
1. 「日ごとの糧」の意味と張ダビデ牧師の教え
私たちがよく口にする「主の祈り」は、マタイの福音書6章9節から13節に登場します。その中の「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」(マタイ6:11)という願いは、キリスト者であれば誰もがしばしば唱える大切な句です。しかし、多くの信徒は口先で唱えるだけで、その実際の意味を深く考えないまま過ごしてしまうことも少なくありません。これについて、張ダビデ牧師は多くの講義や説教で「神様が本当に“パンをください”と祈れと仰せになったとき、そのパンが何を意味するのかを深く黙想する必要がある」と強調しています。つまり「日ごとの糧」が指し示す具体的な次元は、私たちの生存に必要な物質的なものを含むと同時に、さらに深い霊的価値や天の御国への憧れまでも包含するというのです。
人々は「日ごとの糧」と聞いて霊的な糧を思い浮かべることがあります。もちろん霊的なみことばや恵みは絶対的に重要ですが、主の祈りの中でイエス様が直接教えてくださった「日ごとの糧」は、まずは非常に現実的な次元、すなわち日々食べて生きるために必須の糧を指しています。張ダビデ牧師は「私たちが『霊的な糧』だけを強調して、現実的に必要な糧を軽視するならば、それはイエス様が教えられた祈りのバランスを失うことになる」と述べています。なぜならイエス様はマタイ4章4節で「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる」と仰せられ、同時にマタイ6章の主の祈りでは「食べるものを求めなさい」とも明確におっしゃったからです。この絶妙なバランスの中で、私たちは二つの事実を共に受け取るべきなのです。神のみことばは人間の生活を支える根本的な霊的原理であり、しかし日々生きる上で欠かせないパン(物質的糧)も神に求めるべき重要な部分である、ということです。
では、なぜ「日ごとの糧」を求める祈りがそれほどまでに切実なのでしょうか。張ダビデ牧師は申命記8章3節のことばに注目します。「人はパンだけで生きるのではない。主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」(要約)。この箇所は、神が荒野でマナを降らせた目的を示しています。マナを通して神の民は最低限の食糧を供給され、「神は実際に私たちの飢えを満たしてくださるお方だ」という真理を悟るようになります。しかし同時に、マナ自体が人生のすべてではなく、そのマナがどこから来たのかを認識し、神のみことばに従って生きるよう導くのが神ご自身だということを学ぶのです。張ダビデ牧師はここで「もしマナがなければ、イスラエルの民は飢えて死ぬしかなかった。しかしマナだけが与えられて、神のみことばがなかったならば、彼らは荒野生活の真の目的とアイデンティティを見失っただろう」と力説します。結局、パンも必要ですが、そのパンが単なる物質的豊かさの終着点ではなく、「神が与えてくださる生きた恵み」であることを知らなければなりません。だからこそ主の祈りの「日ごとの糧をお与えください」という句は、私たちが毎日食べたり着たりする経済的問題を神に委ねるように促しつつも、その供給の主が神であることを忘れてはならない、と命じているのです。
張ダビデ牧師はここで「パンとはすなわちお金のこと」とたとえることもあります。現代社会においてパンや餅は象徴的であり、実際に私たちの日常で最も身近にやりとりされる形は貨幣である場合が多いからです。ゆえに「日ごとの糧をお与えください」という願いの中には、「日々生きるために必要な経済的資源・物質をお与えください」という祈りが含まれています。すると「どれほど稼げばよいのか」「どれほどあれば十分なのか」という問いが生じるかもしれませんが、その限度を一律に定めることは難しいとしても、少なくともイエス様が提示された祈りの意図は「自分が日々必要とするだけでなく、周りの人々をも仕えることができる分を、正々堂々と求めなさい」ということです。どの程度の物質が適切でどの程度が過剰かは人によって異なるかもしれませんが、その中心にある精神は「自分の欲望や贅沢のためではなく、神の国と愛の実践のために必要な財政を求める」という点です。
