장재형목사 설립한 올리벳대학교 |랄프 윈터 도서관 개원

장재형목사가 설립한 미국 기독교 대학인 올리벳대학교가 세계적인 선교학자인 랄프 윈터 박사로부터 5천 권의 도서 기증을 받았다. 이 기증은 올리벳대학교의 도서관을 랄프 윈터 박사의 이름을 따서 명명한 것으로, ‘랄프 윈터 도서관’은 다양한 언어와 주제를 아우르는 15만 여 권의 책과 디지털 자료를 보유하고 있다. 랄프 윈터 도서관의 중요성은 최근에 열린 리본 커팅 행사에서 명확히 드러났다. 이 행사에는 … Read more

Dilapidation sacrée et trahison – Pasteur David Jang

I. La femme qui a brisé le flacon d’albâtre et le conflit avec la justice séculière Dans Matthieu 26, nous voyons qu’alors que Jésus se trouvait à Béthanie, dans la maison de Simon le lépreux, une femme est venue vers lui et a versé sur sa tête un parfum très précieux contenu dans un flacon … Read more

神圣的浪费与背叛—张大卫牧师

Ⅰ. 打破玉瓶的女人与世俗正义的冲突 在《马太福音》第26章中,记载了耶稣在伯大尼痳疯病人西门家里时,一位妇女拿着极贵重的香膏玉瓶打破,浇在主的头上的情景。从当时的文化与社会背景来看,这位妇女原本就处于容易被忽视和边缘化的地位,且在财产方面几乎没有什么保障。另外,在《路加福音》第7章也曾出现过一位罪孽深重的女子,她同样把香膏倒在主的脚上,并用眼泪洗脚、头发擦拭。无论她在社会中的评价如何,她却因体悟到主毫无保留的爱,而甘心乐意地将自己最宝贵、最昂贵的献给他。这个举动在当时连门徒都觉得是浪费,尤其引发了加略人犹大的愤怒和不满。 门徒们认为,这么贵重的香膏若卖了,可以拿去周济穷人(参《马太福音》26:8-9)。乍看之下,这番话听起来很正义、很合逻辑,也很现实。然而,他们却忽略了更深层、更重要的一点:耶稣所展现出的“看似浪费的爱”。帮助穷人固然是合乎神心意的美好行动,可门徒们当时说这些话,很可能并非出于真正关怀穷人的心,而是为了自我合理化。《约翰福音》12章6节记载,犹大常掌管钱囊,却时常从其中窃取钱财。这暗示了他的愤慨并非真的关乎穷人之福祉,而是与他的私利和自我偏见紧密相关。最终,他没能领悟基督在世上所彰显的那份毫无保留、甚至有些“愚拙”般的爱,并因此一步步封闭了自己的心。 张大卫牧师在默想这个场景时,特别强调了这样一点:“连那些最亲近耶稣,理应最能看见主之爱的门徒,都无法理解这份爱,而这最终导致了犹大的背叛。”亲近主固然是极大的祝福,但同时也需要随时警醒。越是近距离地聆听和观看,越是能经历更大的恩典与爱;然而,如果无法理解主之爱的那种“浪费”特质,反而用世俗的标准去衡量,就会生出深刻的误解。正如加略人犹大那样,他原本在最靠近主的地方服事,却因陷入人性的贪欲和扭曲的判断,最终走上卖主的悲剧之路。 “为什么要这样浪费呢?”——这是门徒们的提问,也是一种以世俗眼光和人类理性难以理解的、对深沉大爱的抵触。从某种程度上说,这正预示了最终他们会以三十银子的代价把耶稣出卖。那位妇女珍惜地把香膏完全浇在主身上,表达对耶稣的爱;可在门徒,尤其是犹大看来,这是一种“浪费”,甚至让他们“愤恨”。他们早已忘记了自己正是多么深地沐浴在“夫子无尽的恩典与爱”之中。就像我们如今也自诩信主跟随主,却时常以世俗的尺规去评判神的爱。“这么做也许更现实、更合理”,但若在神国度的层面上衡量,这往往意味着我们正在失去对那荣耀之爱的真实体悟。 张大卫牧师提醒我们,这种现象随时可能在我们的信仰中重演,因此我们要对主那“神圣的浪费”和“看似愚拙的爱”怀有敬畏之心,而非嘲弄。《马太福音》第20章的葡萄园比喻、《路加福音》第15章的浪子比喻,以及《约伯记》的苦难故事,都在圣经的不同处展现出神的爱何等“非理性”地超越人类的计算。这份爱是神为拯救我们而爆发出来的绝对且无条件的渴望,也正是我们当倚靠的真理与生命之道。 当那位打破玉瓶的妇女在神面前献上美好而忠诚的爱时,犹大和门徒们却用世俗的正义感将其扭曲。打着“做好事”的名义、“要给予穷人更多利益”的借口,甚至认为“这个人(耶稣)在引导人走错误的道路”的偏见,最终把主推向被除灭的方向。加略人犹大只用区区三十块银子就将耶稣卖了,并从此步入灵魂毁灭的不归路。 Ⅱ. 犹大的背叛与无条件之爱:张大卫牧师的默想 耶稣被三十块银子出卖,成为人类历史上最令人悲痛的背叛象征。《创世记》中曾记载约瑟被哥哥们以二十块银子卖掉(参《创世记》37:28),但最终在神的计划下,这背叛却被奇妙地转化为拯救。然而耶稣的遭遇却更具分量,也更具意义:他是为了替全人类赎罪,甘愿走上十字架之路。当犹大拿着那三十银子交出耶稣时,他心中长久以来的误解、不信与自私目的全部爆发,也就此凝结成最后的决定。尽管他在主身边近距离相随,然而当他用世俗的逻辑扭曲了主的爱时,他的灵魂便已逐渐崩坏。 主平日对犹大极度信任,将钱囊交给他保管(参《约翰福音》13:29可能的暗示),这一信任并非“选错了人”,而是耶稣到底对所有门徒都给予了绝对的爱(参《约翰福音》13:1)。然而,每个人对于这爱怀有的心态却并不相同。对某些门徒而言,这爱使他们的生命被完全翻转,但对犹大而言,这爱成了无法真正接受的包袱或抱怨。正如张大卫牧师所言:“耶稣的爱是不问理由、完整且彻底的爱;但若我们只愿意部分接受或理解,势必会出现扭曲。” 从人的角度来看,主不断施与的怜悯和恩典,有时似乎显得“太过愚拙或偏袒”。就像《马太福音》第20章里的葡萄园比喻:早晨进园与傍晚才进园的人都领到同样的工钱,听起来就很“不公平”。又如《路加福音》第15章的浪子比喻里,那个浪费了全部家产才回家的小儿子,反而被父亲摆设盛宴款待,难怪一直守在家中的长子觉得不合理。可所有这些例子都强调一个相同的信息:天父的爱远远超越我们的逻辑与常识。 犹大陷入的陷阱,就是要用“合理”的标准审视基督的爱。他可能想:“如果主真要建立神的国,就不应该允许这种浪费(如打破玉瓶),必须正确判断是非,并更有效地帮助穷人。”但耶稣对罪人的接纳、对被社会视为无价值之人的倾注,以及那种全然倒空自己去爱的方式,从世俗角度看,的确显得低效甚至“愚拙”。对世人而言,这可能就是“浪费”,可对神而言,这却是神圣的“浪费”、是为了拯救人类的绝对之爱。 最关键的是,在玉瓶事件之后,犹大转身去找祭司长们(参《马太福音》26:14-16)。他问道:“我若把耶稣交给你们,你们愿意给我多少钱?”——这问题悲哀而且残酷,如同把耶稣当作奴隶般标价出售。那三十块银子,是如此微薄的数目。主曾经那样深爱并信任的门徒,竟用一点点钱财就将主卖了。或许犹大心中还带着某种“他在误导人,我们要遵循真正的正义”的扭曲信念。一旦我们无法正确理解神之爱的力量,往往会极端地否定它,甚至以“这不对,必须除去”的方式处理。犹大的背叛,正是对神之爱的极端拒绝所导致的结果。 然而,等到他真的卖了主以后,犹大的良心开始谴责他(参《马太福音》27:3-4)。他意识到自己出卖的是一位无辜者,便把那三十银子再丢回给祭司长,忏悔说:“我卖了无辜之人的血,犯了罪!”从前,他大概以为那三十银子能满足或实现他的某些期待,但当一切都无法挽回时,这笔钱只让他更痛苦。他的悔恨为时已晚,最终他选择自缢结束了自己的生命。此时,他大概对主的爱又有了某种迟来的回想,却再也没有勇气去寻求那原本一直敞开的怜悯之门。 在这一点上,张大卫牧师发出疑问:“犹大真的不能回到主那里吗?”想想《路加福音》第15章浪子的故事:即便那儿子把财产完全挥霍,也仍能回到父亲家,并获得极大的包容和喜乐。主甚至在十字架上也为嘲弄自己的人祈求赦免。若犹大愿意悔改,也回到主那里,或许主还是会拥抱他。然而,犹大自己却将门彻底关上了。他坚信自己已无法回头,不可能再得到主的爱。这一点值得我们深思:神的爱不会轻易断绝或消失,真正关上大门的,往往是人自己。 犹大所体现的,也正是当今许多人内心的写照。我们在教会中、在信仰圈里常常口口声声谈论主的教导、敬拜神的名,却在日常生活里也许会像犹大一样,用世俗标准去衡量或怀疑神的爱。当我们一旦选择“离开主的道路”时,也要记住,那回归的道路仍然敞开。只要像浪子一样回头,父亲就会跑来拥抱我们。神的爱永远等待我们回转。 Ⅲ. 神圣的浪费与十字架:犹大错失的道路,以及我们的道路 在耶稣所遇见的形形色色人群中,尤其是税吏、妓女以及被社会边缘化的人,他们最能真切地感受到他的爱是何等无条件。《马太福音》、《马可福音》、《路加福音》、《约翰福音》都展现了主如何与“罪人”和“无价值之人”坐席、对话、医治和怜悯。耶稣所宣告的神国,往往超越我们的理解与知识,有时看起来就像是“浪费”与“失衡”。然而,这爱最极致的展现,就是耶稣的十字架和复活。 张大卫牧师说:“十字架是最伟大的神圣‘浪费’,也是最深的爱的证据。”上帝的儿子耶稣在毫无罪疚之下,为了罪人甘愿舍命,对世人而言,这看似无法理解的“浪费”。我们算什么,竟然值得神的儿子用流血舍命的方式来换取?然而,没有这份看似愚拙的牺牲,我们便永远无法摆脱罪的刑罚。正是十字架这“愚拙”般的献身,彰显出神对人类无限的拯救计划与无条件之爱。 加略人犹大到最后也没有领悟这“神圣浪费”的真谛。他见到那位打破玉瓶的妇女时,只感到这是“浪费”,却没想到耶稣自己会以更“浪费”的方式——献上生命去爱那些不配之人。而犹大正好亲手促成了这条十字架道路。他试图用“这份无条件的爱是愚蠢的,必须阻止”来否定耶稣,甚至把耶稣交给祭司长。然而神却把这背叛也纳入了救赎的计划中:主在十字架上所流的宝血,为全人类打开了通往永生的道路。 那么,面对这份爱,我们又作何选择?如果仍用世俗的眼光去衡量主的爱,我们终究无法真正看见十字架的奥秘。信心一旦缺失,人类的知识与逻辑就会遮蔽我们的眼睛。圣经中提到“不可吃分别善恶树的果子”(参《创世记》2:17),也正是提醒我们不要用自己的理性去判断善恶,而应当顺服神的真理,在他的爱中生存。可我们常常想:“这个爱真的是对的吗?这方式不是很低效吗?”接着就会像当年的犹大一样,跌入罪与灵魂破碎的深渊,等到尝到没有主的痛苦时,才痛心疾首。 张大卫牧师指出:“背叛主,不仅仅是口头上否认他,更包含了用世俗逻辑拒绝他的爱、并嘲笑教会或信仰群体中无条件的爱与奉献。”爱乃是在关系的深度中完成的,而这种关系往往离不开那些“看似浪费的时间”与牺牲。就像父母与孩子之间的关系:养育孩子需要持续的付出和耐心,但父母不会把这视为浪费,反而在其中体会到巨大的喜悦。 主对门徒、对我们的眷顾同样如此。他无条件地接纳我们,有时我们像不懂事的孩子一样,但神却以更大的怀抱拥抱我们。这就是神圣的“浪费”。而犹大因为无法正确理解这爱的本质,便以自己的标准下了结论:“这样下去不行。”最终,他以三十银子出卖了老师,也失去了所谓的正义与利益,最后陷入绝望之中,自寻短见。 但我们的人生并不终止于此悲剧。神甚至使用了犹大的背叛,成就了十字架的道路;基督在十字架上舍己流血,为所拣选的儿女带来永生。这表明,无论我们的罪多深,神对我们的爱永不止息。一旦我们悔改回转,主始终愿意接纳我们。 四旬期(大斋期)正是默想这无条件之爱与苦难的时刻。我们要在主面前破碎那些世俗的知识与骄傲。或许我们也该像那位打破玉瓶的妇女一样,把自己完全献给主。就算有人冷嘲这是一种“浪费”,我们却要凭信心宣告:“这是献给主的神圣浪费。”十字架的路从表面看似浪费,实则是唯一的生命之路。若我们带着对主之爱的完全信赖走上这条路,绝不会后悔。 在文章的最后,张大卫牧师如此劝勉:“当我们将一切都献给主时,世人或许会讥笑这般‘浪费’,但主却视为最美的奉献。像马利亚坐在主脚前聆听道,像罪妇用香膏倾倒主脚前,像浪子回头投入父亲的怀抱,这些时刻都是真正见证福音之国度的瞬间。”我们要引以为戒的是加略人犹大的悲剧,切勿重蹈他的结局;相反,要更加坚定地信靠主的爱。那爱从未放弃我们,最终也要改变我们,使我们成为神国度里美好见证的器皿。 是的,选择权在我们手中。我们可以像犹大那样,批判“这爱太不合理”,最终走向背叛;也能如那打破玉瓶的女子般,相信“这爱值得我献上一切”,并踏上奉献的道路。即使我们曾一度像犹大般背离,只要肯回头,就必能再次回到主的怀抱。主从不撇弃每一个真心悔改的灵魂。如今我们要如何行?是被区区三十块银子捆绑,失去神国的荣耀?还是领悟主之爱的深度,与他同行?对此的答案,便是我们的信仰告白,也应当在我们每日的行动中显现。 www.davidjang.org

