Le Salut Par La Foi – Pasteur David Jang

1. La nature de la foi et l’importance du chapitre 3 de l’Épître aux Galates Comprendre correctement le chapitre 3 de l’Épître aux Galates équivaut à saisir la clé qui donne accès à l’ensemble de cette épître. En effet, l’apôtre Paul y emploie le terme “foi” pas moins de quatorze fois. La relation entre la … Read more

因信得救——张大卫牧师

1. 信心的本质与加拉太书第3章的重要性 如果能够正确理解《加拉太书》第3章,那么就等于掌握了理解整卷《加拉太书》的核心钥匙。因为在这一章里,使徒保罗一共提到了14次“信心”这一词汇。律法与信心的关系,以及不仅限于以色列民族,而是包括外邦人在内的普遍性救恩特质,都在《加拉太书》第3章中集中展现。从宗教改革时期开始,《加拉太书》就获得了“自由的福音”这一别称,它之所以能够如此有力地宣告自由、恩典与信心,背后正是因为第3章中蕴含了使徒保罗的核心教导。 张大卫牧师在数十年间,于韩国及世界各地传扬福音时,一直向陷于律法主义而忽视救恩本质的人们强调《加拉太书》第3章的核心信息。尤其是“因信称义”的真理,也就是“以信得义”,应当成为最重要的教义,他对此反复宣讲。这与“外邦人也不是靠律法,而是靠信心得救”——这一基于耶路撒冷大会(《使徒行传》第15章)并被教会共同确认的真理,在本质上是一脉相承的。 实际上,在耶路撒冷大会当时,所总结的福音重点正是“因着信心得救”的救恩本质,同时也再一次确认了“靠律法无法使人脱离罪和死亡”的真理。犹太主义者(或称假教师)认为,“如果不接受割礼,不遵守律法,就不可能得到完整的救恩”,但使徒彼得、保罗、雅各等在大会中声明,割礼或某些礼仪规定绝不能成为救恩的必备条件。“唯有恩典、唯有信心而得称义”自初代教会起就成为基督教最重要的救恩论核心,而《加拉太书》第3章则清晰地呈现了这一核心。 保罗在整卷《加拉太书》中都在表明自己所传的福音意味着什么,并且要证明它与耶路撒冷的众使徒所认同的福音完全一致。这个福音就是“救恩并非通过律法得来,而是唯独靠信主耶稣基督而获得”。这样的教导引发了众多犹太主义假教师的反对,但保罗在《加拉太书》第3章中最直接地处理了这一问题。 保罗目睹了假教师潜入教会,散布“即使信了耶稣,也必须守律法,而且要行割礼,才能进入完全的救恩”之类的煽动。加拉太的信徒中有些人,原本已因恩典和信心获得自由,却又重新被“律法化的宗教性”所捆绑。所以在第3章第1节,保罗直接责备道:“无知的加拉太人哪!”他们已经通过耶稣基督的十字架之事看到了通往救恩的唯一道路,却仍然想要跟随别的福音。保罗厉声质问:“耶稣基督钉十字架的事已经活画在你们眼前,谁又迷惑了你们?”对今日教会而言,这同样是一个必须警醒的严厉提醒。 张大卫牧师也多次在讲道、演讲和文字事工中强调:“《加拉太书》第3章的焦点就在于十字架与复活,以及藉着信心所获得之救恩的确据。”他一再教导,律法固然能让人看见自己的罪、并让人意识到自己无法自救,但律法本身并不能解决罪的问题。这正是圣经所昭示的真理。耶稣在十字架上担当了所有的咒诅和罪债,从根本上解决了律法所揭示的罪的问题,而宣扬这一事实就是“福音”。我们所要做的就是“凭信心领受”这福音——这才是基督教救恩的本质。 “信心”这个词在信仰生活中常听常用,但《加拉太书》第3章对“信心”的定义与意义有着更深入的探讨:到底信心是什么?它是如何运行的?为何可以因信称义?保罗甚至以旧约(尤其是亚伯拉罕)为例加以说明。其内涵大致包括以下几方面: 在《加拉太书》第3章里,保罗围绕这个主题进行了最清晰且具说服力的阐述。因此,若教会要牢牢抓住救恩论的核心真理,就必须守住《加拉太书》第3章所教导的内容。张大卫牧师指出,“当今仍有不少信徒只是头脑上明白‘因信得救’,却无法将其真正落实在生活中。”他遗憾地提到,“许多人仍被律法、规条、教会中的传统,或社会文化标准等所束缚,常常先自我定罪,然后也彼此定罪”,因此一直呼吁教会要重新恢复保罗所宣扬的“自由的福音”。 最终,《加拉太书》第3章透过对比“信心”与“律法”这两大轴心,向我们揭示“唯有藉信心才得称义”的普遍且终极真理。“无知的加拉太人哪!”——保罗如此严厉的口吻并非仅仅在斥责,而是在迫切呼吁“不要再被律法的枷锁捆住”。如今我们也应当聆听保罗的呼喊,在恩典里享受真自由。 2. 亚伯拉罕的信心、与律法主义的冲突,以及保罗的论证 在《加拉太书》第3章开头,保罗发出“你们领受圣灵,是因行律法呢,还是因听信福音呢?”(参《加拉太书》3:2)这一疑问,目的是让加拉太教会的信徒回想他们已切身经历过圣灵。如果他们已经经历了圣灵的同在,就很清楚这并不是靠律法或仪式获得,而是因对耶稣基督福音的信心而得的。无论是属灵恩赐的经历、重生的体验,还是说方言、预言等圣灵的工作,都不是因遵守律法而来,而是因相信了基督所成就的福音。 紧接着,保罗更进一步引用了旧约中最伟大的先祖之一——亚伯拉罕(参《加拉太书》3:6)。这是因为那些主张律法主义的假教师常常提到亚伯拉罕,认为“我们的祖先亚伯拉罕是因割礼与遵守律法而蒙上帝悦纳的”。然而事实是,亚伯拉罕得称为义是在他“信神的时候”,神就以此算他为义(参《创世记》15:6),这是先于他接受割礼的事件。张大卫牧师也常在各类讲道与圣经解经中引用《创世记》12章到17章所记载的亚伯拉罕生平,反复提醒:“在亚伯拉罕受割礼之前,他已经得到了神所赐的称义。” 割礼的记载出现在《创世记》第17章。也就是说,《创世记》15章6节“亚伯兰信耶和华,耶和华就以此为他的义”这句话,是在“割礼”被引入之前宣告的。至于律法——也就是摩西五经中具体的条文,则比亚伯拉罕所处的时代晚了430年才颁布(参《加拉太书》3:17)。因此亚伯拉罕之所以得称为义,绝不可能是因为律法或割礼。他是因着顺服(参《希伯来书》11:8“他因信蒙召的时候,就遵命出去,往将来要得为业的地方去”),得着“应许之地”和“天上众星般的后裔”的应许;他信神、听从命令,离开本地本族,因而被视为义。 保罗在其他地方称此为“他未受割礼的时候所蒙的称义”(参《罗马书》4:9-10)。也就是说,“因信称义”是在前,割礼不过是印证这个称义的记号。《罗马书》第4章与《加拉太书》第3章在许多经文上是平行的。在《罗马书》第4章,保罗提到了“在不做工的情况下,神却算他为义的人是有福的”,并与大卫的告白相连(参《罗马书》4:6-8),最后总结:亚伯拉罕得以称义完全是因为他的信心,而不是任何行为。 张大卫牧师特别强调《罗马书》和《加拉太书》之间的这一对应结构:通过理解《加拉太书》第3章,可以更深入地明白《罗马书》第4-5章;而对《罗马书》的透彻理解,又能让《加拉太书》第3章更为清晰。这一切都源于《哈巴谷书》2章4节中“义人必因信得生”这一旧约根基,并构成新约救恩论的核心主线(参《加拉太书》3:11;《罗马书》1:17)。 外邦人也能同样承受这种恩典的事实,正体现在保罗宣告“亚伯拉罕成为所有信徒的祖宗”(参《加拉太书》3:7;《罗马书》4:11-12)之中。对于一直以来只把亚伯拉罕当作“他们自己民族祖先”的犹太人而言,保罗的宣告是极大的冲击。然而其福音的逻辑是清晰的: 在《加拉太书》第3章10-12节,保罗直言:“凡以行律法为本的,都在咒诅之下”(引自《申命记》27:26)。因为没有人能够完美地守全律法(参《罗马书》3:10)。律法反倒更明确地显露人的罪,使人加深罪疚与被定罪的感觉。保罗在《哥林多前书》15章56节说过:“死的毒钩就是罪,罪的权势就是律法。”意思是说,律法并不能解决罪的问题,反而使罪更加清晰可见。故此,若有人打算通过律法得称义,最终只会留在咒诅之下,无法得到救恩。 然而在《加拉太书》第3章13-14节,我们看到,“基督既为我们受了咒诅,就赎出我们脱离了律法的咒诅”,这是清楚的宣告。耶稣钉在十字架上,“挂在木头上”的人被视为受咒诅(参《申命记》21:23),他亲身担当了这份律法所带来的咒诅,从而使我们脱离了罪与死亡、咒诅的权势,并得以凭信心领受圣灵的应许。张大卫牧师在讲道时常总结:“既然十字架已经替我们偿清了罪债,我们所能作的就是相信这一事实,凭信心接受。”当我们因信得称义后,就在圣灵的带领下,逐步迈向“成圣”的道路。 《加拉太书》第3章的教导,对今日教会内时常出现的律法主义倾向——即“教会法规、传统、仪式与敬拜形式,或特定道德规范的遵守是得救所不可或缺的条件”——构成了强有力的驳斥。当然,包括张大卫牧师在内的正统神学家都不会鼓吹“废弃律法”或“鄙视道德”。恰恰相反,基督信仰对伦理与爱有着更高的要求。只不过,这些都绝非得救的前提。因基督已替我们成就了救恩,我们只需跟随他的恩典而顺服福音,在圣灵里甘心乐意地行善。这才是在与律法主义截然不同的层次上,“践行”与“成全”律法的真正方式。 因此,在《加拉太书》第3章里,保罗通过极具逻辑性、且建立在圣经解经基础上的辩证,全盘推翻了假教师所散布的“唯有通过行割礼和守律法才能得救”的论调。核心就在于:“连亚伯拉罕都不是凭律法得称义,更何况那些未行割礼的外邦人?他们也能因信得救。”并且,在基督里我们成为一体,都被接在亚伯拉罕的属灵后裔当中。 3. 在基督里的自由、圣灵的工作,以及当今的应用 之所以称《加拉太书》为“自由的福音”,并不是指脱离律法之后就可以放纵,而是指“脱离罪与死的权势而获得的福音自由”。在第3章后段(尤其是3:23-25),保罗说道:“但这因信得救的理还未来以前,我们被看守在律法之下,直圈到那将来的真道显明出来。”也就是说,律法是把我们引向神的“启蒙导师”(《加拉太书》3:24),它能让我们认识罪,却没有从根本上救赎罪的能力。唯有借着耶稣基督的十字架与复活,我们才摆脱了律法的枷锁和咒诅,进入“信心的自由”之中。 因此,围绕《加拉太书》第3章,保罗给出的结论非常明确:“我们不是靠行律法得救,而是藉着信心得救;现在我们已经领受了圣灵作为恩赐,并靠圣灵所赐的能力和果子而生活。”这就是保罗所说的“福音的大能”,而圣灵在坚固我们的称义(Justification)之余,也带领我们进一步走向成圣(Sanctification)。张大卫牧师在他的牧会与讲道中,也常常提及当信徒因信接受圣灵的内住与带领时,如何在个人生命和教会群体中带来翻天覆地的改变。耶稣基督在十字架上为我们开辟了救恩的道路,并已一次性完成了救赎,而其果效则在圣灵的工作中不断在我们心中成长。 保罗所谓的“情欲”和“圣灵”相争,在《加拉太书》第5章中有更详细的讨论,但实际上从第3章就已透出端倪——他说我们曾“被看守在律法之下”,意指我们天然的本性仍受罪性所辖制,单靠律法仅能让我们看见罪,却无法自我切断罪。然而当圣灵降临,我们便获得了胜过罪的力量(参《罗马书》第8章)。律法从外部指责罪,而圣灵则从内里更新我们,使我们活出与“称义”之名相称的生活。正如张大卫牧师所言:“真正经历圣灵同在的信徒,不再只盯着各种规则和禁止条款来过信仰生活,而是因着恩典获得自由,并将这自由用于行善、爱人。”这与律法主义大相径庭,是在圣灵里甘心乐意地遵行神的心意。 由此可见,《加拉太书》第3章的核心可概括为: 这份真理为何如此重要?因为在我们日常的属灵实践中,常常会在“律法”与“恩典”间感到困惑。我们虽已得救,却仍会产生“若我未能好好遵守某些规范,救恩是否会被取消?”的恐惧,或是以为必须靠我的努力与善行才配得神的悦纳。然而,当我们想起《加拉太书》第3章以及《使徒行传》第15章耶路撒冷大会的决定,就会再次抓住“唯独恩典、唯独信心”这基督教救恩论的标志。 张大卫牧师也警告:“当教会陷入律法主义之时,使灵魂得自由的福音大能就会被削弱,人与人之间彼此定罪,只追求外在形式的敬虔。”但相反地,“若牢牢持守真正的福音,信徒就会在圣灵的能力中结出善果,彼此服事,并能积极且有能力地胜过罪。”这正是“自由的福音”,也是藉《加拉太书》第3章圣灵向教会呼唤的信息。 今天我们所要传扬的福音,正是这一信息:耶稣基督钉十字架,为我们而死,凡信的人都能得称为义。正如亚伯拉罕因信得称义,我们也因信基督的福音而得称义,并在圣灵的内住中活出新生命。这就是“因信得救”(以信得义)这一简单而明确的真理。 最后,彼得使徒曾劝勉:“要常作准备,以温柔敬畏的心回答各人,给他们说明你们心中盼望的缘由”(参《彼得前书》3:15)。因此,我们需要对《加拉太书》第3章所提示的信心定义、律法的局限,以及耶稣基督的十字架与复活带来的救恩大能有清晰的认识。这些认知就是支撑我们信仰不至动摇的根基,也成为我们向不认识主的人传扬不变福音的信息来源。张大卫牧师数十年如一日地藉着各种讲道、著述、门徒训练等,一直提醒众人:“当一个人抓住这福音时,一切障碍都会被拆除,不论何种宗教枷锁都不再束缚他,他会真正经历到自由。” 最终,《加拉太书》第3章向我们发问:“你们领受圣灵,是因行律法呢?还是因听信福音呢?”然后给出答案:“是因信心领受的,也是因信心得以称义。”这是我们的宣告,也是当进入我们生命的真理。惟愿我们都能因福音而得自由,在圣灵里不断成长,并在基督里彼此合一——这是《加拉太书》第3章对教会与信徒的呼唤,也是我们当坚持的看似简单却又深邃无比的信仰核心。