主の祈りは大きく見ると、まず「天におられる私たちの父よ、み名があがめられますように。み国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という「二つの前提」から始まります。張ダビデ牧師は「この二つの前提が主の祈り全体の方向を決定づける」と語ります。神の御名があがめられること、そして神の国が来ること。これが私たちの人生の目的と存在理由を示しています。人は本来、神のかたちに造られ、神の国の完成に向けて自分の人生を捧げる存在なのです。そういう観点から「まず神の国とその義を求めよ」とおっしゃったイエス様のみことばは、至極当然であり、絶対的な命令だと言えます。そしてその命令に実際に従う過程で、私たちは「今日必要なパン」を求めることになるのです。張ダビデ牧師はこれを「神的優先順位の原理」と呼びます。神の国が先にあって、その次に物質が伴う。しかし物質を軽んじるのでもなく、むしろ神に大胆に求め、一方で求めたその物質を通して神の国に積極的に参与すべきだというのです。
このような思考法から導き出される核心メッセージがあります。申命記8章3節のみことばのように、「パンだけがすべてではない」と知ると同時に、「しかしパンも神が与えてくださらなければ享受できない」ことを悟る、ということです。つまりパンを軽んじるのではなく大切にしつつ、それが私たちの目的や人生のすべてになってしまうことを戒めるのです。このとき張ダビデ牧師は、イエス様が荒野で試みを受けられたとき(マタイ4:1-11)、「これらの石をパンに変えよ」というサタンの誘惑にどう対処されたかを改めて強調します。イエス様はパン自体を否定なさったわけではありませんが、「人はパンだけで生きるのではない」というみことばを引用し、パンより上にあるみことばの優先性を宣言されました。これこそが信徒の理想的な姿勢であり、日ごとの糧を求めつつも、その糧が神より上位に置かれないようにしなければならない、と張ダビデ牧師は説きます。
このように「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、信徒にとって極めて現実的な要望と霊的な意味が結びついたリクエストです。一方では「お腹がすいているので食べるものをください」と、子どもが親に自然に言うように神様に祈ることであり、他方では、そのパンを与えてくださる方が神様であることを忘れない、という信仰告白でもあります。張ダビデ牧師は特に、ルカの福音書11章に登場する「真夜中に友人のところへ行ってパンを三つ借りる」例えを引用し、これこそ日ごとの糧を求める祈りの基本姿勢を示していると解説します。具体的には、ルカ11章5節以下に言及されたこの物語には、夜遅くにやってきた客をもてなすために熱心にパンを願う人の姿が描かれます。その時間帯に訪ねること自体が失礼にあたり得ますが、友人にパンをくれとドアを叩く切実さ、そしてそれに応じずにはいられない愛と連帯が核心テーマです。最終的に、この切実さと愛が交わるとき、パンを持っている友人は戸を開けてパンを与えざるを得なくなるのです。
張ダビデ牧師はこの場面を「切実な祈りとは何か」をよく示す例だと言います。まさに真夜中にドアを叩きながら「友よ、友よ、パンを三つだけくれ」と叫ぶように、私たちも神の前に出て「神様、今日も私に必要なものを与えてください。私だけでなく、私の周りの不足や苦しんでいる人々を助けるために、もっと多くの資源が必要です」と祈るべきだというのです。ここで重要なのは「三つのパン」という表現に象徴性があること。自分が食べる一塊だけでなく、共に分かち合うパン、隣人を顧みるためのパンまでも求める姿勢を示しているのです。結局、これが「日ごとの糧を求める祈り」に込められた深い意図です。単に自分の飢えを満たすだけの祈りではなく、自分を取り囲む他者の不足をも一緒に抱え、共に解決しようとする愛の祈りなのです。