聖なる浪費と裏切り – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 香油の入った壺を壊した女性と世俗的な正義の衝突 マタイの福音書26章には、イエス様がベタニアのツァラアト(重い皮膚病)の人シモンの家におられたとき、一人の女性が非常に高価な香油の入った壺を壊して、主の頭に注ぐ場面が描かれています。当時の文化的・社会的背景を考えると、この女性は財産の一部とみなされるほど弱い立場に置かれ、また社会から疎外されやすい存在でした。さらにルカの福音書7章では、涙でイエスの足を洗い、香油を注いだ女性が“罪の多い女”として描かれています。しかし、そのような世間的な評価に関係なく、彼女は主の無条件の愛を悟り、最も尊く貴重なものを喜んで捧げたのです。その行為は当時の弟子たちにさえ浪費と映り、とりわけイスカリオテのユダには激しい怒りや不満を引き起こしました。 弟子たちは「この高価な香油を売れば貧しい人々を助けることができたのではないか」と主張しました(マタイ26:8-9)。一見すると、その言葉は正義にかなった、論理的で現実的な意見にも思えます。しかし、実際に彼らが知るべきであった最も重要で深遠な世界、すなわちイエス様が示された「浪費にも見えるほど豊かな愛」を、弟子たちは見逃してしまいました。もちろん貧しい人を助けること自体は神の御心に適った尊い行いです。けれどもここで弟子たちは真に貧しい人を助けようという思いではなく、自分たちを正当化するための論拠としてそれを持ち出したに過ぎなかったのです。ヨハネの福音書12章6節によれば、ユダは金銭入れを預かっている立場を利用し、その中から盗みを働いていたとあります。彼の憤りは“貧しい人への愛”ではなく、別の利益や自己中心的な考えから出たものであったことが暗示されます。結局、ユダはイエス様が地上に来られて示してくださった無条件の愛、つまり愚かと思われるほどにあふれる愛の価値を理解できず、この事件をきっかけにますます心を閉ざしていきました。 張ダビデ牧師はこの場面を深く黙想し、「イエス様の愛を最も間近で見ていたはずの弟子たちさえも、その愛を理解できなかったとき、それがユダの裏切りへとつながった」と強調します。主のすぐそばにいるということは大きな祝福ですが、同時に常に目を覚ましていなければならないことでもあります。近くで聞けば聞くほど、近くで見れば見るほど、もっと深い恵みと愛を体験することができますが、もしその愛の“浪費性”を理解せずに世俗の基準で判断してしまうと、大きな誤解を招きやすいのです。主の最も近くで仕え、助ける役割を担っていたはずのユダが、結局は人間的な正義や欲望、そして歪んだ判断に支配され、主を売り渡すに至ったという事実は、私たちに悲劇的な教訓をもたらします。 「なぜこんな無駄遣いをするのか?」という弟子たちの問いかけは、人間的な知識や世俗的な尺度では到底理解しがたい、しかし限りなく大きく深い愛に対する一種の反発だったとも言えます。これは、やがて銀貨三十枚でイエスを引き渡すという極端な結末を予告する問いでもありました。一人の女性は高価な香油を惜しみなく注いで主への愛を表したのに、その女性をむしろ「無駄だ」と批判し、「憤慨」した弟子たち、特にユダは、自分自身がどれほど深く「師の恵みと愛のうちに養われてきたか」を忘れていたのです。このように私たちも主を信じ従っていると自負しながら、神の愛を世俗の尺度で測ろうとしてしまうことがあります。それが、いくらもっともらしく合理的で現実的に見えたとしても、主の国においてはむしろ愛の栄光に満ちた実体を見失ってしまう近道になり得るのです。 張ダビデ牧師は、こうした姿は私たちの信仰の中にもいくらでも再現される可能性があることを想起させながら、主の聖なる浪費と愚かに見えるほどの愛に対して、あざけりではなく畏敬の念を抱くべきだと強調します。ぶどう園の労働者のたとえ(マタイ20章)や放蕩息子のたとえ(ルカ15章)、さらにヨブ記の苦難物語に至るまで、聖書のあちこちで示される神の愛は、しばしば非常に非合理的に見えます。しかし、その愛は私たちの計算や理解を超え、私たちを救おうとする神の絶対的で無条件の切なる思いから発するものであり、それこそが私たちが拠り頼むべき真の真理であり命の道なのです。 結局、香油の壺を壊した女性が示した美しく献身的な愛を前にして、ユダや弟子たちの世俗的な正義感はゆがみます。「良いことをする」という大義名分のもと、「貧しい人々にもっと利益を与えるべきだ」という理由のもと、さらには「この人は人々を間違った方向へ導いている」というねじ曲げられた判断のもとで、主を排除しようとする流れが生まれます。その結果、ユダはごくわずかな額である銀貨三十枚でイエスを売り、自らの魂をも破壊する道へと踏み込んでしまうのです。 Ⅱ. ユダの裏切りと無条件の愛:張ダビデ牧師の黙想 銀貨三十枚という値で主が売られたことは、人類史上最も悲しい裏切りの象徴として残っています。創世記にはヨセフが兄たちに銀貨二十枚で売られた物語が出てきます(創37:28)。しかしヨセフの場合は神の摂理のうちに、その裏切りさえも善へと変えられる驚くべき結末が示されています。一方イエス様の場合は、人類の罪を贖うためにご自身が進んで十字架の道を選ばれたという点で、その裏切りの重さははるかに大きく、深い意味をもっています。ユダは主に銀貨三十枚を受け取って引き渡した瞬間、自分の内面でずっと燃え上がっていた誤解や不信、そして利己的な目的が最終的に決定づけられてしまいました。どんなに主のそば近くにいても、主の愛を世俗の論理でゆがめてしまった瞬間、すでに彼の魂は崩れていたのです。 主は日頃からユダを深く信頼しておられました。弟子の中でも金銭入れを託すほど彼を信じておられ、これは「人選を誤った」という意味ではありません。イエス様は最後まで、そして絶対的に弟子たちを愛されたのです(ヨハネ13:1)。しかしその愛を受けとめる各人の心構えはさまざまでした。ある人にとっては、その愛が存在全体を変える力になりましたが、ユダにとっては最後まで受け入れがたい負担や不満の種になってしまったのです。これについて張ダビデ牧師は「イエス様の愛は理由を問わない完全な愛であり、私たちがその愛を部分的にしか受けとめず理解しようとしないならば、必ずゆがみが生じるのだ」と語ります。 主が示された変わらぬ哀れみと恵みは、人間的な視点で見ると「あまりにも愚かで不公平」に感じられるかもしれません。ぶどう園の労働者のたとえのように、朝早くから働いた者と夕方遅くに少し働いただけの者が同じ賃金を受け取ると、私たちは素直に「不公平だ」と考えやすいものです。放蕩息子のたとえでも、結局すべての財産を浪費して帰ってきた息子に対して父親はむしろ宴会を開き、喜び迎えます。その様子は真面目に父のそばに仕えていた兄にとっては不合理に映ったことでしょう。こうした場面に共通するメッセージは、神様の愛が私たちの常識や理屈をはるかに超えているという点です。 ユダが陥った落とし穴は、キリストの愛を合理的な尺度で計ろうとしたことでした。彼はおそらく「もし主が本当に神の国を打ち立てる方なら、こんな浪費めいたこと(香油を壺ごと注ぐ行為)を許すべきではない。正しいかどうかを見極めて、貧しい者へより効果的に愛を施すべきではないか」というような思いをふくらませていったのかもしれません。ところが、キリストが示された愛は世の観点から見れば非効率的であり、ときには愚かしく、浪費にさえ見えることがあります。イエスは罪人を受け入れ、無価値とみなされる人々のためにご自身をまるごと注がれました。そのような愛は世の目に映せば「無駄遣い」であり得るでしょう。しかし神の目からすればそれは聖なる“浪費”であり、救いのための絶対的な愛なのです。 決定的だったのは、ユダがこの「香油の壺の事件」の後、大祭司たちのもとへ足を運んだことです(マタイ26:14-16)。「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくれるのか」と問う彼の言葉は、あまりにも悲しく、苦い響きをもっています。イエス様を奴隷のように売り渡す決断をしたわけです。その対価は銀貨三十枚――主を「激安価格」で売ってしまったことになります。主に深く愛された弟子が、長い間恵みのうちをともに歩んできた弟子が、わずかな金で主を売ろうと心に決めたとき、その内面には「この方は人々を誤った道へ導いている。私たちが追い求めるべき世の正義とは相いれない」というゆがめられた信念が存在していたのかもしれません。愛を正しく理解しないならば、その愛の持つ力を拒否して「これこそ間違いだ、取り除くべきだ」と結論づけてしまうことがあり得るのです。ユダの裏切りは、まさにそうした愛への拒否が極限に達した結果でもありました。 