四旬節の十字架黙想 – 張ダビデ牧師

 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章の御言葉を通して、イエス・キリストの苦難と愛、そして弟子たちに対する仕えの姿勢を深く黙想すべきであることをたびたび強調してきた。特に四旬節(サスンジョル)の期間には、キリストの苦難にいっそう近づき、その苦難がなぜ愛であるのかを悟る時間とすべきだと説く。ヨハネの福音書13章1節の「さて、過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くご自分の時が来たことを知り、この世にいるご自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛された」という聖句は、イエスが地上での宣教を締めくくられる直前、弟子たちに示された“最後まで愛する”姿勢の出発点である。
 張ダビデ牧師は、この場面でイエスが示された態度と愛の実践こそ、私たちにも同様に求められる弟子道の核心であると教える。そしてそれを辿っていくならば、イエスがなぜ最後まで愛されたのか、その愛が何を内包しているのかを自然に理解することができるという。なぜなら、愛は苦難であり、その苦難が十字架へと続くからである。イエスが弟子たちを最後まで愛されたとは、彼らのために十字架に至るまでご自分を低くし、仕える立場に立たれたことを意味する。そしてこの愛を通して私たちに「愛は決して呪いではなく、祝福であり、命を得る道」であるという真理が宣言される。パウロが語った「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(Ⅰコリント13:13)という言葉のように、愛こそがすべてを完成させる鍵であり、この愛が私たちを永遠の命へと導くのだという。

 張ダビデ牧師は、ヨハネの福音書13章から続く19章までの記録を見れば、イエスが十字架の道へ入られる前に、どのような心構えと態度を持たれていたのか、どのように弟子たちを教え、世話をし、最終的にどんな決断で従われたのかを詳しく知ることができると語る。ヨハネ13章からイエスの苦難が本格的に始まるが、その始まりにはいつも愛が置かれている。「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という宣言は、イエスがなぜ苦難を避けられなかったのかへの明確な答えとなる。愛ゆえに、最後まで愛するがゆえにイエスは苦難を引き受け、それが私たちの救いのために不可欠であることを自ら示されたのだ。
 張ダビデ牧師は、この事実が私たちの信仰生活においても非常に重要だと強調する。私たちは時に苦難を呪いや刑罰としてのみ捉え、神が私たちを「懲らしめている」のだと考えがちである。しかし実際には、苦難の中には神の深い愛と摂理が織り込まれており、それが最終的に私たちをより成熟させ、聖なる者へと造り変えていくのだという。

 聖書の各所には、苦難の益や苦難へ参与すべきことが何度も語られている。たとえば詩編119編では「苦しみに会う前には私は迷い行きをしていました。しかし今はあなたの仰せを守ります」「苦しみにあったことは私にとって幸いでした。それによって私はあなたのおきてを学ぶようになりました」と告白し、苦難がむしろ霊的成長をもたらすと告げている。またローマ書5章3〜11節のパウロの告白は「わたしはキリストと、その復活の力とにあずかり、その苦難にあずかることを知りたい。そしてその死のありさまにあやかって、何とかして死人のうちからの復活に達したい」というように、苦難を通してキリストをいっそう深く知りたいという熱望を示している。コロサイ1章24節の「今や私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜び、キリストの苦難の欠けたところを、その体である教会のため、私の肉体に満たしているのです」や、Ⅱテモテ1章8節の「福音のために苦しみを受けよ」、Ⅱテモテ2章3節の「あなたはキリスト・イエスの立派な兵士として私と共に苦しみにあずかりなさい」、そしてⅠペトロ2章20〜21節、4章13節などにもキリストの苦難への参加を求める命令が繰り返し出てくる。これらのみ言葉はすべて、苦難は決して避けるべきものではなく、むしろ喜んで受け入れ、その中でキリストの道を学び、従うべき重要な霊的真理を提示している。

