日ごとの糧を求める生き方 – 張ダビデ牧師

1. 「日ごとの糧」の意味と張ダビデ牧師の教え 私たちがよく口にする「主の祈り」は、マタイの福音書6章9節から13節に登場します。その中の「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」(マタイ6:11)という願いは、キリスト者であれば誰もがしばしば唱える大切な句です。しかし、多くの信徒は口先で唱えるだけで、その実際の意味を深く考えないまま過ごしてしまうことも少なくありません。これについて、張ダビデ牧師は多くの講義や説教で「神様が本当に“パンをください”と祈れと仰せになったとき、そのパンが何を意味するのかを深く黙想する必要がある」と強調しています。つまり「日ごとの糧」が指し示す具体的な次元は、私たちの生存に必要な物質的なものを含むと同時に、さらに深い霊的価値や天の御国への憧れまでも包含するというのです。 人々は「日ごとの糧」と聞いて霊的な糧を思い浮かべることがあります。もちろん霊的なみことばや恵みは絶対的に重要ですが、主の祈りの中でイエス様が直接教えてくださった「日ごとの糧」は、まずは非常に現実的な次元、すなわち日々食べて生きるために必須の糧を指しています。張ダビデ牧師は「私たちが『霊的な糧』だけを強調して、現実的に必要な糧を軽視するならば、それはイエス様が教えられた祈りのバランスを失うことになる」と述べています。なぜならイエス様はマタイ4章4節で「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる」と仰せられ、同時にマタイ6章の主の祈りでは「食べるものを求めなさい」とも明確におっしゃったからです。この絶妙なバランスの中で、私たちは二つの事実を共に受け取るべきなのです。神のみことばは人間の生活を支える根本的な霊的原理であり、しかし日々生きる上で欠かせないパン(物質的糧)も神に求めるべき重要な部分である、ということです。 では、なぜ「日ごとの糧」を求める祈りがそれほどまでに切実なのでしょうか。張ダビデ牧師は申命記8章3節のことばに注目します。「人はパンだけで生きるのではない。主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(要約)。この箇所は、神が荒野でマナを降らせた目的を示しています。マナを通して神の民は最低限の食糧を供給され、「神は実際に私たちの飢えを満たしてくださるお方だ」という真理を悟るようになります。しかし同時に、マナ自体が人生のすべてではなく、そのマナがどこから来たのかを認識し、神のみことばに従って生きるよう導くのが神ご自身だということを学ぶのです。張ダビデ牧師はここで「もしマナがなければ、イスラエルの民は飢えて死ぬしかなかった。しかしマナだけが与えられて、神のみことばがなかったならば、彼らは荒野生活の真の目的とアイデンティティを見失っただろう」と力説します。結局、パンも必要ですが、そのパンが単なる物質的豊かさの終着点ではなく、「神が与えてくださる生きた恵み」であることを知らなければなりません。だからこそ主の祈りの「日ごとの糧をお与えください」という句は、私たちが毎日食べたり着たりする経済的問題を神に委ねるように促しつつも、その供給の主が神であることを忘れてはならない、と命じているのです。 張ダビデ牧師はここで「パンとはすなわちお金のこと」とたとえることもあります。現代社会においてパンや餅は象徴的であり、実際に私たちの日常で最も身近にやりとりされる形は貨幣である場合が多いからです。ゆえに「日ごとの糧をお与えください」という願いの中には、「日々生きるために必要な経済的資源・物質をお与えください」という祈りが含まれています。すると「どれほど稼げばよいのか」「どれほどあれば十分なのか」という問いが生じるかもしれませんが、その限度を一律に定めることは難しいとしても、少なくともイエス様が提示された祈りの意図は「自分が日々必要とするだけでなく、周りの人々をも仕えることができる分を、正々堂々と求めなさい」ということです。どの程度の物質が適切でどの程度が過剰かは人によって異なるかもしれませんが、その中心にある精神は「自分の欲望や贅沢のためではなく、神の国と愛の実践のために必要な財政を求める」という点です。 主の祈りは大きく見ると、まず「天におられる私たちの父よ、み名があがめられますように。み国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という「二つの前提」から始まります。張ダビデ牧師は「この二つの前提が主の祈り全体の方向を決定づける」と語ります。神の御名があがめられること、そして神の国が来ること。これが私たちの人生の目的と存在理由を示しています。人は本来、神のかたちに造られ、神の国の完成に向けて自分の人生を捧げる存在なのです。そういう観点から「まず神の国とその義を求めよ」とおっしゃったイエス様のみことばは、至極当然であり、絶対的な命令だと言えます。そしてその命令に実際に従う過程で、私たちは「今日必要なパン」を求めることになるのです。張ダビデ牧師はこれを「神的優先順位の原理」と呼びます。神の国が先にあって、その次に物質が伴う。しかし物質を軽んじるのでもなく、むしろ神に大胆に求め、一方で求めたその物質を通して神の国に積極的に参与すべきだというのです。 このような思考法から導き出される核心メッセージがあります。申命記8章3節のみことばのように、「パンだけがすべてではない」と知ると同時に、「しかしパンも神が与えてくださらなければ享受できない」ことを悟る、ということです。つまりパンを軽んじるのではなく大切にしつつ、それが私たちの目的や人生のすべてになってしまうことを戒めるのです。このとき張ダビデ牧師は、イエス様が荒野で試みを受けられたとき(マタイ4:1-11)、「これらの石をパンに変えよ」というサタンの誘惑にどう対処されたかを改めて強調します。イエス様はパン自体を否定なさったわけではありませんが、「人はパンだけで生きるのではない」というみことばを引用し、パンより上にあるみことばの優先性を宣言されました。これこそが信徒の理想的な姿勢であり、日ごとの糧を求めつつも、その糧が神より上位に置かれないようにしなければならない、と張ダビデ牧師は説きます。 このように「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、信徒にとって極めて現実的な要望と霊的な意味が結びついたリクエストです。一方では「お腹がすいているので食べるものをください」と、子どもが親に自然に言うように神様に祈ることであり、他方では、そのパンを与えてくださる方が神様であることを忘れない、という信仰告白でもあります。張ダビデ牧師は特に、ルカの福音書11章に登場する「真夜中に友人のところへ行ってパンを三つ借りる」例えを引用し、これこそ日ごとの糧を求める祈りの基本姿勢を示していると解説します。具体的には、ルカ11章5節以下に言及されたこの物語には、夜遅くにやってきた客をもてなすために熱心にパンを願う人の姿が描かれます。その時間帯に訪ねること自体が失礼にあたり得ますが、友人にパンをくれとドアを叩く切実さ、そしてそれに応じずにはいられない愛と連帯が核心テーマです。最終的に、この切実さと愛が交わるとき、パンを持っている友人は戸を開けてパンを与えざるを得なくなるのです。 張ダビデ牧師はこの場面を「切実な祈りとは何か」をよく示す例だと言います。まさに真夜中にドアを叩きながら「友よ、友よ、パンを三つだけくれ」と叫ぶように、私たちも神の前に出て「神様、今日も私に必要なものを与えてください。私だけでなく、私の周りの不足や苦しんでいる人々を助けるために、もっと多くの資源が必要です」と祈るべきだというのです。ここで重要なのは「三つのパン」という表現に象徴性があること。自分が食べる一塊だけでなく、共に分かち合うパン、隣人を顧みるためのパンまでも求める姿勢を示しているのです。結局、これが「日ごとの糧を求める祈り」に込められた深い意図です。単に自分の飢えを満たすだけの祈りではなく、自分を取り囲む他者の不足をも一緒に抱え、共に解決しようとする愛の祈りなのです。 主はルカ11章9節以下で次のように語られます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」そして続く13節では「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っているのです。まして天の父は、求める者たちに聖霊をお与えにならないはずがあるでしょうか」と言われました。張ダビデ牧師はここで、「聖霊」こそ神がくださる最大の賜物であり、神の御霊を受けた信徒が日ごとの糧を求め、それを分かち合う生き方へと進む際の根本的原動力になると強調します。なぜなら、物質を得たとしても、それを自己満足と欲望を満たすために使うのか、それとも神の国のために分かち合い仕えるために使うのかは、まさに大きな岐路だからです。その分かれ道で、神が与えてくださる聖霊は「愛の心、他者を顧み思いやる心」を呼び起こす必須の要素となります。ですからイエス様は「何でも求めれば与えられる」と言って終わるのではなく、最終的に神の御霊を求めるところまで祈りを拡張すべきだと示してくださったのです。 では実際に、どうやって日ごとの糧を求め、また聖霊を受けてその糧を分かち合うことができるのでしょうか。張ダビデ牧師は「具体的な現実の中で日ごとの糧を求める祈り」の例として、マタイ17章24節以下に登場する「神殿税を納めるためのお金を魚の口から得た話」をよく挙げます。