しかし主を売ってから、ユダはようやく自分の内に沸き上がる良心の声を聞くことになります(マタイ27:3-4)。自分が売り渡したお方が罪のない方だったと気づき、その銀貨三十枚を再び大祭司たちのもとに持って行き「私は罪のない血を売り、罪を犯した」と告白しました。裏切りの前には、自分の期待を満たすものだと思われたそのお金が、すべてを成し遂げた後にはむしろ彼自身をみじめにするだけの存在となってしまったのです。彼の後悔はあまりにも遅く、最終的には自ら首をつって死へと追い込まれました。その経緯を見ると、主の愛があまりにも遅れて思い出されたのだと感じます。愛を信じることも、改めて立ち返る勇気も得られなかった彼は、絶望の淵に飲み込まれてしまいました。 ここで張ダビデ牧師は「ユダは本当に、もう一度主のもとに戻ることができなかったのだろうか」と問いかけます。放蕩息子の物語では、すべてを失い果てた息子でも父のもとへ帰りさえすれば、大宴会で迎えてくれる神様の御心が垣間見えます。主はすでに敵さえも愛し、十字架の上でご自分を嘲る者たちをも赦されました。その無条件の愛の前で最後まで心の扉を閉ざしたのはユダ自身です。彼は「自分は主を裏切ったのだから、もはや戻ることなどできない」と思い詰めたのかもしれません。しかし、もし彼が悔い改めて主のもとに行くならば、主は確かに彼を受け入れてくださったはずです。私たちはこの事実を忘れてはなりません。主の愛は人間的な基準で途切れたり消え去ったりすることはないのです。 ユダの姿は、逆説的に今日の私たち自身を振り返るきっかけになります。教会の中で、あるいは信仰の中でイエス様の教えを聞き、礼拝をし、神様の愛を口にしながらも、実際の生活においていつの間にかその愛を世俗的な基準で測り、歪んだ熱意で批判してはいないかを点検する必要があります。そして、もしある瞬間に「主を離れる道」を選んでしまったとしても、再び戻る道はいつでも開かれていることを忘れてはなりません。放蕩息子が家に帰ってきたとき、父親が駆け寄って彼を抱きしめたように、その愛の懐は常に私たちを待っているのです。 Ⅲ. 聖なる浪費と十字架:ユダが見失った道、そして私たちの道 イエス様に出会った多くの人々、特に取税人や娼婦、社会的に疎外された人たちは、その愛がどれほど無条件に注がれるものであるかを生々しく体験しました。彼らは律法的な基準では罪人にすぎず、社会の常識によって“無価値な存在”とみなされることさえありました。しかし、主は彼らと目を合わせ、憐れみと慈しみを示されました。主が築かれる神の国は、私たちの理解や知識をはるかに超えて、ときには浪費にも見え、不公平にも映るほどの愛によって成り立っているのです。そしてその愛の頂点を示す出来事こそ、十字架の死と復活です。 張ダビデ牧師は「十字架こそが最大の聖なる浪費であり、同時に最も深い愛の証なのだ」と語ります。神であるイエス様が、罪のない方として罪人の代わりに死なれたのですから、世的な観点からすればこれ以上ない“理不尽な浪費”はあるでしょうか。私たちは一体何者であって、神の御子がご自身の体を差し出し、血を流されるほどの価値があるというのでしょう。しかしこの浪費がなければ、私たちはいまだ永遠の罪の刑罰から逃れ出る道がありませんでした。愚かに見える十字架の犠牲こそ、人間に対する神の救いの計画であり、絶対的な愛の表れなのです。 イスカリオテのユダは最後まで、この「聖なる浪費」の意味を理解しませんでした。香油の壺を壊した女性を見て「無駄遣いだ」と非難したあの心が、イエス様がご自分を完全に差し出してくださる十字架の出来事へとつながるとは、彼には想像もつかなかったのでしょう。結局彼は自らの手でその道を用意することになってしまいました。浪費としか思えないほどの愛の極みに対して、「愚かな行為」とみなし排除しようとし、大祭司たちにイエスを引き渡す道を選んだのです。けれども主はその選択さえも、人類に救いをもたらすための十字架への道として用いられました。十字架の上で流された血によって、全人類に永遠のいのちへの道が開かれたのです。 私たち一人ひとりは、この愛の前でどのような態度をとるでしょうか。もし世の観点で主の愛を測ってしまうなら、十字架の真意を完全に悟ることはできません。信仰が消え失せるとき、人間的な知識や論理がかえって私たちの目を曇らせてしまうのです。聖書で「善悪を知る木の実」を食べてはならない(創2:17)と命じられたのは、「人間が自分の知恵で善悪を決めようとするな。神の言葉に従い、神が与える愛のうちにとどまりなさい」という警告でもありました。しかし私たちはときどき、自分の頭を働かせ、「この愛は本当に正しいのか? この状況は非効率なのでは?」と考えて、主の全き導きを疑ってしまうのです。その結果として罪を犯し、霊的に破壊されてしまうと同時に、主なしに生きる人生の虚しさと苦しさを後になって痛感することになります。 張ダビデ牧師は「主を裏切るということは、ただイエス様を否定するという意味合いだけではなく、その方の愛を世俗的論理で拒絶し、教会共同体や信仰の中で行われる無条件の愛と献身をあざける心が宿ったとき、すでに始まっている」と言います。愛は関係の深まりを通して完成していきますが、その深い関係には必然的に“浪費とも思える時間”と犠牲が必要です。親と子の関係を思い出すと分かりやすいでしょう。子どもを育てるには終わりのないほどの犠牲とエネルギーが費やされます。しかし親はそれを浪費だと思わず、喜びとして担っていきます。子どもが生まれ、育っていくすべての瞬間が愛の実践であり、その愛のうちで親自身も喜びを味わうのです。 主が弟子たちを、そして私たちを世話してくださるときも同じです。その愛は無条件であり、時に未熟な私たちをそのまま抱きしめる大きな愛です。これこそが神の憐れみであり、聖なる浪費なのです。ユダはこの愛の本質を誤解し、自分の基準で判断して「こんなことを続けさせるべきではない」と結論づけました。そして銀貨三十枚という対価で師を売り渡しました。結果として彼は、求めていたはずの世俗的正義や利益さえ得られず、深い絶望のうちに自死を選んでしまったのです。 しかし私たちの物語はそこで終わりません。むしろこの悲劇の中にあってこそ、神の救いの奥義が明らかにされます。主はユダの裏切りさえも用いて十字架への道を完成され、その十字架の上でご自分を差し出されることによって、選ばれた子どもたちに永遠のいのちを与えてくださいました。これは私たちの罪がどのようなものであれ、私たちに対する神の愛は決して途切れることがないという決定的な証拠です。たとえ私たちがつまずき、裏切りの道を歩んだとしても、悔い改めて戻るなら、主は変わらず私たちを受け入れてくださるのです。 だからこそ受難節(四旬節)は、この無条件の愛と苦難を黙想する時なのです。私たちは主の前で自分の世俗的な知識や高慢を打ち壊す必要があります。ときには香油の壺を壊した女性のように、主に自分の全存在を注ぎ出す献身が求められます。それを「無駄遣い」とあざける冷笑的な声に直面しても、「これは主に対する聖なる浪費なのだ」と告白できる信仰が必要です。十字架の道は浪費に見えますが、その道こそが命への道です。主の愛に対する全き信頼をもってこの道を歩むなら、決して後悔することはないのです。 張ダビデ牧師は最後にこう勧めます。「私たちが持つすべてを主にお捧げしたとき、世はそれを浪費だとあざ笑うかもしれない。けれども主はそれを最も美しい献身として受け取ってくださる。マリアが主の足元に座って御言葉に聞き入ったこと、罪深い女が香油の壺を壊して香油を注いだこと、放蕩息子が戻ってきて父の懐に抱かれたことこそが、福音が証しする神の国の現実なのである」と。私たちはイスカリオテのユダの悲劇から学びつつも、決して同じ結末に陥らないように、主の愛を深く信頼しなければなりません。その愛は、一度たりとも私たちをあきらめない永遠の愛であり、最終的には私たちを変えて神の国のすばらしい証人としてくださる力なのです。 結局、選択は私たちに委ねられています。ユダのように「この愛は非合理だ」と言って裏切りの道を進むのか、あるいは香油の壺を壊した女性のように「この愛は自分のすべてを捧げるに値するほど尊い」と言って献身の道を歩むのか。そして、たとえ一度ユダの道を選んだとしても、いつでも主のもとへ戻ることができます。主は悔い改める一人の魂をも決して見捨てられません。では私たちはこれからどんな道を歩むのでしょうか。銀貨三十枚というわずかな金に縛られて神の国の栄光を失うのか、それとも主が示してくださった愛の深みを悟って、その道をともに歩むのか。その問いに対する答えこそ、私たちの信仰告白であり、日々の生活の中で現れるべき実践的な決断なのです。 www.davidjang.org