 張ダビデ牧師は、これら聖書の教えを土台として、イエスが弟子たちの足を洗われたヨハネ13章の出来事こそ「愛の内に含まれた苦難」の代表的な例だと説明する。私たちはしばしば愛を語るが、愛は決して言葉だけで完成するものではない。愛するということは、相手のために自分を差し出すこと、相手が当然受けるはずの私の仕えを喜んで担うことである。イエスは弟子たちと最後の晩餐をともにされたその席で、立ち上がり上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻いて、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗われた。これは当時の文化において、しもべが主人や来客の足を洗う行為と同じであり、徹底的な「低いところでの奉仕」を意味する。しかし弟子たちはその前に互いに争っていた。「誰が一番偉いのか」という問題で意見が対立し、中には主の御国で右と左の座に就かせてほしいと願う者までいた。それはすなわち「自分が他人よりも高く評価されたい」という願望を示すものだった。
 張ダビデ牧師は「このように弟子たちが世の価値観を抱いて高くなろうとしたがゆえに、イエスは逆に最も低い地位に立つことで、弟子たちに神の国の真の法則を自ら体現して示された」と解説する。

 主が見せてくださった神の国の法則は、世の価値観と徹底的に反対である。世は「より高い地位、より大きな権力、より多くの名誉」を求めるが、イエスは「より低い地位、より小さな権力、より謙った姿」で仕えよと教えられる。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は仕える者となり、あなたがたの間でいちばん上になりたいと思う者は、みなのお世話をする者とならねばならない」(マタイ20:26〜27)との言葉の中で、イエスは新しい秩序を宣言された。人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、その仕えは自らの命をあがないの代価として捧げるところにまで至るのだ。
 張ダビデ牧師は、イエスが語られた仕えの道は決して容易ではなく、それはすなわち自我の死と苦難を伴うものであると強調する。しかしキリストの弟子として私たちがその道を歩むとき、はじめて真の命、真の喜び、復活の力を体験することができる。世の論理では到底理解できない「下る道が上る道になる」という逆説が、神の国の中では真実となるのだ。

 ヨハネの福音書13章全体の流れを見ると、イエスはご自分に迫っている十字架の運命をすでに知っておられた。張ダビデ牧師は「イエスは、この世を去って父のみもとに行く時が来たことを知り」(ヨハネ13:1)という御言葉が、まもなく始まる苛酷な苦難と死の時を明確に認識しておられたことを示唆していると言う。しかしそのような状況にあっても、イエスはご自分の者たちを最後まで愛された。「最後まで」という表現には「完全に、徹底的に、永遠に」という意味が含まれる。それは単なる一時的な感情や一過性のケアではなく、十字架ですべてを差し出すまで確固として進められる愛である。張ダビデ牧師は、この事実こそクリスチャン生活の核心だと力説する。私たちは苦難に直面するとき、しばしば自分のことだけに没頭してしまう。自分の心配、自分の置かれた状況、自分の問題に囚われ、他人を顧みる余裕を失う。しかしイエスは十字架の痛みが目の前に迫っていても、むしろ弟子たちを集めて最後の晩餐を設け、彼らを教え、慰め、仕えられた。これこそ真の愛であり、私たちが見習うべき姿だ。

 その愛の頂点が足を洗うという出来事で表れる。当時のパレスチナの道はほとんど舗装されていない土の道であり、履物もせいぜい現代でいうサンダル程度、あるいはさらに貧しい人々は裸足で歩くことも多かった。一日中、埃まみれの道を歩けば足が汚れるのは当然なので、家に戻ると水で洗う風習があった。誰かが夕食に招かれたなら、しもべがその客人の足を洗ってもてなしを示した。しかし最後の晩餐の席、しかもイエスが弟子たちと共に過ごす厳粛で大切な瞬間に、弟子たちは「誰が偉いか」を争い、誰も足を洗うしもべの役割を引き受けようとしなかった。そこでイエスが直接上着を脱がれ、腰に手ぬぐいを巻き、弟子たちの足を洗われたのである。
 張ダビデ牧師は「これはイエスが口先だけの仕えを唱えられたのではなく、それをはっきりと示す行動をとられた」ことを顕著に示す出来事だと言い、主が弟子たちに教えられたことが実際の生活にどのように具現されるか、その実演を自ら行なわれたと解釈する。主の生涯は御言葉そのものであり、その御言葉が行動となって現れる姿こそ、私たちが絶えず黙想し、見習うべき弟子道のエッセンスだと語る。多くの人々が愛を説き、仕えを教え、分かち合いを唱えるが、実際にその生き方をしていない場合は多い。しかしイエスは語られたとおりに行動し、さらには死の瀬戸際にあっても他者に仕える姿でご自分を差し出された。これが十字架へと至る道であり、同時に愛の道だった。私たちがこの愛の道をいっそう深く黙想し、実践すべきことを、張ダビデ牧師は四旬節だけでなく日常のすべてにおいて決して見失ってはならないと再三強調する。