信仰による救い – 張ダビデ牧師

1. 信仰の本質とガラテヤ3章の重要性 ガラテヤ3章を正しく理解することは、ガラテヤ書全体を理解するための核心的な鍵を手に入れることと同じです。というのも、使徒パウロがこの章で「信仰」という言葉を14回も言及しているからです。律法と信仰の関係、さらにイスラエル民族だけでなく異邦人まで含む救いの普遍的な性格がガラテヤ3章に集約されています。ガラテヤ書が宗教改革の時代から「自由の福音」という別称を得るほど、自由と恵み、そして信仰を強力に宣言してきた背景には、まさにこの3章に込められた使徒パウロの核心的な教えが存在するのです。 張ダビデ牧師は数十年にわたり韓国および世界各地で福音を伝え、律法主義に陥って救いの本質を見失う人々に対して、このガラテヤ3章の核心メッセージを強調してきました。特に「信仰によって救いを得る」という事実、すなわち「以信得義(いしんとくぎ)」が最も重要な教理として定着しなければならないと繰り返し説いてきましたが、これは使徒行伝15章に記録されたエルサレム会議に基づき、教会が共有して合意した「異邦人も律法ではなく信仰によって救われる」という真理と同じ流れにあります。 実際、エルサレム会議で最終的に下された結論は、「信仰によって救いを受ける」という救いの本質を再確認するものでした。律法によっては罪と死から解放されないという真理を、改めて明らかにした決定だったのです。ユダヤ主義者(あるいは偽りの教師たち)は「割礼と律法の順守なしには救いが成立しない」と主張しましたが、使徒ペテロやパウロ、ヤコブらは会議を通して、割礼やその他多くの儀式的規定が救いの必須条件にはなり得ないことを宣言しました。「ただ恵みによって、信仰によって義とされる」という事実は、初代教会の時代からキリスト教における最も重要な救い論的核心となり、ガラテヤ3章はその中心を鮮明に示しているのです。 パウロはガラテヤ書全体を通じ、自分が伝えた福音がいかなる意味を持ち、エルサレムの使徒たちと一致している福音であることを証明しようとしています。その福音とは、「律法によってではなく、ただイエス・キリストを信じることで救いを得る」という内容です。この教えは多くのユダヤ主義的な偽教師たちの反発を招きましたが、パウロはガラテヤ3章で最も直接的にその問題を取り上げます。 パウロは偽教師たちが教会に侵入し、「イエスを信じても、律法を守らなければならず、割礼も受けなければ完全な救いに至れない」と扇動している現実を目撃しました。ガラテヤの信徒の中には、本来は恵みによって、信仰によって自由を得たはずなのに、再び「律法的な宗教性」に囚われてしまった人々がいました。そこで3章1節でパウロは「愚かなガラテヤ人たちよ!」と強い調子で叱責するのです。彼らはすでにイエス・キリストの十字架の出来事を通じて救いに至る唯一の道を見ていたのに、別の福音に流されようとしていました。「イエスが十字架につけられたことがあなたがたの目の前にはっきり示されているのに、だれがあなたがたを惑わしたのか」というパウロの厳しい一喝は、今日の教会が重く受け止めるべき重要な警告でもあります。 張ダビデ牧師も、幾度もの説教や講演、文書の働きを通じて「ガラテヤ3章の焦点は十字架と復活、そして信仰によって得る救いの確かさ」にあると強調しています。律法は罪を明らかにし、自力で救うことができないことを悟らせる役割を担いますが、律法によって罪が解決されるわけではないという聖書の真理を繰り返し教えてきました。イエスが十字架の上であらゆる呪いと罪の代価を負われることによって、律法が示す罪の問題を根本的に解決されたことこそが「福音」なのです。そしてその福音を「信仰によって受け入れる」ことが、キリスト教における救いの本質です。 「信仰」という言葉は、信仰生活の中でよく耳にする一般的な用語ですが、ガラテヤ3章はこの「信仰」の定義と意味を詳しく掘り下げています。果たして信仰とは何か、信仰はどのように機能するのか、なぜ信仰によって救いを得ることが可能なのかについて、旧約の例(特にアブラハム)を引き合いに出して論じているのです。これは次のような教えと密接につながっています。 ガラテヤ3章においてパウロは、この主題を最も論理的かつ力強く説明します。ゆえに教会が救い論の核心的真理を見失わないためには、ガラテヤ3章が教えるところを堅く守らなければなりません。張ダビデ牧師は「今日でも多くの信徒が『信仰によって救われること』を頭では知っていても、それが実際の生活につながらない場合が多い」と指摘します。「律法や規則、教会内の伝統、あるいは社会的・文化的な基準などに縛られ、自分自身を罪に定め、さらに他者まで裁く姿が繰り返されている」と嘆きつつ、パウロが語った「自由の福音」を教会の中で改めて回復すべきだと訴えてきました。 結局、ガラテヤ3章は「信仰」と「律法」という二つの大きな軸を対比しながら、ただ信仰によって義とされるという普遍的かつ究極的な真理を提示しています。「愚かなガラテヤ人たちよ!」というパウロの強い口調は、単なる叱責ではなく、「律法のくびきに再び囚われるな」という切実な訴えです。今日の私たちもパウロの叫びを思い起こし、恵みの中で真の自由を享受する者となるべきなのです。 2. アブラハムの信仰、律法主義との衝突、そしてパウロの論証 ガラテヤ3章の冒頭で、パウロが「あなたがたが御霊を受けたのは、律法の行いによってか、それとも聞いて信じたからか」(ガラ3:2)と問う箇所は、ガラテヤ教会の信徒たちがすでに聖霊を体験したことを想起させるためです。既に聖霊を受けたのであれば、救いは律法や儀式によってではなく「信仰」によってもたらされたという事実をよく知っているはずだからです。すなわち、彼らが賜物の体験をしたにせよ、生まれ変わりを経験したにせよ、あるいは異言や預言などの聖霊の働きを目撃したにせよ、それらは律法を守った結果ではなく、イエス・キリストの福音を信じた結果として起こったということを思い出せ、という意味です。 しかしここでパウロはさらに一歩進み、旧約聖書で最も偉大な先祖とされるアブラハムを引き合いに出します(ガラ3:6)。なぜなら、律法主義的な偽教師たちがしばしば強調する人物こそ、アブラハムだったからです。彼らは「私たちの祖アブラハムは、律法と割礼によって神に認められた」と考えていましたが、実際にはアブラハムが義とされたのは「神を信じたとき」であり、その信仰を神が義とみなされた出来事が先にあったのです(創15:6)。張ダビデ牧師も様々な説教や聖書解説で、創世記12章から17章まで連なるアブラハム物語を引用し、「アブラハムが割礼を受ける前にすでに神から義とみなされた時点があった」ということをしばしば喚起しています。 割礼は創世記17章に登場します。つまり、創世記15章6節「アブラムは主を信じた。それで主はそれを彼の義と認められた」という宣言は「割礼」が導入される前に与えられたものなのです。さらに、モーセ五書の具体的な律法としてまとめられる条項は、アブラハムが生きた時代から430年後に与えられたものです(ガラ3:17の言及)。したがって、アブラハムの義は律法や割礼によって得たものでは決してありません。彼は「従順」することで(ヘブライ11:8「行く先を知らずに出て行った」)、約束の地と「天の星のように数多い子孫」を約束され、「知らない地へ行け」という神の言葉を信じて義とされたのです。 パウロはこの原則を「彼が無割礼の時に受けた義」と呼びます(ロマ4:9-10)。つまり、信仰によって義とされた出来事が先にあり、割礼はその義を確認するしるしにすぎないということです。ローマ書4章もガラテヤ3章と平行する箇所が多く、そこでパウロは「何も行わなくても神によって義と認められる人の幸い」をダビデの告白と結びつけて語り(ロマ4:6-8)、アブラハムが義とされたのは行いによるのではなく、全くの「信仰」のゆえだという結論に至ります。 張ダビデ牧師は、このローマ書とガラテヤ書の関連性を特に強調しており、ガラテヤ3章を理解するとローマ書4~5章もさらに深く理解でき、逆にローマ書をよく理解すればガラテヤ3章がより明確になると述べています。それは「ただ義人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4、ガラ3:11、ロマ1:17)という旧約にその根を持つテーマであり、新約全体の救い論を形作る骨格です。 異邦人にも同じ恵みが与えられていることは、アブラハムが「すべての信じる者の父」となったというパウロの宣言(ガラ3:7、ロマ4:11-12)によって明確に示されます。旧約聖書においてアブラハムを自民族の祖先だと見なしてきたユダヤ人にとって、パウロの宣言は衝撃的でした。しかし彼が語る福音の論理はこうです。 ガラテヤ3章10節から12節においてパウロは「律法の行いに頼る者は皆、呪いの下にある」(申27:26の引用)とまで語ります。律法を完全に守りきれる人は一人もいないからです(ロマ3:10)。むしろ律法は罪をよりいっそう際立たせ、罪責と罪の宣告を強化します。パウロがコリント第一15章56節で「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と述べた時、それは律法が罪を解決するというよりは、罪の根拠をますますはっきり示す役割を担うという意味です。ゆえに律法によって義を得ようとする者は、決して救いに至ることはなく、むしろ呪いの下に留まることになります。 ところが、キリストが私たちの呪いを身代わりに負ってくださることで、律法の呪いから私たちを解放してくださったという事実が、ガラテヤ3章13~14節に宣言されています。「キリストは私たちのために呪われた者となって、律法の呪いから私たちを贖い出してくださいました」という御言葉です。イエスが十字架にかけられて死なれたことにより、「木にかけられた者は皆、神に呪われた者である」(申21:23)という律法上の規定さえご自分で負われました。その結果、私たちは罪と死と呪いの支配から解放され、信仰によって聖霊の約束を受けるようになったのです。張ダビデ牧師はこの箇所を、「十字架によってすべての罪の代価が支払われたゆえに、私たちに残されたことは、その事実を信じる信仰だけである」と要約します。そしてこのようにして義とされた私たちは、究極的に聖霊の導きのもと、漸進的な「聖化(せいか)」へと進んでいくのです。 このガラテヤ3章の教えは、現代の教会に繰り返し現れる律法主義的傾向、すなわち「教会法や伝統、儀式や礼拝形式、あるいは特定の倫理規範を守ることが救いの条件になる」というような主張に対する強力な反論となります。もちろん、張ダビデ牧師をはじめ正統的な神学者たちは「律法無用論や道徳の軽視」を唱えているのではありません。むしろキリスト教は、この世のどの宗教よりも高い倫理と愛を求めます。ただし、それらが救いの条件にはなり得ないということです。キリストがすでに救いを完成してくださったからこそ、私たちはその恵みに従って福音に服従し、聖霊のうちに喜んで善を行う者へと変えられていくべきです。これこそが、律法主義とはまったく異なる次元で律法を「履行」し「成就」する真の道なのです。 このようにパウロはガラテヤ3章で非常に論理的かつ聖書解釈に基づいた弁証を用い、偽教師たちが広める「割礼と律法の順守による救い論」を全面的に反駁します。核心は「アブラハムですら律法によらず信仰によって義とされたのだから、割礼のない異邦人であっても信仰によって救われる」という論証です。そしてキリストにあって私たちは一つとなり、その全員がアブラハムの霊的子孫となるのです。 3. キリストにある自由と聖霊の働き、そして今日への適用 ガラテヤ書を「自由の福音」と呼ぶ理由は、律法からの「放縦」を意味するのでは決してなく、「罪と死の力から自由にする福音」を指すからです。3章の後半(特に3:23~25)でパウロは「信仰が来る前、私たちは律法の下で閉じ込められ、やがて示される信仰の時まで監視下に置かれていました」と表現しています。このように律法は私たちを神へと導くための「養育係(モン学先生)」(ガラ3:24)であり、罪を自覚させこそすれ、罪を根本的に解決する力はありません。しかしイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちはこの律法のくびきと呪いから解放され、「信仰の自由」へと進むことができるようになったのです。 ゆえにガラテヤ3章を中心としたパウロの結論は明白です。「私たちは律法の行いではなく信仰によって救われた。今や聖霊を賜物として受け取り、聖霊が与えてくださる力と御霊の実によって生きる」。これこそがパウロの言う「福音の力」であり、聖霊は私たちの義認(Justification)を確固たるものとし、その次の段階である聖化(Sanctification)へ導いていきます。張ダビデ牧師の牧会と説教でも、信仰によっていただく聖霊の内住と導きが、いかに個人の生活と共同体を変革するかがたびたび取り上げられます。イエス・キリストの十字架による贖いは、すでに一度で完成された救いへの道を開き、その救いの効力は聖霊の働きの中で私たちのうちに継続的に成長していくのです。 パウロが言う「肉の欲」と「御霊の願い」の間の葛藤は、ガラテヤ5章でも詳しく取り上げられますが、実は3章からすでに「律法の下に閉じ込められていた」という表現を通して暗示されています。私たちの本性は依然として罪の性質を持つ肉体であるため、律法によって罪を自覚できても、自力で罪を断ち切る力はありません。けれども聖霊が臨まれると、罪を支配する力に打ち勝つことが可能になります(ロマ8章参照)。律法が外面的な規範として罪を指摘するのに対し、聖霊は内面から私たちを新たにし、「義とされた者」にふさわしい生き方へと導いてくださるのです。この点で張ダビデ牧師は「聖霊の臨在を体験した信徒は、もはや規則や禁制条項だけを見つめて信仰生活をするのではなく、むしろ恵みによって得た自由を善き目的と隣人への愛のために用いるようになる」と教えてきました。 結局、ガラテヤ3章が語る核心は次のように要約できます。 この真理がなぜ重要なのか。それは、私たちが日々の信仰生活の中で、「律法」と「恵み」のはざまで絶えず混乱するからです。すでに救われているにもかかわらず、ときに「与えられた規範を守れないなら救いが取り消されるのではないか」という恐れや、自分の努力や善行によってのみ神に認められようとする誤った習慣が、今も残り続けているからです。しかしガラテヤ3章と使徒行伝15章のエルサレム会議の決定を想起するとき、私たちは「ただ恵みによって」「ただ信仰によって」というキリスト教の救い論的な標識を改めてしっかりと握ることができます。 張ダビデ牧師は「教会が律法主義へ傾くと、魂を自由にする福音の力が弱まり、互いを裁き合い、形式的な敬虔さを追い求める共同体になってしまう」と警告します。さらに「一方で、真の福音を握るならば、信徒は聖霊の力の中で善い実を結び、他者に仕え、罪に打ち勝つ能動的かつ躍動的な生活を送るようになる」と強調します。こうした「自由の福音」こそが、ガラテヤ3章を通した聖霊の声なのです。 今日、私たちが伝えるべき福音もまさにこれです。イエス・キリストが十字架につけられて死なれたことによって、信じる者は誰でも義とされることができます。アブラハムが信仰によって義と認められたように、私たちもキリストの福音を信じるなら義とされ、聖霊の内住によって新しい生を歩むようになるのです。これは「信仰によって救いを得る(以信得義)」という単純でありながら明確な真理です。 最後に、使徒ペテロは「あなたがたのうちにある希望について、説明を求める人にはいつでも弁明できるように備えていなさい」(第一ペテロ3:15)と勧めています。私たちはガラテヤ3章が示す信仰の定義と律法の限界、そしてイエス・キリストの十字架と復活がもたらした救いの力を明確に理解しなければなりません。それが私たちの信仰を揺るぎないものとし、主を知らない人々にも変わらぬ福音のメッセージを伝える根拠となるのです。張ダビデ牧師は、この点を数十年にわたり多様な説教と著述、弟子訓練などを通して粘り強く呼び覚ましてきました。そして「この福音を握る者には、どんな障壁も取り除かれ、いかなる種類の宗教的な束縛からも解放され、真の自由を経験するようになる」という事実を常に教えてきました。 結局、ガラテヤ3章は私たちに問いかけます。「あなたがたはどのようにして御霊を受けたのか、律法の行いによってか、それとも信仰によってか」。そしてこう答えます。「信仰によって受け、信仰によって義とされるのだ」。これこそ私たちの告白であり、生活に反映されるべき真理です。福音のうちに自由を得て、聖霊のうちに成長し、キリストにあってさらに一つとなる教会と信徒となることを、ガラテヤ3章は私たちに求めています。それこそが、私たちが常に握りしめるべき、最も単純にして最も深遠な信仰の核心なのです。

