霊的戦い – 張ダビデ牧師

はじめに エペソ人への手紙6章12節には「わたしたちの格闘は血肉に対するものではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊に対するものです」とあります。この箇所は、クリスチャンが霊的戦いに臨むうえでの視点の基盤かつ核心であり、張ダビデ牧師は多くの説教や講義を通して、この御言葉の意味と具体的な適用法を強調してきました。 目に見えない世界が実在し、そこには悪魔が率いる組織的な悪の勢力があること、そしてすべての聖徒が彼らと格闘しなければならないという事実が、この本文に明確に示されています。パウロは、問題の根源を血肉や目に見える対立·問題だけに限定してはならないと指摘しているので、私たちは「目に見えない敵」の正体と、彼らが私たちの生活に及ぼす影響力を正確に把握する必要があります。もし霊的実体に対する認識が不足していれば、問題の根を正しく扱えず、人間的なレベルの対立にとどまってしまいます。 ゆえに「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」について正しく理解することが肝要です。また、すでに勝利を宣言なさったイエス·キリストの権威のもと、いかにして全身の武具を身に着け、霊的戦いで実際的な勝利を収めるかも重要な課題です。エペソ書は、教会のアイデンティティと使命が何か、そしてなぜ聖徒がこの戦いに大胆に立つべきかを、教理的にも実践的にも明らかに示しています。 張ダビデ牧師が多くの現場の説教で繰り返し強調するように、霊的戦いを正しく理解しなければ、教会がなぜ地上に存在しなければならないのかという核心を見失い、世と悪魔の策略に容易に揺さぶられることになります。本稿では、張ダビデ牧師の教えを主要なキーワードとして、エペソ書6章12節を中心に大きく二つのテーマを扱います。第一に、霊的戦いと「支配と権威」に対する正しい理解について論じ、第二に、平和の福音と全身の武具を通して得られる霊的勝利を深く考察します。これら二つのテーマを通じて、教会と聖徒がなぜこの戦いを避けられないのか、そしてすでに成し遂げられたキリストの勝利をどのように自らの生活に具体的に適用していけるのか、洞察を得られることでしょう。 第1部 霊的戦いと「支配と権威」に対する正しい理解 エペソ書6章12節でパウロは、人間が経験する葛藤や問題が単なる人間レベルを超えるものであることを明言しています。私たちの戦いの相手は人間そのものではなく、その背後にある霊的権勢なのです。張ダビデ牧師は、この御言葉を教会に与えられた「霊眼(霊の目)」だとたとえ、「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」という四つの異なる表現に着目すべきだと説きます。パウロが一つの節の中であえて四つの表現を用いているのは、当時すでに悪霊の組織的な活動が具体的に知られていたことを示唆しているのです。 まず「支配」と「権威」について考察すると、「支配」(ギリシア語のアルケー, Archē)は「始まり」「根源」を意味するとともに、支配者や首領を指す言葉でもあります。これはルシファーをはじめとする最上位の悪霊を指すとされ、ヨハネの黙示録12章7節以下で天から追い出された「昔の蛇」や「大きな竜」がまさにこれを代表する存在だといえます。彼は堕落前には天使長の地位にあったと推測され、黙示録は彼が天から落とされて地上を惑わしている姿を描写しています。 「権威」(エクスシア, Exousia)は、「支配」の下で統治権を実際に行使する勢力であり、実務的な指揮や攻撃を担当する存在といえます。もしサタンが総司令官であるなら、この「権威」に属する悪霊たちは将校や参謀に相当すると考えられるでしょう。彼らは世に降りて社会·政治·文化全般に干渉し、「空中の権威」をとらえて罪と暗闇へと人々を誘導します。 続く「この暗闇の世界の支配者たち」という表現は、ギリシア語の「コスモクラトール(cosmocrator)」が使われており、世界を支配する者たちを意味します。張ダビデ牧師は彼らを「目に見えない暗黒組織が世の制度や権力者と結託し、大きな影響を及ぼす存在」と説明し、歴史上の大量虐殺や反人道的犯罪が単に人間の力や残酷さだけで起こったのではないと指摘します。普通では想像しがたい規模の悪行が行われる背景には、このような霊的勢力の働きがあるというのです。世界各地で起こる戦争、民族浄化、組織的犯罪、常軌を逸した暴力事件などは、人間の罪性も原因ですが、その罪性を巧みに操る悪の組織がさらに大きな要因として働いているといえます。 また「天にいる悪の霊たち」という表現は、一般的に思い浮かべる「神がいる天国」ではなく、エペソ書2章2節に描かれる「空中の権威を持つ者が活動している領域」と理解すべきです。これは神の国の完全な栄光に満ちた領域ではなく、サタンと配下の悪霊が現実的に活動する中間的な霊的領域を指します。張ダビデ牧師は「この天にいる悪の霊たち」が世界中の都市や国家、さまざまな領域に入り込み、人々を無知と不従順へと導くと述べつつ、たとえ神の子どもがすでに救われていても、彼らとの格闘が依然として必要な理由を強調します。私たちはイエスの勝利にあずかっているものの、サタンの勢力は最後の審判まであがき続けるため、教会は霊的に常に目を覚ましていなければならないのです。 悪魔は実際に知能と組織力を持ち、私たちがこれを知らず警戒しなければ、簡単に太刀打ちできなくなるおそれがあります。霊的無知こそが悪霊たちにとって最も好都合だからです。暗闇の勢力をまったく認識していない人々は、彼らが張り巡らす惑わしや策略にそのまま巻き込まれ、霊的に鈍感になっていきます。しかし、私たちには天と地のあらゆる権威を持つキリストのうちにあるという確信があるので、イエス様がすでに勝利されたことを踏まえれば、教会は悪魔とその組織を恐れる必要はありません。むしろ大胆に彼らと対峙し、制圧し、束縛された魂を解放していく立場にあるのです。 「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」を正確に見極めることは、祈りや宣教、福音伝道、教会活動全般に大きな影響をもたらします。私たちはただ人の行いだけを見て怒ったり落胆したりするのではなく、その背後にある「目に見えない敵」を正しく識別することで、祈りと福音の力による効果的な戦いを可能にするのです。