 このように愛は苦難を伴う。単に美しい感情や映画が描くロマンチックな要素ではなく、自分を徹底的に低くして相手を高くするために払う犠牲的行為が愛であるということ。もしイエスがご自分の威厳や権利を主張されていたなら、弟子たちの足を洗う理由はまったくなかったはずだ。しかしイエスは自ら進んでしもべの位に降りられた。その結果、弟子たちは言葉だけで聞いていたイエスの教えを目で直接見て、真の仕えの意味を体得することができたのである。
 張ダビデ牧師は、この出来事全体を今日の教会や信仰共同体の生活に適用すべきだと力説する。教会の中でも、職分や役割、年齢や社会的地位、あるいは財政的条件などによって高慢が生まれ、「仕えを受けたい」という思いが大きくなれば、決して主が望まれる共同体をつくることはできない。かつて弟子たちが互いに高くなろうとした姿を、現代の私たちが繰り返してはならず、むしろイエスの行動を思い起こし、それに倣うことで、互いの足を洗い合う純粋な交わりが実現されるべきだというのだ。

 愛は結局、相手からの影響を受けないとも言われる。相手がどう反応しようと、たとえ自分を裏切ったり誤解したりしても最後まで責任をとるのが愛だ。ヨハネ13章を読むと、イエスはイスカリオテのユダがご自分を裏切ることをすでにご存じであったにもかかわらず、彼の足も洗われたことがわかる。これは人間的な観点では到底理解しがたい決断だが、イエスはそういう道を選ばれた。
 張ダビデ牧師は、これこそが「神の国の逆説」だと呼ぶ。世の中では報復や憎しみ、傷つけあいの連鎖が自然に起こるが、神の国ではむしろ恵みと赦し、自己犠牲と愛が溢れる。だからイエスは「あなたがたは私を先生また主と呼びますが、それは正しいことです。実際そのとおりだからです。それなのに、主であり先生であるこの私が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:13〜14)と語られた。張ダビデ牧師は、ここで「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」という命令こそ、教会共同体と信徒が日常において実践すべき核心だと主張する。それは「弟子が弟子に、兄弟が兄弟に、互いに仕える生き方」をすることであり、その仕えの中でイエスの栄光が現れるからだ。

 もちろんこれは容易いことではない。愛は驚くほど多くの犠牲を要求する。イエスが語られた「偉くなりたい者、いちばんになりたい者は仕える者となり、しもべとならなければならない」というこの逆説は、人間の本性が受け入れ難い部分である。誰しも自分が高く評価されたい、認められたい、他人よりも優位に立ちたいという欲望があるからだ。しかしイエスは「あなたがたの間ではそうであってはならない」(マタイ20:26)と仰せられた。私たちがキリストの福音を信じて従うならば、世のやり方ではなく、神のやり方で考え行動しなければならないということだ。
 張ダビデ牧師はこれを「価値観の終末」と表現する。古い人の価値観が完全に終わりを迎え、新しい人の価値観が始まってこそ、本当の弟子になれるのだと言う。世の目で高いと考えられる場所ではなく、神がご覧になって価値ある生き方の場所を選ぶこと、それこそが苦難の道であり、同時に祝福の道でもある。