Salvation Through Faith – Pastor David Jang

1. The Essence of Faith and the Importance of Galatians 3 Understanding Galatians chapter 3 correctly is akin to obtaining the key to interpreting the entire book of Galatians. This is because the Apostle Paul uses the word “faith” no fewer than fourteen times in this chapter. The relationship between law and faith, and the … Read more

La Salvación que Proviene de la Fe – Pastor David Jang

1. La naturaleza de la fe y la importancia de Gálatas 3 Comprender correctamente el capítulo 3 de la epístola a los Gálatas es como obtener la clave principal para entender toda la carta. El apóstol Pablo menciona la palabra “fe” catorce veces en este capítulo, enfatizando la relación entre la Ley y la fe, … Read more

믿음으로 말미암은 구원 – 장재형목사

1.  믿음의 본질과 갈라디아서 3장의 중요성 갈라디아서 3장을 제대로 이해한다는 것은 갈라디아서 전체를 이해하는 핵심 열쇠를 얻는 것과 같습니다. 사도 바울이 이장에서 “믿음”이라는 단어를 14번이나 언급하고 있기 때문입니다. 율법과 믿음의 관계, 또 이스라엘 민족만이 아니라이방인들까지 포함하는 구원의 보편적 성격이 갈라디아서 3장에 집약적으로 나타납니다. 갈라디아서가 종교개혁 시대부터‘자유의 복음’이라는 별칭을 얻었을 정도로 자유와 은혜, 그리고 믿음을 강력하게 선포하는 배경에는, 바로 이 3장에 담긴 사도바울의 핵심 가르침이 자리하고 있습니다. 장재형목사는 수십 년에 걸쳐 한국과 세계 여러 지역에서 복음을 전하며, 율법주의에 빠져 구원의 본질을 놓치는 이들을 향해갈라디아서 3장의 핵심 메시지를 강조해왔습니다. 특히 “믿음으로 말미암아 구원을 얻는다”는 사실, 즉 ‘이신득의(以信得義)’가가장 중요한 교리로 자리 잡아야 함을 반복해서 설파해 왔는데, 이는 예루살렘 회의(사도행전 15장)에 근거하여 교회가공통적으로 합의한 “이방인도 율법이 아니라 믿음으로 구원을 받는다”라는 진리와 동일한 맥락에 있습니다. 실제로 예루살렘 회의 때 결론 지어진 복음은 “믿음으로 말미암아 구원을 받는다”는 구원의 본질이었습니다. 율법으로는 죄와사망에서 벗어날 수 없다는 진리를 재확인한 결정이었습니다. 유대주의자(혹은 거짓 교사들)는 ‘할례’와 ‘율법의 준수’가 없이는구원이 성립될 수 없다고 주장했으나, 사도 베드로와 바울, 야고보 등은 회의를 통해 할례나 여러 의식적 규례가 구원의 필수조건이 될 수 없다고 선포했습니다. “오직 은혜로, 믿음으로 의롭다 함을 받는다”라는 사실은 초대교회 당시부터 기독교의 가장중요한 구원론적 핵심이 되었고, 갈라디아서 3장은 그 핵심을 명료하게 드러냅니다. 바울은 갈라디아서 전체에서 자신이 전한 복음이 어떤 의미이며, 예루살렘의 사도들과도 일치된 복음임을 입증하고자 합니다. 그 복음이란 “율법으로 말미암아 구원을 받지 않고, 오직 예수 그리스도를 믿음으로 구원을 얻는다”는 것입니다. 이런 가르침은다수의 유대주의 거짓 교사들로부터의 반발을 샀지만, 바울은 갈라디아서 3장에서 가장 직접적으로 그 문제를 다룹니다. 바울은 거짓 교사들이 교회 안에 침투해 “예수를 믿어도 율법을 지켜야 하고, 할례까지 받아야 온전한 구원에 이를 수 있다”고선동하는 현실을 목격했습니다. 갈라디아 교인들 가운데 일부는 원래 은혜로, 믿음으로 자유를 얻었으면서도 다시 ‘율법적인종교성’ 안에 갇혀버렸습니다. 그래서 3장 1절에서 바울은 “어리석도다 갈라디아 사람들아!”라고 강력하게 책망합니다. 그들은이미 예수 그리스도의 십자가 사건을 통해 구원에 이르는 유일한 길을 보았음에도, 다른 복음을 따르려는 모습이었습니다. “예수께서 십자가에 못박히신 것이 너희 눈앞에 밝히 보이거늘 누가 너희를 꾀더냐”라고 하는 바울의 호통은, 오늘날 교회가들여다봐야 할 중요한 경고이기도 합니다. 장재형목사 역시 여러 차례 설교와 강연, 문서 사역에서 “갈라디아서 3장의 초점은 십자가와 부활, 그리고 믿음으로 얻는구원의 확실성”이라는 점을 강조합니다. 율법이 죄를 보여주고, 스스로 구원할 수 없음을 깨닫게 하는 역할을 담당하지만, 율법으로 죄가 해결되지는 않는다는 성경적 진리를 되풀이해 가르칩니다. 예수께서 십자가 위에서 모든 저주와 죄값을담당하심으로써, 율법이 보여주는 죄의 문제를 근본적으로 해결하셨음을 선포하는 것이 바로 ‘복음’입니다. 그리고 그 복음을‘믿음으로 받아들이는 것’이 기독교 구원의 본질입니다. ‘믿음’이라는 말은 신앙생활에서 자주 듣는 흔한 용어지만, 갈라디아서 3장은 이 ‘믿음’의 정의와 의미를 자세히 파고듭니다. 과연 믿음이 무엇인지, 믿음은 어떻게 작동하는지, 믿음으로 말미암아 구원을 받는다는 것이 왜 가능한지에 대해 구약의예시(특히 아브라함)까지 들어가며 펼쳐 보이는 것입니다. 이는 다음과 같은 가르침과 맞닿아 있습니다. 즉, 갈라디아서 3장에서 바울은 이 주제를 가장 논리적이고 강력하게 설명합니다. 따라서 교회가 구원론의 핵심 진리를 놓치지않으려면 반드시 갈라디아서 3장이 가르치는 바를 사수해야 합니다. 장재형목사는 “오늘날에도 많은 성도들이 ‘믿음으로구원받는 것’을 머리로만 알지, 그것이 실제 삶으로 이어지지 못하는 경우가 많다”고 지적합니다. “율법이나 규례, 교회 내의전통, 혹은 사회적·문화적 기준 등에 매여 스스로를 정죄하고 더 나아가 다른 이들까지 정죄하는 모습이 되풀이된다”는안타까움을 토로하면서, 바울이 말한 ‘자유의 복음’을 다시금 교회 안에서 회복해야 한다고 촉구해 왔습니다. 결국, 갈라디아서 3장은 ‘믿음’과 ‘율법’이라는 두 가지 큰 축을 대조하여 보여주면서, 오직 믿음을 통해 의롭다 함을 얻는다는보편적·궁극적 진리를 제시합니다. “어리석도다 갈라디아 사람들아!”라는 바울의 강한 어조는, 단순한 질책이 아니라 ‘율법의굴레에 다시 매이지 말라’는 절절한 호소입니다. 오늘날 우리 역시 바울의 외침을 되새기며, 은혜 안에서 참된 자유를 누리는이들이 되어야 합니다. 2. 아브라함의 믿음, 율법주의와의 충돌, 그리고 바울의 논증 갈라디아서 3장의 앞부분에서 바울이 “성령을 받은 것은 율법의 행위로냐, 듣고 믿음으로냐”라고 묻는 대목(갈 3:2)은 갈라디아교회 성도들이 이미 성령을 체험했음을 상기시키기 위한 것입니다. 이미 성령을 받은 이들이라면, 구원은 율법이나 의식이아니라 ‘믿음’으로 임했다는 사실을 잘 알 것이기 때문입니다. 다시 말해, 그들이 은사 체험을 했든, 거듭남을 체험했든, 방언이나 예언 같은 성령의 역사를 경험했든 간에, 그것이 율법의 준수를 통해서가 아니라 예수 그리스도의 복음을 믿은 결과로일어났다는 점을 회상하라는 것입니다. 그런데 여기서 바울은 한 걸음 더 나아가, 구약성경에서 가장 위대한 선조로 꼽히는 아브라함을 끌어옵니다(갈 3:6). 왜냐하면율법주의적 거짓교사들이 늘 강조하는 인물이 바로 아브라함이었기 때문입니다. 그들은 “우리 조상 아브라함은 율법과 할례로하나님 앞에 인정받았다”고 생각했지만, 실상 아브라함이 의롭다 하심을 얻은 것은 “하나님을 믿었을 때”이며, 그 믿음을하나님께서 의로 여기신 사건이 먼저였습니다(창 15:6). 장재형목사 역시 다양한 설교와 성경 해설에서, 창세기 12장부터17장까지 이어지는 아브라함 서사를 인용하며 “아브라함이 할례를 받기 전 이미 하나님께 의롭다 함을 받은 시점이 있었다”는점을 자주 환기시킵니다. 할례는 창세기 17장에 등장합니다. 다시 말해, 창세기 15장 6절 “아브람이 여호와를 믿으니 여호와께서 이를 그의 의로여기시고”라는 선언은 ‘할례’가 도입되기 전이라는 것입니다. 그리고 율법이라고 할 수 있는 모세오경의 구체적 조항은, 아브라함이 살았던 시대로부터 430년 뒤에나 주어진 것입니다(갈 3:17의 언급). 그러므로 아브라함의 의로움은 율법이나 할례때문에 얻어진 것이 결코 아닙니다. 그분은 순종함으로(히 11:8 “갈 바를 알지 못하였으나”), 약속의 땅과 ‘하늘의 뭇별 같은후손’을 약속받았고, 낯선 땅으로 떠나라는 하나님의 말씀을 믿고 의롭게 되었습니다. 바울은 이 원리를 “그가 무할례시에 받은 의”라고 부릅니다(롬 4:9-10). 즉, 믿음으로 의롭다 함을 얻은 사건이 먼저이고, 할례는 그 의로움을 확인하는 표징에 지나지 않는다는 것입니다. 