もし教会がここを軽視すれば、世の文化や政治の権力に対して守勢にまわるばかりで、元来持っている霊的権威を失いかねません。ゆえに聖徒はこの事実を深く胸に刻み、聖書の教えに基づいた霊的戦いの戦略を立てることが必要です。 では、具体的にどうすればこの霊的戦いで勝利できるのでしょうか。張ダビデ牧師は「エペソ書6章でパウロが提示した全身の武具を正確に理解し、実際に身に着けること」が霊的戦いの肝要だと強調します。パウロは単に理論的に「悪霊の存在を知れ」と言うのではなく、きわめて具体的な対処法を示しているのです。もし6章12節が「支配と権威」の正体を明らかにする御言葉だとすれば、6章10〜18節は、その正体に対抗する教会の武装状態を示す御言葉といえます。次の章では、この全身の武具を構成する要素を詳しく確認したうえで、平和の福音と祈りによっていかに実際的な勝利を収めるかを探っていきます。 第2部 平和の福音と全身の武具を通した霊的勝利 エペソ書6章10〜18節は「神の全身の武具」として広く知られる箇所です。パウロはここで、悪魔の策略に十分打ち勝つために必ず身に着けるべき霊的武装を六つ挙げ、最後に祈りを勧めています。張ダビデ牧師は、これを「霊的戦いにおいて必須の兵器リスト」と呼び、昔も今も全世代の教会がこの武具をもって悪しき勢力に対抗しなければならないと語ります。 はじめに「真理の帯」ですが、古代の戦士がだぶついた衣を締めるために腰帯をしっかりと結んだように、聖徒も真理によって動揺せずに立つ必要があります。聖書の語る真理とはイエス·キリストご自身とそのみことば、つまり福音のことです。「わたしが道であり、真理であり、命である」と語られたイエス様の宣言がその証拠となります。悪霊の第一の攻撃はいつも偽りなので、聖徒が真理を知らなければ、たやすくサタンの攻撃に巻き込まれてしまいます。張ダビデ牧師は、真理の帯を身に着けるには、みことばと福音を自分の生活全体を支える中心軸とする必要があると指摘します。 次に「義の胸当て」は、胸を守る鎧に相当します。聖書が教える義は、私たち自身が成し遂げたのではなく、イエス·キリストの十字架によって与えられた恵みの義です。サタンは「おまえは罪人だ、資格がない」といった罪責感の矢を放ちますが、私たちがキリストの義を着せられた者として堂々と立つなら、その攻撃は貫通しません。張ダビデ牧師は、義の胸当てを装着した者は単に罪責から解放されるだけでなく、神の義を慕い、日常生活で聖と公義を行う志を持つようになると説きます。このようにキリストの義で武装すれば、どんな罪責感の誘惑や偽りの策略にも揺さぶられずにすむのです。 三つ目の「平和の福音の靴」は、福音を携えて積極的に踏み出すことを象徴しています。パウロはローマ書10章15節で「福音を宣べ伝える人々の足が何と美しいことか」と述べていますが、それは足が福音を世界へと広める手段であることを意味しています。張ダビデ牧師は「全身の武具は守勢の防御だけでなく、靴を履いて前進するように、教会は福音で攻勢的に世を征服すべきだ」と強調します。しかもそれは平和の福音の靴なので、私たちの「戦い」は世の暴力的な戦争とは異なり、愛と平和のメッセージで人々の心を変え、真の自由と解放をもたらすものなのです。 四つ目の「信仰の盾」は、悪魔が放つ火矢を防ぎ消す強力な武器です。聖書は「信仰の盾をもって悪い者の放つすべての火矢を消し去ることができる」と言いますが、これはサタンが投げかける疑いや不安、怒り、貪欲などの思いが、信仰の確信の前では無力化されることを意味しています。張ダビデ牧師は、この盾が個人の信仰だけでなく、教会共同体としての信仰も指す可能性があると説きます。ローマ軍が盾を互いに連結して敵の矢の雨をしのいだように、教会全体がともに信仰を合わせて助け合うなら、どんな霊的攻撃も突破できないというわけです。 五つ目の「救いのかぶと」は頭を守ります。頭は思考と認識の中心で、サタンがいの一番に揺さぶりたい部分です。もし聖徒が「自分は本当に救われているのだろうか」という疑いに捕らわれてしまえば、心も日常生活も弱まってしまいます。しかし「救いのかぶと」をかぶる者は、イエス·キリストが成し遂げられた救いを確信し、神がご自分の子どもとしてくださった事実をはっきり認識します。だからこそサタンがどんなに偽りで攻撃してきても、救いの確信は揺らがないのです。 六つ目の「御霊の剣」、すなわち神のみことばは、全身の武具の中で唯一攻撃的な性格を持つ武器です。イエス様が荒野でサタンの誘惑を「書いてある」とのみことばで退けられたように、私たちはみことばを知り、それを活用するほどに悪魔に対抗できます。張ダビデ牧師は「聖霊の照らしによって理解·宣言されるみことばだけが、人の魂を突き動かし、世界を変える力を発揮する」と語っています。このみことばを武装した教会は、人々に真理といのちを宣言し、悔い改めと新生を促します。 パウロはこれら六つの武装に加えて、最後に「あらゆる祈りと願いをもって目を覚ましていなさい」と勧めています。張ダビデ牧師は、これを「全身の武具に真の生命力を与える原動力」と呼び、「祈りのない全身の武具は多くの場合、頭の中の知識にとどまる」と指摘します。教会が全身の武具を整えていても、祈りを軽んじれば、戦闘で武器を使いこなせない兵士と同様です。祈りは「神が与えてくださる権威」を現実に引き下ろす通路であり、霊的な戦場で正確に敵を識別して攻撃するためのレーダーの役割も果たします。 結局、「平和の福音」と「全身の武具」による霊的勝利は、教会と聖徒のアイデンティティを改めて認識することから始まります。教会はすでにあらゆる支配と権威の上に高められたキリストのからだであり、サタンの勢力が教会を最終的に打ち負かすことはできません。問題は、聖徒がこの事実をどれほど信じ、行動に移すかにかかっており、全身の武具を身に着けて実際に戦うことを恐れてはいけません。張ダビデ牧師は「教会が世の真っ只中で守勢ではなく攻勢に出て福音を伝えるとき、暗闇の領域は光の前で敗北を味わうことになる」と述べます。銃や剣ではなく、イエス·キリストの平和と愛が導く福音によって、教会が足を踏み入れるあらゆる所を聖霊の支配下に取り戻すことこそ、霊的戦いの最終目的なのです。 この霊的戦いは、人を憎んだり敵視したりするものではなく、むしろ罪と暗闇の束縛から人々を解放することに主眼があります。だからこそ、福音の靴を履いて踏み出す聖徒は恐れではなく大胆さを持ち、以前は「敵」と思えた人々さえ悔い改めと変革に導かれる可能性があると確信します。