまっていたことがわかる。人の内面に芽生える裏切りの種は、爆発の瞬間が訪れるまで簡単には見抜かれないことがあるのだ。張ダビデ牧師は、これを今日の教会の現実にたとえ、表面上はさほど問題がなく見えても、心の奥で霊的に病み、恵みとの結びつきを断ち切り、最終的には主を捨てて世に走ってしまう人々もいるのではないかと警告している。 イエス様がこれほどまでに最後の勧めを尽くされたにもかかわらず、ユダの固く閉ざされた心を変えられなかったのは、愛は決して強制されないからだという事実を改めて思い起こすべきだ。張ダビデ牧師は繰り返し、「神は人間に自由意志を与えられたがゆえに、無理やり心を作り変えたりはされない」と語る。神の愛は私たちを絶えず呼びかけ、ときに罪を懲らしめてでも悔い改めに導こうとなさるが、最後の決定は各自に委ねられている。イエス様が最後まで勧め続けられたにもかかわらず、ユダは自ら振り返ろうとせず、「夜の闇」へと歩みを進めていった。それは、人間の頑なさがどれほど恐ろしい結果を生むかを示すと同時に、神の愛が人間の自由意志の前で「無力に見えるほど」の苦しみを伴う一面を示している。 「ユダはその一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。すると、すでに夜であった」。この短いくだりには、計り知れない霊的ドラマが凝縮されている。そこには裏切り者の選択、イエス様の苦悶、そして何もわからぬままの弟子たちの無知(無理解)が同時に描かれる。弟子たちは「いったい誰のことなのか」と疑問を抱き、主とユダのあいだに流れる緊張感と切迫した勧めの瞬間をまったく理解していなかった。そしてすぐ後の文脈(ヨハネ13章31節以下)で、イエス様は「人の子は今や栄光を受けた」と語り、十字架への道を「栄光」の道と宣言なさる。これは驚くべき逆説だ。弟子の一人がイエス様を引き渡すために出て行くこの暗黒の瞬間こそ、人類を救う十字架の御業が始まる「神の栄光の時」だというのだからである。 張ダビデ牧師はここで、「神の救いの計画は、人間の裏切りさえも利用して、より大いなる善を成し遂げる」と強調する。もちろん、これは神がユダの悪行をあらかじめ予定して誘導されたという意味では決してなく、たとえ人間の悪が極まろうとも、神はその悪を最終結論とはせず、むしろ善へと変えてしまわれる「摂理的経綸」を持っておられるという点を示している。十字架を通して罪人が救われ、主の復活によって死の力が打ち破られ、聖霊の降臨によって教会が誕生する。このすべての過程において、ユダは闇の側の役回りを担い、結果として永遠の悲劇を背負う人物となった。しかし、それは神のご計画に抜け穴があったとか、あるいはユダが初めから「悔い改める余地」などまったく与えられていなかったわけではない。主の道はいつも「帰ってこい、わたしのもとに来い」と呼びかけられていたのに、ユダが最後まで「パン切れを受け取るとすぐに出て行く」裏切りの歩みをやめなかったのである。 この言葉が今日の私たちに突きつける問いは、「果たして私たちはユダのように、主の愛を受け取りながらもその言葉を自分流に裁断し、拒んでいるのではないか」という自覚である。張ダビデ牧師は特に、長く教会生活を送っている人々こそ警戒すべきだと言う。御言葉を多く聞き、礼拝にも長く出席してきたが、実際には自分の人生の奥深いところでは「主」より「物質」や「自分の計画」を信頼してしまう習慣が根を張っているかもしれない。また「神はこういうふうに働かれるはずだ」という固定観念に縛られ、いざ主の導きが自分の期待とは異なると落胆してしまい、さらには主への敵意や裏切りの芽を育ててしまう危険さえある。ユダの事件は、けっして遠い昔の物語ではなく、今なお信仰共同体の中で再現され得る警告的事例なのだ。 その一方で、私たちはこの場面を通して、イエス様の「最後まで見捨てようとしない愛」をはっきりと目にすることができる。パン切れを手渡されるイエス様の御姿は、「あなたは本当に振り返ろうとしないのか。わたしはいつでもあなたを受け入れる用意がある」という愛の呼び声である。張ダビデ牧師は、この愛の呼び声こそが私たちの聞く福音の核心だと言う。福音とは単に「救いという結果」を示すだけではなく、毎瞬、私たちが主の愛を「受け入れる」心のあり方を意味するものでもある。イエス様がヨハネ13章20節で「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方をも受け入れる」と語られた際、そこで使われる「受け入れる」(ギリシア語で“デコマイ”または“ランバノ”)は、単に客を迎えるという次元ではなく、全人格をもってお迎えすることを指す。すなわち主の御言葉、主のご性質、主の歩まれる道を全面的に自分のものとして受け取ることである。