イエス様と弟子のペテロは神殿税を払わねばなりませんでしたが、手元に適切なお金がありませんでした。そのときイエス様は「海に釣り針を投げて、最初に上がってくる魚を捕まえて、その口を開けると1シケルの銀貨が見つかるから、それであなたと私の分を払いなさい」と命じられます。これは驚くべき奇跡です。しかしこの奇跡は単に「困ったとき空からお金が降ってくる」式の話ではなく、神の国を拡張するために必要が生じたとき、神がその不足を満たすことがおできになる、という象徴を示しています。張ダビデ牧師は「魚が銀貨をくわえていた」という一見荒唐無稽にも思えるエピソードを通して、私たちが日ごとの糧を求める祈りは決して空しくない、と悟るように言います。人の計算では不可能に見える状況も、神が働き始められれば変わり得るのです。ただし、そのお金を手にしたときに「それをどこへ使うのか」という問題、つまり神の国と愛の実践のために使う準備が整っているのかどうかが重要だ、というわけです。 これらを総合すると、「日ごとの糧を求める祈り」は、神の国が人生の絶対的優先順位だと認識する一方で、日々に必要な現実的要求を神に切に願えというイエス様の教えに基づいています。そして、その祈りの姿勢は欲望ではなく愛と分かち合い、隣人への思いから出発すべきです。このように「お金」自体を求めても、「それを愛をもって使う」という決断とともに求めるとき、神は「その願いどおり」、さらには「必要以上に」満たしてくださる方です。ルカ11章でイエス様が教えられたたとえの核心はそこにあり、張ダビデ牧師が常々力説する「信仰生活の実際的なスタイル」でもあるのです。 2. 求めよ、探せ、たたけ ― 祈りと愛の実践 ルカ11章9節のみことばである「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」は、キリスト者の祈りの生活を象徴的に描き出しています。ここで私たちは「求める者」になること、「探す者」になること、そして「たたく者」になることがどういう意味なのかを考えてみる必要があります。張ダビデ牧師はこの本文を解き明かしながら、「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」のフレーズが、それぞれ異なる次元の祈りの段階を示していると説きます。単に一度のリクエストで終わるのではなく、段階的に神に近づく姿勢を現わしているというのです。 第一に、「求めなさい」は、私たちが最も基本的に持つべき祈りの姿勢を意味します。先に見たように、具体的に「神様、今日食べる糧が必要です。経済的に苦しい状況にあります。助けてください」と祈る態度です。張ダビデ牧師はこの段階を「子どもの心情」と呼びます。子どもが親に「ママ、ご飯ちょうだい」とねだることを、未熟だとか卑しいと見る人はいません。それはむしろ親子の自然な関係を示すものです。しかし、多くの信徒は「神様にこんな些細な問題まで求めるのは、どこか未熟に思える」と感じて祈りをやめてしまう場合がある、と言います。張ダビデ牧師はこれを戒め、「イエス様ご自身がパンを求めよとおっしゃったのだから、当然求めなければならない。むしろ求めない方が高慢なのだ」と指摘します。具体的な生活の必要を率直に打ち明けることこそが、祈りの第一段階なのです。 第二に、「探しなさい」は、目に見える表面的な必要を超えて、その必要を通して私たちに教えようとなさる神の御心を見いだす次元です。たとえば日ごとの糧を求めるとしても、単に自分の飢えを満たすためで終わるのではなく、「この糧を通して、私は神の国にどう寄与し、隣人にどう愛を分かち合うことができるのか」という視点へと進む段階です。張ダビデ牧師は「ただ『ご飯をください』で終わるのではなく、このご飯を通して神が私の人生をどのように導かれるのか、その意味を探し求めることが大切だ」と語ります。だからこそ祈りはしばしば「黙想」と結びつきます。ご飯をくださいと祈ったとき、神がその糧を与えてくださる奇跡よりもっと大切なのは、その過程を通して私たちの心が変えられ、成熟していくことです。不足や苦しみの中で神が働かれる様子を探し出し、そのプロセスを経て私たちの信仰は成長し、最終的にはすべてが神の栄光へと結びつくのです。これが「探す祈り」の段階と言えます。 第三に、「たたきなさい」は、さらに能動的・積極的な姿勢を意味します。張ダビデ牧師はこれを「堅固な信仰をもって神に近づくこと」と説明します。真夜中に鍵のかかった戸をたたくには相当な勇気と切実さが必要です。先に述べた例え話のように、深夜に友人の家を訪ねる者は、不躾と思われる可能性や、断られるかもしれない不安を抱えながらも、「友よ、パンを三つだけくれ」と願い続けました。そしてその友人はとうとう戸を開け、三つ以上のものを与え得たのです。私たちが祈るときも同じです。まるで道が塞がれているかのように見える状況、全く解決策が見いだせない状況でも、信仰を失わず粘り強く戸をたたく姿勢が求められます。張ダビデ牧師はこれを「強く求めること(強請)」と言い、「神に愛の心で強く求めるとき、ついには神が戸を開けてくださる。そのようにして開かれる戸は、私たちが想像していた以上の恵みと供給へとつながっていく」と述べます。 しかし、この全過程で見落としてはならないのが「愛」です。愛がない祈りは欲望の祈りになりかねません。より多く持ちたい、もっと成功や富を享受したい、ときには隣人を顧みず自分の満足だけを追いかけて祈る場合もありうるからです。そこでイエス様はルカ11章の「友人の例え」で、真夜中に願いに来た人が、自分一人の空腹を満たすためではなく、「お客をもてなす」ためにパンを三つ求めた場面を提示されました。張ダビデ牧師は「隣人をもてなすために、より多くの糧が自分に必要だという強い願いは、神が喜んで受け止めてくださる祈り」だと解釈します。愛を動機とする願い、神の国の拡張を目指す願い、そして隣人を生かすための願い。これこそ主が教えてくださった祈りの最も重要な原理なのです。 結局、「日ごとの糧」を求めても、その糧がどこから来て、なぜ必要なのかをはっきり理解していなければなりません。「神様、私にパンをください。そして私はそのパンをもって隣人の飢えを満たす者となることができますように」という姿勢こそ、張ダビデ牧師が示す祈りの実践的な例です。「私たちに日ごとの糧をお与えください」という主の祈りの一句は、現代において飢えに苦しむ隣人の問題や福音伝道のために必要な財源、教会共同体内の働き人や宣教師の生活費など、具体的かつ聖なる目標を抱いて熱心に願うよう私たちを招きます。このように祈りは単に生活の問題を解決するための手段ではなく、愛を行動に移す霊的原動力なのです。 さらに、旧約と新約の歴史を通して神の国のために自発的に財を寄付したり、人生を捧げた多くの人々の実例からも、この真理を確認できます。初代教会の時代にも、所有物を売って使徒たちの足もとに置き(使徒4:34-35)、共同体がそれを必要に応じて分かち合ったとき、驚くべきリバイバルと愛のわざが広がりました。張ダビデ牧師はこうした事例を根拠に、「神が与えてくださる日ごとの糧」を正しく理解した人は、その財を握りしめて自分のためだけに使うのではなく、使徒言行録の教会のように、必要に応じて喜んで手放すことができる、と説きます。分かち合いの中にこそ、真の喜びと豊かさが存在するからです。そこで私たちは主が「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)と仰せられた意味を改めて噛みしめることになるでしょう。求めつつも、分かち合うために求める人は誰でも「求めたとおり受け取る」祝福の器となり得るのです。 3. 神の国と赦し、そして信仰の方向 主の祈りの流れを振り返ると、「御国が来ますように」という祈りがまずあり、続いて「日ごとの糧をお与えください」が続き、その後「私たちも自分に負い目のある人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」という赦しの祈りへと展開します。ルカ11章では、もう少し簡潔に三つの祈りの課題が同時に示されます。すなわち「神の国が来るように」「日ごとの糧を与えてください」「私たちが負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪をも赦してください」という内容です。張ダビデ牧師はこれらを「祈りの三本柱」と呼びます。信徒の生活を支える三つの重要な柱が、「神の国」「物質的・霊的糧の供給」、そして「赦し」なのです。 まず、神の国は私たちの存在理由と究極的な目標となります。神は初めに人間を創造され、その目的は「神の国を共に築き上げる同労者」としての存在となることです。イエス様は公生涯を始められるときから「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫ばれ、すべての教えの中心に「神の国(キングダム)」を置かれました。張ダビデ牧師は、私たちが日ごとの糧を求めるのも最終的にはこの神の国ビジョンの中でなされるべきだと、繰り返し強調します。「神の国」という壮大な絵の中で、私は今日必要な糧を求め、その糧をもって神の国のために奉仕し、その中で喜びを得る――という循環構造が生まれるのです。もし神の国が抜け落ちた状態で、単に「自分の生活だけ楽にしてください」と願うなら、祈りは歪んでしまうでしょう。 第二に、赦しの問題です。ルカ11章4節を見ると、「私たちは自分に負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」とあります。これは人間関係の問題であり、同時に人間の内部問題でもあります。