これこそ教会が地上に存在する重要な理由であり、エペソ書全体が語る教会の高い召しとも一致しています。 結論的な適用 エペソ書6章12節は、単に「悪魔がいる」と指摘するだけでなく、「私たちの戦いは血肉ではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊たちに向けられるのだ」という実践的な行動を促しています。張ダビデ牧師は、この点を繰り返し強調し、霊的世界を知らないままでは世の問題の根本を解決できないと説いてきました。あらゆる問題の背後には罪と不従順、そして悪霊の介入が存在するため、聖徒は見えない敵に意識的に祈りとみことばで立ち向かわなければならないのです。 キリストがすでに勝利を宣言された以上、私たちは悪魔を恐れる必要も、敗北主義に陥る必要もありません。むしろキリストのからだである教会が全身の武具を完全に身に着けるとき、世の至る所に潜む暗闇の勢力は弱体化し、あるいは崩れ去ります。教会が光を放てば暗闇が退くように、私たちが真理と義、平和と信仰、救いとみことばにより、攻撃と防御のバランスを整えれば、どんな霊的攻撃ももはや脅威ではありません。 教会は共にこの武具を保ち、互いのために祈る必要があります。エペソ書6章18節が「あらゆる祈りと願いによって絶えず目をさまし、すべての聖徒のために祈れ」と続くことは象徴的です。全身の武具は個人で装備するだけではなく、軍隊全体が一緒に武装してこそ最大の効果を発揮します。教会が祈りとみことばのうちに連帯し、互いの弱さを補い合い、長所を生かし合うなら、大きな霊的戦いのただ中でも揺るがされることはありません。 霊的戦いはこの地上での私たちの生全般にわたります。具体的には、礼拝、宣教、救済、奉仕、社会参加など、多様なかたちで表れます。聖徒は日ごとに「信仰の盾」を取り、「福音の靴」を履き、「救いのかぶと」で思考を守り、「御霊の剣」であるみことばを宣言するべきです。日々の暮らしの中で悪魔の偽りを退け、隣人にイエスの愛を伝え、不義と混乱がはびこる場所に神の公義と秩序を確立していくことこそ、霊的戦いの実際的な様相なのです。 張ダビデ牧師は、多くの宣教·教会活動の現場でこの原理が適用されるとき、一見ゆっくりしたように見えても着実かつ確実な変化が起こると証ししています。教会が霊的戦いの本質を理解し、福音と祈りで武装すると、家庭が回復し、中毒が解放され、地域社会の福音化などの奇跡が可能になるのです。教会内に渦巻く対立や憎しみさえも「私たちの戦いは血肉ではない」という真実を改めて認めることで、本来の秩序を取り戻し、悪魔の入り込む隙を根本から断つことができます。 こうしてエペソ書6章12節と6章10〜18節の示すところをしっかりと受け止めるべきです。私たちがこのみことばの光の中で霊的戦いの現実と全身の武具の実践を日々黙想するとき、教会はますます強くなり、暗闇は後退していきます。教会が目を覚ましている限り、この暗闇の世界の支配者や天にいる悪の霊たちは好き勝手に振る舞えません。キリストはすでに勝利を成し遂げられ、教会はその勝利を「信仰を通して」現実社会に適用していく使命を負っているのです。 神の全身の武具を着て霊的戦いを歩む姿勢は、決して受け身や恐れに駆られて後退するものではありません。むしろ平和の福音を「靴」として世の隅々へと出て行き、信仰の盾で共同体を守り合い、御霊の剣のみことばを宣言して闇の権勢を打ち砕くという能動的な行動です。こうして福音の平和で武装した聖徒は決して挫折しません。イエス·キリストの御名によってすでに与えられているこの権威を私たちが受け取り、適用しさえすれば、霊的戦いにおいて真の勝利を体験できるのです。 しめくくりの祈り(例) 愛する天の父なる神様、エペソ書6章12節の御言葉によって、私たちの戦いが血肉ではなく、支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊たちに対するものであると示してくださり、ありがとうございます。霊的世界を正しく認識できるように導き、悪魔の組織的·体系的な悪の勢力の前にあっても恐れず、主がすでに取られた勝利に参加できるよう願います。 あなたがくださる全身の武具を着るよう私たちを導き、真理と義、平和の福音、信仰、救い、みことばによって私たちを強くしてください。何より、祈りを通して御霊のうちに常に目覚めておらせてください。教会が互いのために祈り合うとき、暗闇の勢力が崩れ去るのを自分たちの目で見られるように助けてください。世のただ中で福音の靴を履いて前進し、悪霊に縛られている多くの魂を解放する教会とならせてください。 エペソ書全体が示す教会の召しと栄光を思い起こしつつ、主の再臨の日まで信仰をもって力強く戦い抜くことができますように。すべてを成し遂げられたイエス·キリストの御名によって祈ります。アーメン。 要約と勧め 霊的戦いとは、血肉ではなく、その背後にある「支配と権威、この暗闇の世界の支配者たち、天にいる悪の霊たち」と戦うことを指します。イエス·キリストはすでに十字架と復活を通して悪魔とその勢力の権威を打ち砕かれ、教会にその勝利を実際に享受する特権を与えられました。私たちに求められるのは、この霊的事実を信じ受け取り、全身の武具を身に着けて祈りに目覚め、多くの捕らわれた人々を解放し、暗闇を光へと追い払うことです。 真理の帯、義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の盾、救いのかぶと、そして御霊の剣である神のみことば、さらにあらゆる祈りと願いで武装した教会は決して敗北しません。張ダビデ牧師は、この御言葉に基づく生き方こそ教会の使命であり、聖徒にとっての勝利の鍵だと繰り返し説いており、実際に多くの宣教の現場で暗闇の力が退けられた証が生じています。だからこそ私たちも、与えられた権威をもって霊的戦いに臨み、この世界に平和の福音を広げるべきです。イエス様が送り出された場所で、悪魔の偽りと対峙し、人々を自由といのちへ導く戦いをやめないとき、教会は地上でいっそう輝く光となるでしょう。 私たち一人ひとりがこの教えと御言葉を握り、日々の生活で全身の武具を装着した霊的戦士として歩むことを願います。イエス·キリストの御名によって始まったこの戦いは、すでに主が勝利を得られた戦いです。私たちは復活の力に支えられて大胆に進むべきです。そうするとき、神の御国が私たちの家庭や人生、さらには地域と諸国に及び、教会を通して世にいっそう明るい光がもたらされると信じます。