主はルカ11章9節以下で次のように語られます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」そして続く13節では「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っているのです。まして天の父は、求める者たちに聖霊をお与えにならないはずがあるでしょうか」と言われました。張ダビデ牧師はここで、「聖霊」こそ神がくださる最大の賜物であり、神の御霊を受けた信徒が日ごとの糧を求め、それを分かち合う生き方へと進む際の根本的原動力になると強調します。なぜなら、物質を得たとしても、それを自己満足と欲望を満たすために使うのか、それとも神の国のために分かち合い仕えるために使うのかは、まさに大きな岐路だからです。その分かれ道で、神が与えてくださる聖霊は「愛の心、他者を顧み思いやる心」を呼び起こす必須の要素となります。ですからイエス様は「何でも求めれば与えられる」と言って終わるのではなく、最終的に神の御霊を求めるところまで祈りを拡張すべきだと示してくださったのです。
では実際に、どうやって日ごとの糧を求め、また聖霊を受けてその糧を分かち合うことができるのでしょうか。張ダビデ牧師は「具体的な現実の中で日ごとの糧を求める祈り」の例として、マタイ17章24節以下に登場する「神殿税を納めるためのお金を魚の口から得た話」をよく挙げます。イエス様と弟子のペテロは神殿税を払わねばなりませんでしたが、手元に適切なお金がありませんでした。そのときイエス様は「海に釣り針を投げて、最初に上がってくる魚を捕まえて、その口を開けると1シケルの銀貨が見つかるから、それであなたと私の分を払いなさい」と命じられます。これは驚くべき奇跡です。しかしこの奇跡は単に「困ったとき空からお金が降ってくる」式の話ではなく、神の国を拡張するために必要が生じたとき、神がその不足を満たすことがおできになる、という象徴を示しています。張ダビデ牧師は「魚が銀貨をくわえていた」という一見荒唐無稽にも思えるエピソードを通して、私たちが日ごとの糧を求める祈りは決して空しくない、と悟るように言います。人の計算では不可能に見える状況も、神が働き始められれば変わり得るのです。ただし、そのお金を手にしたときに「それをどこへ使うのか」という問題、つまり神の国と愛の実践のために使う準備が整っているのかどうかが重要だ、というわけです。
これらを総合すると、「日ごとの糧を求める祈り」は、神の国が人生の絶対的優先順位だと認識する一方で、日々に必要な現実的要求を神に切に願えというイエス様の教えに基づいています。そして、その祈りの姿勢は欲望ではなく愛と分かち合い、隣人への思いから出発すべきです。このように「お金」自体を求めても、「それを愛をもって使う」という決断とともに求めるとき、神は「その願いどおり」、さらには「必要以上に」満たしてくださる方です。ルカ11章でイエス様が教えられたたとえの核心はそこにあり、張ダビデ牧師が常々力説する「信仰生活の実際的なスタイル」でもあるのです。
2. 求めよ、探せ、たたけ ― 祈りと愛の実践
ルカ11章9節のみことばである「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つけ出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」は、キリスト者の祈りの生活を象徴的に描き出しています。ここで私たちは「求める者」になること、「探す者」になること、そして「たたく者」になることがどういう意味なのかを考えてみる必要があります。張ダビデ牧師はこの本文を解き明かしながら、「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」のフレーズが、それぞれ異なる次元の祈りの段階を示していると説きます。単に一度のリクエストで終わるのではなく、段階的に神に近づく姿勢を現わしているというのです。