 イエスは弟子たちとの最後の晩餐でパンとぶどう酒を分け与え、「これはあなたがたのために与える私のからだである。これを行なって私を覚えていなさい」(ルカ22:19)と仰せになった。張ダビデ牧師はこの場面について、イエスの自己犠牲が単なる理論的教義や教訓ではなく、きわめて具体的で現実的な出来事であることを肝に銘じるべきだと説く。パンはイエスのからだを、ぶどう酒はイエスの血を象徴する。それはイエスが弟子たちのため、また人類の救いのために実際に身を裂かれ、血を流された事実を記念するものだ。ところが、この厳粛な瞬間でさえ弟子たちは自分の権利や地位を気にかけ、「誰がより大きいのか」をめぐって争っていた。これは彼らが主の苦難と犠牲を完全には理解できていなかったことをよく示している。しかしそれでもイエスは彼らを捨てることなく、最後まで教え、元の位置に立ち返らせてくださった。
 張ダビデ牧師は、こうして弟子たちを最後まで見捨てずに導かれたイエスの愛を見れば、私たちもたとえ弱く欠けていても神の愛のうちに新しく生まれることができると悟らねばならないと強調する。

 特に教会は、苦難について正しく教える責任を担っていると張ダビデ牧師は力を込めて語る。多くの信徒がいまだに苦難を「神に見捨てられた証拠」あるいは「神の刑罰」として誤解しているが、聖書の多様な本文が語るところはまったく異なる視点である。イエスが私たちを最後まで愛してくださったように、私たちも苦難を通して信仰が精錬され、愛をさらに深く学び、キリストに似る道を歩むようになる。パウロの多くの書簡やペトロの勧めは、苦難がかえって私たちの喜びとなり、その苦難の中で私たちが真の希望を見いだすのだと宣言している。
 張ダビデ牧師は「私たちはキリストとともに死にあずかり、その復活の力にもあずかることこそ、信仰の究極の実りだ」と教える。そしてその愛のうちでこそ、私たちは永遠の命を得るのだという。

 ヨハネ13章に再び目を向けると、イエスが悲惨な十字架へ向かう道に入られる直前、弟子たちに最初に示された姿が足を洗う場面であったことは非常に印象的だ。主は「いまこそ私はあなたがたを離れ、父のみもとへ行く時が来た。この世を去る直前だ」という事実を知っておられたのに、それでも弟子たちのために最後の晩餐を準備し、彼らの足を洗われた。それは自らしもべとなって「愛の手本」を示そうという意図が明白だった。
 張ダビデ牧師は「イエスにとっては切迫した瞬間であればあるほど、ご自分だけに没頭するのではなく、むしろ弟子たちを目覚めさせ、霊的に立たせようとされるほどの愛があるとわかる」と述べる。そして私たちも人生の苦難や逆境が深まるほど自己憐憫や不平に陥るのではなく、むしろ身近な人々を顧みて仕えることができるような信仰と決断を求めて祈るべきだと助言する。

 さらに、弟子たちが足を洗われる姿にどのように反応したかに注目する必要がある。特にペトロは「主よ、あなたが私の足を洗うなど、とんでもありません」と叫んだが、イエスが「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関わりもないことになる」と言われると、すぐに「主よ、それなら足だけではなく、手も頭も洗ってください」と言い換える(ヨハネ13:8〜9)。ここでイエスは「すでに身体を洗った者は、足以外に洗う必要はない」と教えられ、霊的にはすでにきよめられた弟子であっても、日々の歩みの中で付着する罪や過ちを洗うことが必要であることを示唆された。
 張ダビデ牧師は、この箇所から、私たちがイエス・キリストを信じて救いを受けたとしても、日常生活の中で足が汚れるように罪に染まることがあるため、日々悔い改め、洗い清められるべきだという大切な教訓を得られると強調する。そして、その悔い改めのプロセスもまた、互いに仕え愛し合う共同体の中で行われるとき、豊かな実を結ぶのだと付け加える。

 イエスが弟子たちの足を洗う出来事が終わると、主は「私があなたがたにしたことがわかりますか」と問われた(ヨハネ13:12)。張ダビデ牧師は、このイエスの問いかけが現代の私たちにも同じように投げかけられていると見る。「本当にイエスのなさったことを知っているのか。その仕えと愛、そして十字架の意味を正しく悟っているのか」という問いである。知るからこそ行動でき、悟るからこそそれを伝えられる。だから張ダビデ牧師は、もし教会がこの本質を見失い、プログラムや組織運営、数的成長のみを追求するなら、「イエスがなさったこと」を知っているとは言えないのではないかと指摘する。イエスの足洗いの出来事は単なる一度きりの慈悲深い行為ではなく、弟子道を定義する象徴であり、教会共同体が存在する理由を宣言する予表である。すなわち「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という新しい戒めの土台を具体的に示すモデルなのだ。