Spiritual Warfare – Pastor David Jang

Introduction Ephesians 6:12 proclaims, “For our struggle is not against flesh and blood, but against the rulers, against the authorities, against the cosmic powers of this darkness, and against the spiritual forces of evil in the heavenly realms.” This passage serves as both the foundation and the heart of the Christian perspective on spiritual warfare. … Read more

Guerra Espiritual – Pastor David Jang

Introducción Efesios 6:12 declara: “Porque nuestra lucha no es contra sangre y carne, sino contra principados, contra potestades, contra los gobernadores de las tinieblas de este siglo, contra huestes espirituales de maldad en las regiones celestes”. Este pasaje constituye la base y el centro de la perspectiva cristiana sobre la guerra espiritual. El pastor David … Read more

영적전쟁 – 장재형(장다윗)목사

서론 에베소서 6장 12절의 말씀은 “우리의 씨름은 혈과 육에 대한 것이 아니요, 정사와 권세와 이 어두움의 세상 주관자들과 하늘에 있는 악의 영들에게대함이라”라고 말한다. 이 구절은 그리스도인들이 영적 전쟁을 대하는 관점의 기초이자 핵심이며, 장재형 목사는 여러 설교와 강의를 통해 이 말씀의의미와 실제적 적용 방법을 강조해 왔다. 보이지 않는 세계가 실제로 존재하며, 그 세계에는 마귀가 이끄는 조직적인 악의 세력이 있고, 모든 성도는이들과 더불어 씨름해야 한다는 사실이 본문에 분명하게 드러난다. 문제의 근원을 단순히 인간의 혈과 육, 눈에 보이는 갈등과 문제로만 제한해서는안 된다는 점을 바울이 명료하게 지적했기 때문에, 우리는 “보이지 않는 적”의 정체와 그들이 우리 삶에 미치는 영향력을 정확히 파악해야 한다. 이영적 실체에 대한 인식이 부족하면, 우리는 문제의 뿌리를 제대로 다루지 못하고 인간적인 수준의 대립에만 그치게 된다. 그러므로 정사와 권세, 이어두움의 세상 주관자들과 하늘에 있는 악의 영들에 관한 바른 이해가 필요하다. 또한, 이미 승리를 선언하신 예수 그리스도의 권세 아래 어떻게전신갑주를 입고 영적 싸움에서 실제적인 승리를 거둘 수 있는가 하는 점 역시 중요한 과제다. 에베소서는 교회의 정체성과 사명이 무엇인지, 성도가왜 이 싸움에서 담대히 서야 하는지를 교리적으로나 실천적으로 명확하게 설명해 준다. 장재형 목사가 여러 현장 설교에서 역설하듯, 영적 전쟁을올바로 이해하지 않으면 교회는 왜 이 땅에 존재해야 하는지를 놓치고, 세상과 마귀의 계략에 쉽게 흔들릴 수밖에 없다. 본 글에서는 장재형 목사의가르침을 핵심 키워드로 삼아, 에베소서 6장 12절 말씀을 중심으로 크게 두 가지 주제를 다루고자 한다. 첫째, 영적 전쟁과 정사와 권세에 대한바른 이해에 대해서 논의한다. 둘째, 평안의 복음과 전신갑주를 통한 영적 승리에 대해서 심도 있게 살펴본다. 이 두 주제를 통해 교회와 성도가 왜이 싸움을 피할 수 없으며, 어떻게 이미 이루신 그리스도의 승리를 우리 삶 속에 적용할 수 있는지 구체적인 통찰을 얻을 수 있을 것이다. 제1부. 영적 전쟁과 정사와 권세에 대한 바른 이해 에베소서 6장 12절에서 바울은 사람이 겪는 갈등이나 문제가 단순한 인간적 차원을 넘어서는 것이라고 분명히 말한다. 우리가 싸워야 할 대상은인간이 아니라, 그들의 배후에 있는 영적 권세자들이라는 사실이다. 장재형 목사는 이 말씀이 교회에 주어진 ‘영안(靈眼)’과 같다고 설명하면서, 이구절에 기록된 “정사와 권세, 이 어두움의 세상 주관자들, 하늘에 있는 악의 영들”을 분류해 주목할 필요가 있다고 말한다. 바울이 한 구절 안에 네가지 서로 다른 표현을 썼다는 것은, 그의 시대에도 악령들의 조직적 활동이 매우 구체적으로 알려져 있었다는 것을 의미한다. 정사와 권세에 대해서 말하자면, 헬라어 원어로 정사(아르헤, Archē)는 ‘시작’이나 ‘근원’을 의미하면서 동시에 통치자 혹은 우두머리라는 뜻을갖는다. 이는 곧 루시퍼를 비롯한 최고위 악령의 존재를 가리킨다고 할 수 있는데, 요한계시록 12장 7절 이하에서 하늘에서 쫓겨난 “옛 뱀”이자 “큰용”이 바로 이 정사를 대표하는 존재다. 그는 타락하기 전에 천사장의 위치에 있었다고 추정되며, 계시록은 그가 하늘에서 떨어져 온 땅을 꾀는 자가되었음을 묘사한다. 권세(엑소usia, Exousia)는 통치권을 실제로 행사하는 세력으로, 정사 아래에서 실무적인 지휘와 공격을 담당하는 것에가깝다. 