第一に、「求めなさい」は、私たちが最も基本的に持つべき祈りの姿勢を意味します。先に見たように、具体的に「神様、今日食べる糧が必要です。経済的に苦しい状況にあります。助けてください」と祈る態度です。張ダビデ牧師はこの段階を「子どもの心情」と呼びます。子どもが親に「ママ、ご飯ちょうだい」とねだることを、未熟だとか卑しいと見る人はいません。それはむしろ親子の自然な関係を示すものです。しかし、多くの信徒は「神様にこんな些細な問題まで求めるのは、どこか未熟に思える」と感じて祈りをやめてしまう場合がある、と言います。張ダビデ牧師はこれを戒め、「イエス様ご自身がパンを求めよとおっしゃったのだから、当然求めなければならない。むしろ求めない方が高慢なのだ」と指摘します。具体的な生活の必要を率直に打ち明けることこそが、祈りの第一段階なのです。
第二に、「探しなさい」は、目に見える表面的な必要を超えて、その必要を通して私たちに教えようとなさる神の御心を見いだす次元です。たとえば日ごとの糧を求めるとしても、単に自分の飢えを満たすためで終わるのではなく、「この糧を通して、私は神の国にどう寄与し、隣人にどう愛を分かち合うことができるのか」という視点へと進む段階です。張ダビデ牧師は「ただ『ご飯をください』で終わるのではなく、このご飯を通して神が私の人生をどのように導かれるのか、その意味を探し求めることが大切だ」と語ります。だからこそ祈りはしばしば「黙想」と結びつきます。ご飯をくださいと祈ったとき、神がその糧を与えてくださる奇跡よりもっと大切なのは、その過程を通して私たちの心が変えられ、成熟していくことです。不足や苦しみの中で神が働かれる様子を探し出し、そのプロセスを経て私たちの信仰は成長し、最終的にはすべてが神の栄光へと結びつくのです。これが「探す祈り」の段階と言えます。
第三に、「たたきなさい」は、さらに能動的・積極的な姿勢を意味します。張ダビデ牧師はこれを「堅固な信仰をもって神に近づくこと」と説明します。真夜中に鍵のかかった戸をたたくには相当な勇気と切実さが必要です。先に述べた例え話のように、深夜に友人の家を訪ねる者は、不躾と思われる可能性や、断られるかもしれない不安を抱えながらも、「友よ、パンを三つだけくれ」と願い続けました。そしてその友人はとうとう戸を開け、三つ以上のものを与え得たのです。私たちが祈るときも同じです。まるで道が塞がれているかのように見える状況、全く解決策が見いだせない状況でも、信仰を失わず粘り強く戸をたたく姿勢が求められます。張ダビデ牧師はこれを「強く求めること(強請)」と言い、「神に愛の心で強く求めるとき、ついには神が戸を開けてくださる。そのようにして開かれる戸は、私たちが想像していた以上の恵みと供給へとつながっていく」と述べます。
しかし、この全過程で見落としてはならないのが「愛」です。愛がない祈りは欲望の祈りになりかねません。より多く持ちたい、もっと成功や富を享受したい、ときには隣人を顧みず自分の満足だけを追いかけて祈る場合もありうるからです。そこでイエス様はルカ11章の「友人の例え」で、真夜中に願いに来た人が、自分一人の空腹を満たすためではなく、「お客をもてなす」ためにパンを三つ求めた場面を提示されました。張ダビデ牧師は「隣人をもてなすために、より多くの糧が自分に必要だという強い願いは、神が喜んで受け止めてくださる祈り」だと解釈します。愛を動機とする願い、神の国の拡張を目指す願い、そして隣人を生かすための願い。これこそ主が教えてくださった祈りの最も重要な原理なのです。
結局、「日ごとの糧」を求めても、その糧がどこから来て、なぜ必要なのかをはっきり理解していなければなりません。「神様、私にパンをください。そして私はそのパンをもって隣人の飢えを満たす者となることができますように」という姿勢こそ、張ダビデ牧師が示す祈りの実践的な例です。「私たちに日ごとの糧をお与えください」という主の祈りの一句は、現代において飢えに苦しむ隣人の問題や福音伝道のために必要な財源、教会共同体内の働き人や宣教師の生活費など、具体的かつ聖なる目標を抱いて熱心に願うよう私たちを招きます。このように祈りは単に生活の問題を解決するための手段ではなく、愛を行動に移す霊的原動力なのです。