 また、イエスは足洗いのあと、弟子たちに向かって「私があなたがたにした通りに、あなたがたもするように」と命じられた(ヨハネ13:15)。張ダビデ牧師は、この命令の口調が非常に断定的であることを強調する。イエスはこれを選択や提案ではなく、弟子ならば必ず従うべき命令として下されたのだ。愛は理論ではなく実践であり、仕えは言葉ではなく行動である。だから教会は互いに足を洗うことでイエスの愛を世に示し、その結果としてキリストの福音が証しされるべきだというのが、張ダビデ牧師の中心的な教えである。結局のところ、愛と苦難は切り離せない関係にある。他人に仕えようとすれば自分が犠牲を払わねばならず、他人を高めようとすれば自分が低くならねばならない。他人の罪や過ちを覆おうとすれば、まず自分が理解と忍耐を示さなくてはならない。その過程は時に痛みや困難を伴い、私たちの自己を絶えず砕く必要がある。しかしその道こそイエスが歩まれた道であり、十字架へと続く道なのだ。

 このようにイエスの最後の晩餐と足洗いの出来事がもつ意味を総合的に見るとき、私たちは愛とは何かをより明確に知るようになる。愛は決して感情的な喜びや、単なる好意を超えたものである。愛は献身と犠牲を前提とし、ときに裏切りや誤解さえも甘受する行為だ。イエスが最後までご自分の者たちを愛されたように、私たちも誰かを最後まで愛する力を持たねばならない、と張ダビデ牧師は語る。もちろん人間的な意志や能力だけでは不可能であり、聖霊の助けが必要だ。しかし私たちがその道を歩む決心をするとき、イエスの御霊が私たちのうちに働き、その道を全うできるよう導いてくださる。教会がキリストのからだとして世の中で光と塩となるとは、この愛の実践を通して証明されるのである。

 さらに張ダビデ牧師は、苦難を恐れたり回避しようとするだけでは、決してこうした愛の成熟には至れないと指摘する。苦難は最終的に、自分がどれほど愛しているかを炙り出す道具となり、同時にその愛を一層清める火ともなる。イエスが十字架へ向かわれる道中には、弟子たちの裏切り、ユダヤ人宗教指導者の謀略、兵士たちのあざけりや鞭打ち、そして凄まじい痛みが次々とあった。しかしそれらすべての状況こそが「最後まで愛された」という御言葉を最も劇的に示す装置となった。もし愛がなければイエスは決して十字架を選ばれなかっただろうが、愛があったがゆえにその苦難を自ら受けてくださり、私たちを救ってくださったのだ。これは教会と信徒が世に遣わされる理由とも重なる。たとえ世が私たちを憎み排斥しても、私たちの内におられるイエスの愛が、その苦難を克服する力を与えてくださるからである。

 ここで注目すべきは、「最後まで愛された」という言葉には受動的な意味以上に能動的な意味が含まれているという点だ。イエスは単に弟子たちをあきらめずに「見捨てなかった」というだけでなく、さらに一歩進んで「積極的に最後まで彼らの世話を焼かれた」という意味を持つ。最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈られるときも、イエスは弟子たちの弱さを心配しつつ「誘惑に陥らないよう、目を覚ましていなさい」と忠告された。張ダビデ牧師は、この勧めもまた「愛の最後まで行く姿」として見ることができるという。主は十字架に至る苦しみと死の恐怖の前でも、弟子たちの霊魂の状態と、その信仰がくじけないよう促すことに集中された。これが愛の最終形である。私たちはこういうイエスの姿を思うとき、自分の限界を感じるときにこそ「それでもなお(にもかかわらず)」という言葉をもって愛をやめられなかった主を思い起こすことができるはずだ。