로마서 4장도 갈라디아서 3장과 평행을 이루는 구절들이많습니다. 로마서 4장에서 바울은 “일한 것이 없이 하나님께 의로 여기심을 받는 사람의 행복”을 다윗의 고백과 연결해말합니다(롬 4:6-8). 그리고 아브라함이 의롭다 함을 얻은 것은 행위가 아닌 전적인 ‘믿음’ 덕분이라는 결론에 도달합니다. 장재형목사는 이런 로마서와 갈라디아서의 연결 구도를 특별히 강조하는데, 갈라디아서 3장을 알면 로마서 4~5장도 더 깊이이해할 수 있고, 로마서를 잘 이해하면 갈라디아서 3장이 한층 더 명확해진다는 것입니다. 이는 “오직 의인은 믿음으로말미암아 살리라”(합 2:4, 갈 3:11, 롬 1:17)는 구약의 뿌리로부터 시작된 주제이자, 신약 전체 구원론의 골간입니다. 이방인들에게도 동일한 은혜가 주어졌음은, 아브라함이 ‘모든 믿는 자의 조상’이 되었다는 바울의 선언(갈 3:7, 롬4:11-12)으로 잘 드러납니다. 구약에서 아브라함을 자기 민족의 조상으로만 여겨왔던 유대인들에게, 바울의 선포는파격적이었습니다. 그러나 그가 말하는 복음의 논리는 이렇습니다. 갈라디아서 3장 10절부터 12절에서 바울은 “무릇 율법 행위에 속한 자들은 저주 아래 있다”(신 27:26 인용)고까지 말합니다. 율법을 완벽히 지킬 수 있는 사람은 하나도 없기 때문입니다(롬 3:10). 오히려 율법은 죄를 더 선명히 드러내어 죄책과정죄감을 강화합니다. 바울이 고린도전서 15장 56절에서 “사망의 쏘는 것은 죄요 죄의 권능은 율법이라”고 했을 때, 율법이죄를 해결하기보다 죄의 근거를 더 또렷이 보여주는 역할을 한다는 뜻입니다. 그러므로 율법으로 의롭다 함을 받으려는 자는결코 구원에 이르지 못하고, 오히려 저주 아래 머무르게 됩니다. 그런데 그리스도께서 우리의 저주를 대신 짊어지심으로, 율법의 저주에서 우리를 해방하셨다는 사실이 갈라디아서 3장13~14절에 선포됩니다. “그리스도께서 우리를 위하여 저주를 받은 바 되사 율법의 저주에서 우리를 속량하셨다”라는말씀입니다. 예수께서 십자가에 달려 죽으심으로, ‘나무에 달린 자마다 저주 아래 있다’(신 21:23)는 율법적 규정조차 스스로받으셨습니다. 그 결과 우리를 죄와 사망과 저주의 권세에서 해방시키셨고, 성령의 약속을 믿음으로 받게 하셨습니다. 장재형목사는 이 대목을 “십자가로 모든 죄값이 지불되었기에, 이제 우리에게 남은 것은 그 사실을 믿는 믿음뿐이다”라고요약합니다. 그리고 이렇게 의롭다 하심을 받은 우리는, 궁극적으로 성령의 인도하심을 받으며 점진적 ‘성화’를 향해 나아가게됩니다. 이러한 갈라디아서 3장의 가르침은 오늘날 교회 안에서 되풀이되는 율법주의적 경향, 즉 “교회법이나 전통, 의식과 예배 형식, 혹은 특정 윤리 규범을 준수하는 것이 구원의 조건”이라는 식의 주장을 향한 강력한 반박이 됩니다. 물론 장재형목사을 비롯해정통 신학자들은 “율법 무용론이나 도덕성 경시”를 말하지는 않습니다. 오히려 기독교는 세상 그 어느 종교보다 높은 윤리와사랑을 요구합니다. 다만 그것이 구원의 조건일 수 없다는 것입니다. 그리스도께서 이미 구원을 이루셨으니, 우리는 그 은혜를따라 복음을 순종하며, 성령 안에서 기쁨으로 선을 행하는 사람들로 변화되어야 합니다. 이것이 율법주의와 완전히 다른차원에서 율법을 ‘이행’하고 ‘성취’하는 참된 길입니다. 이처럼 바울은 갈라디아서 3장에서 매우 논리적이고 성경 해석에 근거한 변증을 통해, 거짓교사들이 퍼뜨리는 할례와 율법준수를 통한 구원론을 전면 반박합니다. 핵심은 “아브라함조차 율법이 아닌 믿음으로 의롭다 하심을 받았으니, 하물며 할례없는 이방인도 믿음으로 구원받는다”라는 논증입니다. 그리고 그리스도 안에서 우리는 하나가 되며, 그 모두가 아브라함의 영적자손이 된다는 사실입니다. 3. 그리스도 안에서의 자유와 성령의 역사, 그리고 오늘의 적용 갈라디아서를 ‘자유의 복음’이라고 부르는 이유는, 율법에서 벗어난 ‘방종’을 말하는 것이 결코 아니라, ‘죄와 사망의 권세로부터자유하게 된 복음’을 말하기 때문입니다. 3장 뒷부분(특히 3:23~25)에서 바울은 “믿음이 오기 전에는 율법 아래 매인 바 되어, 계시될 믿음의 때까지 갇혔다”고 표현합니다. 이처럼 율법은 우리를 하나님께로 데려가는 ‘몽학선생’(갈 3:24)이며, 죄를깨닫게 하되 죄를 해결하는 근원적 능력은 없습니다. 그러나 예수 그리스도의 십자가와 부활로 인해, 우리가 이 율법의 굴레와저주에서 벗어나 ‘믿음의 자유’로 나아가게 되었습니다. 따라서 갈라디아서 3장을 중심으로 한 바울의 결론은 명확합니다. “우리는 율법의 행위가 아니라 믿음으로 구원받았다. 이제성령을 선물로 받고, 성령이 주시는 능력과 열매로 살아간다.” 이것이 바울이 말하는 ‘복음의 능력’이며, 성령은 우리의칭의(Justification)를 견고케 하고, 그다음 단계인 성화(Sanctification)로 나아가게 만듭니다. 장재형목사의 목회와설교에서도, 믿음으로 받는 성령의 내주(內住)와 인도하심이 어떻게 개인의 삶과 공동체를 변화시키는지 많이 다루어집니다. 예수 그리스도의 십자가 구속 사건은 이미 단번에 완성된 구원의 길을 열었고, 그 구원의 효력은 성령의 역사 가운데 우리안에서 계속 자라나는 것입니다. 바울이 말하는 “육체의 정욕”과 “영의 소욕” 사이의 갈등은 갈라디아서 5장에서도 자세히 나오지만, 사실 3장부터 이미 “율법아래서 갇혀 있었다는 표현”을 통해 암시됩니다. 우리 본성은 여전히 죄성을 지닌 육체이기에, 율법을 통해 죄를 자각할 수는있어도, 스스로 죄를 끊어낼 능력이 없습니다. 하지만 성령이 임하시면, 죄를 다스릴 수 있는 능력이 주어집니다(롬 8장 참조). 율법이 외적인 규범으로 죄를 지적한다면, 성령은 그 내면에서부터 우리를 새롭게 하시어 “의롭다 함”에 합당한 삶으로인도하십니다. 이 점에서 장재형목사는 “성령의 임재를 체험한 성도는, 더 이상 규칙과 금지 조항만을 바라보며 신앙생활하지않는다. 오히려 은혜로 인해 자유를 얻고, 그 자유를 선한 목적과 이웃을 위한 사랑으로 쓰게 된다”고 가르쳐 왔습니다. 결국 갈라디아서 3장이 말하는 핵심은 다음과 같이 요약됩니다. 이 진리가 왜 중요한가? 그것은 우리가 날마다 실천적으로 맞닥뜨리는 신앙생활 속에서, 끊임없이 ‘율법’과 ‘은혜’ 사이에서혼동하기 때문입니다. 구원을 받았음에도 종종 ‘내가 주어진 규범을 잘 지키지 못하면 구원이 취소되는 것이 아닐까’ 하는두려움, 혹은 내 노력과 선행을 통해서만 하나님께 인정받으려는 잘못된 습관이 여전히 자리 잡을 수 있습니다. 그러나갈라디아서 3장과 사도행전 15장의 예루살렘 회의 결정을 기억할 때, 우리는 “오직 은혜”와 “오직 믿음”이라는 기독교의구원론적 표지를 다시금 붙들게 됩니다. 장재형목사는 “교회가 율법주의로 흐르면, 영혼을 자유케 하는 복음의 능력이 약화되고, 서로를 정죄하며 형식적인 경건을추구하는 공동체가 된다”고 경고합니다. 이어 “반대로 참된 복음을 붙들면, 성도들은 성령의 권능 가운데 선한 열매를 맺고, 타인을 섬기며 죄를 이기는 능동적이고 역동적인 삶을 산다”고 강조합니다. 이러한 ‘자유의 복음’이야말로, 갈라디아서 3장을통한 성령의 음성입니다. 오늘날 우리가 전해야 할 복음은 바로 이것입니다. 예수 그리스도께서 십자가에 못 박혀 죽으심으로 말미암아, 믿는 자누구든지 의롭다 함을 얻을 수 있습니다. 아브라함이 믿음으로 의롭다 함을 받았듯이, 우리 또한 그리스도의 복음을 믿으면의롭다 함을 받고, 성령의 내주를 통해 새로운 삶을 삽니다. 이는 “믿음으로 말미암아 구원을 받는다: 이신득의(以信得義)”라는단순하고 분명한 진리입니다. 마지막으로, 베드로 사도는 “너희 속에 있는 소망에 관한 이유를 묻는 자들에게 대답할 것을 항상 예비하라”(벧전 3:15)고권면합니다. 우리는 갈라디아서 3장이 제시하는 믿음의 정의와 율법의 한계, 그리고 예수 그리스도의 십자가와 부활이가져다준 구원의 능력을 분명히 이해해야 합니다. 그것이 우리의 신앙이 흔들리지 않도록 붙드는 기둥이 되어, 주님을 알지못하는 이들에게도 변함없는 복음의 메시지를 전하는 근거가 됩니다. 장재형목사는 이 점을 수십 년간 다양한 설교와 저술, 제자 양육 등을 통해 꾸준히 일깨워 왔으며, “이 복음을 붙드는 자들에게는 어떤 장벽도 무너지고, 어떤 종류의 종교적굴레에서도 벗어나 참된 자유를 경험하게 된다”는 사실을 늘 가르쳐 왔습니다. 결국 갈라디아서 3장은 우리에게 질문합니다. “너희는 성령을 어떤 방식으로 받았느냐, 율법 행위로냐 믿음으로냐?” 그리고이렇게 답합니다. “믿음으로 받고, 믿음으로 의롭다 함을 얻었다.” 이것이 우리의 고백이요, 삶으로 이어져야 할 진리입니다. 복음 안에서 자유로워지고, 성령 안에서 성장하며, 그리스도 안에서 더욱 하나를 이루는 교회와 성도가 되길 갈라디아서 3장은요청합니다. 바로 이것이 우리가 늘 붙들어야 할, 가장 단순하나 가장 심오한 신앙의 핵심입니다.