さらに、旧約と新約の歴史を通して神の国のために自発的に財を寄付したり、人生を捧げた多くの人々の実例からも、この真理を確認できます。初代教会の時代にも、所有物を売って使徒たちの足もとに置き(使徒4:34-35)、共同体がそれを必要に応じて分かち合ったとき、驚くべきリバイバルと愛のわざが広がりました。張ダビデ牧師はこうした事例を根拠に、「神が与えてくださる日ごとの糧」を正しく理解した人は、その財を握りしめて自分のためだけに使うのではなく、使徒言行録の教会のように、必要に応じて喜んで手放すことができる、と説きます。分かち合いの中にこそ、真の喜びと豊かさが存在するからです。そこで私たちは主が「与えるほうが受けるより幸いである」(使徒20:35)と仰せられた意味を改めて噛みしめることになるでしょう。求めつつも、分かち合うために求める人は誰でも「求めたとおり受け取る」祝福の器となり得るのです。
3. 神の国と赦し、そして信仰の方向
主の祈りの流れを振り返ると、「御国が来ますように」という祈りがまずあり、続いて「日ごとの糧をお与えください」が続き、その後「私たちも自分に負い目のある人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」という赦しの祈りへと展開します。ルカ11章では、もう少し簡潔に三つの祈りの課題が同時に示されます。すなわち「神の国が来るように」「日ごとの糧を与えてください」「私たちが負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪をも赦してください」という内容です。張ダビデ牧師はこれらを「祈りの三本柱」と呼びます。信徒の生活を支える三つの重要な柱が、「神の国」「物質的・霊的糧の供給」、そして「赦し」なのです。
まず、神の国は私たちの存在理由と究極的な目標となります。神は初めに人間を創造され、その目的は「神の国を共に築き上げる同労者」としての存在となることです。イエス様は公生涯を始められるときから「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫ばれ、すべての教えの中心に「神の国(キングダム)」を置かれました。張ダビデ牧師は、私たちが日ごとの糧を求めるのも最終的にはこの神の国ビジョンの中でなされるべきだと、繰り返し強調します。「神の国」という壮大な絵の中で、私は今日必要な糧を求め、その糧をもって神の国のために奉仕し、その中で喜びを得る――という循環構造が生まれるのです。もし神の国が抜け落ちた状態で、単に「自分の生活だけ楽にしてください」と願うなら、祈りは歪んでしまうでしょう。
第二に、赦しの問題です。ルカ11章4節を見ると、「私たちは自分に負い目のあるすべての人を赦しますから、私たちの罪も赦してください」とあります。これは人間関係の問題であり、同時に人間の内部問題でもあります。私たちの罪が赦されなければ、私たちは神の前に大胆に立つことができません。そして、私たちが他人を赦せないならば、神が与えてくださった赦しを十分に味わうことができません。張ダビデ牧師は、赦しこそ祈りにおいて「核心中の核心」だと語ります。どんなに物質的必要を満たしても、さらに神の国のビジョンを掲げて熱心に奉仕しても、心の奥底に赦せない思いがあるならば、それが結局、関係を壊し、共同体を破壊してしまうからです。他者との関係で生まれた傷や恨み、憎しみが解決されない限り、最終的には自分自身も罪悪感や憎悪に囚われて自由を得られません。ゆえに赦しは霊的自由への道であり、真の神の国共同体の出発点でもあるのです。
張ダビデ牧師は、ここで言う「赦し」が単なる感情的な次元や道徳的マナー以上のものだと語ります。神がイエス・キリストを通して示された「十字架の赦し」は、人間には到底返済不可能な負債を免除されたも同然のことです。この計り知れない恵みを思い起こすならば、私たちも他人を赦さない理由はなく、またその人との関係を回復するために祈らずにいられないはずです。このようにして「神の赦し」と「私たちの赦し」が連動して回転するとき、主の祈りは完成度を持ちます。実際、「赦し」が抜けた「神の国」は、正義と公義を叫びながらも、結果的に律法主義に陥る危険があり、「赦し」が抜けた「日ごとの糧を求める祈り」は、自己中心的かつ貪欲な方向へ行きがちです。ゆえに、この三本柱―「国」「糧」「赦し」―が一体となって、健全な信仰の枠組みを形成するのです。