 張ダビデ牧師は、足洗いの直後、イエスが「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」と宣言された事実に注目すべきだと語る(ヨハネ13:21)。つまり、もっとも美しい愛の場面の後に裏切りの予告が続くのである。私たちが容易に納得しがたい逆説的な状況だ。しかしイエスはこの事実を知りながらも愛を引っ込められなかった。イエスの足洗いの中にはユダも含まれていたはずなので、結果的にイエスは裏切りの張本人の足までも自ら洗われたことになる。張ダビデ牧師は「これこそ、人間的な打算や感情を完全に超越した神的な愛の本質だ」と強調する。もし私たちが、自分を裏切る者をあらかじめ知っていれば決して黙って放置はしないだろうし、少なくとも好意的には扱えないだろう。しかしイエスは裏切りを阻止されず、ユダに最後まで恵みを与えられた。最終的に裏切りの報いを負ったのはユダ自身となったが、少なくともイエスの愛の中で彼に閉ざされた扉はなかったわけだ。これがイエスの「最後まで愛される」姿の具体的かつ痛ましい現実なのである。

 愛が苦難を伴うゆえに、もし教会が苦難を教えないなら、愛の本質も失われるだろうと張ダビデ牧師は警告する。もし教会が苦難なくしてうまくいくことや順調さだけを強調するなら、イエスが示された真の十字架の道からはかけ離れてしまうおそれがある。十字架なき復活はあり得ず、苦難なき栄光はキリストの教えから外れるからだ。だから四旬節は、キリストの苦難を深く黙想し、その苦難の内にある神の愛を振り返り、私たちもその愛を倣って生きる決心をする期間となるべきである。そしてこの決心は四旬節に限定されることなく、復活の後も教会が継続して実践すべき課題である。張ダビデ牧師は、教会の使命は「その愛を世に知らせること、苦難を受けるすべての人々にイエスの仕えと犠牲を伝えること」だと教えている。

 ヨハネ13章1節の「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という言葉は、イエスの地上での宣教の最後の局面を開く序曲であり、そのすべての苦難のプロセスを解き明かすキーワードとも言える。イエスは弟子たちとともに最後の晩餐をし、弟子たちの足を洗い、新しい戒めを与えられ、その後捕らえられ、苦難を受け、死なれ、復活される。このすべての流れは、愛という大きな柱で貫かれている。張ダビデ牧師は「愛すると言いながら最後まで愛さないのなら、それは真の愛とは言えない」と語り、最後まで愛することによって苦難さえも抱きとめ、その苦難の中で復活の栄光を望むことこそキリスト教信仰の核心だと力説する。実際、イエスはヨハネ17章で祈られるときにも弟子たちのために執り成し、「真理によって彼らを聖別してください」と願われた。さらにはご自分を捕らえに来た者たちにも直接「わたしがそれだ」と名乗り、抵抗されなかった。それほどに徹底して神の御旨に従い、愛をもって行動されたのだ。弟子たちの裏切りと逃亡を知りながらも、彼らを再び立ち上がらせることを期待しておられる思いがうかがえる。

 張ダビデ牧師は、現代の教会と信徒がこの御言葉を黙想するとき、私たちも結局この道を歩まなければならないという自覚が起こるべきだと強調する。「もしあなたがたが私を先生、主と呼ぶならば、あなたがたも互いに足を洗い合うべきではないか」というイエスの御言葉を深く刻むべきなのである。教会の中で職分が高いからといって仕えを受けたがったり、世の権力や金銭、名誉に執着するならば、決して主の弟子として成熟することはできない。イエスが示された仕えの手本は、誰にとっても実践は難しいが、教会が存在する理由でもある。愛は私が引き受れるべき分であり、その分を通して主の栄光が現れる。このことを覚え、それぞれの位置で主の足洗いをもう一度再現するのが教会の使命だという。