私たちの罪が赦されなければ、私たちは神の前に大胆に立つことができません。そして、私たちが他人を赦せないならば、神が与えてくださった赦しを十分に味わうことができません。張ダビデ牧師は、赦しこそ祈りにおいて「核心中の核心」だと語ります。どんなに物質的必要を満たしても、さらに神の国のビジョンを掲げて熱心に奉仕しても、心の奥底に赦せない思いがあるならば、それが結局、関係を壊し、共同体を破壊してしまうからです。他者との関係で生まれた傷や恨み、憎しみが解決されない限り、最終的には自分自身も罪悪感や憎悪に囚われて自由を得られません。ゆえに赦しは霊的自由への道であり、真の神の国共同体の出発点でもあるのです。 張ダビデ牧師は、ここで言う「赦し」が単なる感情的な次元や道徳的マナー以上のものだと語ります。神がイエス・キリストを通して示された「十字架の赦し」は、人間には到底返済不可能な負債を免除されたも同然のことです。この計り知れない恵みを思い起こすならば、私たちも他人を赦さない理由はなく、またその人との関係を回復するために祈らずにいられないはずです。このようにして「神の赦し」と「私たちの赦し」が連動して回転するとき、主の祈りは完成度を持ちます。実際、「赦し」が抜けた「神の国」は、正義と公義を叫びながらも、結果的に律法主義に陥る危険があり、「赦し」が抜けた「日ごとの糧を求める祈り」は、自己中心的かつ貪欲な方向へ行きがちです。ゆえに、この三本柱―「国」「糧」「赦し」―が一体となって、健全な信仰の枠組みを形成するのです。 具体的に神の国を求める祈りとは、この地上ですでに神の支配が始まっていると信じ、その支配が完成する未来を見据えて生きる姿勢を意味します。張ダビデ牧師は「歴史意識」という言葉をたびたび用い、「人類の歴史は最終的に神の国という結論に収束していく。この壮大な方向性を理解し、そこに参加する者こそ賢い信徒だ」と言います。私たちが現在の生活において、目に見えるものだけを基準にするときには、ときに人生の目標を見失いがちであり、世の数多くの誘惑や恐れにより落胆してしまいやすい。しかし、「天においてすでに成し遂げられたみこころ」が必ずこの地において実現する、という信仰があるならば、私たちはどんな状況にあっても希望を失わずにいられます。そしてその信仰は祈りによって具体化されるのです。神の国をさらに前進させてください、御心が天において成し遂げられているように私たちの職場や家庭や社会においても実現するようにしてください、教会と世界の隅々で神のご支配が表されるようにしてください――これが神の国を求める祈りの本質です。 こうして神の国と赦しの原動力の中で日ごとの糧を求めるとき、私たちは日々の生活で奇跡を体験できるでしょう。あるいは奇跡が起こらなくても、神が常に必要なだけは与えてくださるという平安の中を生きることができます。「今日も食べるものがあること」に感謝し、その中から少しでも隣人と分かち合えることに感謝する。そして一見ささやかな「ご飯一杯を分かち合う行為」の中にも、イエス様の愛が浸透するならば、それがすなわち神の国の現実的拡張となるのです。張ダビデ牧師は、このように「愛が込められた小さな行為が積み重なり、教会を建て上げ、社会を変革し、最終的には神の国の前進に寄与していく」と繰り返し強調しています。 結局、信仰の方向とは「神の御名があがめられ、御国とみこころがこの地に成就し、そのプロセスの中で私たちに日ごとの糧が与えられ、互いに赦しと愛が実践される」その全体に焦点を合わせることです。私たちはこの道を歩む中で、ときに失敗や挫折を経験するでしょう。物質的豊かさを求めても簡単には解決しない時があるかもしれないし、赦したいと思っても感情がそう簡単にはほどけず苦しむこともあるでしょう。しかしイエス様の「求めよ、探せ、たたけ」ということばは、私たちが絶えず祈りの場に出て行く限り、最終的に神が応えてくださるという約束です。張ダビデ牧師は「神が初めから今に至るまで恵みを注いできた方法は驚くほど一貫している。祈る者にご自身を現わし、聖霊を満たして、分かち合い、仕え、赦すことができるようにしてくださるのだ」と教えます。だからこそ私たちの祈りの生活こそが信仰生活の根幹であり、その祈りを通じて私たちは神の国の視点と日ごとの糧をいただく恵み、そして赦しの力を経験するのです。 また、張ダビデ牧師は「神様が私たちに望んでおられるのは美辞麗句や抽象的な告白ではなく、実際の生活での愛の実践である」と語ります。新約聖書の至るところでも「ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって行いなさい」(Ⅰヨハネ3:18)と教えられています。教会共同体の中で、家庭の中で、また社会の中で、私たちが具体的に「自分のもの」と思っている時間や才能、財産などを差し出し合って互いに仕えるとき、キリストの愛が証しされます。したがって「私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、「主よ、この糧をもって世に出て、あなたの愛を分かち合う者としてください」という決意へと拡張されなければなりません。これこそ私たちが生活をもって捧げる礼拝であり、神の国がこの地に実現していく通路とも言えます。 まとめると、主の祈りの「私たちに日ごとの糧をお与えください」という一文は、次のような多層的な意味を同時に内包しています。第一に、私たちの現実的な必要に対する神の供給を切実に願いなさい、ということ。第二に、その願いの中には神の国と隣人への愛が込められていなければならないこと。第三に、これを通して赦しと愛が実現されるべきこと。第四に、最終的にその祈りの原動力は聖霊であり、私たちが求めるすべてのものの中で最も尊いのは「神との親密さ」であることを忘れてはならないということ。張ダビデ牧師は、このすべての過程を通じて「信徒は愛のモード(loving mode)へと切り替えられる」と説明します。最初は所有のため(having mode)に祈っていたとしても、聖霊の働きの中で徐々に「存在(being mode)」を悟り、最終的には「愛(loving mode)」へと進むことができる、というのです。 特に「三つのパン」の例えから、私たちは「自分一人だけが食べるためのパンではなく、共に分かち合い、隣人を立て上げる糧を求める祈り」がいかに尊いかを知ることができます。真夜中にパンを求めて戸をたたく行為は、自分だけが得をしようとする利己的な行動ではありません。客を迎え、もてなさなければならない状況で、「どうしても彼らの必要を満たしてあげたい」という愛が、その戸をたたかせたのです。このような思いをもって祈るとき、神は私たちが予想し得ない方法で戸を開いてくださり、「その願いどおりに」さらには「必要以上に」与えてくださると約束なさいます(ルカ11:8)。 要するに、主の祈りの中の「日ごとの糧をお与えください」という願いは、表面的で一回きりの祈りではなく、日々の生活の中で神と共に歩む霊的習慣となります。私たちに本当に切実に必要なものは何なのかを改めて問いかけ、同時に私たちの関心を隣人や共同体へと広げてくれます。神が与えてくださる物質や健康、そしてエネルギーは、すべて隣人愛を実践する道具として用いられるべきだからです。さらに張ダビデ牧師は「教会の歴史を振り返ると、神を熱烈に愛し、心から祈る人々に神はあふれるほどに与えて貧しい人を助け、福音を伝える者たちを支える道へと導かれた。その流れに私たちも歩んでいる」と要約します。まさに、このような生き方こそが「神の御名をあがめ、御国と御心をこの地に実現する」証しなのです。 最後に、私たちはルカ11章13節の結論を覚えておく必要があります。「まして天の父が、求める者に聖霊を与えてくださらないはずがあるでしょうか」。神は日ごとの糧をはじめ、私たちの人生に必要なすべてを惜しみなく与えてくださる方ですが、最終的に最も尊い賜物は聖霊です。その聖霊が臨まれるとき、私たちは単なる人生の小さな問題解決を超えて、神の国とその義、そして赦しを生きる者へと変えられていきます。張ダビデ牧師は「聖霊に満たされたキリスト者は、結局イエス様がなさったとおり仕え、愛し、赦し、福音を伝える人へと変貌せざるを得ない。それこそ私たちの存在目的なのだから」と言います。こうして聖霊の賜物を受けるならば、私たちが求めるすべての日ごとの糧もまた愛の通路となり、神の栄光をあらわす媒介となるのです。 結局、「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という短い祈りは、信徒の生活全般を貫く重要な信仰告白であり、同時に実践的な願いです。私たちは毎日この祈りを唱えつつ、その中に込められた神の心をより深く黙想すべきでしょう。申命記8章のマナの物語を通しても、マタイ6章や7章の教えを通しても、ルカ11章の「真夜中の友人」の例えを通しても確認できるのは、神が私たちの日常と生全体を見守り、そのうえで神の国を共に築くことを望んでおられるという事実です。張ダビデ牧師はこれらのみことばを結びつけつつ、「神の御名があがめられ、御国が来て、私たちに日ごとの糧を満たされるプロセスを通して、私たちの存在はついに『愛の通路』へと変えられる」と繰り返し強調します。私たちがこの原理をしっかり掴み、日々祈りをもって神に近づくならば、不足することはなく、むしろあふれるほど豊かな恵みを味わうことができるでしょう。それこそがイエス様が弟子たちに遺された教えであり、張ダビデ牧師が伝えようとしている核心的メッセージです。そしてこのメッセージを実践する生き方こそ、神が私たちに計画された「神の国を共に築く同労者」となる道なのです。