사탄이 대장군 격이라면 권세들은 장교나 참모들처럼 볼 수 있다. 이들은 실제로 세상에 내려와 인간의 사회·정치·문화 전반에 영향을미치고, 공중 권세를 잡고 죄와 어둠으로 사람들을 몰아넣는다. 이 어두움의 세상 주관자들이라는 말은 “코스모크라토르(cosmocrator)”라는 단어로 표현되는데, 이는 세상을 통치하거나 지배하는 자들을의미한다. 장재형 목사는 이들을 “보이지 않는 어둠의 조직이 세상 제도와 권력자들에게 결탁해 심대한 영향을 끼친다”라고 설명하며, 역사 속의대량학살이나 반인륜적 범죄가 단순히 인간의 힘이나 잔인함만으로 일어난 것이 아님을 지적한다. 사람으로서는 감히 상상하기 어려운 악행을 대규모로벌이는 데에는 이 영적 세력의 힘이 크게 작동한다. 전 세계 각지에서 벌어진 전쟁, 인종 청소, 조직적 범죄, 기괴한 폭력 사건 등은 인간이 가진죄성도 원인이지만, 그 죄성을 철저히 조종하는 악의 조직 또한 원인으로 작용한다는 것이다. 하늘에 있는 악의 영들이라는 표현은 우리가 흔히 “하나님이 계신 곳으로서의 천국”을 떠올리면 안 되며, 에베소서 2장 2절에서 설명된 “공중 권세잡은 자가 역사하는 영역”으로 이해해야 한다. 이는 곧 하나님 나라의 완전한 영광이 임한 영역이 아니라, 사탄과 그 부하 악령들이 현실적으로활동하는 중간적 영적 공간이다. 장재형 목사는 “이 하늘에 있는 악의 영들”이 전 세계의 도시나 국가, 여러 영역에 침투해 사람들을 무지와불순종으로 이끈다고 말하며, 하나님의 자녀가 이미 구원받았음에도 이들과의 씨름이 여전히 필요한 이유를 강조한다. 우리가 예수님의 승리에참여했음에도, 아직 사탄의 세력은 최후의 심판 전까지 발악적으로 활동하고 있기 때문에, 교회는 영적으로 깨어 있어야 한다. 마귀는 실제로 지능과 조직력을 갖추고 있으며, 성도들이 이를 알고 경계하지 않으면 쉽게 속수무책으로 당할 수 있다. 영적 무지를 악령들이 가장좋아한다는 점을 기억해야 한다. 어둠의 세력을 전혀 모르는 사람들은 이들이 펼치는 미혹과 계략에 그대로 휘말리고, 영적으로 둔감해진다. 그러나우리는 하늘과 땅 모든 권세를 가지신 그리스도 안에서 이길 수 있는 권세가 있음을 확신해야 한다. 예수님께서 이미 승리하셨기에, 그 승리에참여한 교회는 마귀와 그의 조직에 대해 두려워할 필요가 없으며, 오히려 담대히 맞서 싸워 그들을 제압하고 결박된 영혼을 해방시킬 수 있는 위치에있다. 정사와 권세, 이 어두움의 세상 주관자들과 하늘에 있는 악의 영들을 정확히 인식하는 것은 기도와 선교, 복음 전파, 교회 사역 전반에 결정적인영향을 미친다. 우리가 단지 사람의 행위만 보고 분노하거나 절망하는 것이 아니라, 그 뒤에 있는 “보이지 않는 적”을 제대로 식별할 때, 기도와복음의 능력으로 더 효과적인 싸움을 할 수 있다. 특히 교회가 이 부분을 소홀히 다룬다면, 세상의 문화나 정치 권력 앞에서 수세적으로만대응하다가 본연의 영적 권세를 상실할 수 있다. 그러므로 성도가 이 사실을 마음 깊이 새기고, 영적 전쟁의 전략을 성경대로 세워나가는 것이필요하다. 그렇다면 어떻게 이 영적 전쟁에서 승리할 수 있을까. 장재형 (장다윗)목사는 “에베소서 6장에서 바울이 제시한 전신갑주를 제대로 이해하고 실제로취하는 것”이 영적 전쟁의 핵심 열쇠라고 역설한다. 바울은 단지 이론적인 차원에서 “악령의 존재를 알라”라고 말하지 않고, 아주 구체적인 대응방법을 제시하기 때문이다. 에베소서 6장 12절이 정사와 권세의 실체를 밝히는 말씀이라면, 6장 10~18절 전체는 그 실체와 맞서는 교회의 무장상태를 보여주는 말씀이다. 우리는 다음 장에서 전신갑주의 구성을 자세히 살펴본 뒤, 평안의 복음과 기도를 통해 어떻게 실제적인 승리를 거둘 수있는지를 짚어볼 것이다. 제2부. 평안의 복음과 전신갑주를 통한 영적 승리 에베소서 6장 10~18절은 “하나님의 전신갑주”로 잘 알려진 본문이다. 바울은 여기에서 마귀의 궤계를 넉넉히 이기기 위해 성도가 반드시 취해야 할영적 무장 상태를 여섯 가지로 설명하고, 마지막으로 기도를 당부한다. 장재형 목사는 이것을 “영적 전쟁에서 필수적인 병기 목록”이라고 표현하며, 예나 지금이나 모든 세대의 교회가 이 무장으로 악한 세력을 대적해야 한다고 강조한다. 먼저 진리의 허리띠에 대해 말하자면, 고대 전사들이 헐렁한 옷자락을 고정하기 위해 허리띠를 단단히 매듯, 성도도 진리로 무장하여 흔들림 없이서야 한다. 성경이 말하는 진리란 예수 그리스도 자신과 그분의 말씀이며, 곧 복음이기도 하다. “나는 길이요 진리요 생명이라”라고 하신 예수님의선언이 이를 증명한다. 악령의 첫 번째 공격 수단은 늘 거짓말이며, 성도가 진리를 모른 채 살아가면 사탄의 공격에 휘말리기 쉽다. 장재형 목사는진리의 허리띠를 지니려면, 말씀과 복음이 우리의 삶 전체를 지탱하는 중심축이 되어야 한다고 말한다. 두 번째인 의의 흉배는 흉갑으로서 우리 가슴을 보호하는 장비에 해당한다. 성경에서 말하는 의는 우리 자신이 만든 것이 아니라, 예수 그리스도의십자가로 말미암아 주어진 은혜의 의다. 사탄은 종종 “너는 죄인이다, 자격이 없다”라는 정죄의 화살을 날리지만, 우리가 그리스도의 의로 옷 입은자임을 알고 떳떳이 서면 마귀의 공격이 관통하지 못한다. 