 弟子たちが誰が偉いかと論じ合っていたマタイ20章やルカ22章でも、イエスは「異邦人の支配者たちは人々を支配し、権力を振るうが、あなたがたはそうであってはならない」とはっきり語られた。これは今日の教会にも同じく当てはまる言葉である。イエスが仕えを通して真のリーダーシップを示されたのなら、教会の指導者であれ信徒であれ、すべて仕える姿勢を持つのが当然だ。張ダビデ牧師は、「偉くなりたい者は仕える者となり、いちばんになりたい者はしもべとならねばならない」というイエスの教えこそ、教会の霊的秩序を正しく打ち立てる基準だと説く。その秩序がきちんと立つとき、教会は世とはまったく異なる光を放ち始める。互いに高くなる世界ではなく、互いに低くなる共同体。それこそを通して人々は「イエス・キリストの福音が真実である」ということを体験的に悟るようになる。

 張ダビデ牧師がヨハネ13章を根拠に示すメッセージは明確である。イエスはこの世にいるご自分の者たちを最後まで愛され、その愛を具体的に示されたうえで、その過程で苦難を決して避けられなかった。むしろ苦難を愛で耐え抜き、その道を通して人類の救いを成し遂げられた。私たちもキリストの弟子として召されたのなら、同じく愛の道、仕えの道、苦難の道を歩むべきであり、その道において現れる栄光は最終的に復活のような真の喜びとして私たちに与えられる。たとえ今は私たちも弟子たちのように「誰が偉いか」という争いに陥り、イエスの教えを十分に理解できないことが多いとしても、大切なのは主が変わらず私たちを最後まで愛してくださり、御言葉と御霊を通して私たちを導いてくださるという事実だ。私たちがすべきは、その愛に従い、日常生活の中で互いに足を洗い合う実践をやめないことである。これこそが教会の本質であり、私たちが追求し続けるべき価値なのだ。

 四旬節の黙想期間だけでなく、日常のあらゆる場面で、イエス・キリストの苦難と愛、そして「最後まで愛される」仕えを思い返すとき、私たちは自分の誤った価値観を下ろし、神の国の価値観によってあらためて武装し直す必要がある。世は今もなお力や物質、名誉を最上とみなすが、イエスはご自分の命を捨てて私たちを贖われ、しもべの姿で生き抜かれ、復活の栄光によってそれが真理であることを証明された。だからこそ私たちは自分を顕すことより人を高くすることに注力し、互いの足を洗い合うしもべの心で生きるとき、初めてイエスの弟子と呼ばれる資格を得るのである。張ダビデ牧師は「何にもまして、まず私たちはイエスの愛のうちで自分の罪を洗い清められたことを思い出すべきだ」と語る。そしてその洗い清められた恵みを日々新たに感謝しつつ、他の人々に対しても喜んで仕えを実践するのだ。そうすることで、教会の中ではもはや「誰が偉いか」という争いではなく、互いを高め合い励まし合う美しい交わりが起こり、その姿を通して世の人々はイエスこそが真に生きておられる主であると発見するようになるだろう。

 ヨハネ13章の核心句である「この世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛された」という御言葉は、イエスの苦難が始まる序曲であると同時に、弟子たちの足洗いの出来事とともに「愛の最も濃厚な表現」を示す場面である。そしてこの物語は教会史2000年の間、数多くの信徒と教会によって繰り返し読まれ、教えられ、実践されてきた。張ダビデ牧師は、この場面こそ私たちが決して忘れてはならない福音の精髄であり、教会の存在理由そのものだと言う。四旬節はもとより、日常的にもこの場面を絶えず黙想するならば、私たちもイエスの愛と仕えを見習い、互いの足を洗う備えができるはずだ。そしてその小さな献身と苦難を分かち合う愛が積み重なることで、教会は主のからだとして完全な機能を担い、世はキリストの光によって少しずつ変えられていく。イエスが最後まで私たちを愛してくださったように、私たちも最後まで他者を愛することこそ、キリスト者の究極的な召しであり、福音の驚くべき力なのである。愛しつつ最後まで愛する生き方、仕えながらしもべの姿で仕える生き方こそ、イエス・キリストを信じる者に求められる真の従順であり、その中で私たちは神の国の栄光を前もって味わう。やがてそれは究極的に与えられる天国において、イエスが「よくやった、善良で忠実なしもべだよ」と称えてくださる瞬間への予告編でもある、と張ダビデ牧師は教えるのである。

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