Living a Life that Asks for Daily Bread – Pastor David Jang

1. The Meaning of Daily Bread and the Teachings of Pastor David Jang What we commonly call the “Lord’s Prayer” appears in Matthew 6:9–13. Among those verses, the petition “Give us this day our daily bread” (Matt. 6:11) is a precious prayer that every Christian frequently recites. Yet many believers sometimes fail to ponder concretely … Read more

Una vida que busca el pan de cada día – Pastor David Jang

1. El significado del pan de cada día y la enseñanza del pastor David Jang La oración que comúnmente llamamos “El Padrenuestro” aparece en Mateo 6:9-13. Dentro de ella, la petición “Danos hoy nuestro pan de cada día” (Mt 6:11) es un versículo valioso que todos los cristianos repiten con frecuencia. Sin embargo, sucede a … Read more

일용할 양식을 구하는 삶 – 장재형목사

1. 일용할 양식의 의미와 장재형 목사의 가르침 우리가 흔히 말하는 ‘주기도문’은 마태복음 6장 9절에서 13절 사이에 등장하며, 이 중 “오늘 우리에게 일용할 양식을 주시옵고”(마 6:11)라는 간구는 그리스도인이라면 누구나 자주 입에 올리는 귀중한 구절이다. 그런데 많은 신자가 입으로만 암송하고 실제 삶에서는 이 구절이 어떤 의미인지 구체적으로 곱씹지 못할 때가 많다. 이를 두고 장재형 목사는 여러 강의와 설교에서 “하나님께서 실제로 떡(빵)을 달라고 기도하라고 하셨을 때, 우리는 과연 그 빵이 무엇을 의미하는가를 깊이 묵상해야 … Read more