Le sermon d’adieu de Paul – Pasteur David Jang

Le message central que le pasteur David Jang tire du chapitre 20 des Actes, où Paul se rend de Troas à Assos puis jusqu’à Milet, met en lumière l’“esprit pastoral d’humilité et de larmes” qui se manifeste au cœur de cette trajectoire missionnaire. Malgré d’innombrables difficultés rencontrées en annonçant la Parole de Dieu, Paul ne … Read more

保罗的告别讲道——张大卫牧师

张大卫牧师通过使徒行传第20章的经文,阐述了保罗从特罗亚出发,经亚朔到达米利都的宣教旅程中所展现的“谦卑与眼泪”的牧会精神。尽管在传扬神的话语时遭遇了无数困难,保罗始终没有退缩,而是坚持忠心到底,并且从未失去对众肢体的深切爱心。这种精神正是张大卫牧师要在本段经文中予以强调的。张大卫牧师在解释这段经文时指出,保罗在小亚细亚地区的行程不仅仅是地理意义上的移动,更蕴含着深层的属灵内涵。在旅途中,保罗遇到那些刚刚接受耶稣基督福音的人,或者已在教会中却仍相当软弱的群体,并以谦卑和奉献亲身作榜样。但最为重要的是,保罗“被圣灵捆绑”而明确地认识并顺服自己必须行走的道路。 在讲解使徒行传20章的背景时,张大卫牧师指出,保罗在这里回顾那些第二次宣教之旅时未曾造访的地区,并探望过去曾播撒福音种子的教会,显明了他那牧养式的关怀之心。保罗让与他同工的人先乘船离开,而自己却坚持走一段漫长的路程步行前往亚朔。对此,张大卫牧师的解读是:保罗可以不必如此辛苦地走路,但他却选择踩在大地上,在创造主上帝面前回顾并默想。这至少是一段四五十公里、加上当时道路状况可能更为艰辛的行程。保罗通过漫长的步行更加谦卑地置身于上帝面前,也重新激发了他对既已建立的教会和尚未听闻福音之人的迫切关怀。 特罗亚到亚朔的步行场景象征性地展现了保罗极其专注的属灵状态与抉择。基于这段经文,张大卫牧师强调,无论是宣教工作还是教会事工,在途中遇到各种障碍时,该如何理解并克服。事奉者有时会陷入孤独,也可能因所付出的劳苦与得到的回报不成正比而感到心灰意冷。然而,就像保罗怀着顺服神呼召的心,一言不发地走完那段艰辛的路程一样,事奉者同样需要在“路上”的时刻沉淀自我,在神面前检视内心。张大卫牧师非常珍视这种“在路上的默想”,并教导所有事奉者与信徒:比眼前可见的果效更重要的是,将自己交托给圣灵的带领并一步步前行——这才是真正的信心之旅。 随后,保罗在亚朔与同伴会合,一同经过米推利尼、基阿、撒摩等地抵达米利都。路加的笔触在记述这些行程细节时格外细腻、具体。张大卫牧师提到,路加作为医生出身,记录必然十分周密;而且路加用“我们”这一称呼,显示他是与保罗同行的亲历者。使徒行传并非抽象的信仰史或教义汇编,而是发生在实际时间与空间里的鲜活历史与宣教行程。这也提醒教会要珍视每一个重要时刻,铭记并记录下来:宣教士、牧者以及信徒每一天如何在神的护理中行动,这些点滴汇聚成教会历史,并将成为后世活生生的见证。 张大卫牧师解释,保罗之所以“毫不耽搁”地要赶往耶路撒冷,是为了配合犹太人的五旬节。保罗尊重犹太文化中敬虔的传统,守节日不仅是一年一度的仪式,更是与耶路撒冷教会在灵里彼此认同,并带着全心全意参加这神圣节期的信仰表征。由此,张大卫牧师指出,透过保罗对节期的态度,足见信仰群体共同守节与敬拜的重要性。现今许多教会把节期看成“活动”或“节目”,实际上,这些节期对于信徒具有供应灵力、凝聚共同体的宝贵契机。保罗虽决定不断留在以弗所,却在到达米利都后把以弗所教会的长老召来,给予最后的劝勉。这说明保罗并不是不想亲自去教会,而是希望以这种方式集中地分享、对话。 在米利都保罗与长老们会面的场景,是使徒行传中非常重要的一幕。张大卫牧师将其称之为“保罗向以弗所最后的遗言”或“保罗的以弗所讲道”,因为这段简短的言辞中,浓缩了保罗在以弗所事奉时的生命态度、他所传扬的福音核心,以及教会领袖今后应当遵守的原则。对此,张大卫牧师强调,这番讲话是历代教会领袖与信徒必须终生默想的典范。 保罗首先让人回顾他自进入亚西亚以来所过的生活,核心用“凡事谦卑,常常流泪”加以概括。张大卫牧师指出,保罗所提到的这两个关键词,恰恰构成教会服事的原型:谦卑是人面对上帝时的心态,不可自夸或贪图名誉,而是不断地降卑自己顺服神旨。眼泪则是对弟兄姊妹爱的表征。表面上看,保罗即使被石头打也能勇敢再度回来,但他同样拥有与信徒们一起分担软弱、同哭的柔软之爱。张大卫牧师回顾教会历史也指出,真正的领袖总是用谦卑与眼泪来牧养群羊。因此,真正的属灵领导力绝非依靠富于魅力的雄辩或行政才能,而是对上帝极度谦卑、对人能一同流泪、实践爱的品格。 接着,保罗谈及“犹太人暗算”带来的各种试炼,说明传福音之路从来不平坦。严重的逼迫、莫须有的控告、甚至生命危机都随之而来,然而保罗始终忍耐。张大卫牧师在此指出,事奉者必定面对无法回避的“捆锁与患难”。教会历史上也常常遭遇内外的试探与攻击,让传道人或领袖难免感到动摇。但属灵之人会定睛在耶稣基督的十字架之上,以忍耐和信心取得胜利。正如保罗在使徒行传20章24节所宣告的,他并不看重性命,只要能完成主耶稣托付的“传扬神恩惠福音”的使命。张大卫牧师将其视为宣教的本质:福音是“神的恩典”之宣告,为其倾注生命也在所不惜,因为它拥有绝对价值。 随后,保罗向以弗所长老们表示:“我在你们中间来往,传扬神的国,但如今你们再也见不到我的面了。”张大卫牧师从中看出了保罗的悲壮决心与属灵洞察。保罗在米利都与长老们会面时,已经预感这是他们最后一次见面。同时,他也宣告若有人偏离真道,责任不在他,因为他已尽到告诫之责。这一说法对应以西结书33章中守望者的职分:上帝吩咐守望者吹号警告百姓,若警告得当但百姓依旧刚硬拒绝,罪责则落在百姓自己身上;若守望者没有发出警示,导致百姓灭亡,则罪责要由守望者承担。保罗在以弗所三年间极力传讲教训,故此可坦然宣告“在众人之中我清白无愧”。张大卫牧师特别将这点应用在牧者及教会领袖身上:他们必须像保罗一样,明确传讲真理;福音有时对犹太人是绊脚石,对希腊人是愚拙,但不可随意妥协或修饰。若只追求人们的称赞与认可,便无法责备罪恶、呼吁真实悔改。保罗当时坦然地对犹太人和希腊人传讲“悔改归向神,与信靠耶稣基督”,对今时的教会而言也绝对适用。唯有在罪与不义面前回转归向神,人才真正领会福音是生命;这是教会在世上当尽的独一无二的使命。 接下来,保罗对以弗所长老们说:“圣灵立你们作全群的监督”。他劝诫他们牧养那用神血所买赎的教会。张大卫牧师在此处指出,关于“教会本质”的极其重要定义也随之出现:教会并非人根据个人兴趣或需求所选择参加的社交团体,而是因基督十字架的宝血付了代价、归属于神的群体。因此,监督(长老、牧者)乃是“看顾、巡视”之职分,必须常常警醒,防范群羊落入危险,也要抵挡败坏真理的异端与假教师。张大卫牧师提到,在保罗离开之后,以弗所教会果然受到各种异端思潮的侵扰。因此,他再次提醒当代教会也要谨防形形色色的虚假教导和分裂。 教会内部最危险的情况之一,是保罗所言“凶暴的豺狼”从外部侵入吞吃羊群,但更致命的是内部滋生的错误教导或冲突,让会众陷于混乱。这也是使徒行传之后的初代教会不断面临的挑战。张大卫牧师认为,要抵御这类混乱,就必须时刻顺服圣灵的带领,并且坚守在恩典的道上。教会领袖如此,全体信徒亦当同样谨慎;唯有不断回归福音核心,铭记耶稣所言“施比受更为有福”,才能防范异端与纷争。保罗当年亲手支搭帐棚,自给自足地供应事工费用与同伴生活所需的榜样,正说明教会领袖切勿贪图物质或名望,而要胜过内在的贪欲,全力服事软弱之人。这才是服事的真义。 最后,张大卫牧师总结,这一切教导都在“同跪下祷告”之刻结束。保罗与长老们共同祈祷,尽情流泪的场面,蕴含了他们最后相聚的温暖情谊,也象征着牧者与会众之间的深厚爱与共同信仰。张大卫牧师呼吁教会重拾这种爱:现代社会充斥个人主义与分裂,但只要记得初代教会的模式、并体会基督的心肠,教会就能再度成为那“为彼此流泪、彼此代祷”的火热团契。 由此可见,张大卫牧师指出,使徒行传20章13-38节所记载的保罗之旅、他的劝勉以及与长老间的热切交流,对当今教会与信徒仍具有极大的启示。保罗的人生处处体现谦卑与泪水、悔改与信心、以及对主耶稣基督恩典的见证;我们也应该走同样的属灵道路。主的教会既是用神的血所买赎的团契,教会领袖与信徒都要彼此谦卑、彼此相爱,同时对抗任何违背福音的虚假教导。保罗所走的脚踪,也正是张大卫牧师不断强调的真正教会之路。 在使徒行传20章为中心展开的牧养神学中,张大卫牧师特别指出,保罗所示范的“谦卑与眼泪”以及“对福音传扬的全然投入”结合在一起,构成了教会最强而有力的支撑。谦卑是人面对神时的态度,眼泪则源于对邻舍的爱;二者结合就产生了真实的福音事工。张大卫牧师观察到,在以弗所教会完全持守这两大要素时,无论遭逢何种风波都不会动摇;但一旦失去,就会渐渐陷入分裂与冲突,最终甚至落入异端的侵扰。那么,今时教会又该如何将这段使徒行传经文活用于现实,并走向何方呢? 第一,张大卫牧师呼吁我们深刻默想保罗所展现的“被圣灵捆绑”之顺服态度。使徒行传20章22节中,保罗说:“看哪,现在我被圣灵催逼,要往耶路撒冷去,那里将要遭遇何事,我并不知道。”被圣灵催逼,意指受到圣灵强力的带领而甘心顺从,这也意味着,无论是事奉者还是平信徒,都需将日常生活与服事的所有计划建立在圣灵的指引上。许多人会惧怕传福音带来的危险或考验,也可能优先考虑个人安逸与方便。然而像保罗那样被圣灵捆绑,就能在危难中不后退,反倒更加勇敢、更加愿意付出。