거룩한 낭비와 배반 – 장재형목사

Ⅰ. 옥합을 깨뜨린 여인과 세속적 정의의 충돌 마태복음 26장에는 예수님께서 베다니 나병환자 시몬의 집에 계실 때, 한 여인이 매우 귀한 향유를 담은 옥합을 깨뜨려 주님의 머리에 부은 장면이 등장한다. 당시 문화적·사회적 배경을 살펴보면, 여인은 재산 목록 중 하나로 여겨질 만큼 소외되기 쉬운 위치에 있었다. 더욱이 누가복음 7장에 보면 주님께 향유를 붓고 눈물로 그 발을 씻은 여인은 죄 많은 여인으로 묘사되기도 한다. 그러나 그러한 … Read more

Vivre en demandant notre pain quotidien – David Jang

1. La signification du “pain quotidien” et l’enseignement du pasteur David Jang La « Prière du Notre Père », que nous récitons souvent, apparaît dans Matthieu 6,9-13. Parmi ces versets, la demande « Donne-nous aujourd’hui notre pain quotidien » (Matthieu 6,11) est un passage précieux que tout chrétien prononce fréquemment. Cependant, il arrive que nombre … Read more

为每日所需的粮而活 —张大卫牧师

1. 日用的粮之含义与张大卫牧师的教导 我们常说的“主祷文”出现在《马太福音》第6章第9节至13节,其中“我们日用的饮食今日赐给我们”(太6:11)的祈求,对所有基督徒而言都是常常挂在嘴边的珍贵经文。然而,很多信徒虽然口中背诵,却未必在实际生活中深思这一句到底意味着什么。对此,张大卫牧师在多次讲道和授课中强调:“当神教导我们祈求‘面包’(或‘饼’)时,我们必须深入默想那‘面包’所包含的意义。”换言之,“日用的粮”不仅包括我们生存所需的物质层面,也同时涵盖更深的属灵价值与对天国的渴慕。 人们在提到“日用的粮”时,往往会联想到属灵的粮食。诚然,神的话语和恩典极为重要,但在主祷文中,主耶稣亲自教导的“日用的饮食”首先指向非常实际的层面,即每天维持生计所必需的食物。张大卫牧师指出:“如果我们只强调‘属灵粮食’,却忽视现实生活中需要的粮食,那就失去了主耶稣所教导之祷告的平衡。”因为耶稣在《马太福音》4章4节中说过“人活着不是单靠食物,乃是靠神口里所出的一切话”,而在《马太福音》第6章的主祷文中又清楚地吩咐“要祈求日用所需”。在这微妙的平衡中,我们需要同时领受两个真理:神的话语是人生命的根本属灵原则,但我们也要向神求每天生活所必需的“面包”(物质需要)。 那么,为什么祈求日用的粮如此迫切呢?张大卫牧师注意到《申命记》8章3节:“使你知道,人活着不是单靠食物,乃是靠耶和华口里所出的一切话。”这节经文说明了神在旷野赐下吗哪的用意。通过吗哪的供应,神的子民得以解决最基本的温饱问题,从而体认“神真是能实际解决人饥饿的那位”。但与此同时,吗哪本身并非全部,必须认识到它的来源,并在神话语的引导下生活。张大卫牧师在这一点上强调:“若没有吗哪,以色列民会立即饿死;但若只有吗哪却没有神的话语,他们也会失去旷野生活的真正目标和身份。”因此,食物确实重要,却必须明白它不是单纯物质的终点,而是神所赐下的活的恩典。主祷文中的“日用的粮赐给我们”一方面宣告要把我们每天的吃穿住行交托给神,另一方面提醒我们,供应的主人乃是神自己,切勿忘记这一点。 张大卫牧师有时会用“面包就是金钱”这样的比喻来帮助我们理解。对现代社会而言,“面包”或“饼”有时只是象征,我们现实生活中最常接触的形式其实是货币。因此,“赐给我们日用的饮食”这句祈求,也包含了“赐给我们每天生活所需的经济资源、物质”的意思。接着就会有人问:“那到底要赚多少钱?或者拥有多少才算够呢?”我们或许无法精准设定界限,但至少耶稣的祷告意图是“够我日用,甚至能服事我周遭有需要之人”,并可以大胆地求。至于具体多少才合适,每个人境况不同,但核心精神在于:不是为了自己的贪欲或奢华,而是为了神的国和爱的实践来求所需的财务。 在主祷文的整体结构中,“我们在天上的父,愿人都尊你的名为圣,愿你的国降临,愿你的旨意行在地上,如同行在天上”——这是两个前提,张大卫牧师称之为“确立整个主祷文方向的基石”。神的名被尊崇、神的国度降临——这揭示了我们人生的目的与存在的意义:人受造于神的形象,原本就是要为神国度的完成而献身。因此,耶稣才会在《马太福音》6章33节中宣告“你们要先求他的国和他的义”,这是自然而绝对的命令。而当我们真正顺服这一命令,也就自然地在此过程中向神祈求“我今日所需的面包”。张大卫牧师将其称为“神圣优先次序的法则”——先是神的国,之后才谈及物质。然而,并不意味着我们能忽略物质需求,反而要坦然向神求,并将所得奉献于事奉神国,这才是主耶稣要教导的平衡之道。 在这种思维中,有一个关键讯息需要牢记:正如《申命记》8章3节所说,人并非只靠食物生存,然而若没有食物,我们同样会挨饿。因此我们要重视食物,却不可让食物本身成为目的。张大卫牧师特别强调耶稣在旷野受试探时(太4:1-11),面对撒但让石头变成食物的诱惑,如何回应:“人活着不是单靠食物”。耶稣并没有否定食物的价值,却清楚宣告话语比食物更优先。如此态度就是信徒应有的理想样式:祈求日用的粮,但绝不可让“粮”超越对神的依靠。张大卫牧师由此宣讲:“求饼,却不可让饼凌驾于神之上”。 因此,“我们日用的饮食,今日赐给我们”这句祈祷,实际上同时包含极其现实的需求与属灵的意涵。一方面,就像孩子对父母自然地说“我饿了,请给我饭吃”,我们可以向神祷告;另一方面,则要记住赐给我们这饼的是神。张大卫牧师常引用《路加福音》11章“半夜向朋友讨要三饼”的比喻,说明这正是祈求“日用的粮”的基本姿态。在路加福音11章5节起的经文中,深夜去找朋友借饼的人,是为了款待突然到访的客人。深夜前去虽有失礼之嫌,但出于迫切的爱与连结,对方最终还是会应允。从这个例子可以看到,迫切的求与爱心的相遇,令那拥有饼的朋友无法拒绝。张大卫牧师认为,这正是“何谓恳切祈求”的写照。正如那人半夜不停拍门高喊“朋友啊,朋友啊,给我三块饼吧”,我们也应如此迫切地向神祈求:“神啊,今天我所需的请赐给我;不仅为我自己,也为了身边缺乏或受苦的人,我需要更多资源!”关键在于“三块饼”的象征意义:不仅我自己的一块,还包括可以与人分享、照顾他人缺乏的份额。这才是“日用的粮”祷告的深意:它并非只求自己温饱,而是愿意背负周围人的匮乏,用爱心共同解决的祷告。 随后,耶稣在《路加福音》11章9节及其后续经文中宣告:“你们祈求,就给你们;寻找,就必寻见;叩门,就给你们开门……你们虽然不好,尚且知道拿好东西给儿女,何况天父岂不更把圣灵赐给求他的人吗?”(路11:13)。张大卫牧师强调,这里所说的“圣灵”才是神赐下的最宝贵礼物,真正推动信徒在获得日用的粮之后,将其用于分享、服事神国。原因在于,纵使我们得到物质,依然可能出于自我满足或贪欲来使用,也可能用来服事神国、关怀他人。在这两者的分岔路口,神赐的圣灵就成为我们“爱人、关怀他人”的必要引领。因此,耶稣并不只是说“你们求吧,神就都给”,而是更进一步点明:祷告最终要扩展到寻求神的灵。 那么,实际操作中,我们如何祈求日用的粮,并在领受圣灵后学会分享?张大卫牧师常以《马太福音》17章24节往后记载的“在鱼口中得钱缴圣殿税”来作为实例。耶稣和彼得当时需要缴纳圣殿税,却没有钱。耶稣吩咐彼得去海边钓鱼,第一条上钩的鱼口里会有一舍客勒的钱,可以用来缴税。这是令人惊异的神迹,但其主旨并非“困境时天上掉钱”如此简单,而在于指示我们:当神国的需要出现时,神可以用超乎人想象的方式填补不足。张大卫牧师指出:“一条鱼叼着钱”的看似荒诞的故事,教导我们祈求日用的粮并非徒然,当人无法、神却能成就。然而问题在于:钱拿到手后,我们是否预备好用在神国和爱的行动中,这才是关键。 综上所述,祈求日用的粮的祷告,基于以下理念:相信神的国是人生最优先的焦点,但在此过程里,神也吩咐我们“大胆祈求每天所需”。并且,这种祷告须根植于对他人的爱与分享,而非贪得无厌的私欲。如此“求钱”,却是带着“要在爱中运用它”的决心时,神就能按我们的需要,甚至远超过我们所想地供应。这也是《路加福音》11章耶稣寓言的核心,亦是张大卫牧师反复叮嘱的信仰实践之道。 2. “求、找、叩门”——祷告与爱的实践 《路加福音》11章9节“你们祈求,就给你们;寻找,就必寻见;叩门,就给你们开门”集中描绘了基督徒祷告生活的特质。我们需要分别省察何谓“祈求的人”、“寻找的人”以及“叩门的人”。张大卫牧师在解读这段经文时解释说:“求、找、叩门”展示了祷告不同阶段的层次。不是一次性的请求,而是逐步向神更深地靠近的态度。 首先,“求”代表我们最基础的祷告姿态。正如前面所述,我们可以非常具体地说:“神啊,我需要今天的食物。现在经济上有困难,求你帮助。”张大卫牧师将这一层称为“孩童的心态”。就像孩子对母亲说“妈妈,我要吃饭”,这没有任何不恭或低级之嫌,而是父母与子女之间的自然关系。然而,许多信徒常会自我评判,觉得把如此具体的需求告诉神,好像显得不够属灵或不成熟,于是干脆不祷告。张大卫牧师提醒:“主耶稣亲自教导我们要求日用所需;不求反而是骄傲。”坦诚地向神陈明现实所需,正是祷告的第一步。 