Le mystère de l’union – David Jang

Ⅰ. Le péché transmis depuis Adam et le problème de l’existence humaine Le passage de Romains 5.12-21 est un texte central où Paul met en contraste Adam et Jésus-Christ, tous deux présentés comme des « représentants » qui lient respectivement l’humanité au péché et à la mort, ou à la justice et à la vie. … Read more

联结的奥秘 – 张大卫牧师

Ⅰ. 从亚当而来的罪之转嫁与人类生存的困境 罗马书5章12节到21节是保罗将亚当与耶稣基督进行对比,并说明这两位分别成为把人类捆绑在罪与死里,或义与生命里的“代表”的关键经文。张大卫牧师在解说这段经文时,特别透过“一个人的犯罪使众人成为罪人,另一个人的顺服使许多人获得生命”这一逻辑,阐述了福音的大能以及“连带性”的重要。此处也直接关联到基督教神学中关乎原罪论(原罪论)的重大议题:保罗教导说,所有人的罪被“转嫁”到每个人身上,正是源于那一位始祖亚当。 一般现代人常会对“为什么亚当犯的罪要算在我头上,导致我也成为罪人?”这一点产生抵触。然而,圣经宣告:人类普遍的罪性(sinfulness),亦即无法从本质上摆脱罪的状态,正是始于第一人亚当的悖逆。张大卫牧师解释说:“我们在现实生活中切身感受到,自己所处的世界与上帝原先在伊甸所设计的美好图景相距甚远;在这个死亡为王、充满不公与暴力的世界里生存,本身就意味着我们在灵性层面已经是死的。而经上见证,这死亡的起源,正是从亚当的罪开始。”依据圣经的教导,亚当因为不信神的话语而陷入悖逆,他的不顺服打开了罪的闸门,让死亡与毁灭得以侵入人类。于是,作为“代表”,亚当所犯之罪的后果传染给他所有的后裔,这也成为人类普遍饱尝痛苦和死亡的根本原因。 张大卫牧师在谈到“既然人类确实也在犯罪,为何圣经仍如此强调人无从抗辩自己清白无罪”时指出:对罪与死亡的神圣审判,并不只是单纯在道德上判断对错,而是关乎“存有论上的状态”。我们或许会说:“我现在还活着,所以并没有死”,但保罗从属灵并终极的层面,明确主张人已经“在死里”。从这个角度看,原罪是所有人无法回避的罪的轭。我们一出生,便活在与神旨意无关的堕落世界里。 保罗又说“罪在律法之前已在世上”。这里所指的律法是摩西从神那里领受的诫命。在那律法尚未被赐下之前,罪就已经存在。只是人们因为还没有明确的法典,不一定清晰地意识到这是罪。但正如该隐杀了亚伯、亚当吃了禁果,这些在没有律法之前就已是罪行,因其本质就是对神的不信和悖逆。人的良心自然而然会知道“杀人、背叛、不服从”是不对的。只是当律法出现后,就从“法律”与“正式”的层面更加明确地定义了罪。然而,律法本身并不能彻底解放人脱离罪。它的功能在于将罪昭然若揭,却无力消除罪或给予救赎。 保罗继续谈到从亚当到摩西、亦即律法赐下之前的那段时期,死亡已经“作王”了。好似独裁者般的死亡权势,压迫了所有人类。这让我们想起保罗的另一表述:“人是罪的奴隶”,从而可见所有人都无力自救,而不得不面对罪与死亡的残酷统治。张大卫牧师用“罪与死亡的结构性统治”来说明现代人同样能轻易明白的真理:这并非仅仅指社会结构或个人道德上的脆弱,更深一层看,整个人类都被“死亡的力量”所奴役。这就证明我们其实一直在被“逐出伊甸”的状态中存活,是不争的历史事实。 圣经称亚当是“那以后要来之人的预象”。正如亚当对整个人类产生了决定性的影响,同样,基督也要扮演“第二位或最后一位亚当”的角色,对所有属祂的人带来决定性的影响。因此,罗马书5章14节保罗说“亚当乃是那以后要来之人的预象”,其意义在于:第一人亚当作为罪的始祖,将罪与死亡传递给所有后裔;而即将到来的那一位(基督)则会反向地将义与生命赐给所有信祂的人。张大卫牧师在讲道时强调:“我们每日好像都在过‘自己的生活’,似乎依照自己的意志行事,但实际上,我们与生俱来就受亚当的影响,被罪驱使,似乎别无选择。然而另外还有一位新亚当——耶稣基督——祂打破这种统治,赐给我们新的生命。”这恰恰是保罗强有力的福音宣告,在罪与死亡的压倒性现实中,为我们开辟了一条新出路。 保罗接着说,律法是为要使过犯显多,也就是为了更清楚地揭示罪的真相而介入历史(罗马书5章20节)。这与“罪在那里显多,恩典就更显多”这句著名经文紧密相连。无论罪如何堆积,死亡如何吞噬众人,神的恩典都能以更大的权能介入。张大卫牧师解释道:“人越是陷在无法自拔的罪的深渊,就越显出神的恩典何等浩大、强大。”换言之,律法越是将我们的罪曝露得淋漓尽致,使我们深感罪疚与恐惧,同时也让我们更明白在基督里展开的恩典世界是何等绝对而有力。 “因亚当一人犯罪而全人类沦为罪人”这一宣告在现代高度个人主义的社会里,并不容易被接受。不过圣经不断强调“连带性”。即便对不熟悉群体思维的人来说,“当国家代表签订条约时,整个国民都要受到影响”这一例子并不难理解。古代近东的历史与社会背景也普遍视“一人”的代表性会影响整体,这是一种理所当然的观念。张大卫牧师对那些排斥原罪概念的人进一步说明:“其实这解释最终成为说明‘那位新亚当——耶稣所成就的义与生命,会以何种方式转嫁给我们’的关键所在。”换言之,若我们拒绝承认这种代表性与连带性的原理,就只能同时拒绝福音所提供的救恩逻辑。 原罪论的要点在于:人先天就无法避免地处于罪的支配之下。凭借人的自由意志与善行,根本无法彻底解决这一问题。我们生来便受罪的辖制,单靠伦理或道德上的良善,不可能达到真正的义。换句话说,“人绝无可能凭自己的力量达到救恩”,这是新教救恩论的核心。张大卫牧师的讲道同样从这一角度呼吁“不要回避原罪论”。此举并非为了贬低人的价值或诉诸人的软弱,而是要更深地彰显基督救恩何等绝对并何等宝贵。 所以,这第一小主题的结论非常清晰:从亚当而来的罪与死亡,早已成为人类生存中庞大而根本的困境;律法则更加突显了这罪恶与宣告了审判,把我们逼到绝境。但这绝望的景况并不等于完全屏蔽了希望。相反,罪的暴露恰恰令我们能看见基督所赐的恩典与救恩之力。从亚当承袭而来的罪或许令人感觉难以接受,但它正是我们人类生存的起点,也是理解耶稣基督救赎大工的必经之门。张大卫牧师对此着重强调:“亚当所展开的罪之世界虽然看似牢固不可撼动,但神却隐藏了远比这更强大、更宏伟的恩典计划。”紧接着,他在第二小主题中带领听者进入耶稣基督的顺服与义的转嫁这一真理。 Ⅱ. 耶稣基督的顺服与义的转嫁 保罗在罗马书5章15节到19节之间,细腻地对比了亚当与基督。若通过“一人(亚当)的悖逆”罪与死临到全人类,那么借着“另一人(耶稣基督)的顺服”,义与生命便能临到信祂的人。张大卫牧师在其讲道与著作中,将此归纳为“如同原罪(Original Sin)是藉着亚当而转嫁,那么如今基督的义(Original Righteousness)也转嫁给了我们”。教会传统常把这种义的转嫁与“因信称义(justification by faith)”的教义相联系。 这里所谓“耶稣基督一个人的顺服”,主要指祂在十字架上的代赎牺牲。保罗在哥林多前书15章45节之后也对比了“起初的人亚当”与“末后的亚当(基督)”,说:第一亚当出自尘土,末后亚当来自天上。第一亚当成了有生命的活人(a living being),末后亚当则成了赐生命的灵(a life-giving spirit)。活人本身虽拥有生命,却无法将生命源源不断地传递给别人;而赐生命的灵则具备把生命分予他人的根源能力。因此,保罗格外强调耶稣基督的死与复活“能使我们获得生命”。张大卫牧师总结:“基督的顺服,不仅是道德榜样;它乃是把陷于罪中的人类永远拯救出来的生命根源,也是把神的义转嫁给我们的决定性事件。” 由原罪论引出的“转嫁”概念,至耶稣基督的十字架事件便延伸为“义的转嫁”。亚当将罪转嫁给人类,是基于他作为‘代表’的身份;基督将祂所成就的义转嫁给我们,同样遵循这一原则。代表亦是元首,他的成就直接惠及所有属于他的人。对此,张大卫牧师指出:“代表与连带这两个概念在整个圣经中至关重要。或许我们会觉得这并不公平,但神原本就创造人类为共同体。一体、同一血脉、同一群体的意识,在基督教的世界观里占据极为核心的位置。” 神的救恩计划先是藉着律法显明了人的无能为力,随后在耶稣基督里得以成全。律法能显明罪,却无法根除罪;而耶稣则亲自担当罪的刑罚,代替我们受死,为我们开辟“称我们为义”之路。保罗在罗马书3章24-25节写道:“如今却蒙神的恩典,因耶稣基督里的救赎,就白白地称义。神设立耶稣作挽回祭,是凭着祂的血,藉着人的信……”对此,张大卫牧师常引用三种画面:第一,如同在奴隶市场中支付赎价,使奴隶获得自由的“赎买(redemption)”视角;第二,如同在法庭上被宣告无罪的“称义(justification)”视角;第三,与祭祀相关的、替罪者作献祭除去罪的“赎罪(atonement)”或“挽回祭(propitiation)”视角。耶稣基督的十字架同时涵盖了这些面向,根基在于祂作我们代表,为我们流了宝血,并以顺服取代了我们的悖逆。 圣经各处也提到“福分的连带性”,而耶稣的顺服更是将之推向决定性的完成。早在旧约,神应许亚伯拉罕立约,并宣告“万族要因你和你的后裔得福”。这并非只停留在亚伯拉罕一人身上,而是通过他的后代——整个以色列民族,乃至于全世界所享受的连绵不断的福气。