逆に受け入れなければ、主の愛を拒み、扉を堅く閉ざしてしまうことになる。ユダが示したのは、まさにこの「拒絶」の極端な姿であった。 ここで私たちは、この本文を前にいくつかのことを深く黙想する必要がある。第一に、自分のうちにいまだ処理されていない世俗的野心や貪欲、金銭や名誉や権力に対する誤った執着がないかどうか、反省しなければならない。ユダはイエス様の言葉を聞き、奇跡を体験し、さらに財政管理を任されるほど信頼を得ていたのに、ついにその貪欲を克服できなかった。今日の多くのクリスチャンも、世の成功や物質的富を信仰と混同したり、主によって自らの野望を果たそうとしたりする傾向に陥りやすい。第二に、主の言葉を聞くたびに、自分の先入観や頑固さが砕かれなければ、結局はユダのように「外へ出て行ってしまう」選択をするしかなくなる、ということを自覚すべきである。御言葉が自分の考えと食い違うとき、それでも従おうとして心を低くする過程がなければ、いつか私たちは頑なさを深め、深刻な裏切りへと至りかねない。第三に、主の愛は最後まで私たちを放棄しないという事実を信じ、最後まで勧められる御声に敏感に応じなければならない。ユダは「最後のパン切れ」すら受け取りながら翻意しなかった。私たちは、すでに何度も「愛のパン切れ」を受け取りながら、悔い改めの機会を逃してはいないだろうか、と省みる必要がある。 張ダビデ牧師は、結局この本文が示すのは「神の聖と人間の罪性とが交わるところで露呈する裁きと愛の葛藤」だと言う。主は十字架にかけられる前夜、最も愛する者たちと食卓を囲み、そこで尊い足洗いと美しい愛の交わりがあった。ところが同じ食卓が、ユダの裏切りという最悪の罪が芽生える場にもなった。同じ晩餐の席で、ある者は主を胸に抱いて「主よ、それはいったい誰のことですか」と涙して御声を求めるが、別の者は銀貨三十枚で師を売る算段を執り行おうとする。光と闇、愛と裏切り、救いと裁きが、一つの場で衝突しているのである。 この衝突の果てに、ヨハネ13章30節は「夜であった」と語る。これはユダの物語であると同時に、私たちも経験しうる暗い時期を象徴している。それから間もなくイエス様はゲッセマネの園で祈り、捕らえられ、裁きを受け、十字架にかけられる。しかし主はその暗い夜を通過されることで、復活の朝を切り開かれる。ユダのように暗闇のなかに留まるのか、それともペトロのように涙で悔い改め、復活の主の前に再び立つのか、その選択は今も私たち一人ひとりに与えられた課題である。張ダビデ牧師は「すべての人が罪を犯したとしても、悔い改めによって新しくされる道が開かれている。しかし最後まで心を閉ざすならば、それがまさに『夜の道』へ踏み込む行為となる」と強調する。私たちはこの勧めに耳を傾けるべきだ。 突き詰めると、ヨハネ13章20~30節は、人間がいかに罪に陥りうるか、そしてそれでもなおイエス様がどこまで私たちを愛してくださるかを端的に示す。イエス様は足を洗う行為とパンを渡す行為を通じて、愛をもって懇願され、「今すぐしなさい」と語られたときも、冷たく追い払おうとされたのではなく、「これ以上どうしようもない」という無念さがにじむものだった。ユダはこの愛を誤解し、拒み、外へと出て行き、その道は二度と主のもとへ戻れない道となった。しかし、この暗い夜の出来事を起点として十字架への道が開かれ、十字架を通して私たちは救いの恵みを得ることになった。これは皮肉でありながら、同時に神の超越的な摂理でもある。 張ダビデ牧師がこの本文を説教する際、特に強調することの一つは、「私たちにも常にパン切れが差し出されている」という点だ。主は御言葉や礼拝、聖餐、祈り、さまざまな共同体の交わりを通して、絶えず私たちに近づいてこられる。しかし私たちがそのパン切れを受け取るたびに、それを主の愛として受け入れて心を開くのか、それとも形だけ受け取って「夜」へ向かい立ち去るのかを決断することになる。信仰とは頭で知る知識ではなく、今この瞬間に私の心で主をお迎えする具体的行為だからである。 したがって、この言葉に接するとき、私たちはただユダを責めるのではなく、「ユダの姿が自分の中にも潜んでいないか」を吟味しつつ、同時に「それでもなお最後まで私たちをあきらめない主の愛」に感謝する心で臨まねばならない。悔い改める道が開かれているとは、なんと大きく素晴らしい恵みだろうか。主は私たちみんなに「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れること、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れることでもある」という言葉を与えられ、父なる神とつながる救いの道を大きく開いておられる。にもかかわらず、もし私たちの心が世俗的価値観に染まって振り返らないならば、いつでもユダの轍を踏む危険性が潜んでいる。 