张大卫牧师提醒,当今教会需要渴慕这股圣灵大能的充满与引领;若教会只满足于已有的制度或物质富足,很快就会陷于惰性。唯有紧紧跟随圣灵的呼召,凡事先向神求问,并敏锐地回应,才能重现初代教会旺盛的生命力。 第二,张大卫牧师重新审视保罗所宣讲的“悔改与信心”。保罗在20章21节宣告,自己向犹太人和希腊人同样见证“悔改归向神,信靠我们主耶稣基督”。悔改与信心构成了福音宣讲的核心架构:悔改就是在上帝面前承认罪并转向新的方向,而信心则是相信耶稣基督、接受祂的十字架与复活,得着新生命。张大卫牧师指出,当今教会有时会过度强调“信心”而忽略“悔改”,或者将信心简化为个人的主观信念,削弱其与行为和果子的关系。然而,保罗所传的福音总是不避讳地揭示罪,并强调若无真实的悔改,就难以建立稳固的信心。牧者在讲道与教导中,不能因为令人不快就略去悔改的信息。教会若要真正成为教会,信徒就必须持续与根深蒂固的罪性征战,并在经历耶稣基督恩典时,将信心走向完全。 第三,张大卫牧师借保罗对以弗所长老的嘱咐——“圣灵立你们作监督”——来强调当代教会领袖应有的角色。监督(长老、牧者)必须照料教会和群羊,但这不仅是行政管理或礼拜主持;更包括承担属灵守望者的责任,警惕凶暴豺狼和歪曲真理的教训趁虚而入。张大卫牧师强调,欲担当监督之职的人,应先在神话语面前彻底省察自己,存着“牧养主的羊群,而非自己的羊”的敬畏之心。教会若将追求组织规模或财务扩大当作首要目标,而忽视了信徒灵命的看顾,就会招来各种内部分裂和异端之风。保罗曾预告“你们中间也会有人引诱门徒跟从自己”,意即在领袖稍有懈怠之际,就有人会企图在教会内部自立为王、带领信众走向歧途。因此,教会领袖必须时刻警醒,坚守圣经真理。 第四,张大卫牧师从保罗将自己定位成“守望者”并宣告“不亏负任何人的血”的这一场景,探讨教会对世界应当承担的使命。教会既是世人的守望者,就不可只顾自己安逸,必须吹响号角,警示世界。若教会袖手旁观,任凭世人陷于罪恶与堕落,上帝就会质问教会的责任。保罗斩钉截铁地说:“我如今与你们无干了”,因为他把该说的全都说了、该指正的罪也都指出来了;但若他选择沉默不语,就会失职。张大卫牧师提醒今世教会也需效法保罗,坚持福音所高举的生命价值,即便遭到拒绝或嘲弄,也要毫不退缩地宣告,并邀请世人归向基督的恩典之中。 第五,张大卫牧师引用保罗那句“我未曾贪图一个人的金银衣服”,再度强调教会领袖的金钱观与清贫美德。今日教会往往面对巨大的财务压力和世俗的欲望诱惑。保罗在建造教会时,亲手劳动制造帐棚,不仅维持自己生活,更供养同伴。当时无论是犹太拉比还是希腊哲人,通常都由门徒或资助者提供给养,而保罗却独树一帜。这种做法突出了主耶稣“施比受更有福”的真谛。张大卫牧师提醒,倘若教会在财务运用或物质追求上陷入“利益”逻辑,或若领袖以教会资源来满足个人私欲,教会就会失去属灵生命力,并受到外界的质疑。因此,秉持知足与俭朴的生活态度,将物质的优先次序完全放在宣教与救济弱者上,才符合圣经原则。 在这一切劝勉的终点,便是爱中合一的交谊。保罗与以弗所长老在海边跪下同心祷告、相拥而泣,正把整段使徒行传20章的记叙推向一种神圣的图景。张大卫牧师认为,教会若想真正活络,不在于办多少活动或怎样追求更“大型化”,而在于牧者与信徒、信徒与信徒彼此是否敞开心扉,一同流泪、一同祈祷。现代教会规模越大,计划与项目越多,但真实而深切的团契交往往往越来越少。其实在初代时期,教会常常以家庭聚会的形式聚餐团契,留意彼此需要并同心祈求、彼此痛哭。如果说保罗能如此深切地对以弗所信徒栽培,以至于他们离别时痛哭送行,正是因为在福音里早已牢牢相系。张大卫牧师也强调,若想真正向世界传递福音,教会内部必须先具备这样的流泪相爱的情怀。若教会内部淡漠无情,又如何能在世人面前活出主的爱?只会被嘲讽是纸上谈兵而已。 综上所述,张大卫牧师指出,使徒行传20章13-38节中保罗对米利都教会的劝勉,堪称教会回归本质、重新武装灵性的一段关键经文。保罗在漫长的宣教旅程中,不畏艰难地传扬福音,以谦卑与眼泪示范牧会精神,又以被圣灵捆绑的顺服与守望者的责任感来概括事奉的真谛。同时,他嘱咐教会领袖对抗假教师、看顾群羊,并坚定扎根于“神恩惠的道”。这些都不仅是给一世纪以弗所教会的嘱托,更是二十一世纪教会必须谨记的教训。 张大卫牧师一再提醒我们,使徒行传并未在第28章真正结束——教会今天仍然是在续写“使徒行传”的过程,继续将福音传播、扩展神国度。所以,我们也应当在保罗与以弗所长老相聚的这幅画面中获得启示,并付诸具体实践。 第一,教会团体必须坚守“以神的话语为中心”。保罗说:“我并没有一样避讳不传的,只是把神的旨意全都告诉你们。”神的话并非只有甜言蜜语的安慰,也非恫吓式的权威压力;它能医治灵魂、坚固教会,同时击碎罪恶与不义。因此,无论领袖还是会众,都要天天在神的话语面前省察自己,渴望明白并践行其真意。倘若教会开始更倚重世俗智慧或流行哲学,而忽略圣经真理,就会被保罗在使徒行传20章所提醒的“凶暴豺狼”和“歪曲言论”所撼动。故此,张大卫牧师竭力主张:持守神的话语当成为教会“活的传统”。 第二,切莫因教会内部的某种建制或领导架构已经形成,就满足或自觉安全。以弗所是保罗花了三年心血建立的教会,长老们的属灵程度和管理能力显然都不弱,但保罗在临别劝勉时依旧严肃警告:“我离开之后,必有凶暴豺狼进入你们中间,不爱惜羊群,甚至你们中间也有人起来说悖谬的话,要引诱门徒跟从他们。”可见只要教会有片刻松懈,就可能崩坏。张大卫牧师在此强调,教会必须持续“警醒祷告”和“自我省察”,不可沉溺于自满。哪怕教会对行政事务、各类事工已驾轻就熟,也不能保证其灵性稳固;唯有在上帝面前谦卑屈膝才是最坚固的防护。 第三,重新确认保罗所传讲的“福音本质”。如保罗所说,这是“神恩惠的福音”,并不是以律法重担来压制人,也不是把世俗多元化价值简单包装后冠以“潮流”的信息。乃是指人要离弃罪恶、相信耶稣基督而得救,拥有新生命。张大卫牧师强调,这正是教会之所以为教会、能转化人心、更新世界的力量所在。最大的问题是:我们常常会往福音里添附个人或传统、文化因素,将它们都视为“福音不可或缺”的一部分,从而造成教会走向分裂与混乱。初代教会在犹太人与外邦人的冲突中,也曾出现这样的问题,但最后还是回归到“我们得救是因主的恩典”这一真理,并由此保持合一。今日教会也需在圣灵和圣经的带领下,不断省查自己是否仍然守住福音最纯粹的精髓。 第四,教会需要实践“施比受更为有福”,在社会中成为服事的榜样。社会越充斥竞争与自私,教会越应以“分享”与“奉献”来彰显神的爱。保罗亲手制造帐棚,供给宣教经费和同伴生活所需,这对于今世教会领袖依然是极具冲击性的信息。张大卫牧师并不认为所有教会领袖都必须自给自足,但每一个人的内心深处都应当有个质问:“我是否真正在意给予多过获取?”教会在使用预算时,也要时时检验是否真地把福音使命和照顾会众需求放在第一位。一旦教会在财务上动机不纯或丧失透明,就很容易被保罗口中“歪曲言论”“凶暴豺狼”所利用,牟取私利。因此,教会必须坚持财务上的清廉,以及必要时刻愿意像保罗那样亲力亲为、毫不惜力地去事奉,为群羊树立榜样。 第五,教会当恢复火热的祷告和彼此相爱的氛围。保罗与以弗所长老们在米利都海边一同跪下祷告、彼此拥抱痛哭的情景,将使徒行传20章整段内容升华。张大卫牧师认为,若要让教会真正地活起来,不是靠宏大的计划或五光十色的活动,而是靠牧者与信徒间的真诚敞开、为彼此的灵魂流泪代求。现代教会在不断壮大的同时,因人群庞杂、事务繁多,彼此间的深度交心反而减少。但回顾初代教会,他们在家中团契、彼此关怀并恳切祷告、共同流泪的画面,才是这份纯真信仰的核心。以弗所教会正是因保罗的悉心栽培而与他血脉相连,所以送行时也充满痛哭与不舍。然而这哭泣不是出自个人感性,而是因福音带来的属灵连结。张大卫牧师提醒,如果教会缺失此种相爱之情,便无法真正在世人面前见证主的爱。只会变得空洞乏力,被人认为是徒有虚名。 总而言之,张大卫牧师认为,使徒行传20章13-38节——保罗在米利都给以弗所教会的劝勉——正是教会回归本质、坚定灵性的重要途径。保罗通过长途宣教实践了“毫无保留地传扬福音”“谦卑与眼泪的牧会精神”“被圣灵催逼的顺服”“守望者的责任感”等要素,同时告诫教会领袖必须防范虚假师傅、牧养群羊,尤其要扎根在“神恩惠的道”上。这些都不是只针对一世纪以弗所教会的嘱托,而是二十一世纪教会依然不可或缺的指引。 张大卫牧师反复提醒,使徒行传是“仍在继续书写的书卷”,教会如今正处在使徒行传的延续之中,肩负续写第29章、第30章的象征性责任。换言之,初代教会那份纯粹的信心与共同体精神,必须在我们这世代再度显现,并在先辈所奠定的福音根基上开创崭新历史。要做到这点,保罗所呈现的核心价值——爱与奉献、悔改与信心、顺服与谨守、分享与祷告——都需合而为一地运行。若教会丢失这些原则,无论表面多么“繁荣”,也只是没有心跳的空壳;相反,即使教会外表看似渺小,若这属灵DNA犹存,就能彰显神国度的大能。 最后,张大卫牧师呼吁所有珍爱此段经文的信徒与牧者,都能在现实中“再现”保罗与以弗所长老同跪祷告的画面。正是在他们彼此拥抱痛哭、向神恳求的过程里,教会重新找到复兴之路,体认到“用神的血所买赎”的教会何等尊贵。而这种领悟能让教会真正成为“世上的光与盐”,在世界中挺立。保罗在米利都的“最后讲道”和那“同哭的祷告”,并非只尘封在一世纪,而是一直在今日复苏、唤醒我们的信仰与教会。张大卫牧师坚信,当更多人倾耳聆听这份呼唤,教会必能重获新生,预备主的再来之路。教会不可一刻失去谦卑与眼泪,也不可让对福音的热诚冷却,更要在圣灵的引导下彼此祈祷、彼此造就。保罗在米利都所留下的“最后宣讲”和“共同的眼泪祈祷”,不会止步于第一世纪,而是要持续成为更新我们信仰、引领教会前进的生命之声。张大卫牧师呼吁众人用心聆听,唯有当人们真正回应这呼声,教会才能日益更新,预备迎接主的再来。