张大卫牧师解释:“神与亚伯拉罕立的约,在新约时代由耶稣基督得以完全成就。所有归属耶稣、相信祂的人,都在这连带关系里同蒙祝福。”因此,耶稣的顺服是一次性、历史性的事件,却超越时空地适用于所有信徒。 然而,“义的转嫁”并非自动强加于所有人身上,而是必须借着“信心(faith)”个人地接受与应用到自己身上。保罗宣告:唯有“藉着对基督耶稣的信”才能得称为义。这意味着我们必须与作为“代表”的基督产生个人的联结(union)。张大卫牧师指出:“亚当的罪是无论你是否同意,都自然地传给所有人生而具有;但耶稣的义则透过‘信心’向我们敞开。在此可见恩典的悖论:我们虽在出生之时便带着亚当遗传的罪性,但耶稣却用恩典赐予我们‘义的礼物’,而接收此礼物的渠道,就是我们的信心,而非任何功劳或努力。” 保罗继续宣告:“罪如何借着死作王,恩典也要借着义作王,使人藉着我们主耶稣基督得永生”(罗马书5章21节)。这表明耶稣基督的顺服大能,已胜过亚当不顺服的影响,并改变了“王权”的归属。过去是死亡在执掌王权,如今却是恩典在执掌王权。张大卫牧师评论道:“福音不仅仅洗净我们的罪,更把一种截然新的统治秩序带入我们生命。我们不再是罪的奴仆,而是受‘生命之王’治理的天国子民。” 在罗马书5章18-19节,保罗总结:“因一人的悖逆,众人成为罪人;照样,因一人的顺服,众人也要成为义人。”张大卫牧师将这段视为最精要的概括。经文在承认罪与死普遍性的同时,又宣告义与生命更普遍、更强大。耶稣基督顺服所带来的福祉无人能拦阻,而其能力与权柄可被比作“神从创造世界起就预备的‘种子改良计划’”。悖逆的种子只会结出死亡与腐败,顺服的种子则会带来义与生命。 旧约《以赛亚书》第53章中提到的“受苦的仆人”的预言也同理:“祂虽受病痛和死亡之苦,但会‘看见后裔’。这个受苦仆人的死亡,会带来新的子嗣、新的民族。”(参见赛53:10)这并非指肉身的后代,而是因着仆人替罪之工所生的“属灵后裔”,即信奉并跟随弥赛亚的人群。张大卫牧师将此称作“种子改良论”:我们原本从亚当承受了罪与死亡的基因,如今则能从基督承继“义与生命”的基因,成为“新造的人”。加拉太书2章20节“我已经与基督同钉十字架,现在活着的不再是我,乃是基督在我里面活着”更是对此的神学凝练。我们虽是亚当的后裔出生,却因与耶稣的连结(union)而成为基督的后裔,得以在义与生命中活着。 因此,这第二个小主题回答了“耶稣基督的顺服及由此转嫁的义,如何使我们脱离罪与死的辖制,并为我们开启新生命的维度”。我们原在亚当之中、属于罪与死的国度;现借耶稣的十字架与复活,转移到恩典与生命的国度。这一切借着信心应用在个人的生命里。张大卫牧师强调:“我们不应将此伟大真理仅停留在教义知识层面,而要在日常生活与信仰实践中实际活出来。因为如今不再是罪,而是恩典来掌管我们;不再是死亡,而是生命在我们里面执权。” Ⅲ. 代表理论与连结理论的现实意义 罗马书5章12-21节展示的核心框架,在于保罗透过“亚当”与“基督”两大人物解释人类历史。这在神学上被称作“代表理论(Doctrine of Representation)”或“联邦主义(Federal Headship Theory)”:亚当作为人类的“元首(federal head)”转嫁了罪,而基督作为教会的元首转嫁了义。另一个相关概念是“连结理论(Principle of Corporate Solidarity)”,意指我们既与亚当相连,也与基督相连。 张大卫牧师说道:“我们在日常生活中,也能看到一个人如何对历史产生巨大影响。例如:国家元首签订某项外交协议,其后果适用于所有国民;或一个家庭的代表某个决定,就可能导致整个家族的毁灭或兴旺。这些都印证了一个事实——代表与连结的神学原理绝不是抽象理论。”旧约中也有类似事例:可拉的叛逆使他全家同受灭亡,亚干犯罪亦牵连他及相关人受惩罚,显示罪不只是个人层面的问题,而会连带波及整个群体。在古代共同体社会里,这种“罪与惩罚、福与祝福借由关键人物波及全体”的结构,堪称理所当然。 此原则同时也成为解释福音核心的钥匙。如果我们明白亚当的过犯是如何波及所有人,就能更容易了解基督的救恩如何临到一切相信祂的人,因为“代表者”的行为会让其所包含的团体一同参与。张大卫牧师强调:“我们要以现实感来理解‘代表’与‘连结’。在当今个人主义盛行的时代,人常将一切视作‘我和神’之间的个人关系,但圣经却彻底奠基在共同体的连带之上。起初,我们就在亚当里;而如今,我们可以在基督里。我们只能在这两者之中做出抉择。” 在引用约翰福音15章耶稣的话——“我是真葡萄树,你们是枝子”时,保罗阐明,我们的人生会因所“嫁接”的“树”不同,而结出不同的果子。若我们附着在亚当之树上,就只会结出罪与死亡之果;若我们嫁接在基督之树上,就能结出义与生命之果。“住在(abide in)基督里”并不只是上教会或参加敬拜这么简单,而是与祂真正“合一”,让祂的生命力在我们里面运行。张大卫牧师说:“连结理论并不只是神学知识,它能真实地改变我们的生命状态。过去属亚当时,犯罪乃理所当然;但现在只要我们住在基督里,祂的义、祂的爱、祂的能力会流入我们,使我们能够以全然不同的样式生活。” 为再度强调代表理论与连结理论,人们常引用加拉太书2章20节。保罗说:“我已经与基督同钉十字架,如今活着的不再是我,而是基督在我里面活着。”这是对与基督连结最戏剧化的描绘:旧人(即属于亚当的“我”)已经与耶稣同死,如今在我里面运行的是基督的生命观念。如此看来,基督信仰不只是“信耶稣上天堂”,而是在“此时此刻因与基督联合,我就活成新造的人”。张大卫牧师表示:“这种全新自我认知是真正能带来生活转变的关键。当我们每日浸没于平凡琐事中,不必再用‘我本来就属亚当,是无可奈何的罪人’来自暴自弃,而是‘我已与基督联合,是义人’的自我意识来面对生活。这就是福音的力量所在。” 圣经中也有其他例证可说明“代表”与“连结”。例如:神应许亚伯拉罕“万国要因他得福”;先知以利亚祷告便能影响整块土地是否降雨。虽然只是个人,却引发了连带的大范围影响。同样地,耶稣基督就是新约时代的决定性“代表”,担负了我们无力承担的罪担;由此,我们便连带地承受了祂的义与生命。张大卫牧师在牧会的实际场景里常会说:“教会就是基督的身体,与作头的主紧密相连,一起彰显祂的生命与恩典。”通过教会,基督的救恩得以不断扩展;教会之中,弟兄姊妹彼此背负重担,一起祈祷和敬拜,过着连带的生活。这一切都应该纳入“代表与连结”的视角来理解。 那么,代表理论与连结理论能结出什么样的“实际果效”呢?其一,带来自我身份的转变:我们原本出生时是亚当的后裔,却因信耶稣而在瞬间变成“基督的后裔”。即便有时我们仍觉自己深受罪的束缚,但只要坚定地意识到“我已在基督里”这个真理,就会体验到“罪不再能主宰我生命”的释放感。张大卫牧师反复强调:这种释放感才是福音生活的起点。 其二,让我们获得归属感与群体意识:正如我们在亚当里与全人类相连,现今在基督里我们亦与所有信徒相连。基督徒彼此并非散落的孤岛,而是同为一个身体上的肢体。这种连带性的教会观极其符合圣经教导,保罗在以弗所书与哥林多前书里多次宣告:“我们就是基督的身体,互为肢体。”张大卫牧师说:“明白代表理论与连结理论,会让人更清楚‘为什么要参加教会生活’。我们唯有连于头——基督,才能获得属灵的养分,且肢体彼此互相依靠,共同成长。” 其三,对于罪有新的态度:过去我们对罪习以为常,甚至无力抵抗;但当“代表”改变后,我们便拥有了胜过罪的可能。虽在现世,我们仍会受到罪的诱惑,也会跌倒,但从根本上讲,我们已不再是“亚当里的罪人”,而是“基督里的义人”。于是,我们可以更坚决地对罪说“不”,并且随时藉着悔改回到神面前。张大卫牧师指出:“在成圣(sanctification)的道路上,大能来自于‘我已与基督联合’这一事实。既然耶稣已为我死,我就要看自己是对罪而死,向神献上自己作义的器皿。” 因此,代表理论与连结理论并非高深莫测的教义,而是与我们的每日信仰生活密切相关。我们在教会聚集、敬拜、领受圣餐,透过洗礼向大众宣告“已进入基督里”的各种行动,都与此理论紧密相连。张大卫牧师在讲道时说:“若亚当是旧人类的头,那么教会的头就是耶稣基督。头的更替势必带来属灵层面包括管理、秩序、价值观的全然变化。只有真正领悟并实践这一点,我们才能脱离罪与死,享受在恩典与生命的统治下生活的自由。” 罗马书5章20-21节的结尾写道:“罪在那里显多,恩典就更显多了。”这是保罗最后对恩典的颂扬。在无人能够逃离死亡阴影的人间,耶稣基督一人的顺服为我们开启了新的大门。保罗将此比喻为“好像载歌载舞地高声颂扬恩典与生命”。张大卫牧师在这一经文的释经中同样宣告:“当人觉得罪至深重、无路可逃时,神的恩典反而会更丰沛地临到。因着耶稣基督的顺服与义的转嫁,我们已脱离罪的压迫,得以坦然无惧地来到上帝面前。这乃是人类历史上最具革命性的好消息。”旧世界的秩序将被挪去,在基督里完全崭新的秩序已然降临。愿我们仔细思想,这真理如何在个人、教会以及社会层面带来实际的改变与盼望。 总的来说,这段经文的核心信息非常明确:亚当引入的罪与死的历史之上,耶稣基督开启了义与生命的新历史。这不仅是神学上的概念,而是能真正在信徒生命中带来翻天覆地之变革的力量;从属亚当的“旧我”到在基督里的“新我”,我们因此天天得以经历活在神恩典与生命中的动力。正如代表理论与连结理论所揭示的,我们并不是凭借自己的力量胜过罪,而是因为那位为我们作代表的耶稣已经得胜。祂的得胜归我们共享,使我们能以义人的身份生活。张大卫牧师称这真理是“福音的精髓、基督信仰的引擎”。愿每一位在罗马书5章12-21节真理之光中前行的人,都能跨越罪恶,活在自由与生命,怀着感恩与赞美走在信仰之路上。