具体的に神の国を求める祈りとは、この地上ですでに神の支配が始まっていると信じ、その支配が完成する未来を見据えて生きる姿勢を意味します。張ダビデ牧師は「歴史意識」という言葉をたびたび用い、「人類の歴史は最終的に神の国という結論に収束していく。この壮大な方向性を理解し、そこに参加する者こそ賢い信徒だ」と言います。私たちが現在の生活において、目に見えるものだけを基準にするときには、ときに人生の目標を見失いがちであり、世の数多くの誘惑や恐れにより落胆してしまいやすい。しかし、「天においてすでに成し遂げられたみこころ」が必ずこの地において実現する、という信仰があるならば、私たちはどんな状況にあっても希望を失わずにいられます。そしてその信仰は祈りによって具体化されるのです。神の国をさらに前進させてください、御心が天において成し遂げられているように私たちの職場や家庭や社会においても実現するようにしてください、教会と世界の隅々で神のご支配が表されるようにしてください――これが神の国を求める祈りの本質です。
こうして神の国と赦しの原動力の中で日ごとの糧を求めるとき、私たちは日々の生活で奇跡を体験できるでしょう。あるいは奇跡が起こらなくても、神が常に必要なだけは与えてくださるという平安の中を生きることができます。「今日も食べるものがあること」に感謝し、その中から少しでも隣人と分かち合えることに感謝する。そして一見ささやかな「ご飯一杯を分かち合う行為」の中にも、イエス様の愛が浸透するならば、それがすなわち神の国の現実的拡張となるのです。張ダビデ牧師は、このように「愛が込められた小さな行為が積み重なり、教会を建て上げ、社会を変革し、最終的には神の国の前進に寄与していく」と繰り返し強調しています。
結局、信仰の方向とは「神の御名があがめられ、御国とみこころがこの地に成就し、そのプロセスの中で私たちに日ごとの糧が与えられ、互いに赦しと愛が実践される」その全体に焦点を合わせることです。私たちはこの道を歩む中で、ときに失敗や挫折を経験するでしょう。物質的豊かさを求めても簡単には解決しない時があるかもしれないし、赦したいと思っても感情がそう簡単にはほどけず苦しむこともあるでしょう。しかしイエス様の「求めよ、探せ、たたけ」ということばは、私たちが絶えず祈りの場に出て行く限り、最終的に神が応えてくださるという約束です。張ダビデ牧師は「神が初めから今に至るまで恵みを注いできた方法は驚くほど一貫している。祈る者にご自身を現わし、聖霊を満たして、分かち合い、仕え、赦すことができるようにしてくださるのだ」と教えます。だからこそ私たちの祈りの生活こそが信仰生活の根幹であり、その祈りを通じて私たちは神の国の視点と日ごとの糧をいただく恵み、そして赦しの力を経験するのです。
また、張ダビデ牧師は「神様が私たちに望んでおられるのは美辞麗句や抽象的な告白ではなく、実際の生活での愛の実践である」と語ります。新約聖書の至るところでも「ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって行いなさい」(Ⅰヨハネ3:18)と教えられています。教会共同体の中で、家庭の中で、また社会の中で、私たちが具体的に「自分のもの」と思っている時間や才能、財産などを差し出し合って互いに仕えるとき、キリストの愛が証しされます。したがって「私たちに日ごとの糧をお与えください」という祈りは、「主よ、この糧をもって世に出て、あなたの愛を分かち合う者としてください」という決意へと拡張されなければなりません。これこそ私たちが生活をもって捧げる礼拝であり、神の国がこの地に実現していく通路とも言えます。