장재형 목사는 의의 흉배를 붙인 사람은 단지 정죄에서 면제되는 차원을 넘어, 하나님의의를 사모하고, 삶 속에서 거룩과 공의를 실천하는 마음을 품게 된다고 말한다. 이렇게 그리스도의 의로 무장하면, 마귀의 어떤 죄책감 유발이나거짓 음모에도 흔들리지 않을 수 있다. 세 번째 평안의 복음의 신은 복음을 향한 적극적인 움직임을 상징한다. 바울은 로마서 10장 15절에서 “복음을 전하는 자들의 발이 어찌 그리아름다운가”라고 언급했고, 이는 발이 곧 복음을 세상에 확장하는 매개가 됨을 뜻한다. 장재형 목사는 “전신갑주는 수세적인 방어만을 말하지 않는다. 발을 신어서 앞으로 나아가듯, 교회는 복음으로 공세적으로 세상을 점령해야 한다”라고 역설한다. 이 신이 평안의 복음이기 때문에, 우리가 나아가는전쟁은 일반 세상의 폭력적 전쟁과 달리, 사랑과 평화의 메시지를 통해 사람들의 마음을 변화시키고 진정한 자유와 해방을 선물하는 전쟁이다. 네 번째 믿음의 방패는 마귀가 쏘는 불화살을 막아내는 강력한 무기다. 성경은 “믿음의 방패로 악한 자의 모든 불화살을 소멸할 수 있다”라고말하는데, 이는 사탄이 만들어 내는 의심, 불안, 분노, 탐심 등의 생각들이 믿음의 확신 앞에서 무력해짐을 시사한다. 장재형 목사는 이 방패가개인의 믿음뿐 아니라 교회 공동체적 믿음을 상징한다고도 설명한다. 로마 군대가 방패를 서로 연결해 적의 화살 비를 막아냈듯, 교회가 함께믿음으로 뭉쳐 서로를 지원할 때 그 어떤 영적 공격도 뚫고 들어오기 어렵다는 것이다. 다섯 번째 구원의 투구는 머리를 보호하는 역할을 한다. 머리는 생각과 인식의 중심이며, 사탄이 가장 먼저 흔들고 싶어 하는 지점이기도 하다. 성도들이 “내가 정말 구원받은 것인가”라는 의심에 사로잡히면 마음과 생활 전반이 약해진다. 구원의 투구를 쓴 사람은 예수 그리스도께서 이루신구원을 단단히 믿고, 하나님이 나를 자녀로 삼으셨음을 분명하게 인식한다. 그래서 사탄이 어떤 거짓말로 공격해 와도, 구원의 확신을 잃지 않는다. 여섯 번째로 성령의 검, 곧 하나님의 말씀은 전신갑주 중에서 유일하게 공격적인 무기 성격을 지닌다. 예수님이 광야에서 사탄의 유혹을“기록되었으되”라는 말씀으로 물리치셨듯, 우리는 말씀을 아는 만큼 마귀를 대적할 수 있다. 장재형 목사는 성령의 조명으로 이해하고 선포되는말씀만이 영혼을 뚫고 세상을 움직이는 힘을 발휘한다고 말한다. 이 말씀을 무장한 교회는 사람들에게 진리와 생명을 선포하며, 회개와 거듭남을일으킨다. 바울은 여섯 가지 무장 외에 마지막으로 모든 기도와 간구를 통해 깨어 있으라고 당부한다. 장재형 목사는 이를 전신갑주에 진정한 생동력을 부여하는동력이라 부르며, “기도 없이 전신갑주는 대개 머릿속 지식에 그치고 만다”라고 지적한다. 교회가 전신갑주를 갖추되 기도를 소홀히 하면 실전에서무기를 활용하지 못하는 군사와 다를 바 없다는 것이다. 기도는 곧 “하나님이 주시는 권세”를 현실로 끌어당기는 통로이자, 영적 전쟁터에서 정확히적을 식별하고 공격하도록 돕는 레이더 역할을 한다. 결국 평안의 복음과 전신갑주를 통한 영적 승리는 교회와 성도의 정체성을 새롭게 인식하는 데서 출발한다. 교회는 이미 모든 정사와 권세 위에 높여주신 그리스도의 몸이기에, 사탄의 세력이 교회를 결국 이길 수 없다. 문제는 성도들이 이 사실을 얼마나 믿고 취하는가에 달려 있으며, 전신갑주를입고 실제로 싸우기를 두려워하지 않아야 한다. 장재형 목사는 “교회가 세상 한복판에서 수세적이 아니라 공세적으로 복음을 전할 때, 어두운 영역은빛 앞에서 패배를 경험하게 된다”라고 말한다. 총칼이 아니라 예수 그리스도의 평안과 사랑이 이끄는 복음으로, 교회가 밟는 모든 땅을 성령의 통치아래로 가져오는 것이 영적 전쟁의 궁극적 목적이다. 이 영적 전쟁은 결코 사람을 미워하거나 적으로 삼는 것이 아니라, 오히려 사람을 죄와 어둠의 결박에서 자유케 하는 것이다. 그렇기에 복음의신발을 신고 나아가는 성도는 두려움 대신 담대함을 갖게 되고, 원수라 여겨지던 사람들조차 회개와 변화의 길로 인도받을 수 있음을 확신한다. 이는교회가 이 땅에 존재하는 중요한 이유이며, 에베소서 전체가 말하는 교회의 높은 부르심과도 일맥상통한다. 결론적 적용 에베소서 6장 12절 말씀은 단순히 “마귀가 있다”라는 지적 수준을 넘어, “우리의 싸움은 혈과 육이 아니라 정사와 권세, 이 어두움의 세상주관자들과 하늘에 있는 악의 영들을 향해야 한다”는 구체적 실천을 촉구한다. 장재형 목사는 이 부분을 거듭 강조하면서, 영적 세계를 모르는상태로는 결코 세상 문제의 근본 뿌리를 해결할 수 없다는 점을 알려 주고자 한다. 모든 문제 뒤에 있는 죄와 불순종, 악령의 개입이 분명히존재하기에, 성도는 보이지 않는 적을 향해 의식적으로 기도하고 말씀으로 나아가야 한다. 그리스도께서 이미 승리를 선포하신 이상, 우리는 마귀를 두려워하거나 패배주의에 빠질 필요가 없다. 오히려 그리스도의 몸인 교회가 전신갑주로완전히 무장할 때, 세상 곳곳에 침투해 있는 어둠의 세력은 약화되거나 무너진다. 교회가 빛을 발하면 어둠이 물러가듯이, 우리가 진리와 의, 평안과믿음, 구원과 말씀으로 영적 공격과 방어를 균형 있게 갖추면, 어떤 영적 공격도 더는 강력하지 못하다. 