第二,“找”则意味着超越表面需求,追寻神借着这个需要对我们所要启示的旨意。换言之,在求日用的粮时,不只是为了填饱自己的肚子,而是思考:“借着这粮,神要我如何服事神的国?如何与他人分享?”张大卫牧师说:“我们不应满足于‘给我一顿饭’的祈祷,而要在这份供应中寻找神对我生命的带领。”因此,祷告往往和“默想”紧密相连。在经历供应或缺乏时,神工作的方式如何?我的信心怎样成长?最后这一切如何归荣耀于神?能在这个过程中领悟,便是“寻找的祷告”。 第三,“叩门”意味着更主动更积极的信心姿态。张大卫牧师把这形容为“带着坚定不移的相信来到神面前”。深夜之门紧闭,要去叩门需要相当的勇气和迫切,如先前提到的比喻:那人在夜深时去敲朋友的门,尽管有失礼风险,也可能遭拒,却因为强烈的需要与爱心,不停拍门:“朋友啊,给我三块饼吧。”最终朋友开门并满足所求,甚至可能给得更多。我们向神祷告时也需要这样的坚持。张大卫牧师把它称为“恳切”,说:“当我们带着爱的动机不断向神恳切祷告时,神终会为我们开门,一旦开门,就赐下超过我们所想所求的恩典与供应。” 然而,在这一切过程中必须牢记的核心,就是“爱”。如果缺乏爱,祷告就容易走向贪心或自我满足。我们可能为了更多成功或财富,甚至不惜牺牲他人,而在自私中祷告。因此,耶稣在《路加福音》11章“朋友的比喻”里强调:那人在深夜讨要三块饼,不是只为自己,而是要接待深夜来访的客人。张大卫牧师解释说:“为了服事他人需要而向神祈求更多的粮食,正是神所喜悦的祷告。”以爱为动机、为神国拓展与关怀他人而祈求,这才是主所教导祷告的核心法则。 因此,即使我们在祷告中求日用的粮,也要清楚认识这粮来自何处、为何需要。“神啊,请赐我食物,也求你让我能用这食物去帮助他人。”这正是张大卫牧师所提倡的实用祷告示例。主祷文的“赐给我们日用的饮食”,在当今社会,不仅关乎那些缺乏食物的邻舍,也关乎宣教所需经费、教会事工所需支持、牧者及宣教士的生活供给等,这些都是真实且具备圣洁目标的祈求。而祷告不仅是为解决生活问题的手段,更是推动我们把爱付诸行动的属灵动力。 回顾旧约与新约的历史,可以见证无数人为神国度甘心奉献财物或献上生命的事例。初代教会时期,有人变卖田产,将钱放在使徒脚前(徒4:34-35),按需要分给弟兄姐妹,教会便经历了奇妙的复兴与彼此相爱的历史见证。张大卫牧师基于此教导说:“若真正明白‘神所赐日用的粮’,就不会只抓在手里,而是像使徒行传教会一样,根据需要乐意分享。正是在给予中,我们体验真快乐和丰富。”因此,我们也能理解主说“施比受更为有福”(徒20:35)的含义。带着与人分享的初心来祈求的人,就会成为“求就得着”的祝福管道。 3. 神的国、饶恕以及信心的方向 回到主祷文整体脉络:“愿你的国降临”(太6:10)在“赐给我们日用的饮食”之前,随后又跟着“免我们的债,如同我们免了人的债”(太6:12)。《路加福音》11章中也以较简短的形式涵盖三个祈求重点:让神的国降临、赐给我们日用的粮,以及“饶恕我们,好像我们饶恕人一样”。张大卫牧师将其称为“祷告的三根柱子”——对信徒而言,这三者至关重要:神的国、(物质和属灵)粮食的供应,以及饶恕。 首先,神的国成为我们存在的根基与目标。自起初神造人之时,人便肩负与神同工,建立神国的使命。所以耶稣公开传道时,就宣告“天国近了,你们应当悔改”,并将“神的国(Kingdom of God)”置于一切教导的中心。张大卫牧师再三强调:我们祈求日用所需的粮,也必须在这“神国意象”中理解。“神的国”这幅宏大蓝图之下,我们每天求粮,为要服事并扩大神的国度,也在其中找到喜乐。如果脱离神的国,仅仅祈求“让我活得舒服点”,祷告便会走样。 接下来是“饶恕”这一问题。《路加福音》11章4节记载:“饶恕我们的罪,因为我们也饶恕凡亏欠我们的人。”这是人际关系的问题,同时也是我们内心深处的问题:若我们的罪未被神赦免,就无法坦然无惧地到神面前;而若我们不饶恕他人,也无法真正享受神赦免的恩典。张大卫牧师认为“饶恕”在祷告中占据“至关重要”的地位。即便我们在物质上得供应,为神国度勤奋工作,如果内里仍揣着不能饶恕的恨或伤害,就会破坏教会合一与人际和谐,同时自己也在仇恨或罪疚中不得自由。因此,饶恕是走向属灵自由的必经之路,也是建立真正神国团契的出发点。 张大卫牧师强调,饶恕不只是情感或礼仪层面的行为,更是超越人力的属灵功课。神在耶稣基督里所彰显的“十字架之赦免”,其实是把我们无法偿还的巨大债务一笔勾销了。若我们认识到自己蒙受了多么大的恩典,就不应有不饶恕别人的理由,也会在祷告中为与人重建关系而努力。当“神的饶恕”与“我们的饶恕”相互交叠,主祷文才得以完整。若缺失“饶恕”,即使我们谈神国,也可能陷入律法主义;若缺失“饶恕”,求日用所需也容易沦为自我中心。唯有“神的国—日用的粮—饶恕”三者结合,才能塑造完备的信仰框架。 具体而言,为神的国祷告意味着我们相信神的统治已经在地上展开,并且将来必达成完全。张大卫牧师常用“历史意识”一词来形容:“人类历史终将走向神国度的完成。能领悟并参与这伟大进程者,就是有智慧的信徒。”若只看眼前,就容易被环境的诱惑或恐惧所打击,但若确信“神在天上已然成就的国度,必定要在地上落实”,我们就不会失去盼望。这份信心也藉着祷告实现:愿神国更快降临、愿神的旨意遍及我们的职场、家庭、社会,以及全球各地。这些祈求体现了“愿你的国降临”的实质内涵。 在如此神国观与饶恕的动力之下,我们向神祈求日用的粮,便能每日经历神的恩典。即便没有明显的神迹,我们依旧相信神必在适当的时候赐所需用,并在感恩与平安中生活。“今天我能有饭吃”,为此感谢神;哪怕只是一点点,也能拿来分享给其他有需要的人。如果在这微小的“分享一餐”之举中渗透基督的爱,那便是神国的真实延伸。张大卫牧师反复提及:“小小的爱心行动会汇集成教会的建造,亦能转化社会,最终推进神国的进程。” 因此,“信心的方向”就在于:愿神的名被尊为圣、愿他的国和旨意在地上落成,其间我们得以日用的粮,并在彼此间实践饶恕与相爱。在这条道路上我们难免经历挫折、灰心:也许物质祈求难以立即应验,或者发现要饶恕并不容易。但耶稣告诉我们“你们祈求,就给你们;寻找,就必寻见;叩门,就给你们开门”,这应许只要我们不停止来到神面前,神必应允。张大卫牧师总结:“自太初以来,神施恩的方式始终一致:他向祷告之人显现,把圣灵赐下,使我们能分享、服事、饶恕。”因此,祷告生活正是信仰生活的根本;透过祷告,我们获取神国视野,也得享日用所需与饶恕之力量。 张大卫牧师更进一步指出:“神对我们的期待,并非言语华丽或空洞表白,而是融入具体生活中的爱之实践。”《约翰一书》3章18节也提到:“不要只在言语和舌头上,总要在行为和诚实上显明出来。”教会内、家庭中、社会里,我们若愿意拿出“本以为属于自己的时间、才能、钱财”,相互服事,就能见证基督之爱。因此,“我们日用的饮食今日赐给我们”的祷告,理应扩展为:“主啊,借着这食物,让我成为在世上分享你爱的人。”这也正是我们以生命献上的敬拜,并成为神国临到人间的管道。 归纳而言,主祷文中的“赐给我们日用的饮食”蕴含多重层面: 张大卫牧师指出,当我们经历这过程,信徒就会从“占有模式(having mode)”一步步转向“爱模式(loving mode)”。也就是说,或许我们最初是出于想获取某些东西而祷告,但在圣灵带领下,我们逐渐体认到“存在(being mode)”的真实核心,最终进入“爱(loving mode)”的境界。 尤其透过“三块饼”的比喻,我们看到“所求的饼并不只是自己享用,而是与人分享、建造周围人的粮食”。深夜敲门并不只是出于满足自我,而是为了接待客人、供应他人的需要。当我们怀着这种心情祈求时,神便应许开门,并按照路加福音11章8节所述,“必照他所需用的给他”,甚至远超过所求所想。 简言之,主祷文中的“日用的粮”祷告,不是一次性的或表面的,而应成为每日与神同行的灵命操练,帮助我们反思当下真正所需,并将视线扩展至邻舍与群体。神所供应的财务、健康、精力,应当成为我们爱人如己、服事神国的器皿。张大卫牧师又补充说:“回顾教会历史,那些真诚爱神、热心祷告之人,常常经历丰盛供应,不仅自己不缺,还能大力支持贫穷和传福音的事工。我们今日也在继续这脚踪。”这正是“愿你的名为圣、愿你的国降临、愿你的旨意行在地上”,并在实际生活中见证神恩典的展现。 最后,别忘了《路加福音》11章13节的结语:“你们虽然不好,尚且知道拿好东西给儿女,何况天父岂不更把圣灵赐给求他的人吗?”神固然愿意赐给我们日用的粮和生活所需,但最终最宝贵的礼物却是圣灵。有了圣灵,信徒就不再只停留在个人小需求的解决上,而是进入神的国、追求公义、实践饶恕与爱的生命。张大卫牧师总结道:“当信徒被圣灵充满,便自然地效法耶稣,去服事、去爱、去饶恕、去传福音,这就是神造我们的目的。”这样一来,我们所祈求的所有“日用的粮”也都会成为爱与见证的管道,为神的荣耀所用。 因此,“我们日用的饮食今日赐给我们”这短短一句,其实贯穿了信徒生活的重要告白与行动呼唤。我们每日背诵这祷文时,应更深体会神的心意。无论是从《申命记》8章的吗哪、还是《马太福音》6-7章的教导、或《路加福音》11章“夜访朋友”的比喻,都显示神顾念我们每天的所需,也渴望我们与他一同建造神的国。张大卫牧师借此串联出:“愿神的名被尊为圣,他的国降临,他也在过程中赐下日用所需,使我们成为‘爱的管道’。”若我们牢牢记住此原则,并持之以恒地祈祷,必定不会缺乏,反而会满溢地经历神的恩典。这正是耶稣教导门徒的精髓,也是张大卫牧师不断传达的核心讯息。唯有如此活出真理,我们才能成为“与神同工,建立神的国”的伙伴。