パウロの告別説教 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師が使徒の働き20章の御言葉を通して語る核心的な教えは、パウロがトロアスからアッソを経てミレトに至るまで歩んでいくその宣教の旅の中で現れる「謙遜と涙」の牧会精神である。この精神は、神の言葉を伝える中で数多くの困難に遭遇しても決して退かずに最後まで忠実でありながら、同時に兄弟姉妹に対する深い愛を失わなかった点に最もはっきりと表れている。張ダビデ牧師はこの本文を解説する際、パウロが小アジア地域を行き先に歩んだ道のりが、単なる地理的な移動にとどまらず、深い霊的意味を帯びていると強調する。その道程でパウロは、新たにイエス・キリストの福音を受け入れた人々、あるいはすでに教会の中に存在していてもいまだ弱さを抱える共同体に出会い、自身の謙遜と献身を行いによって示した。しかし何よりも重要なのは、パウロが「聖霊に縛られた」状態で、自分が歩むべき道を明確に悟り、それに従順していた事実である。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の背景を説明する際、パウロが第2回宣教旅行で立ち寄れなかった地域を改めて訪ね、かつて福音を蒔いておいた諸教会を顧みて勧め、立て直す牧会的な心を見せるのだと指摘する。パウロは自分のそばで共に仕えていた一行を先に船に乗せ、自分はわざわざ長い距離を歩いてアッソまで移動した。この点について張ダビデ牧師は、パウロにとって被造物と向き合う時間、すなわち大地を踏みしめながら創造主なる神の御前で自分を見つめ、黙想する大切な瞬間だったのではないか、と解釈する。人間的に見れば、あえて歩かずとも船に乗るほうが便利で早い移動が可能であったはずだが、パウロはその長い距離(少なくとも40~50km、当時の道の状況を考慮すればはるかに過酷な道のり)を歩く中で、一層神に対して謙遜になり、既に建てられた教会やまだ福音に触れていない人々を想う切実な思いを新たにしたのだろう。  トロアスでの行程からアッソへ歩いて下った場面は、パウロが持っていた霊的集中力と決断力を象徴的に示している。張ダビデ牧師はこの本文を根拠として、宣教や教会の働きが道半ばで直面する様々な困難をいかに解釈し、乗り越えるべきかを強調する。働き人は時に孤独を感じ、世の目から見れば労苦に見合う正当な報いを得ていないと感じることもある。しかしパウロが神の召しに従う心で長い道のりを黙々と歩んだように、働き人もまた道中で味わう孤独を神の御前で黙想し、自らの内面を点検する時間が必要だというのである。張ダビデ牧師は、このような「道の上での黙想」を大切に考え、すべての働き人や信仰者が、目に見える実よりもまず自分を聖霊の導きに委ねて歩み続けることが真の信仰の巡礼だと教える。  その後パウロはアッソで同労者たちと合流し、ミトレネ、キオ、サモを経由してミレトに到着する。この行程を記録するルカの文体は非常に細やかで具体的だ。張ダビデ牧師は、ルカが医者出身であるため記録が綿密であること、そしてルカがパウロと共に「私たち(we)」という表現で同行していることに触れつつ、使徒の働きが単なる抽象的な信仰の歴史や教理集ではなく、実際の時間と空間の中で行われた生き生きとした歴史であり宣教の旅であると強調する。これは教会がどれほど貴重な一瞬一瞬を見逃さずに記念し、記録すべきかを示唆する。教会共同体が派遣する宣教師や牧師、そして信徒たちの働きが、日々いかに神の摂理のうちに動いているのか、そのような記録が積み重なり教会史となり、やがて後世に生きた証しとして残るのだという。  張ダビデ牧師は、パウロが「少しも遅れることなく」エルサレムへ向かおうと急いだ理由は、五旬節の祭りを守るためだと説明する。パウロは祭りを遵守しようとするユダヤ人の敬虔な伝統を尊重した。この祭りが持つ意味は、単に年に一度めぐってくる行事的意義を超え、エルサレム教会との霊的連帯感、そして神が定められた聖なる祭りに全身全霊をもって参与しようとする信仰的意志だった。張ダビデ牧師は、このパウロの態度から、信仰共同体がともに守る祭りや礼拝がいかに大切であるかを見出せると語る。今日の教会の中で“行事”や“イベント”としてしか捉えられない祭りも、実は信徒たちに霊的力と共同体的結束をもたらす大切な機会だということだ。パウロはエペソに立ち寄ることなくミレトへ直行することを決めたが、いざミレトに到着してみるとエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、最後の勧めを残す。これはパウロが直接教会を訪ねる代わりに、その指導者を招いてより集中した対話を交わしたかったことを示す場面である。  ミレトで長老たちと会い交わされるパウロの勧めは、使徒の働きの中でも非常に重要な場面である。張ダビデ牧師はこの場面を「パウロのエペソ説教」あるいは「エペソの長老たちへの最後の遺言」と呼ぶ。なぜなら、この短い言葉の中に、パウロがエペソ教会で働きをする中で見せた生き方の姿勢、彼が伝えた福音の核心、そしてこれから教会の指導者たちが守るべき原理が凝縮されているからだ。張ダビデ牧師は、このパウロの談話こそ、多くの教会指導者や信徒が生涯黙想すべきモデルだと説明する。  まずパウロは、自分がアジアに入った最初の日からどのように生きてきたのかを思い起こさせる。そしてその核心を「すべての謙遜と涙」と要約する。張ダビデ牧師は、パウロが告白したこの二つの言葉こそ、教会奉仕の原型だと述べる。謙遜は神の御前での姿勢である。人間的な自慢や名誉欲、あるいは自己顕示ではなく、ひたすら自分を低くして主の御心に従うこと。涙は教会員(兄弟姉妹)に対する愛の表現である。パウロは、表面上は石打ちに遭っても再び立ち向かう剛毅さを持っていたが、同時に弱さを抱える兄弟姉妹とともに痛み、共に泣く愛を持っていた。張ダビデ牧師は、教会史を振り返ってみても、真の指導者たちは常にこのような謙遜と涙をもって群れを世話してきたと指摘する。ゆえに本当の霊的リーダーシップとは、カリスマ的な雄弁や優れた行政力に先立ち、神の御前では徹底的に低くなり、人々の前では泣くことができる愛を実践することを学ぶのだ。  さらにパウロは「ユダヤ人の陰謀によって受けた試練」を強調する。これは宣教と福音伝道の道が決して平坦ではなかったことを示す。激しい迫害や不当な中傷、さらには命の危険にまで直面していたが、パウロはそれらすべてを忍耐によって耐えた。張ダビデ牧師はこの箇所で、働き人に避けられない「縛られと患難」の意味を説く。教会の歴史はいつも内部と外部双方からの試練が同時に押し寄せ、宣教師や指導者たちはその攻撃の前で揺らがざるを得なかった。しかし聖霊に満たされた者は、ここで挫折や放棄に至るのではなく、むしろ「イエス・キリストの十字架を黙想し」忍耐と信仰によって勝利する。パウロは使徒の働き20章24節で告白するように、主から受けた使命、すなわち「恵みの福音を証しすること」を果たすためには自分の命さえ惜しまない。張ダビデ牧師は、これが宣教の本質だと言う。福音とは「神の恵み」を伝えることであり、それゆえ自分の人生をすべて捧げても惜しくない絶対的価値なのだ。  張ダビデ牧師は続けて、パウロが「あなたがたの間を巡回し神の国を宣べ伝えてきたが、今やもはやあなたがたは私の顔を再び見ることはないだろう」と語る場面において、パウロの悲壮な決断と霊的洞察を読み取る。パウロはミレトで長老たちに会った際、事実上これが最後の対面であることを直感していた。そして誰かが罪の道へ逸れても、自分に責任を問うことはできないとはっきり宣言する。これはエゼキエル書33章にある見張り人の使命とつながる。神が見張り人に委ねられた務めは、角笛を吹いて民に危険を知らせることだ。見張り人がきちんと警告を行ったなら、民が悔い改めず滅びたとしても、その責任は民自身にある。しかし見張り人が角笛を吹かずに民が滅びたならば、その責任は見張り人に帰する。パウロがエペソ教会で3年という時間をかけて休む間もなく福音を伝え、教え尽くしたことによって「すべての人の血に対して私は潔白である」と宣言する場面は、見張り人としての使命を果たした自負の告白にほかならない。  張ダビデ牧師は特にこの部分を、牧師や教会指導者たちに深く適用する。教会の指導者はパウロのように真理を明確に伝えねばならない。福音は時にユダヤ人にとって妨げとなり、ギリシア人には愚かなものと映るかもしれないが、決して妥協したり飾り立てたりしてはならない。人々からの称賛や認められることだけを求めていたら、罪を指摘することもできず、真実な悔い改めを促すこともできなくなる。しかしパウロがユダヤ人にもギリシア人にも区別なく「神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰」を同じように証ししたように、教会はどのような状況でも福音の本質をあいまいにせず語るべきである。むしろ福音が命だと悟った者たちは、罪と不義から離れて神の御前にひれ伏すようになる。これこそが教会が世の中で担う唯一無二の使命なのだ。  その後パウロはエペソの長老たちに「聖霊があなたがたを監督者として立てられた」と告げ、神がご自分の血で買い取られた教会を牧するよう勧める。ここで張ダビデ牧師は、教会の本質に関するきわめて重要な定義が示されていると解説する。教会は、人間が自らの嗜好や必要に応じて選んで参加する親睦団体ではなく、キリストの十字架の血潮によって贖われた神の所有だという点だ。だからこそ監督者(長老や牧師)は、文字通り「よく見渡す」使命を託された者たちである。羊の群れが危険にさらされないよう目を覚ましていなければならず、歪んだ言葉を語る異端や偽教師が入り込まないように阻止すべきである。張ダビデ牧師は、パウロが去った後、実際にエペソ教会に異端的な思想が侵入したことを指摘し、今日の教会も多様な形態の偽りの教えや分裂に対して警戒を怠ってはならないと繰り返し強調する。  教会の中で最も大きな危険の一つは、パウロが言及した「凶暴な狼」が外部から侵入して羊を害する場合であるかもしれないが、時には内部で歪められた教えや葛藤が起こり、会衆を混乱に陥れるほうがより致命的であることもある。これは使徒の働きの後に続く初代教会が絶えず直面してきた挑戦でもあった。張ダビデ牧師は、このような混乱を防ぐためにこそ、常に聖霊の導きに従順し、恵みの御言葉の上に堅く立たなければならないと説く。教会指導者だけでなくすべての信徒が絶えず福音の本質を想起し、「与えるほうが受けるよりも幸いである」というイエスの言葉を心に刻む必要があるという。パウロが自らテントメーキングを行い、自分の手で労して宣教の経費や同行者たちの生活費を自給自足していた姿に目を向ければ、教会指導者は決して物質や名誉を求めてはならないことがわかる。むしろ自分自身の欲望に打ち勝ち、弱い者たちを助けることに全力を尽くすことこそが、本当の奉仕の本質である。  張ダビデ牧師は結論として、これらすべての教えが「ひざまずいて共に祈る」場面で締めくくられることを指摘する。パウロが長老たちと共に捧げた祈りには、最後の瞬間まで交わされる涙の交わりが込められている。互いに熱く泣き、口づけを交わしながらパウロを船まで見送る場面は、牧師と教会員の固い愛と信仰共同体の絆を象徴している。張ダビデ牧師は、このような愛を教会が回復しなければならないと教える。現代社会では個人主義や分裂が横行しているが、初代教会の原型とキリストの心を思い起こすならば、教会は再び互いのために心から泣いて祈る熱い共同体となれるのだという。  以上のように、張ダビデ牧師は使徒の働き20章13節から38節に記録されたパウロの旅路と彼が残した勧め、そして長老たちと交わされた熱い交わりが、今日の教会と信徒たちに与える示唆は非常に大きいと語る。パウロの生涯が常に謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして主イエス・キリストの恵みに対する証しで満ちていたように、私たちもそのような信仰の道を歩むべきである。主の教会は神が血代をもって買い取られた共同体であるゆえ、教会の指導者も信徒も互いに身を低くし、愛し合いながら、同時に福音に逆らう偽りには断固として立ち向かわねばならない。これこそパウロの足跡であり、また彼を範として張ダビデ牧師が強調する真の教会の姿なのである。  張ダビデ牧師が使徒の働き20章を中心に展開する牧会神学の核心は、パウロが示した「謙遜と涙」そして「福音伝達への全的な献身」の融合が、教会を支える最も強力な力だという点にある。謙遜は神の御前での態度、涙は隣人への愛から発したものであり、この二つが結びつくとき真の福音の働きが誕生する。張ダビデ牧師は、エペソ教会がこの二要素を完全に握っていた時はいかなる危機にも揺るがなかった一方、それを失ったとき徐々に分裂や葛藤、さらには異端の侵入まで経験したことを指摘する。それでは今日の教会は、この使徒の働きの本文をどのように適用し、どの道へ進むべきなのだろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、パウロが示した「聖霊に縛られた」従順の態度を深く黙想しようと提案する。使徒の働き20章22節でパウロは「今や私は心に迫られてエルサレムへ行くが、そこでどんなことが起こるかは知らない」と告白する。「心に迫られる」とは聖霊の強力な導きに従うことを意味する。これは働き人や信徒が日常において立てるあらゆる計画が、聖霊の導きに基づかなければならないことを含意する。多くの人は福音を伝えることに伴う危険や試練を恐れたり、自分の安定や快適さを優先的に考えがちである。しかしパウロのように聖霊に捉えられるならば、危険を前にしても退くのではなく、むしろより大胆な勇気と献身を発揮するようになる。張ダビデ牧師は、現代の教会がこのような強力な聖霊の充満と導きを渇望すべきだと力説する。制度的な安定や物質的な豊かさに安住してしまうと、教会はすぐに安逸に陥る。何をするにもまず神に問い、その召しに敏感に応答する霊性こそ、初代教会共同体が持っていた命の源だということを思い起こすべきなのである。  第二に、張ダビデ牧師は、パウロが説いた「悔い改めと信仰」というメッセージを再照明する。パウロは20章21節で「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと私たちの主イエス・キリストに対する信仰とを証ししてきた」と宣言する。ここで悔い改めと信仰は、福音宣教の核心構造となる。悔い改めは神の御前で罪を告白し、自分の生き方の方向を変えることであり、信仰はイエス・キリストを救い主として受け入れ、その十字架と復活によって新しいいのちを得ることである。ところが張ダビデ牧師は、教会がしばしば悔い改めを強調せずに信仰ばかりを偏って教えたり、あるいは信仰を行いや実をともなわない「個人的な信念」のように弱めてしまう問題を指摘する。パウロが伝えた福音はいつでも鋭く罪を指摘し、そこから離れなければ真の信仰は打ち立てられないと強調していた。これは教会の指導者たちが、説教や教えにおいて「不快だから」と悔い改めの要求を省いてはならないことを意味する。