まとめると、主の祈りの「私たちに日ごとの糧をお与えください」という一文は、次のような多層的な意味を同時に内包しています。第一に、私たちの現実的な必要に対する神の供給を切実に願いなさい、ということ。第二に、その願いの中には神の国と隣人への愛が込められていなければならないこと。第三に、これを通して赦しと愛が実現されるべきこと。第四に、最終的にその祈りの原動力は聖霊であり、私たちが求めるすべてのものの中で最も尊いのは「神との親密さ」であることを忘れてはならないということ。張ダビデ牧師は、このすべての過程を通じて「信徒は愛のモード(loving mode)へと切り替えられる」と説明します。最初は所有のため(having mode)に祈っていたとしても、聖霊の働きの中で徐々に「存在(being mode)」を悟り、最終的には「愛(loving mode)」へと進むことができる、というのです。
特に「三つのパン」の例えから、私たちは「自分一人だけが食べるためのパンではなく、共に分かち合い、隣人を立て上げる糧を求める祈り」がいかに尊いかを知ることができます。真夜中にパンを求めて戸をたたく行為は、自分だけが得をしようとする利己的な行動ではありません。客を迎え、もてなさなければならない状況で、「どうしても彼らの必要を満たしてあげたい」という愛が、その戸をたたかせたのです。このような思いをもって祈るとき、神は私たちが予想し得ない方法で戸を開いてくださり、「その願いどおりに」さらには「必要以上に」与えてくださると約束なさいます(ルカ11:8)。
要するに、主の祈りの中の「日ごとの糧をお与えください」という願いは、表面的で一回きりの祈りではなく、日々の生活の中で神と共に歩む霊的習慣となります。私たちに本当に切実に必要なものは何なのかを改めて問いかけ、同時に私たちの関心を隣人や共同体へと広げてくれます。神が与えてくださる物質や健康、そしてエネルギーは、すべて隣人愛を実践する道具として用いられるべきだからです。さらに張ダビデ牧師は「教会の歴史を振り返ると、神を熱烈に愛し、心から祈る人々に神はあふれるほどに与えて貧しい人を助け、福音を伝える者たちを支える道へと導かれた。その流れに私たちも歩んでいる」と要約します。まさに、このような生き方こそが「神の御名をあがめ、御国と御心をこの地に実現する」証しなのです。
最後に、私たちはルカ11章13節の結論を覚えておく必要があります。「まして天の父が、求める者に聖霊を与えてくださらないはずがあるでしょうか」。神は日ごとの糧をはじめ、私たちの人生に必要なすべてを惜しみなく与えてくださる方ですが、最終的に最も尊い賜物は聖霊です。その聖霊が臨まれるとき、私たちは単なる人生の小さな問題解決を超えて、神の国とその義、そして赦しを生きる者へと変えられていきます。張ダビデ牧師は「聖霊に満たされたキリスト者は、結局イエス様がなさったとおり仕え、愛し、赦し、福音を伝える人へと変貌せざるを得ない。それこそ私たちの存在目的なのだから」と言います。こうして聖霊の賜物を受けるならば、私たちが求めるすべての日ごとの糧もまた愛の通路となり、神の栄光をあらわす媒介となるのです。
結局、「今日も私たちに日ごとの糧をお与えください」という短い祈りは、信徒の生活全般を貫く重要な信仰告白であり、同時に実践的な願いです。私たちは毎日この祈りを唱えつつ、その中に込められた神の心をより深く黙想すべきでしょう。申命記8章のマナの物語を通しても、マタイ6章や7章の教えを通しても、ルカ11章の「真夜中の友人」の例えを通しても確認できるのは、神が私たちの日常と生全体を見守り、そのうえで神の国を共に築くことを望んでおられるという事実です。張ダビデ牧師はこれらのみことばを結びつけつつ、「神の御名があがめられ、御国が来て、私たちに日ごとの糧を満たされるプロセスを通して、私たちの存在はついに『愛の通路』へと変えられる」と繰り返し強調します。私たちがこの原理をしっかり掴み、日々祈りをもって神に近づくならば、不足することはなく、むしろあふれるほど豊かな恵みを味わうことができるでしょう。それこそがイエス様が弟子たちに遺された教えであり、張ダビデ牧師が伝えようとしている核心的メッセージです。そしてこのメッセージを実践する生き方こそ、神が私たちに計画された「神の国を共に築く同労者」となる道なのです。