日ごとの糧を求める生き方 – 張ダビデ牧師

1. 「日ごとの糧」の意味と張ダビデ牧師の教え 私たちがよく口にする「主の祈り」は、マタイの福音書6章9節から13節に登場します。その中の「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」(マタイ6:11)という願いは、キリスト者であれば誰もがしばしば唱える大切な句です。しかし、多くの信徒は口先で唱えるだけで、その実際の意味を深く考えないまま過ごしてしまうことも少なくありません。これについて、張ダビデ牧師は多くの講義や説教で「神様が本当に“パンをください”と祈れと仰せになったとき、そのパンが何を意味するのかを深く黙想する必要がある」と強調しています。つまり「日ごとの糧」が指し示す具体的な次元は、私たちの生存に必要な物質的なものを含むと同時に、さらに深い霊的価値や天の御国への憧れまでも包含するというのです。 人々は「日ごとの糧」と聞いて霊的な糧を思い浮かべることがあります。もちろん霊的なみことばや恵みは絶対的に重要ですが、主の祈りの中でイエス様が直接教えてくださった「日ごとの糧」は、まずは非常に現実的な次元、すなわち日々食べて生きるために必須の糧を指しています。張ダビデ牧師は「私たちが『霊的な糧』だけを強調して、現実的に必要な糧を軽視するならば、それはイエス様が教えられた祈りのバランスを失うことになる」と述べています。なぜならイエス様はマタイ4章4節で「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる」と仰せられ、同時にマタイ6章の主の祈りでは「食べるものを求めなさい」とも明確におっしゃったからです。この絶妙なバランスの中で、私たちは二つの事実を共に受け取るべきなのです。神のみことばは人間の生活を支える根本的な霊的原理であり、しかし日々生きる上で欠かせないパン(物質的糧)も神に求めるべき重要な部分である、ということです。 では、なぜ「日ごとの糧」を求める祈りがそれほどまでに切実なのでしょうか。張ダビデ牧師は申命記8章3節のことばに注目します。「人はパンだけで生きるのではない。主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(要約)。この箇所は、神が荒野でマナを降らせた目的を示しています。マナを通して神の民は最低限の食糧を供給され、「神は実際に私たちの飢えを満たしてくださるお方だ」という真理を悟るようになります。しかし同時に、マナ自体が人生のすべてではなく、そのマナがどこから来たのかを認識し、神のみことばに従って生きるよう導くのが神ご自身だということを学ぶのです。張ダビデ牧師はここで「もしマナがなければ、イスラエルの民は飢えて死ぬしかなかった。しかしマナだけが与えられて、神のみことばがなかったならば、彼らは荒野生活の真の目的とアイデンティティを見失っただろう」と力説します。結局、パンも必要ですが、そのパンが単なる物質的豊かさの終着点ではなく、「神が与えてくださる生きた恵み」であることを知らなければなりません。だからこそ主の祈りの「日ごとの糧をお与えください」という句は、私たちが毎日食べたり着たりする経済的問題を神に委ねるように促しつつも、その供給の主が神であることを忘れてはならない、と命じているのです。 張ダビデ牧師はここで「パンとはすなわちお金のこと」とたとえることもあります。現代社会においてパンや餅は象徴的であり、実際に私たちの日常で最も身近にやりとりされる形は貨幣である場合が多いからです。ゆえに「日ごとの糧をお与えください」という願いの中には、「日々生きるために必要な経済的資源・物質をお与えください」という祈りが含まれています。すると「どれほど稼げばよいのか」「どれほどあれば十分なのか」という問いが生じるかもしれませんが、その限度を一律に定めることは難しいとしても、少なくともイエス様が提示された祈りの意図は「自分が日々必要とするだけでなく、周りの人々をも仕えることができる分を、正々堂々と求めなさい」ということです。どの程度の物質が適切でどの程度が過剰かは人によって異なるかもしれませんが、その中心にある精神は「自分の欲望や贅沢のためではなく、神の国と愛の実践のために必要な財政を求める」という点です。 主の祈りは大きく見ると、まず「天におられる私たちの父よ、み名があがめられますように。み国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という「二つの前提」から始まります。張ダビデ牧師は「この二つの前提が主の祈り全体の方向を決定づける」と語ります。神の御名があがめられること、そして神の国が来ること。これが私たちの人生の目的と存在理由を示しています。人は本来、神のかたちに造られ、神の国の完成に向けて自分の人生を捧げる存在なのです。そういう観点から「まず神の国とその義を求めよ」とおっしゃったイエス様のみことばは、至極当然であり、絶対的な命令だと言えます。そしてその命令に実際に従う過程で、私たちは「今日必要なパン」を求めることになるのです。張ダビデ牧師はこれを「神的優先順位の原理」と呼びます。神の国が先にあって、その次に物質が伴う。しかし物質を軽んじるのでもなく、むしろ神に大胆に求め、一方で求めたその物質を通して神の国に積極的に参与すべきだというのです。 このような思考法から導き出される核心メッセージがあります。申命記8章3節のみことばのように、「パンだけがすべてではない」と知ると同時に、「しかしパンも神が与えてくださらなければ享受できない」ことを悟る、ということです。つまりパンを軽んじるのではなく大切にしつつ、それが私たちの目的や人生のすべてになってしまうことを戒めるのです。このとき張ダビデ牧師は、イエス様が荒野で試みを受けられたとき(マタイ4:1-11)、「これらの石をパンに変えよ」というサタンの誘惑にどう対処されたかを改めて強調します。イエス様はパン自体を否定なさったわけではありませんが、「人はパンだけで生きるのではない」というみことばを引用し、パンより上にあるみことばの優先性を宣言されました。これこそが信徒の理想的な姿勢であり、日ごとの糧を求めつつも、その糧が神より上位に置かれないようにしなければならない、と張ダビデ牧師は説きます。 このように「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、信徒にとって極めて現実的な要望と霊的な意味が結びついたリクエストです。一方では「お腹がすいているので食べるものをください」と、子どもが親に自然に言うように神様に祈ることであり、他方では、そのパンを与えてくださる方が神様であることを忘れない、という信仰告白でもあります。張ダビデ牧師は特に、ルカの福音書11章に登場する「真夜中に友人のところへ行ってパンを三つ借りる」例えを引用し、これこそ日ごとの糧を求める祈りの基本姿勢を示していると解説します。具体的には、ルカ11章5節以下に言及されたこの物語には、夜遅くにやってきた客をもてなすために熱心にパンを願う人の姿が描かれます。その時間帯に訪ねること自体が失礼にあたり得ますが、友人にパンをくれとドアを叩く切実さ、そしてそれに応じずにはいられない愛と連帯が核心テーマです。最終的に、この切実さと愛が交わるとき、パンを持っている友人は戸を開けてパンを与えざるを得なくなるのです。 張ダビデ牧師はこの場面を「切実な祈りとは何か」をよく示す例だと言います。まさに真夜中にドアを叩きながら「友よ、友よ、パンを三つだけくれ」と叫ぶように、私たちも神の前に出て「神様、今日も私に必要なものを与えてください。私だけでなく、私の周りの不足や苦しんでいる人々を助けるために、もっと多くの資源が必要です」と祈るべきだというのです。ここで重要なのは「三つのパン」という表現に象徴性があること。自分が食べる一塊だけでなく、共に分かち合うパン、隣人を顧みるためのパンまでも求める姿勢を示しているのです。結局、これが「日ごとの糧を求める祈り」に込められた深い意図です。単に自分の飢えを満たすだけの祈りではなく、自分を取り囲む他者の不足をも一緒に抱え、共に解決しようとする愛の祈りなのです。 主はルカ11章9節以下で次のように語られます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」そして続く13節では「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っているのです。まして天の父は、求める者たちに聖霊をお与えにならないはずがあるでしょうか」と言われました。張ダビデ牧師はここで、「聖霊」こそ神がくださる最大の賜物であり、神の御霊を受けた信徒が日ごとの糧を求め、それを分かち合う生き方へと進む際の根本的原動力になると強調します。なぜなら、物質を得たとしても、それを自己満足と欲望を満たすために使うのか、それとも神の国のために分かち合い仕えるために使うのかは、まさに大きな岐路だからです。その分かれ道で、神が与えてくださる聖霊は「愛の心、他者を顧み思いやる心」を呼び起こす必須の要素となります。ですからイエス様は「何でも求めれば与えられる」と言って終わるのではなく、最終的に神の御霊を求めるところまで祈りを拡張すべきだと示してくださったのです。 では実際に、どうやって日ごとの糧を求め、また聖霊を受けてその糧を分かち合うことができるのでしょうか。張ダビデ牧師は「具体的な現実の中で日ごとの糧を求める祈り」の例として、マタイ17章24節以下に登場する「神殿税を納めるためのお金を魚の口から得た話」をよく挙げます。イエス様と弟子のペテロは神殿税を払わねばなりませんでしたが、手元に適切なお金がありませんでした。そのときイエス様は「海に釣り針を投げて、最初に上がってくる魚を捕まえて、その口を開けると1シケルの銀貨が見つかるから、それであなたと私の分を払いなさい」と命じられます。これは驚くべき奇跡です。