連合の神秘 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. アダムから伝わった罪と人間の実存の問題 ローマ書5章12節から21節において、パウロはアダムとイエス・キリストを対比し、それぞれが人類を罪と死のうち、あるいは義と命のうちに結びつける「代表」であると説明している。張ダビデ牧師は、このテキストを解説する際に特に「一人の人が罪を犯したことによって多くの人が罪人となり、もう一人の人の従順によって多くの人が命を得る」という論理を通じて、福音の力と「連帯性」の重要性を説く。この箇所は、キリスト教神学の重要なテーマである原罪論(Original Sin)とも直結するが、パウロはすべての人に罪が転嫁された理由が、まさにアダムという一人の人から始まったのだと教えている。 一般的に現代人は「アダムが罪を犯したからといって、なぜ私が罪人なのか?」という抵抗感を抱く。しかし聖書は、人間に普遍的に備わっている罪性(sinfulness)、つまり本質的に罪を免れることのできない状態が、最初の人であるアダムの不従順から始まったのだと宣言する。張ダビデ牧師は「私たちが実感する現実が、神が本来計画されたエデンの美しさとはかけ離れており、死が支配する不条理で暴力的な世界に生きているという事実こそ、すでに私たちが霊的に死んでいることを意味する。そしてその死の始まりがアダムの罪にあると聖書は証言している」と説明する。聖書によると、アダムは神の言葉を不信して不従順に至り、その不従順が罪の扉を開いて死と滅びが入り込むことになった。したがってアダムが代表として犯した罪の結果として、その後のすべての子孫が罪の傾向に感染し、それが人類に普遍的に苦痛と死をもたらす根本的理由だというわけである。 張ダビデ牧師は、人間が実際に罪を犯しているにもかかわらず、「なぜ聖書は『人間が罪を持たないなどとは言えない』とあれほど強調するのか」という問いに答える。罪と死に対する神の判断は、単なる道徳的な善悪のレベルを超えた「存在論的状態」だからである。私たちは「まだ生きているのだから死んでいない」と思うかもしれないが、パウロは霊的・究極的な次元で、すでに人間は死のうちにあることをはっきりと主張する。そういう意味で、原罪はすべての人間が逃れることのできない罪の軛(くびき)であり、私たちは生まれながらにして神の御心とは無関係の腐敗した世界に属して生きているといえる。 パウロは「罪は律法が与えられる以前から世にあった」と語る。ここで言う律法とは、モーセが神から授かった戒めの数々を指すが、その律法が与えられる前にも罪が存在していたのだとわかる。ただ、人々は明示的な法がなかったために、それが罪なのかどうかをはっきりとは認識していなかった。しかしカインがアベルを殺したことや、アダムが禁断の実を食べた出来事が明白に罪悪とされているように、律法が存在する以前から神への不信と不従順という行為はすでに罪だったのである。人間の良心は自然に「殺人や反逆、不従順は悪いことだ」と教えるが、具体的に律法が示されることによって、罪が「法的・公式的」に確定されるようになった。ただし、律法は人間を罪から完全に解放しない。律法は罪を「罪」としてはっきり暴き出す機能を持つが、罪そのものを取り除いたり救いを与えたりする力はないからである。 パウロはさらに、アダムからモーセまで―つまり律法が与えられる前の時代を指して―死が「王として君臨していた(王のように支配していた)」と主張する。死がまるで独裁者のような権威をもって人類すべてを圧倒していたというのだ。これは「人間は罪の奴隷になっている」というパウロの表現を想起させ、すべての人が自力では抜け出せない罪と死の横暴に直面していることを示す。張ダビデ牧師はこれを「罪と死の構造的支配、すなわちすべての人は律法がなくともどこかで罪と死に隷属している」という点として、現代の人々にわかりやすく説き明かす。社会構造や個人の道徳的な弱さだけでなく、さらに深い次元で人類全体が「死の力」のもとに束縛されていることを指摘し、それは結局、私たちがエデンの園から絶えず追放された状態で生きていることを証明する歴史的事実だと解釈する。 聖書はアダムを「来たるべき方のひな型(型)」とも呼ぶ。アダムが人類に決定的な影響を及ぼしたように、キリストもまた決定的な影響を及ぼす「第二の、または最後のアダム」の役割を担われるお方である。だからこそローマ書5章14節で「アダムは来るべき方の型である」と宣言したパウロの言葉は、最初の人アダムが罪の始祖としてすべての子孫に罪と死を転嫁したのと同様に、やがて来られる方(キリスト)は逆に、信じるすべての人に義と命をもたらすという意味を含んでいる。張ダビデ牧師は説教の中で、「私たちは毎日、自分の意思で『自分の人生』を営んでいると思うが、実はアダムの影響をもって生まれ、罪へと引かれるしかない運命のなかにいる。しかしもうひとり、新しいアダムであるイエス・キリストがこの支配を打ち破り、新しい命をもたらしてくださる」と強調する。この点こそが、パウロが力強く宣言する福音であり、罪と死という圧倒的な現実に新たな突破口が開かれた瞬間なのだ。 律法は「罪を増し加えさせる目的」、すなわち罪の実態をより鮮明に明るみに出すために入ってきたのだと、パウロは語る(ローマ書5章20節)。これが「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という有名な言葉に続く。どんなに罪が積み重なり、死がすべての人生を飲み込もうとも、それよりもさらに大きな権能をもって恵みが訪れるという意味である。張ダビデ牧師は「人間が自力では抜け出せない罪の軛が徹底的にあらわになるほど、逆に神の恵みがいかに広大で強力であるかがいっそう浮き彫りになる」と解説する。言い換えれば、律法が罪を明確にすればするほど、罪人である私たちはさらに大きな罪悪感と恐れに捕らわれるが、同時にキリストのうちに広がる恵みの世界がどれほど絶対的な力をもっているのかを悟るようになるのだ。 アダム一人によって人類全体が罪人となったという宣言は、個人主義的思考が強い現代社会ではなかなか受け入れがたいかもしれない。しかし聖書は繰り返し「連帯性」を強調する。共同体的な思考があまり馴染まない人であっても、「国家の代表がある条約を結べば、その国民全体が影響を受ける」という例を出すと理解はそう難しくないだろう。これは古代近東の歴史的・社会的背景においても、「一人」が代表性を担うとき、その影響が全体に及ぶという認識が当然視されていたことにも由来する。張ダビデ牧師は、原罪に対する拒否感の強い人々に対し、「この解釈は究極的に『新しいアダムであるイエスが成し遂げた義と命が、どのような仕方で私たちに転嫁されるのか』を説明する鍵となる」と力説する。つまり、もし私たちが受け入れがたいからといってこの代表性と連帯性の原則を認めないならば、福音が提示する救いの論理そのものも同時に拒否せざるを得なくなるというわけである。 原罪論は、人間が先天的にどうしようもなく罪の支配下にあることを語る。これはそもそも人間の自由意志や善行では決して完全には解決できない問題である。私たちはみな、生まれた瞬間から罪の束縛下にあり、倫理的・道徳的な善行だけでは真の義に達することができない。『決して私たちの力だけでは救いに至ることはない』というのが、プロテスタントにおける救いの核心であり、張ダビデ牧師の説教もこの観点から「原罪論に目を背けてはならない」と訴える。これは人間の弱さや無価値を強調するためではなく、キリストの救いがいかに絶対的で価値あるものであるかを明らかにするためなのだという点を、彼は明確に語る。 したがって、最初の小主題の結論は明快である。アダムによって始まった罪と死はすでに人類を掌握してしまった巨大な実存的問題であり、律法はその罪を浮き彫りにし、裁きを宣言することで私たちを窮地に追い込む。しかしこうした絶望的状況が、ただちに希望を覆い隠すわけではない。むしろ罪が明るみに出ることによって、私たちはキリストがもたらす恵みと救いの力に目を開くことになる。だからこそ、アダムから伝わった罪が不快で不合理に感じられようとも、これこそが人間の実存を解き明かす端緒であり、イエス・キリストの贖罪のみわざを理解するうえで欠かせない始発点なのだ。張ダビデ牧師は「アダムが開いてしまった罪の世界はあまりにも強固に見えるが、神はそれ以上に強力な恵みの計画を秘めておられた」と強調し、続いて第二の小主題であるイエス・キリストの従順と義の転嫁へと読者を導いていく。 Ⅱ. イエス・キリストの従順と義の転嫁 パウロはローマ書5章15節から19節のあいだで、アダムとキリストの対照を精巧に展開する。一人(アダム)の不従順によって罪と死が人類にやってきたのならば、もう一人(イエス・キリスト)の従順によって義と命がもたらされるというのである。張ダビデ牧師は説教や著作の中で「原罪(Original Sin)がアダムを通じて転嫁されたように、今度はキリストの義(Original Righteousness)が私たちに転嫁されたのだ」と解説する。こうして転嫁された義は、教会の伝統において「信仰による義認(以信称義、justification by faith)」の教理と結びついてきた。 ここでいう「一人の人イエス・キリストの従順」とは、十字架での代贖(だいしょく)的犠牲を意味する。パウロはコリント第一の手紙15章45節以下でも、最初の人アダムと最後のアダム(キリスト)を比較し、最初のアダムは「土(ちり)から出た者」であり、最後のアダムは「天からこられた方」だと宣言する。第一のアダムが生きた魂(a living being)となったのに対して、第二のアダムであるイエスは生かす御霊(a life-giving spirit)となった、とも述べる。生きた魂は自分自身が命を享受する存在だが、生かす御霊はその命を他者にも分け与える源泉を持つ存在である。だからパウロはイエス・キリストの死と復活が「私たちをも生かす力」だと強調する。張ダビデ牧師は「キリストの従順は、単なる道徳的模範を示したということではない。それは罪に陥った人類を永遠に生かす生命の源であり、神の義が私たちに転嫁される決定的な出来事なのだ」とまとめている。 原罪論から始まる「転嫁」の思想は、イエス・キリストの十字架の出来事によって「義の転嫁」という形で拡張される。アダムが罪を人類に転嫁したのは、その代表性によるものであり、キリストが御自分の成し遂げた義を私たちに転嫁してくださるのも同じ法理で理解される。代表であり頭(かしら)である方が成し遂げたことの結果が、彼に属するすべての者にそのまま及ぶのである。このとき張ダビデ牧師は「代表と連帯という概念は聖書全体に流れる重要な原理で、私たちには不合理に思えるかもしれないが、神はそもそも人類を共同体的存在として創造された。一つの体、一つの系譜、一つの共同体という意識が、キリスト教的世界観のなかで極めて中心的な位置を占めるからだ」と力説する。 神の救いの計画は、人間の無力さを暴き出す律法ののち、イエス・キリストのうちで完成に至る。律法が罪を明確にしたものの、その罪を解決はしなかったのに対して、イエスは罪の刑罰を自ら負い、私たちの代わりに死ぬことによって「私たちを義と宣言してくださる」道を開いてくださった。だからこそパウロはローマ書3章24-25節で「キリスト・イエスによる贖いにより、神の恵みによって無償で義とされるのである。神はこのイエスを、その血を通して信仰にもとづく宥めの供え物(贖いのいけにえ)として立てられた」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所において三つのイメージを引用する。第一に、奴隷市場で身代金を支払って奴隷を解放する「贖い(redemption)」の視点、第二に、法廷で無罪だと宣言される「義認(justification)」の視点、第三に、いけにえに関する概念として罪の代わりにいけにえが捧げられ罪を除く「贖罪(atonement)」あるいは宥めの供え物(propitiation)の視点である。これらすべての比喩がイエス・キリストの十字架の出来事に同時に含まれており、それはイエスが人類を代表して流された血と従順に基づいているのだ。 聖書のいたるところに現れる「祝福の連帯性」もまた、イエスの従順によって決定的に完成される。すでに旧約においてアブラハムとの契約が与えられた際、神は彼とその子孫を通して「諸国の民が祝福されるだろう」と約束された。この契約はアブラハム一人にとどまることなく、彼の系譜をたどってイスラエル民族全体、さらに全世界にまで至る祝福の継続性を語っている。張ダビデ牧師はこれについて「アブラハムと結ばれた契約は、新約の時代になるとイエス・キリストのうちで完全に成就する。イエスに属するすべての者、すなわちイエスを信じるすべての者に祝福が連帯的に伝わっていく」と解説する。ゆえにイエスの従順が歴史的出来事として一度生じたものの、その効力は時空を超えて信じるすべての人に同時に適用されるのである。 しかしこの義の転嫁は自動的に与えられるものではなく、信仰(faith)を通して私たち一人ひとりに個人的に適用されるという点が重要だ。パウロは「キリスト・イエスを信じることによって」義とされると宣言するが、これは代表であるイエスとの「個人的な連合(union)」が必要であることを意味する。張ダビデ牧師は「結局、アダムに生まれながら自然に入り込んできた罪は、私たちの同意にかかわらず適用される。一方、イエスの義は、私たちが信仰によって受け取ることによって私たちに転嫁される」と説明する。これが恵みの逆説である。人間は罪を遺伝的に受け継ぎ、否応なく罪人として生まれるが、同時にイエスは恵みによって私たちに義を贈り、この賜物を受け取る道は信仰を通じてであり、それは決して私たちの功績や努力によるものではない。 パウロが語る「罪が死の中で王のように支配したように、恵みもまた王のように支配して、私たちの主イエス・キリストによって永遠の命に導く」(ローマ書5章21節)という言葉は、要するにアダムの不従順よりもはるかに強力なイエス・キリストの従順が「王権」を置き換えたことを告げる。