교회는 함께 이 무장 상태를 유지하면서, 서로를 위해 기도해야 한다. 에베소서 6장 18절에 “모든 기도와 간구로 깨어 구하기를 항상 힘쓰라”라고하며 “모든 성도를 위하여 구하라”라는 구절이 붙어 있다. 전신갑주는 개인적 무장이기도 하지만, 군대 전체가 함께 무장해야 최상의 효과를 낸다. 교회가 기도와 말씀 안에서 연합하여, 서로의 약점을 보완하고 장점을 살려 준다면, 거대한 영적 전쟁 가운데서도 흔들리지 않는다. 영적 전쟁은 이 땅에서의 삶 전체를 포함한다. 구체적으로는 예배, 선교, 구제, 봉사, 사회 참여 등 다양한 모습으로 나타난다. 성도들은 날마다믿음의 방패를 들고, 복음의 신을 신고, 구원의 투구로 생각을 지키며, 성령의 검인 말씀을 선포해야 한다. 우리의 일상에서 마귀의 거짓을물리치고, 이웃에게 예수님의 사랑을 전하며, 불의와 혼돈의 현장에 하나님의 공의와 질서를 세워 가는 모든 것이 영적 전쟁의 실제적 양상이다. 장재형 목사는 많은 사역 현장에서 실제로 이러한 원리가 적용될 때, 더딘 것 같아 보여도 점진적이고도 확실한 변화가 일어난다고 증언한다. 교회가영적 전쟁의 본질을 깨닫고 복음과 기도로 무장하면, 가정이 회복되고, 중독에서 벗어나며, 지역 사회가 복음화되는 역사가 가능해진다. 교회 안에덮인 갈등이나 미움마저도 “우리의 싸움이 혈과 육이 아니다”라는 사실을 다시 기억할 때 제 자리를 찾게 되며, 마귀의 틈타는 계략을 문틈부터차단할 수 있다. 그러므로 에베소서 6장 12절과 6장 10~18절이 제시하는 바를 온전히 취해야 한다. 우리 모두가 이 말씀의 빛 안에서, 영적 전쟁의 현실과전신갑주의 실제를 날마다 묵상할 때, 교회는 더욱 강해지고 어둠은 물러간다. 교회가 깨어 있을 때, 어둠의 세상 주관자들과 하늘에 있는 악의영들은 더는 임의로 역사할 수 없다. 그리스도께서 이미 승리를 이루셨고, 교회는 그 승리를 “믿음으로” 현실 세계에 적용해 나가는 사명을 맡았다. 하나님의 전신갑주를 입고 영적 전쟁을 치르는 삶은 결코 수동적이거나 두려워하며 뒤로 물러나는 모습이 아니다. 오히려 평안의 복음을 신발 삼아세상 구석구석으로 달려나가고, 믿음의 방패로 공동체를 함께 지키며, 성령의 검인 말씀을 선포하여 흑암의 권세를 무너뜨리는 행동이 된다. 그렇게복음의 평안으로 무장한 성도는 결코 실패하지 않는다. 예수 그리스도의 이름 안에서 이미 주어진 이 권세를 우리가 받아들여 적용하기만 하면, 영적싸움에서 참된 승리를 경험하게 된다. 마무리 기도문 예시 사랑의 하나님 아버지, 에베소서 6장 12절 말씀을 통해 우리의 싸움이 혈과 육이 아닌 정사와 권세, 이 어두움의 세상 주관자들과 하늘에 있는악의 영들에 대한 것임을 깨닫게 하시니 감사합니다. 영적 세계를 바로 인식하여, 마귀가 역사하는 조직적이고 체계적인 악의 세력 앞에서 결코두려워하지 않고, 주님이 이미 이기신 싸움에 참여하길 원합니다. 하나님이 주신 전신갑주로 무장하도록 우리를 인도하시고, 진리와 의, 평안의복음, 믿음, 구원, 말씀을 통해 강건해지는 은혜를 허락하여 주옵소서. 무엇보다 기도를 통해 성령 안에서 깨어 있게 하시고, 교회 공동체가 서로를위해 구할 때, 어둠의 세력이 무너지는 것을 우리 눈으로 보게 해 주옵소서. 세상 한복판에서도 복음의 신발을 신고 나아가며, 악한 영들의 결박속에 있던 이들을 해방시키는 교회가 되게 인도해 주옵소서. 에베소서 전체가 보여주는 교회의 부르심과 영광을 기억하며, 주님 다시 오실 그날까지믿음으로 당당히 싸우게 해 주옵소서. 모든 것을 이루신 예수 그리스도의 이름으로 기도합니다. 아멘. 요약과 권면 영적 전쟁은 혈과 육이 아닌 배후의 정사와 권세, 어두움의 세상 주관자들, 하늘에 있는 악의 영들과의 싸움을 의미한다. 예수 그리스도께서는 이미십자가와 부활로 마귀와 그 세력의 권세를 깨뜨리셨으며, 교회는 그 승리를 실제적으로 누릴 특권을 부여받았다. 우리의 역할은 이 영적 사실을 믿고취하여, 전신갑주로 무장하고 기도로 깨어서 수많은 결박된 자들을 자유케 하며, 어둠을 빛으로 몰아내는 것이다. 진리의 허리띠, 의의 흉배, 평안의복음의 신, 믿음의 방패, 구원의 투구, 성령의 검인 말씀, 그리고 모든 기도와 간구로 무장한 교회는 결코 패배하지 않는다. 장재형 목사는 이말씀을 적용하는 삶이 곧 교회의 사명이자 성도의 승리 열쇠라고 역설해 왔으며, 실제로 수많은 사역 현장에서 어둠의 세력이 물러가는 간증이일어나고 있다. 그렇기에 우리도 주어진 권세로써 영적 전쟁에 뛰어들어, 온 세상에 평안의 복음을 펼쳐 나가야 한다. 예수님이 보내신 그 땅에서, 마귀의 거짓을 대적하고, 자유와 생명으로 사람들을 이끄는 전투를 멈추지 않을 때, 교회는 이 땅에서 더욱 견고한 빛이 될 것이다. 우리 모두가 이 가르침과 말씀을 붙들고, 일상 속에서부터 전신갑주를 장착한 영적 군사로 살아가길 소망한다. 예수 그리스도의 이름으로 시작된 이싸움은 그분이 이미 이겨 두신 싸움이므로, 우리는 부활의 능력 안에서 담대히 나아가야 한다. 그리할 때, 하나님의 나라가 우리의 가정과 삶, 그리고 지역과 열방에 임하고, 교회를 통해 더 밝은 빛이 세상에 드러날 것을 믿는다