しかしこの奇跡は単に「困ったとき空からお金が降ってくる」式の話ではなく、神の国を拡張するために必要が生じたとき、神がその不足を満たすことがおできになる、という象徴を示しています。張ダビデ牧師は「魚が銀貨をくわえていた」という一見荒唐無稽にも思えるエピソードを通して、私たちが日ごとの糧を求める祈りは決して空しくない、と悟るように言います。人の計算では不可能に見える状況も、神が働き始められれば変わり得るのです。ただし、そのお金を手にしたときに「それをどこへ使うのか」という問題、つまり神の国と愛の実践のために使う準備が整っているのかどうかが重要だ、というわけです。 これらを総合すると、「日ごとの糧を求める祈り」は、神の国が人生の絶対的優先順位だと認識する一方で、日々に必要な現実的要求を神に切に願えというイエス様の教えに基づいています。そして、その祈りの姿勢は欲望ではなく愛と分かち合い、隣人への思いから出発すべきです。このように「お金」自体を求めても、「それを愛をもって使う」という決断とともに求めるとき、神は「その願いどおり」、さらには「必要以上に」満たしてくださる方です。ルカ11章でイエス様が教えられたたとえの核心はそこにあり、張ダビデ牧師が常々力説する「信仰生活の実際的なスタイル」でもあるのです。 2. 求めよ、探せ、たたけ ― 祈りと愛の実践 ルカ11章9節のみことばである「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」は、キリスト者の祈りの生活を象徴的に描き出しています。ここで私たちは「求める者」になること、「探す者」になること、そして「たたく者」になることがどういう意味なのかを考えてみる必要があります。張ダビデ牧師はこの本文を解き明かしながら、「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」のフレーズが、それぞれ異なる次元の祈りの段階を示していると説きます。単に一度のリクエストで終わるのではなく、段階的に神に近づく姿勢を現わしているというのです。 第一に、「求めなさい」は、私たちが最も基本的に持つべき祈りの姿勢を意味します。先に見たように、具体的に「神様、今日食べる糧が必要です。経済的に苦しい状況にあります。助けてください」と祈る態度です。張ダビデ牧師はこの段階を「子どもの心情」と呼びます。子どもが親に「ママ、ご飯ちょうだい」とねだることを、未熟だとか卑しいと見る人はいません。それはむしろ親子の自然な関係を示すものです。しかし、多くの信徒は「神様にこんな些細な問題まで求めるのは、どこか未熟に思える」と感じて祈りをやめてしまう場合がある、と言います。張ダビデ牧師はこれを戒め、「イエス様ご自身がパンを求めよとおっしゃったのだから、当然求めなければならない。むしろ求めない方が高慢なのだ」と指摘します。具体的な生活の必要を率直に打ち明けることこそが、祈りの第一段階なのです。 第二に、「探しなさい」は、目に見える表面的な必要を超えて、その必要を通して私たちに教えようとなさる神の御心を見いだす次元です。たとえば日ごとの糧を求めるとしても、単に自分の飢えを満たすためで終わるのではなく、「この糧を通して、私は神の国にどう寄与し、隣人にどう愛を分かち合うことができるのか」という視点へと進む段階です。張ダビデ牧師は「ただ『ご飯をください』で終わるのではなく、このご飯を通して神が私の人生をどのように導かれるのか、その意味を探し求めることが大切だ」と語ります。だからこそ祈りはしばしば「黙想」と結びつきます。ご飯をくださいと祈ったとき、神がその糧を与えてくださる奇跡よりもっと大切なのは、その過程を通して私たちの心が変えられ、成熟していくことです。不足や苦しみの中で神が働かれる様子を探し出し、そのプロセスを経て私たちの信仰は成長し、最終的にはすべてが神の栄光へと結びつくのです。これが「探す祈り」の段階と言えます。 第三に、「たたきなさい」は、さらに能動的・積極的な姿勢を意味します。張ダビデ牧師はこれを「堅固な信仰をもって神に近づくこと」と説明します。真夜中に鍵のかかった戸をたたくには相当な勇気と切実さが必要です。先に述べた例え話のように、深夜に友人の家を訪ねる者は、不躾と思われる可能性や、断られるかもしれない不安を抱えながらも、「友よ、パンを三つだけくれ」と願い続けました。そしてその友人はとうとう戸を開け、三つ以上のものを与え得たのです。私たちが祈るときも同じです。まるで道が塞がれているかのように見える状況、全く解決策が見いだせない状況でも、信仰を失わず粘り強く戸をたたく姿勢が求められます。張ダビデ牧師はこれを「強く求めること(強請)」と言い、「神に愛の心で強く求めるとき、ついには神が戸を開けてくださる。そのようにして開かれる戸は、私たちが想像していた以上の恵みと供給へとつながっていく」と述べます。 しかし、この全過程で見落としてはならないのが「愛」です。愛がない祈りは欲望の祈りになりかねません。より多く持ちたい、もっと成功や富を享受したい、ときには隣人を顧みず自分の満足だけを追いかけて祈る場合もありうるからです。そこでイエス様はルカ11章の「友人の例え」で、真夜中に願いに来た人が、自分一人の空腹を満たすためではなく、「お客をもてなす」ためにパンを三つ求めた場面を提示されました。張ダビデ牧師は「隣人をもてなすために、より多くの糧が自分に必要だという強い願いは、神が喜んで受け止めてくださる祈り」だと解釈します。愛を動機とする願い、神の国の拡張を目指す願い、そして隣人を生かすための願い。これこそ主が教えてくださった祈りの最も重要な原理なのです。 結局、「日ごとの糧」を求めても、その糧がどこから来て、なぜ必要なのかをはっきり理解していなければなりません。「神様、私にパンをください。そして私はそのパンをもって隣人の飢えを満たす者となることができますように」という姿勢こそ、張ダビデ牧師が示す祈りの実践的な例です。「私たちに日ごとの糧をお与えください」という主の祈りの一句は、現代において飢えに苦しむ隣人の問題や福音伝道のために必要な財源、教会共同体内の働き人や宣教師の生活費など、具体的かつ聖なる目標を抱いて熱心に願うよう私たちを招きます。このように祈りは単に生活の問題を解決するための手段ではなく、愛を行動に移す霊的原動力なのです。 さらに、旧約と新約の歴史を通して神の国のために自発的に財を寄付したり、人生を捧げた多くの人々の実例からも、この真理を確認できます。初代教会の時代にも、所有物を売って使徒たちの足もとに置き(使徒4:34-35)、共同体がそれを必要に応じて分かち合ったとき、驚くべきリバイバルと愛のわざが広がりました。張ダビデ牧師はこうした事例を根拠に、「神が与えてくださる日ごとの糧」を正しく理解した人は、その財を握りしめて自分のためだけに使うのではなく、使徒言行録の教会のように、必要に応じて喜んで手放すことができる、と説きます。分かち合いの中にこそ、真の喜びと豊かさが存在するからです。そこで私たちは主が「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)と仰せられた意味を改めて噛みしめることになるでしょう。求めつつも、分かち合うために求める人は誰でも「求めたとおり受け取る」祝福の器となり得るのです。 3. 神の国と赦し、そして信仰の方向 主の祈りの流れを振り返ると、「御国が来ますように」という祈りがまずあり、続いて「日ごとの糧をお与えください」が続き、その後「私たちも自分に負い目のある人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」という赦しの祈りへと展開します。ルカ11章では、もう少し簡潔に三つの祈りの課題が同時に示されます。すなわち「神の国が来るように」「日ごとの糧を与えてください」「私たちが負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪をも赦してください」という内容です。張ダビデ牧師はこれらを「祈りの三本柱」と呼びます。信徒の生活を支える三つの重要な柱が、「神の国」「物質的・霊的糧の供給」、そして「赦し」なのです。 まず、神の国は私たちの存在理由と究極的な目標となります。神は初めに人間を創造され、その目的は「神の国を共に築き上げる同労者」としての存在となることです。イエス様は公生涯を始められるときから「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫ばれ、すべての教えの中心に「神の国(キングダム)」を置かれました。張ダビデ牧師は、私たちが日ごとの糧を求めるのも最終的にはこの神の国ビジョンの中でなされるべきだと、繰り返し強調します。「神の国」という壮大な絵の中で、私は今日必要な糧を求め、その糧をもって神の国のために奉仕し、その中で喜びを得る――という循環構造が生まれるのです。もし神の国が抜け落ちた状態で、単に「自分の生活だけ楽にしてください」と願うなら、祈りは歪んでしまうでしょう。 第二に、赦しの問題です。ルカ11章4節を見ると、「私たちは自分に負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」とあります。これは人間関係の問題であり、同時に人間の内部問題でもあります。私たちの罪が赦されなければ、私たちは神の前に大胆に立つことができません。そして、私たちが他人を赦せないならば、神が与えてくださった赦しを十分に味わうことができません。張ダビデ牧師は、赦しこそ祈りにおいて「核心中の核心」だと語ります。どんなに物質的必要を満たしても、さらに神の国のビジョンを掲げて熱心に奉仕しても、心の奥底に赦せない思いがあるならば、それが結局、関係を壊し、共同体を破壊してしまうからです。他者との関係で生まれた傷や恨み、憎しみが解決されない限り、最終的には自分自身も罪悪感や憎悪に囚われて自由を得られません。