以前は死が支配していたが、今や恵みが支配するようになったのだ。張ダビデ牧師はこれを「福音は、単に罪を洗い清めるだけでなく、全く新しい支配体制を私たちの内にもたらす。私たちはもはや罪に隷属する民ではなく、『命』という王の統治を受ける神の国の民となる。これが核心である」と言う。 ローマ書5章18-19節においてパウロは「一人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人となったように、一人(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるだろう」と宣言する。張ダビデ牧師はこの箇所を最も決定的な要約節だと指摘する。この言葉は罪と死の普遍性をそのまま認めつつ、それをさらに上回る義と命の普遍性を宣言するためである。イエス・キリストの従順がもたらす恩恵を妨げることは誰にもできず、その力と権威は、初めの創造から人類を誕生させた神が自ら計画した「種子(しゅし)の改良」と比喩できると彼は解釈する。不従順の種子が死と朽ち果てる実をもたらしたならば、従順の種子は義と命の実を結ばせるというわけだ。 旧約のイザヤ書53章に出てくる苦難のしもべの預言も、同じ論理を例示している。「彼は病を負い死に至るが、そこから『子孫』が生じる。この『苦難のしもべ』の死によって、新たな子孫、新たな民が誕生する」(イザヤ書53章10節)という箇所は、単に肉体的な子孫を指すのではなく、苦難のしもべの代贖的働きによって誕生する「霊的子孫」、すなわちメシアを信じて従う人々を意味している。張ダビデ牧師はこの言葉を「種子改良論」と呼び、私たちがアダムから罪と死の遺伝子を受け継いだのなら、今はキリストから義と命の遺伝子を継いだ「新しい人」として生まれ変わることができると強調する。ガラテヤ書2章20節にある「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という聖句は、これを神学的に要約したものである。私たちはアダムの子孫として生まれたが、イエスとの連合によってキリストの子孫、すなわち義と命に生きる者となったのだ。 結局、この第二の小主題は、イエス・キリストの従順とそこから転嫁された義が、どのようにして私たちを罪と死から解放し、新たな命の次元を開いてくれるのか、その答えを示している。アダムの不従順によって始まった罪と死の王国に属した私たちが、イエスの十字架と復活によって恵みと命の王国に移された、というのが要点である。そしてこれは信仰によって個々人の人生に適用されるのだ。張ダビデ牧師は「この驚くべき真理を単なる教理知識で終わらせるのではなく、日々の生活と信仰実践の中で実際に体現しなければならない。なぜなら私たちはもはや罪ではなく恵みに、死ではなく命に支配されているからだ」と言い、キリストにあって享受できる自由と解放を実践的に強調する。 Ⅲ. 代表理論と連合理論の実際的意味 ローマ書5章12-21節が提示する中心構造は、人類の歴史をアダムとキリストという二人の人物を通して解釈する点にある。これは神学的には「代表理論(Doctrine of Representation)」あるいは「連邦主義(Federal Headship Theory)」と呼ばれ、アダムは人類の頭(federal head)として罪を転嫁し、キリストは教会の頭として義を転嫁する、という説明に該当する。また「連合理論(Principle of Corporate Solidarity)」という関連概念もあり、私たちはアダムとも連合しており、キリストとも連合している存在だという聖書の教えがそこにある。 張ダビデ牧師は「一人の個人が歴史に莫大な影響を与えるのは、私たちの日常生活の中でも目にすることができる。国家元首が外交協定を結べば、その結果は国民全体に及ぶし、家族の代表者がひとつの決断を下すだけで家計が破綻したり繁栄したりすることもある」と述べ、この代表と連合の神学的原理が決して観念的な主張ではないことを説得力をもって提示する。実際、旧約に登場する例として、コラ(コラ)の反逆とその家族全体の滅亡、アカンの犯罪とそれに関連するすべての者たちへの処罰など、罪が単なる個人の問題で終わらず、共同体に連帯的に波及することが鮮明に描かれている。このように罪と処罰、祝福と恵みが特定の人物を通して全体に及ぶ構造は、古代の共同体社会においても当然のこととみなされていた。 この原理は同時に、福音の核心を説明する鍵でもある。アダムによる呪いがいかにすべての人類に及んだかを理解すれば、キリストによる救いがいかに信じる者たちに与えられるかも理解しやすくなる。代表者が行うことに、残りの構成員が連帯的に参加する構造だからである。張ダビデ牧師は「代表性と連合という言葉を、私たちは現実感覚をもって受け止めるべきだ。個人主義が蔓延する現代では、すべてを『私と神』だけの関係で考えがちだが、聖書は徹底して共同体的連帯を前提にしている。私たちは太初からアダムの中にあり、今はキリストの中にある。この二つのうちどちらかを選択すべきなのだ」と力説する。 パウロの言葉で言えば、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝」(ヨハネの福音書15章)というイエスの宣言を引用し、人間の生はどの「木」に接ぎ木されるかによって結ぶ実が変わる。アダムの木に接ぎ木されていれば罪と死の実を結ぶしかないが、キリストの木に接ぎ木されていれば義と命の実を得ることができるというわけだ。イエスのうちに「とどまる(abide)」という表現は、単に教会に通うとか礼拝に参加する以上の意味をもち、実際にイエスの生命力と力が私たちの内に働くように「連合」することである。張ダビデ牧師は「連合理論は神学的知識を超え、私たちの実存を変革する実際の力をもつ。アダムに属していたときには罪が当たり前だった。しかしキリストのうちにとどまるならば、その方の義、その方の愛、その方の力が私たちに流れ込み、まったく別の存在として生きられるようになる」と説く。 代表理論と連合理論を改めて強調する際、私たちはガラテヤ書2章20節の告白をしばしば引用する。パウロは「私はキリストとともに十字架につけられた。ゆえに、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と宣言するが、これはイエスとの連合を最も劇的に表現した例である。古い人(アダムに属する者としての私)はすでにイエスとともに死に、今やイエスの命が私のうちで動いているということだ。このように見るなら、キリスト教信仰は「イエスを信じて天国に行く」というレベルを超え、「今この瞬間、キリストにあって私は新しい被造物として生きている」という変容された自己理解を要請するものだといえる。張ダビデ牧師は「この自己理解こそが実際の生活を変える。日々の繰り返される日常の中で『私はアダムから来た罪人だから仕方がない』と自暴自棄になるのではなく、『私はすでにキリストと連合した義人だ』というアイデンティティを握りしめること。これこそ福音がもたらす力だ」と強調する。 聖書における代表と連合の概念をほかの例で示すならば、アブラハムを通して祝福が諸国へ流れるという約束や、エリヤが祈ったら全地に雨が降らず、また祈ったら雨が降ったという出来事もある。アブラハムやエリヤは個人だが、彼らが受けた契約や祈りの力が連帯的に周囲へ波及していく。同様に、イエス・キリストが新約における決定的代表となり、私たちには到底背負いきれない罪の重荷を代わりに担い、その結果としてイエスの義と命が私たちに連帯的に適用されるのが新約の福音の真髄だ。張ダビデ牧師はこれを牧会現場で「教会こそキリストの体として、頭である主と連帯し、その方の命と恵みを実践する共同体」であると再解釈する。教会を通してキリストの救いの業が広がり、また教会は互いに重荷を担い合い、ともに祈り礼拝する連帯的な生き方を示す。これらすべてが代表性と連合の枠組みのなかで理解されるべきだというのである。 では代表理論と連合理論は、どのような実際的な実を結ぶのだろうか。第一に、自己アイデンティティの変化である。私たちは生まれながらアダムの子孫だったが、イエスを信じたとき即座にキリストの子孫となる。自分が罪に取り込まれどうしようもないと感じる時でも、「すでにキリストのうちにあって新しい命を与えられているのだ」という意識が確固として根づけば、「罪がもはや私の人生を支配できない」という解放感を持つことができる。張ダビデ牧師は、この解放感こそが福音生活の出発点なのだと繰り返し強調する。 第二に、私たちに伴う帰属意識と共同体性である。アダムにあって私たちがすべての人類と結びついているように、キリストにあっては信じる者すべてが結びついている。聖徒たちはひとりひとりがバラバラの島ではなく、一つの体として互いに肢体(しだい)となる。この連帯的な教会観こそが聖書的であり、パウロがエフェソ書やコリント第一の手紙などで「私たちはキリストの体であり、その肢体だ」と述べるのと一致する。張ダビデ牧師は「代表理論と連合理論を理解すれば、なぜ教会生活が必要であり、どんな動機があるのかが一層はっきりする。私たちは頭なるイエス・キリストに繋がってこそ霊的な栄養を得て、また肢体同士が相互依存しながら成長していく存在なのだ」と教える。 第三に、罪に対する新たな態度である。過去には罪が自然なことであり、避けられないものであったとすれば、今や代表が変わった以上、罪を克服する可能性が開かれたと見る。もちろん依然としてこの地上では罪の誘惑を受け、失敗もあるだろうが、私たちのアイデンティティは「アダムにある罪人」ではなく「キリストにある義人」へと根本的に変わったのだ。だから罪に対して毅然と「ノー」と言うことができ、悔い改めを通して即座に神のみもとへ駆け寄る特権を享受できる。張ダビデ牧師はこれを「聖化(sanctification)の歩みにおいて大きな原動力となるのは、私がキリストと連合しているという事実である。イエスが私のために死んでくださったのだから、私も罪に対しては死んだ者とみなし、義の器として神に捧げなければならない」と語る。 結局、代表理論と連合理論は非常に抽象的な教理のように見えるが、実際には日常の信仰生活に深く関わっている。私たちが教会に集まり礼拝し、聖餐にあずかり、洗礼を通じて「キリストのうちへ入れられた」という事実を公に宣言するすべての信仰行為が、この理論と直結するのである。張ダビデ牧師は説教で「アダムが私たちの古い頭(かしら)であったなら、教会の頭はイエス・キリストである。頭が変われば、それに伴う支配と秩序、価値観も変わる。この事実を深く悟り、実践するとき、私たちは罪と死から解放され、恵みと命の支配のもとで生きる真の自由を味わうようになる」と説く。 ローマ書5章の最後の節(20-21節)に「罪の増すところには恵みもいよいよ満ち溢れる」という言葉が登場する。これはパウロが最後に響かせる恵みの賛歌ともいえる箇所である。いかなる人も死の陰から逃れられなかった人類に対して、一人のイエス・キリストの従順が新しい門を開いた。パウロはこれを「まるで踊るように、恵みと命を賛美する歌」とも見なしうる。張ダビデ牧師もこの本文を解き明かしながら「罪が極まると嘆くとき、むしろ恵みはさらに大きく臨む。私たちはキリストの従順と義の転嫁によって罪の圧迫から解かれ、神のみ前へ大胆に近づけるようになった。これは人類史上もっとも革命的な知らせである」と宣言する。古い世界が過ぎ去り、キリストのうちにまったく新しい秩序が到来したことを示し、それが個人と教会、そして世界にどのような変化と希望をもたらすかを具体的・実際的に黙想しようと勧めるのだ。 最終的に、この本文の核心メッセージは明白である。アダムが開いた罪と死の歴史の上に、イエス・キリストが義と命の新たな歴史を開かれたという点だ。これは単なる神学的観念ではなく、現実にこの地を生きる信徒たちの人生を覆すように変革する力であり、アダムに属していた過去の自分は死に、キリストのうちに生きる新しい自分として毎日を歩む推進力なのである。代表理論と連合理論が示すように、私たちは自力や自分の能力で罪に打ち勝つのではない。ただ私の代表であるイエスがすでに勝利しており、その勝利を私が共有することによって義人として生きるのだ。張ダビデ牧師は「この真理こそ福音のエッセンスであり、キリスト教信仰のエンジンだ」と呼び、ローマ書5章12-21節を通じて信仰の道を歩むすべての人が罪を超える自由と命、そして感謝と賛美の生へと向かうように勧めるのである。

The Mystery of Union – David Jang

I. The Problem of Original Sin Transmitted from Adam and the Issue of Human Existence Romans 5:12–21 is a crucial passage in which Paul contrasts Adam and Jesus Christ, explaining that each one serves as a “representative” who binds humanity either in sin and death or in righteousness and life. When Pastor David Jang expounds … Read more

연합의 신비 – 장재형 목사

Ⅰ. 아담으로부터 전가된 죄와 인간 실존의 문제 로마서 5장 12절부터 21절까지는 바울이 아담과 예수 그리스도를 대조하고, 이 둘이 각각 인류를 죄와 사망 안에 혹은 의와 생명 안에 묶어 두는 ‘대표’가 된다는 사실을 설명하는 핵심 본문이다. 장재형 (장다윗)목사는 이러한 텍스트를 해설할 때, 특별히 “한 사람이 죄를 지음으로 많은 사람이 죄인이 되었고, 다른 한 사람이 순종함으로 많은 이가 생명을 얻는다”는 논리를 통해 복음의 능력과 ‘연대성’의 중요함을 설파한다. 이 대목은 기독교 … Read more