張ダビデ牧師は、このような結論に至る。「私たちの中にある貪欲と高慢、そして頑なさは、キリストの十字架の前でしか砕かれない。しかし、もし十字架を信じて愛を受け入れるなら、その瞬間からはもう『夜』に出て行く必要がなくなる。闇から光へ、裏切りから従順へ、死から命へ移されるのが福音の力なのだ」。それゆえ、私たちがすべきことは、パン切れを差し出してくださる主の御手の前に、へりくだってひれ伏すことである。そして、たとえすでに外へ出て行ってしまったかのような罪悪感を抱えていても、ペトロのように泣いて悔い改め、復活の主のもとに立ち返る道がなお開かれていることを認識することだ。ユダが最後まで逃してしまったこの悔い改めの機会が、生きている私たちにはまだ与えられている。 結局、ヨハネ13章20~30節は、「ユダがいかに闇へと出て行き、イエス様が彼をどれほど最後までつなぎとめようとされたか」を示すと同時に、「私たちにもどのような選択の機会があるのか」を厳しく問う御言葉である。「ユダはその一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。すると、すでに夜であった」。この一句は、聖書全体の中でも最も悲劇的な文章の一つであるが、そこから私たちが受け取る教訓と警告、そして反面教師としての意義は計りしれない。もし私たちが真にこの御言葉を黙想するなら、心の内に小さな裏切りの種が芽生えてはいないかと点検するようになり、もしすでに芽が出てしまっているなら、すぐに抜き去って悔い改めねばならないと痛感させられる。また主は最後まで私たちを見放されないという愛の約束をしっかりと捉えるようになる。 ゆえにこの本文は、裁きと恵みが交錯する現場であり、愛と憎しみが同時に現れる場所であり、しかも主の強制的な愛ではなく「人格的な招き」とは何かを示す代表的な例だと言える。張ダビデ牧師は「私たちが今生きて息をしていること、教会共同体の中で礼拝と御言葉を聞いているという事実自体が、ちょうど過越の晩餐でパン切れを受け取るようなものだ」とたとえる。このパン切れを受け取った後、私たちはいったいどの道を選ぶのか。主はいつも私たちの歪んだ道を真っ直ぐにし得る力をお持ちであり、そこへ私たちを招いてくださる。しかし最終的に「立ち返るのか、拒絶して出て行ってしまうのか」は私たち個々の決断にかかっている。聖霊は私たちの心を動かし、悔い改めへと向かわせてくださるが、それでもなお拒み続けることがあり得るという事実は、ユダの事件を通して痛切に明らかにされている。 こうした文脈で張ダビデ牧師は、「聖徒となるとは、日々主の御前で自分を砕き、主の御心に従うよう努める生き方なのだ」と力説する。信仰生活は一瞬の決心で完了するのではなく、毎日のように主の招きに応じるか拒むかを繰り返す過程である。ある日突然ユダのようになる人はいないが、ある日突然ペトロのように悔い改めて変わることも難しい。ひたすら毎瞬、受け入れと従順を繰り返しながら、夜ではなく昼の道、闇ではなく光の道、裏切りではなく献身の道へと進むのが聖徒の生き方だ。そしてその道の上で、私たちはいつも十字架の恵みと復活の希望にすがるようになる。ヨハネ13章が描く背景にこめられた愛、痛み、裏切り、勧め、悔い改め、栄光のモチーフが、まさに私たちの生活にも絶えず続いているゆえである。 まとめると、ヨハネ13章20~30節は、イエス様の最後の晩餐の状況とユダの裏切りが交錯する最も緊迫した場面の一つだ。「ユダはその一切れのパンを受け取るとすぐに出て行った。すると、すでに夜であった」というヨハネ福音書の記述は、単なる時刻の示唆を超え、霊的な闇へと踏み込んだユダの最終的決断を強く暗示する。張ダビデ牧師は、この本文によって、神の愛が人間の自由意志を抑圧せず、最後まで招かれる様子と、その招きを拒むことで恐るべき破局に陥る人間の罪深い頑なさの両方を見ることができると語る。さらに私たちも、同じ警告を自らの鏡とし、日々主の御前で悔い改めて、裏切りではなく献身を選ばなければならない、と教える。これこそが「今も生きている十字架の福音が、私たちに新しい命の機会を開いている」という真理であり、同時に「最後の最後まで私たちをあきらめない主の愛」を生き生きと示すメッセージでもある。果たして私たちはパン切れを受け取ったあと、どの道へ進むのか。この問いの前で、ユダのように最後まで背を向けて闇へと消え去るのではなく、ペトロのように悔い改めて再び主のもとに戻り、復活の朝を共に迎えるという、恵みに満ちた結末を選ぶことを目指したい。そして、その道へと導いてくださる方こそ、私たちの救い主イエス・キリストであると、張ダビデ牧師をはじめ多くの説教者が繰り返し強調しているのである。 www.davidjang.org