마게도냐교회의 헌신 – 장재형목사

고린도후서 8-9장에 제시된 마게도냐 교회의 연보 정신과 빌립보 교회의 헌신적 사례를 중심으로, 복음이 현실 속에서 구현될 때 나타나는 교회 공동체의 본질적 특징을 고찰하고자 한다. 바울 사도가 극심한 가난 가운데도 넘치는 기쁨으로 자신들의 소유를 내어놓은 마게도냐 교회들을 언급한 대목은, 단순한 재정 지원을 넘어 복음적 삶의 역동적 실현을 보여주는 의미심장한 장면이다. 이러한 헌신은 복음 공동체가 교리적 지식이나 … Read more

GDR 연습 5번째, 어프로치 피니쉬 모습 – 싱글 무자격자

오늘은 60도 웨지로 50미터, 56도 웨지로 60미터, 52도 웨지로 70미터를 쳤다. 물론 캐리거리이다. 지난 번 글에도 언급했듯이 나는 어프로치로 스윙을 해서 50-90미터까지는 60도, 56도 52도 웨지를 가지고 1단 2단 3단의 스윙 스피드를 생각하면서 친다. 나는 참고로 싱글 무자격자이다.

부활절이 지나고 다시 사순절 40일 묵상 – 십자가의 길 (장재형 목사)

부활절은 보름 전이었다. 부활절로 사순절은 끝이 났다. 그러나 그 때 내가 했던 묵상을 다시 되짚어보고 있다. 장재형 목사의 사순절 묵상집 십자가의 길은 이번 사순절에도 내게 큰 묵상 주제들을 던져주었다. 매년 어떻게 내가 바뀌었는가 재확인하고, 말씀에 비춰 나를 돌아보게 된다. https://blog.naver.com/noothername01/223327354682 곧 사순절 기간이다. 개신교에서는 예수님이 십자가에서 수난을 당하시고 부활하시기 전까지 약 40일간의 기간 동안 예수님의 … Read more

골프 어프로치 40~90미터 보내는 방법 – 무자격자의 정보! + 싱글연습

나는 보키 SM8 60,56,52도의 웨지를 가지고 있다. – 아래 거리는 캐리거리다 내가 위에 말한 40~90 미터 거리의 어프로치를 보내는 방법을 난 올해 정확하게 터득했다. 이렇게 저렇게 해도 저 거리를 보내는 걸 알 수 없었다 그런데 올해 독학으로 터득한 것이니 참고만하시길 우선 백스윙의 기본 내용부터 말한다. 백스윙은 골프 스윙의 중요한 요소 중 하나이며, 올바른 백스윙 기술은 … Read more

골프 싱글이 되려면 – 5년차 무자격자의 조언

오늘은 무자격자 입장에서 골프 싱글까지 어떻게 하는지 이야기해보고자 한다. 나의 일은 주로 사람을 네트웍하는 일이다. 모 대기업 회장의 아들이 tv에 나와서 자신은 사람을 네트웍하는 회사를 운영한다고 했을 때 ‘세상에 참 쓸데 없는 일도 한다’라고 폄하했던 적이 있다. 그런데 내가 지금 그런 일을 하고 있다. 그분의 혜안에 존경을 보낸다. 다단계에 대해 잘 모르니까 뭐라 할수 없지만 … Read more