教会が教会らしくあるためには、信徒一人ひとりが依然として根深く残る罪性から離れるための霊的戦いを続け、その中でイエス・キリストの恵みを体験するとき、はじめて完全な信仰が完成するのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロがエペソの長老たちに与えた「聖霊があなたがたを監督者とされたことを思い起こせ」という勧めを通して、現代教会の指導者に求められる役割を強調する。監督者(長老、牧師)は、教会共同体とその群れを牧しなければならない。その牧しは単なる行政的管理や礼拝の主催ではなく、凶暴な狼や歪んだ言葉を語る者たちが教会を害することのないように見張る霊的な番人の役割を担うことを含む。張ダビデ牧師は、監督者になろうとする者は、まず神の御言葉によって自分自身を徹底的に照らし「自分の羊ではなく、主の羊を牧する」という畏れを持つべきだと述べる。教会が時に組織的・規模的・財政的に成長することを目標としやすいが、パウロが教える真の成長は、羊たちの魂が目覚め、神の御言葉を正しく握るところに現れるのだ。もし指導者が世俗的成功や名誉を求めて教会の魂を顧みることを怠るなら、すぐに内部でさまざまな不協和音や分裂が生じる。さらにはパウロが「あなたがたの中からも弟子たちを引き込み、自分のもとに従わせようとする者が出るだろう」とまで言及している。指導者が油断している間に、教会の中で新たな“教祖”的存在になろうと企む者や、信徒たちを歪んだ道へ導こうとする勢力が現れるという警告である。それゆえ教会指導者は常に目を覚まし、教会がしっかりと握るべき聖書的真理を守り抜かなければならない。  第四に、張ダビデ牧師は、パウロが自らの働きを「見張り人」の役割として規定し、罪の血の責任を自分には問えないと宣言する場面を取り上げ、教会が世に対してどのような責任を負うべきかを問う。教会は世に対する見張り人の存在である。ぬくぬくとした安息の場に集まって自分たちの安寧だけを追求する共同体ではなく、主の角笛を吹いて世界に警告し、福音を宣べ伝える見張り人となるべきである。もし教会が傍観や沈黙によって世の罪悪化を放置するなら、神はその責任を教会に問われるだろう。パウロは「私はあなたがたの血に対して責任がない」と宣言したが、それは彼が言うべきことをすべて言い、罪を指摘すべきときには指摘し、悔い改めを叫ぶべきときには叫び尽くしたからである。張ダビデ牧師は現代教会もこのパウロの姿勢を見習い、福音が強調するいのちの価値を守り抜くべきだと語る。その過程で拒絶や嘲笑を受けるかもしれないが、それでも語るべきメッセージははっきりと伝え、キリストの恵みのうちへと立ち返るように手を差し伸べなければならない。  第五に、張ダビデ牧師は、パウロが「私はだれの銀や金や衣服をも欲しがったことはない」と述べる部分から、教会指導者の物質観と清貧の美徳を再考する。今日の教会は様々な財政的圧力や世俗的欲望にさらされやすい。パウロは教会を建てる際に自費で働き、彼自身と同行する者たちまで養った。その姿勢は当時としても非常に特異な例だった。ユダヤ人のラビは弟子たちから日常的な必要の供給を受けることが当然視され、ギリシアの哲学者たちも後援を受けることが普通だった。しかしパウロは自ら生計を維持しながら、「与えるほうが受けるより幸いである」というイエスの教えを自らの生き方によって証明したのだ。張ダビデ牧師は、教会が財政を運営する際に世の「利益」論理にとらわれる危険性を警告する。さらに指導者が物質的な豊かさから教会に重荷を負わせたり、ひいては自分の私利私欲を満たすことが生じるならば、教会は急速に霊的力を失い、批判の的になる。したがってパウロが示したように自足し質素に生きる姿勢、物質を扱うときに常に宣教と救済、そして弱い人々を助ける働きに優先順位を置くことこそが聖書的な原理である。  結局、これらすべての勧めの最後は愛の交わりによって完成される。パウロとエペソの長老たちがひざまずいて祈り合い、互いに抱き合って涙を流したミレトの海辺の場面は、教会がどんな組織的プログラムや華やかな外的スペックよりも先に回復すべき霊的な愛を示している。張ダビデ牧師は、共同体の中にこのような熱い涙と切実な祈りが生きているときこそ、教会が世の中に福音の光を照らす真の証人として立ち上がれるのだ、と力説する。エペソの長老たちは、パウロの顔を二度と見ることができないと考え、大いに悲しんだが、その嘆きはある意味、強力な愛の現れでもあった。教会とは、まさにそのような霊的親密さ、互いを想う切実さによって結ばれた共同体である。張ダビデ牧師は、使徒の働き20章を通して、宣教の道は孤独に見えても決して一人ではないという事実を改めて強調する。その道には共に涙を流してくれる同労者がおり、そのすべてを見守ってくださる神がおられるからだ。  パウロのこの旅路と勧めは、現代にも同じように適用し得る。教会がその光を失わないためには、謙遜と涙、悔い改めと信仰、そして聖霊に縛られた従順が絶えず呼び覚まされなければならない。張ダビデ牧師はこれを教会の基本、つまり霊的DNAと呼んでいる。教会が成長し信徒数が増えても、この基本がなければ空虚な外形にとどまる。逆にどんなに小さく見える教会でも、この霊的DNAが生きていれば神の国の力が強力に現れる。したがって今の時代を生きる信徒たちは、パウロのミレトでの出来事を頭で理解するだけでなく、心で受け止め、実践へと移さなければならない。教会の中で愛の涙を流した経験がない者にとっては、パウロが長老たちと共に泣きながら祈ったという事実は馴染みが薄いかもしれない。しかしこの場面こそが初代教会に宿る本質的な愛の徴であり、私たちがその心を取り戻すとき、教会は世の中で再び生き生きと動き始める神の共同体となるのだ。  張ダビデ牧師は使徒の働き20章の御言葉を説き起こしながら、最終的に教会の未来と方向性に対して深いメッセージを届ける。パウロが歩んだ道と彼が伝え残した御言葉には、教会が守り続けるべき信仰の遺産がそのまま詰まっているからである。牧師は使徒の働きを、単に初代教会の歴史を示す古代文書として見るのではなく、現代教会が引き続き書き進めていく「開かれた書」として解釈する。使徒の働き28章の終わりで物語が締めくくられるのではなく、今日の教会こそが使徒の働きの延長線上で福音を証しし、神の国を拡大していく主役にならなければならないというのである。では、パウロとエペソの長老たちとのあいだで交わされたこの場面から、私たちが学ぶべき具体的な実践は何だろうか。  第一に、張ダビデ牧師は、教会共同体が必ず「御言葉中心」に立たなければならないと強調する。パウロは「私ははばからず、神のご計画のすべてを余すところなく伝えた」と語った。御言葉とは、人をただ慰めるために甘く飾ったり、あるいは権威的に脅して服従させる手段ではない。御言葉は魂を回復し、教会を堅固に建て上げ、同時に罪や不義を砕く力を持っている。ゆえに教会の指導者も信徒も日々御言葉の前に自身を顧み、そのみこころを悟って生活に適用しようと努力すべきである。もし教会が御言葉よりも世の知恵や流行する哲学に敏感になってしまうなら、たちまち使徒の働き20章でパウロが警告した「凶暴な狼」と「歪んだ言葉」に翻弄されるしかない。張ダビデ牧師は、したがって御言葉を握る信仰の訓練こそが、教会の中に生きた伝統として息づくべきだと力説する。  第二に、教会内部のリーダーシップがある程度整ったからといって、安心してはならない点を指摘する。エペソはパウロが3年も滞在して苦労して建てた教会であった。パウロが直接教えた長老たちがいただろうから、彼らの霊的レベルや管理能力は相当に高かったはずである。それにもかかわらずパウロは最後の勧めにおいて極めて厳しい警告を与える。「私が去った後、凶暴な狼が入り込んで群れを荒らす。もっと言えば、あなたがたの中からさえ弟子たちを引き込み、自分に従わせようとする者が起こるだろう」と。教会が一瞬でも油断すれば、よく建て上げられた共同体であっても崩れ得ることを示している。張ダビデ牧師は、だからこそ教会は絶えず目を覚まして祈り、自らを点検し、霊的な慢心に陥らぬよういつも気をつけなければならないと説く。どんなプログラムや奉仕、あるいは業務に慣れて上手になったとしても、それ自体が教会の安全装置にはならない。ひざまずき神に祈る霊性こそが教会を守る盾なのである。  第三に、張ダビデ牧師は、パウロが語る「福音の本質」を改めて確かめるよう促す。福音とは、パウロの言葉を借りれば「神の恵みの福音」である。律法という重い軛で人を縛る知らせではなく、世の多元的価値観をありのまま取り込んで洗練された形で装飾したメッセージでもない。ただ罪から離れてイエス・キリストを信じることで救いを得て、新しいいのちに生かされる、それが本質だ。張ダビデ牧師は、この福音こそが教会を教会たらしめ、人を変え、世を新しくする力なのだと力説する。問題はしばしば、私たちが福音に自分なりの解釈や伝統的慣習、あるいは文化的要素を「これも福音だ」と付け加えてしまうときに起きる。そうなると教会は複数の道へと分かれ、混乱に陥ってしまう。初代教会もユダヤ人と異邦人のあいだで律法問題をめぐり大きな衝突を経験したが、最終的には「恵みによって救われる」という福音の原則を再確認することで一致を保った。今日の教会も福音の本質が揺らがないよう、いつも御言葉と聖霊に頼って自らを省みなければならない。  第四に、教会が「受けるよりも与えるほうが幸いである」という主の言葉を実行することによって、世の中に仕える模範を示さねばならないと張ダビデ牧師は語る。社会が競争や利己主義に満ちていればいるほど、教会は逆に「分かち合い」と「献身」を通して神の愛を表現しなければならない。パウロが自らテントを作る仕事をして宣教費を賄った姿は、今日の教会リーダーに対しても物質的な欲に捉われずに働きに専念するよう強いチャレンジを投げかけている。張ダビデ牧師は、もちろんすべての教会指導者が自費で働かねばならないとは主張しない。しかし指導者の心の奥底には、「自分が受けることよりも与えることを心から喜んでいるか」という自己点検があるべきだという。教会の予算を使うときも、それが本当に福音を広め、信徒をケアするために最優先で用いられているのか、常に注意深く見極める必要がある。教会が物質を健全に扱えないならば、パウロが警告した「歪んだ言葉」と「凶暴な狼」は物質的利益を狙って教会を飲み込もうとするだろう。だからこそ教会は財政的透明性と清廉さを守り、必要とあればパウロのように労を惜しまぬ献身によって模範を示せるようでなければならない。  第五に、教会の中に熱い祈りと愛が回復されなければならない。パウロとエペソの長老たちが共に泣きながら祈り合い、互いを抱きしめながら最後の別れを交わすこの場面は、使徒の働き20章全体を荘厳な情景として締めくくる。張ダビデ牧師は「教会が本当に生き生きと動くためには、説教者と聞き手、あるいは牧師と信徒がこのように互いに心を開き合い、共に泣ける愛の交わりがなくてはならない」と言う。現代の教会は大型化が進み、プログラムやイベントは増えているが、その一方で信徒同士の率直な交わりが不足しがちである。教会の規模が大きくなるほど、このような霊的親密さと熱い愛の集いが失われる危険性は高まる。しかし初代教会はしばしば家庭集会の形を取り、食事を共にし、お互いの状態を見守りながら祈り合い、涙を流した。パウロがこれほどまでに愛を持って教えたエペソ共同体も、結局はそのような愛によるつながりを持っていたからこそ、パウロとの別れの際に大声で泣きながら彼を見送ったのである。この涙は単なる個人の感情放出ではなく、福音によって築かれた霊的な絆であった。張ダビデ牧師は、教会が本当に世に向かって出て行くためには、まず共同体の中でこのような愛の涙が生きていなければならないと強調する。互いに無関心な共同体は、決して世に対して福音を行動的に伝えることはできない。むしろ世の人々から「口先ばかりだ」と皮肉られるだけだろう。  総括すると、張ダビデ牧師は、使徒の働き20章13節から38節に描かれているパウロのミレトでの勧めこそ、教会が本質についていかに再武装すべきかを教えてくれる決定的な本文だと語る。パウロは長い宣教の旅の中で示した一切の遠慮ない福音宣教、謙遜と涙に象徴される牧会精神、聖霊に縛られた従順、そして見張り人としての責任をすべて圧縮的に示している。また教会指導者たちには偽りの教師を警戒し、羊の群れを守り、何より「神の恵みの御言葉」にしっかり立つよう勧める。これは1世紀のエペソ教会だけの課題ではない。21世紀を生きる今日の教会も同じようにこの勧めを握り、新たに学ばねばならない。  張ダビデ牧師は、使徒の働きが「続けて書き綴られるべき書」であることを繰り返し想起させながら、教会が使徒の働き29章、30章を綴っていくのだという象徴的な表現を用いる。その言葉はつまり、初代教会の純粋な信仰と共同体性が、現代においてもそのまま引き継がれるべきであり、福音によって据えられた働きの土台の上で教会が新たな歴史を創り出していくべきだという意味である。そのためには、パウロが示した中心価値――すなわち愛と献身、悔い改めと信仰、従順と警戒、分かち合いと祈り――が一つの身体のように連動しなければならない。もし教会がこの原理を見失えば、いくら外形的に成長しても、やがて霊的な心臓を失った殻のような共同体に成り下がる可能性がある。  張ダビデ牧師は最後に、この本文を愛するすべての信徒と牧会者が、パウロとエペソの長老たちがともにひざまずいて祈ったあの場面を、今日の現実の中でも再現しようと勧める。互いの首を抱き合い涙を流しながら、主の恵みを求めるあの祈りの場こそ、神の教会が回復する場であるからだ。そこで教会は神の贖いの御業を骨の髄まで刻み、「神がご自分の血で買い取られた」尊い共同体であることを再認識する。その再認識こそが教会を教会らしくし、この世で「光と塩」の使命を果たせる存在へと作り上げる。これが張ダビデ牧師が使徒の働き20章を解き明かしながら、現代の信仰共同体に伝えたい本質的なメッセージである。教会は一瞬たりとも謙遜と涙を失わず、福音に対する熱情を冷ませず、何より聖霊の導きのうちで祈りつつ互いを立て上げるべきなのだ。パウロがミレトで残した「最後の説教」と「共に流した涙の祈り」は、遠い1世紀に留まらず、今なお私たちの信仰を新たにし、教会を導く命の響きとして鳴り続けている。張ダビデ牧師は、その響きに耳を傾ける人々が増えるとき、教会はさらに新しくされ、主の再臨の道を備えていくと信じているのである。

Paul’s Farewell Sermon – Pastor David Jang

The central teaching that Pastor David Jang delivers from Acts 20 is the pastoral spirit of “humility and tears” which is revealed in Paul’s missionary journey—from Troas, through Assos, and finally to Miletus. This spirit most clearly appears in the fact that, despite countless hardships he endures while preaching God’s Word, Paul never retreats but … Read more