ゆえに赦しは霊的自由への道であり、真の神の国共同体の出発点でもあるのです。 張ダビデ牧師は、ここで言う「赦し」が単なる感情的な次元や道徳的マナー以上のものだと語ります。神がイエス・キリストを通して示された「十字架の赦し」は、人間には到底返済不可能な負債を免除されたも同然のことです。この計り知れない恵みを思い起こすならば、私たちも他人を赦さない理由はなく、またその人との関係を回復するために祈らずにいられないはずです。このようにして「神の赦し」と「私たちの赦し」が連動して回転するとき、主の祈りは完成度を持ちます。実際、「赦し」が抜けた「神の国」は、正義と公義を叫びながらも、結果的に律法主義に陥る危険があり、「赦し」が抜けた「日ごとの糧を求める祈り」は、自己中心的かつ貪欲な方向へ行きがちです。ゆえに、この三本柱―「国」「糧」「赦し」―が一体となって、健全な信仰の枠組みを形成するのです。 具体的に神の国を求める祈りとは、この地上ですでに神の支配が始まっていると信じ、その支配が完成する未来を見据えて生きる姿勢を意味します。張ダビデ牧師は「歴史意識」という言葉をたびたび用い、「人類の歴史は最終的に神の国という結論に収束していく。この壮大な方向性を理解し、そこに参加する者こそ賢い信徒だ」と言います。私たちが現在の生活において、目に見えるものだけを基準にするときには、ときに人生の目標を見失いがちであり、世の数多くの誘惑や恐れにより落胆してしまいやすい。しかし、「天においてすでに成し遂げられたみこころ」が必ずこの地において実現する、という信仰があるならば、私たちはどんな状況にあっても希望を失わずにいられます。そしてその信仰は祈りによって具体化されるのです。神の国をさらに前進させてください、御心が天において成し遂げられているように私たちの職場や家庭や社会においても実現するようにしてください、教会と世界の隅々で神のご支配が表されるようにしてください――これが神の国を求める祈りの本質です。 こうして神の国と赦しの原動力の中で日ごとの糧を求めるとき、私たちは日々の生活で奇跡を体験できるでしょう。あるいは奇跡が起こらなくても、神が常に必要なだけは与えてくださるという平安の中を生きることができます。「今日も食べるものがあること」に感謝し、その中から少しでも隣人と分かち合えることに感謝する。そして一見ささやかな「ご飯一杯を分かち合う行為」の中にも、イエス様の愛が浸透するならば、それがすなわち神の国の現実的拡張となるのです。張ダビデ牧師は、このように「愛が込められた小さな行為が積み重なり、教会を建て上げ、社会を変革し、最終的には神の国の前進に寄与していく」と繰り返し強調しています。 結局、信仰の方向とは「神の御名があがめられ、御国とみこころがこの地に成就し、そのプロセスの中で私たちに日ごとの糧が与えられ、互いに赦しと愛が実践される」その全体に焦点を合わせることです。私たちはこの道を歩む中で、ときに失敗や挫折を経験するでしょう。物質的豊かさを求めても簡単には解決しない時があるかもしれないし、赦したいと思っても感情がそう簡単にはほどけず苦しむこともあるでしょう。しかしイエス様の「求めよ、探せ、たたけ」ということばは、私たちが絶えず祈りの場に出て行く限り、最終的に神が応えてくださるという約束です。張ダビデ牧師は「神が初めから今に至るまで恵みを注いできた方法は驚くほど一貫している。祈る者にご自身を現わし、聖霊を満たして、分かち合い、仕え、赦すことができるようにしてくださるのだ」と教えます。だからこそ私たちの祈りの生活こそが信仰生活の根幹であり、その祈りを通じて私たちは神の国の視点と日ごとの糧をいただく恵み、そして赦しの力を経験するのです。 また、張ダビデ牧師は「神様が私たちに望んでおられるのは美辞麗句や抽象的な告白ではなく、実際の生活での愛の実践である」と語ります。新約聖書の至るところでも「ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって行いなさい」(Ⅰヨハネ3:18)と教えられています。教会共同体の中で、家庭の中で、また社会の中で、私たちが具体的に「自分のもの」と思っている時間や才能、財産などを差し出し合って互いに仕えるとき、キリストの愛が証しされます。したがって「私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、「主よ、この糧をもって世に出て、あなたの愛を分かち合う者としてください」という決意へと拡張されなければなりません。これこそ私たちが生活をもって捧げる礼拝であり、神の国がこの地に実現していく通路とも言えます。 まとめると、主の祈りの「私たちに日ごとの糧をお与えください」という一文は、次のような多層的な意味を同時に内包しています。第一に、私たちの現実的な必要に対する神の供給を切実に願いなさい、ということ。第二に、その願いの中には神の国と隣人への愛が込められていなければならないこと。第三に、これを通して赦しと愛が実現されるべきこと。第四に、最終的にその祈りの原動力は聖霊であり、私たちが求めるすべてのものの中で最も尊いのは「神との親密さ」であることを忘れてはならないということ。張ダビデ牧師は、このすべての過程を通じて「信徒は愛のモード(loving mode)へと切り替えられる」と説明します。最初は所有のため(having mode)に祈っていたとしても、聖霊の働きの中で徐々に「存在(being mode)」を悟り、最終的には「愛(loving mode)」へと進むことができる、というのです。 特に「三つのパン」の例えから、私たちは「自分一人だけが食べるためのパンではなく、共に分かち合い、隣人を立て上げる糧を求める祈り」がいかに尊いかを知ることができます。真夜中にパンを求めて戸をたたく行為は、自分だけが得をしようとする利己的な行動ではありません。客を迎え、もてなさなければならない状況で、「どうしても彼らの必要を満たしてあげたい」という愛が、その戸をたたかせたのです。このような思いをもって祈るとき、神は私たちが予想し得ない方法で戸を開いてくださり、「その願いどおりに」さらには「必要以上に」与えてくださると約束なさいます(ルカ11:8)。 要するに、主の祈りの中の「日ごとの糧をお与えください」という願いは、表面的で一回きりの祈りではなく、日々の生活の中で神と共に歩む霊的習慣となります。私たちに本当に切実に必要なものは何なのかを改めて問いかけ、同時に私たちの関心を隣人や共同体へと広げてくれます。神が与えてくださる物質や健康、そしてエネルギーは、すべて隣人愛を実践する道具として用いられるべきだからです。さらに張ダビデ牧師は「教会の歴史を振り返ると、神を熱烈に愛し、心から祈る人々に神はあふれるほどに与えて貧しい人を助け、福音を伝える者たちを支える道へと導かれた。その流れに私たちも歩んでいる」と要約します。まさに、このような生き方こそが「神の御名をあがめ、御国と御心をこの地に実現する」証しなのです。 最後に、私たちはルカ11章13節の結論を覚えておく必要があります。「まして天の父が、求める者に聖霊を与えてくださらないはずがあるでしょうか」。神は日ごとの糧をはじめ、私たちの人生に必要なすべてを惜しみなく与えてくださる方ですが、最終的に最も尊い賜物は聖霊です。その聖霊が臨まれるとき、私たちは単なる人生の小さな問題解決を超えて、神の国とその義、そして赦しを生きる者へと変えられていきます。張ダビデ牧師は「聖霊に満たされたキリスト者は、結局イエス様がなさったとおり仕え、愛し、赦し、福音を伝える人へと変貌せざるを得ない。それこそ私たちの存在目的なのだから」と言います。こうして聖霊の賜物を受けるならば、私たちが求めるすべての日ごとの糧もまた愛の通路となり、神の栄光をあらわす媒介となるのです。 結局、「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という短い祈りは、信徒の生活全般を貫く重要な信仰告白であり、同時に実践的な願いです。私たちは毎日この祈りを唱えつつ、その中に込められた神の心をより深く黙想すべきでしょう。申命記8章のマナの物語を通しても、マタイ6章や7章の教えを通しても、ルカ11章の「真夜中の友人」の例えを通しても確認できるのは、神が私たちの日常と生全体を見守り、そのうえで神の国を共に築くことを望んでおられるという事実です。張ダビデ牧師はこれらのみことばを結びつけつつ、「神の御名があがめられ、御国が来て、私たちに日ごとの糧を満たされるプロセスを通して、私たちの存在はついに『愛の通路』へと変えられる」と繰り返し強調します。私たちがこの原理をしっかり掴み、日々祈りをもって神に近づくならば、不足することはなく、むしろあふれるほど豊かな恵みを味わうことができるでしょう。それこそがイエス様が弟子たちに遺された教えであり、張ダビデ牧師が伝えようとしている核心的メッセージです。そしてこのメッセージを実践する生き方こそ、神が私たちに計画された「神の国を共に築く同労者」となる道なのです。

Living a Life that Asks for Daily Bread – Pastor David Jang

1. The Meaning of Daily Bread and the Teachings of Pastor David Jang What we commonly call the “Lord’s Prayer” appears in Matthew 6:9–13. Among those verses, the petition “Give us this day our daily bread” (Matt. 6:11) is a precious prayer that every Christian frequently recites. Yet many believers sometimes fail to ponder concretely … Read more